「かくて汝らは我らの主なる救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みを豊かに与えられん」(ペテロ後一・十一)。
今日ペテロ後書一章三~十一節、ことに十一節について語りたい。ペテロ書の著者はかの忠実なペテロであって、この書を著した時はよほど年老いていたと思う。かのローマの大迫害のあった時、パウロは斬刑に処せられ、ペテロは逆磔刑に処せられたが、その死ぬ前に著した書である。ペテロは自分の死の近いことを知っていた(ペテロ前一・十四)。普通の人でも死ぬ時の言葉は非常に重いが、ことに聖霊に満たされているペテロの言葉は一句一句重い愛に満たされた言葉である。
ペテロの最大の願いは、信者が天国に入る時に豊かに入ることであった。裏を返すと、同じ天国に入るにしても豊かに入ることのできない者もいることを示している。それゆえ聖霊はペテロを通して語りたもうた。御承知のように、我らが天国に入ることのできるのはただ恵みである。何の価値もない我ら、生まれながらの怒りの子である我らが、十字架のイエスを信じることによって罪赦され、神の子とされるというのは大いなる恵みであるが、同じ天国に入るにも入り方が違う。もちろん入ってから後も栄光の程度において、すべての点において違う。そして神の願いは我らすべてが豊かに入ることである。しかし、これは我らの態度次第ですべて決まるのである。
「すなわち汝ら及び我が霊の、我らの主イエスの力をもて共に集まらんとき、主イエスの名によりて、かくのごとき者をサタンにわたさんとす。これその肉は滅ぼされて、その霊は主イエスの日に救われんためなり」(コリント前五・四、五)。
コリントの教会の内部には未信者でも恥じるようなことがあったから、神はパウロを通して警告し戒めたもうた。「サタンにわたさんとす。これその肉は滅ぼされて、その霊は主イエスの日に救われんためなり」。この世に生きながらえて罪を犯し、神の聖名を汚すような信者は生きていても仕方がないから、神はその人をサタンに渡したもうのである。すなわち、病気あるいは他のものをもってこの世より取り去って、魂を救いたもうのである。人間は死ぬ時に真面目になるから、信者なら悔い改めるので、その人は恵みによって天国にやっと入ることができる。しかし、それは神の御旨ではない。
「すでに置きたる基の他は誰も据えることあたわず。この基はすなわちイエス・キリストなり」(コリント前三・十一)。
ここにあるように信者の土台はすべてイエス・キリストである。その後に記されていることは救われた後の生涯を示している。我らはこの土台の上にどんな家を建てているであろうか。やがて各々の業の上に大いなる火の試験が臨むが、もし木草の業ならことごとく焼かれて自分の魂が救われるほか何の報いもないのである。
皆様、我らは主の前に立つ時どうであろうか。諸君の業は焼失する草であるか。また火に耐える金銀宝石の業であるか。我ら今、主の前で自分を調べたい。
豊かに入ることについては種々の条件があるが、一口で言うと「キリストに在り、全くなりて神の前に立つこと」(コロサイ一・二八)である。
「しみなくしわなく、すべてかくのごとき類なく、潔き傷なき尊き教会を、おのれの前に建てんためなり」(エペソ五・二七)。
我らが潔く尊くなって、しみなくしわなく、はばかることなく新郎なる主の前に立つことを主は願っていたもう。もし草木の業をもって主の前に立つなら、主は失望したもうであろう。例えば職工が反物を主人の前に持って来た時、その反物にしみがあるなら、その主人はどう思うであろうか。
ではどうしたら主の前に立ち得るか。ペテロはそれについて教えている。
「このゆえに励み勉めて汝らの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、敬虔に兄弟の愛を、兄弟の愛に博愛を加えよ」(ペテロ後一・五~七)。ここに八つのものが示されている。すなわち信仰から始まって博愛で終っているが、この八つは我らが主の前に立つのに必要なものである。音楽に八つの譜がなければ歌えないように、我らの心中にもこの八つがないなら駄目である。
信仰、徳、知識、節制、忍耐、敬虔、兄弟の愛、博愛。これだけのものがあるなら、豊かに天国に入る保証となる。「かくて汝らは我らの主なる救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みを豊かに与えられん」(ペテロ後一・十一)。
今この八つについて次に述べよう。
(一)信仰。きわめて容易である。また誰でもできる。すなわち、彼は我らを救うために来られたキリストである。彼は我らのために十字架に釘付けられ、神に頼りたもうた。これはわがためであると受け、彼に頼るのである。
(二)徳(原語は勇気)。それは実行に移すことである。そうだと思う時に行うことで、これは真の信仰に伴うものである。ペテロは「キリストはわが救い主」と信じた時、何もかも捨てて従った。キリストが「去らないか」と言われた時、彼は「我は汝を離れて何をなさんや」と言った。
(三)知識。実行したくても知識がないと困る。「されば慎みてその歩むところに心せよ。賢からぬ者のごとくせず、賢き者のごとくし」(エペソ五・十五)。私もこの知識が少ないために神の御旨ではないことをして度々失敗する。ユダヤ人はそれで失敗したのである。しかし、主に求めるなら、この知識は与えられる。
(四)節制。道理を解し、神の御旨を知っても、肉体を持っている間は節制を要する。例えば競争する人を見よ。彼らは常にすべてのことを慎む。我らは今や神の兵卒として戦闘に加わっているのであるから、非常に慎むことを要するのである。
(五)忍耐。我らは忍耐しなければならないことがたくさんある。私が結婚した時、ある兄弟が「家庭の秘訣は忍耐である」と言ったが、これは家庭だけでなく、どこに行っても必要である。
(六)敬虔。忍耐しても神を敬わないなら駄目である。随分自分の意志で忍耐する人がいるが、それだけではいけない。それに神を敬うことを加える必要がある。不敬虔な所から不真面目が出て、種々の悪事が始まるのである。
(七)兄弟の愛。主は「われ汝らを愛するごとく、汝ら相愛せよ」と仰せられる。もし我らが兄弟を愛せないなら、どうして進んで未信者を愛することができようか。それであるから、第一に兄弟を愛するなら、第二にすべての人を愛することができる。兄弟が罪を犯す時、それを赦すだけではない。進んでそのために祝福を願うことである。いま己を省みられよ。これが備わっているであろうか。もし我らに古い人があるなら、心で願っても行うことはできない。我らが神の命令を行えないのはこの己があるからである。この己があるから兄弟を愛することができない。この己があるから兄弟の徳を立てることができないのである。なぜであろうか。これは聖霊の結ぶ実であるから、聖霊を受けていない人はできなくて当然である。古い人の存在を感じる人々よ、聖霊を受けていないことを感じる人々よ、求められよ。そうすれば、神はさ迷う古い人を取り除き、聖霊を満たしたもうのである。
また、せっかく聖霊を受けても、聖霊の目的に従わないなら、聖霊を片隅に置くなら、聖霊の実を結ぶことはできない。私の近年の願いは、「どうか主の前にしみなく恐れなく立つことができるよう、今のうちに主のためにすべてを使いたい。自分は無一物になりたい。そうして天国に入る時、豊かに入る者になりたい」ということである。これが私の切なる願いである。我ら今主の前に自分を探られて、捨てるべきものは捨て、受けるべきものは受けて、天国に豊かに入るための準備をしたい。神は我らの要求を満たしたもう御方であるから、我らははばかることなく求めようではないか。