後の雨

笹尾鉄三郎

「このゆえに我らエホバを知るべし。切に知ることを求むべし。エホバはあしたの光のごとく必ず現われいで、雨のごとく我らにのぞみ、後の雨のごとく地をうるおしたもう」(ホセア六・三)。

これは収穫の時の雨で、主イエスの再臨の前に来たるべき聖霊の大傾注を意味している。先の雨とはペンテコステの時にあった聖霊の大降臨であるが、この後の雨より遙かに少ない。

皆様、後の雨の降る時は果たしていつであろうか。ああ、それは今である。目を上げて全世界に働き始めたもうた聖霊の大いなる聖業を見よ。ウエールス、ノルウェー、マダガスカル、インド、アメリカ、また暗黒のロシア等で聖霊の大傾注は始まり、多数の霊魂は主に帰りつつある。今や世界中の少なくとも十四ヶ所においてリバイバルは起きている。日本ではどうかと言うと、ああ讃むべきかな、聖霊は今や日本においても各地で奇しき聖業を始めたもうた。しかしこのように聖霊が働き出したもうたゆえ、悪魔はそれを妨げるために思い切った大きなことを始めた。この後も我らの思いもよらないような大事件を始めると思う。だが神はいつも悪魔の働きよりも大いなる働きをなしたもうのである。「今はエホバの働きたもう時なり」。しかり、人間ではない。神御自身の働きたもう時である。「起きて汝の頭を上げよ」。この句は罪を持つ人には恐ろしい言葉で少しも有り難くはない。けれども罪赦され、主の再臨を待ち望んでいる我らには何とも言えぬ喜びの音信である。また万物も「起きて汝の頭を上げよ」と未信者にも信者にも主の再臨の近づいたことを示し、「準備せよ」と叫んでいる。私自身、近来の経験でもそのように感じている。聖霊は罪について、責任について真面目に考えさせたもうて、そのために祈らなければならないようにしておいでなさる。皆様も定めてそのように感じておられることと思う。これは黙示録十九章七節のように、我らに新婦の準備をなさせ、やがておいでなさる新郎なるキリストの前に恐れなく立たせるためである。おお、何と大いなる神の愛であろう。

ペンテコステの弟子たちは実に幸福であったが、現在の世に生まれた我らの幸福にはとても及ばないのである。しかし、この大きな恩恵に浴するか否かは我らの態度いかんによって決定するのである。例えばここで茶碗が下を向いているならば、どんなに大雨があってもそれには少しも入らない。このように我らも主以外のものに心を向け、下を向き、あるいは他を向いているならば、周囲の人がどれほど満たされても、我らは何の得る所もないのである。「切に知ることを求むべし」。ある人は「後の雨の降る時なら、祈らずともやはり聖霊は降るから良いではないか」と言う。おお、それは悪魔の声である。聖霊は「後の雨の時に雨を与え」(ゼカリヤ十・一)と叫んでいたもう。神は大いなることをなしたもう前に、必ず人をして祈らせたもうのである。インドのリバイバルでも聖霊は幼い小児らに祈らせたもうた。小児らが集まって祈祷会を始めた時、その祈祷会は十七時間より二十時間に及んだということである。このように聖霊は我らにも祈りを要求しておいでなさるから、我らは何事を捨てても祈りたい。しかし、求めるのは必要を感じ、責任を感じるからである。多くの人が求めないのは必要と感じていないからである。それであるからまず自分の有様を知り、必要を感じなければならない。

皆様、我らは今過去の聖潔の経験を捨て、神の前におのれの有様を深く知りたいものである。ハガイ書二章十二節より十四節は神と祭司との問答である。

神「人がその衣服の裾で聖なる肉を運んで行き、その裾がもし、パンまたはあつもの、または酒、または油にさわったなら、それらは聖なるものとなるか」

祭司「いいえ」

神「死体にさわって汚れた人が、これらの一つにさわったなら、それは汚れるか」

祭司「はい」

このとき神は、「我が前にこの民もかくのごとく、またこの国もかくのごとし。またその手の一切のわざもかくのごとく、彼らがその所に献ぐるものも汚れたるものなり」(ハガイ二・十四)と仰せられたが、私はこれによって深く探られたのである。聖なる肉は十字架の主を示しているのであって、裾すなわち我らがそれを包んでいる時、我らは聖くなるのである。しかし、聖くされた我らが他の者にさわっても、その者を聖くすることはできない。その人が自分で直接主にさわらなければ駄目である。これと同様に聖潔の教理は聖いが、人を聖める力はない。説教は聖い裾である。しかし、説教は我らを聖めない。ただそれを通して主にさわることによって聖められるのである。また聖別会も恵みの座も我らを聖めるに足りない。そこにいます主にさわった者のみ聖められるのである。かつ我らが聖なる主に接触している間のみ聖いのである。救いに二方面あるように聖潔にも二方面ある。すなわち、救いを得るには十字架のイエスを見上げて罪赦され、甦りのイエスを信じて義とされることが必要であるように、聖潔を得るには古い人を取り去られ、進んでイエスをわが聖、わが愛として着ることが必要である。過去の経験を当てにしている人々よ、現在イエスに接触し、彼を着ておられるか。諸君の心の中はイエスによって満たされているか。主との接触を失ったらもはや聖くはないのである。

今一つは、屍にさわった人がさわるならば、何物でも汚れたものとなることである。これは非常に厳粛なことである。直接自分が罪を犯さなくても、汚れた人にさわる時、我は汚れるということである。例えば、我らが肉につく人と親密に交際すれば、断然罪を責める態度を取らなければ、我らは何の罪を犯さなくても汚れるのである。今、主の前に深く探られよ。

今一つは、問題は違うけれど我らの責任である。この末の世に神が求めておられるのは聖霊に満たされてこの世に光を照らす人、主より託された使命を果たす人である。主はこれを天使に命ずることはできないので、「あなたがたが聖霊を受けて使命を果たすべきだ。あなたがただ、あなたがただ」と仰せたもう。我ら主の御前に立って、主より「あなたの家族の魂はどうか、親族のこの魂はどうか、あなたに託したかの人を伴って来たか、誰某はどこにいるか」と尋ねられる時、我らはどのような答をなし得ようか。

ルカ伝十一章五節より八節までを見よ。この夜半の飢えた旅人は我らが日々接している世人、すなわち望みなく慰めなき人々である。我ら自分の力で彼らを満足させえないことを知ったなら、真の友であるイエスに行き、「ひたすら」求めるべきである。そうすれば主は起きて、我らの求めに従い我らに聖霊を与え、かつ満たしたもうのである。

おお、求めよ、ひたすら求めよ、尋ねよ、叩けよ。