神は恵み深く、慈愛に富みたまえば、彼のすべての子供を愛したもう。彼は主イエス・キリストによって我らのために全霊全生全身に関する全き贖いをなしたもうた。だから霊魂におけると同様、我らの身体の一小分子に至るまでみなその贖いの中にある。あたかもこれ昔時イスラエル民族をエジプトより救い出したもうた時、モーセがパロに「我らの子女も家蓄も我らと共に行くべし。一蹄も後に残すべからず」(出エジプト十・二六)と告げたような全き贖いである。讃美すべきかな、神は真実に御自身の声に聴き従い信頼する者にはあやしまれるほどの完全な救いを備えたもうた。ハレルヤ。
では身体に関する福音とは何であろうか。今、これを三方面に区別してその恩恵を紹介しよう。
(一)肉体の聖潔(コリント後七・一)
「されぱ愛する者よ、我らかかる約束を得たれば、肉と霊との汚れより全くおのれを潔め、神を畏れてその潔きを成就すべし」。これは肉体に関する道徳的救済である。始祖アダムが堕落して以来、我ら人類の肉体には神の附与したまわざる、自力をもってしては節制し難い一種の不規則な欲望がある。ことに多数の人々は、酒、煙草、亜片、モルヒネ、その他すべて身を汚し元気を消殺する嗜欲があり、これらの奴隷となって苦悶している。しかし、身体の福音はこれらの人力をもってしては禁制し難い嗜欲に終局をもたらし、全く潔め去らせるとの朗報である。すなわち主イエスの血と聖霊の御力に信頼すれば、これらの嗜欲に全く打ち勝つことができるのみならず、その身体は正義の器となり、また聖霊の宮にふさわしい者となり、聖い神と琴瑟のような調和を保ってインマヌエルの生涯を送ることができるのである。
(二)肉体の癒し(マタイ八・十六)
「夕べになりて、人々、悪鬼に憑かれたる者を多くみもとに連れ来たりたれば、イエス言にて霊を追い出し、病める者をことごとく癒したまえり」。
主イエスは我らの身体を道徳的及び霊的に自由にしようと、哀れにも病魔のために苦悩している人々に癒しの福音を聞かせたもう。主の癒しは霊魂の救いと区別すべきものではない。主は常に両方面を兼ねて働きたもうた。その主は昨日も今日も永遠に変わりたまわぬが、今日どのような順序で人々を癒したもうかというと、まず人々の生きた信仰を通して血潮を聖霊により適用して内部の霊魂に恵みを与え、次に外部の身体に及ぼしたもうのである。癒しに対する信仰は決して迷信ではない。これは旧新約一貫して明示されている真理である。ことに主イエスは、御自身が旧約で預言されたメシヤである証拠として至る所で病者を癒したもうただけでなく、弟子たちにも病者を癒す御力を授けたもうたのである。それらの記事は四福音書を見れば、ほとんど毎頁に散見することができる。
主の癒しには驚くべき慈愛が含まれていることを見るのである。すなわち主がいかに深厚な同情を我らの身体の上に垂れたまいつつあるかを知ることができる。主は気力なく容貌焦惇し心中苦悶する病者に対して、実に満腔の同情をもって顧みつつありたもうのである。そして癒しの福音はこれらの好消息である。また、この主の癒しは人々が神に奉仕するために善用されたことを学ぶべきである。かの無数の悪鬼に憑かれたガダラの狂人を見よ。彼はイエスによって癒された後、その家と親族に行き、主の大いなる恩恵と能力を証しし、主の栄光を現した。これは主の癒しを求める者の法とすべきことである。
(三)身体の栄化(ピリピ三・二一)
「彼は万物をおのれに従わせ得る力によりて、我らの卑しき様の体を変えて、おのが栄光の体にかたどらせたまわん」。我らの身体は現状を永遠に保ち続けるものではない。主イエスの再臨の時たちまち栄化されて、朽ちず、汚れず、衰えない栄光の霊体となるのである。「この朽つるものは朽ちぬものを着、この死ぬる者は死なぬものを着んとき、『死は勝ちに呑まれたり』と記されたる言は成就すべし」とある(コリント前十五・五四)。そして身体の癒しは、今地に属するアダムの様を持つ我らをして、やがて再臨したもう天に属する我らの主キリストの様を持たしめる栄光の叙任式を美わしく前影するものである。ゆえに病魔に苦しめられている兄弟は進んで真実の心より癒しを求め、その手に触れていただくならば、健全強壮の者となり、主の栄光を現しつつ、来たらんとする栄化を心から待ち望む者となりうるのである。