我らの望みと準備

笹尾鉄三郎

「愛する者よ、我ら今神の子たり。後いかん、未だ現われず。その現れたもう時われらこれに似んことを知る。我らその真の様を見るべければなり。すべて主によるこの望みを懐く者は、その清きがごとくおのれを潔くす」(ヨハネ第一書三・2、3)。

希望は各自をして活動させる本源である。見よ、農夫は雨中に炎天に収獲の望みを抱いて働く。その他、学生も実業家もことごとく望みに頼って勤め励んでいる。望みと活動とは両車輪のようである。失望は人を殺し、希望は人を生かすものである。しかし、キリスト者の望みは農夫や学生のそれとは同一ではない。望みがはっきりしていないなら、喜びも慰めも能力もない。言いかえると、エペソ一・17、18のように心の目が明らかになる時、望みが明瞭になる。望みが明瞭になっていないのは心の目が曇っているからである。

(一)我らのために美しい場所が備えてあること

「わが父の家には住み処多し。しからずぱ我かねて汝らにこれを告げしならん。われ汝らのために所を備えに行く」(ヨハネ十四・2)。主イエスは「汝らのために所を備えに行く」と仰せたもうた。そこで我らを永遠に楽しませようとして準備していたもう。兄姉よ、おお、目を上げて、あなた方のために備えられた輝く美わしい神の御国を仰ぎ望め。アブラハムは地上にあっては自ら旅人であり、寄留者であった(へブル十一・13~16)。そして遙かに天の古里を仰いで楽しんでいた。地上は決して我らの安息所ではない(ミカ二・10)。信仰の目を上げて、天なるわが家を仰ぎ見て楽しもうではないか。千九百年来神の建築したまいつつある宮殿はいかに壮麗なものか。

(二)第一に場所はできたが、次に我らの身が美しい者となることである

「愛する者よ、我ら今神の子たり。後いかん、未だ現われず。その現れたもう時われらこれに似んことを知る。我らその真の様を見るべければなり」(第一ヨハネ三・2)。

すなわち主が再び来たりたもう時、準備のできている聖徒は神に似た者となるのである。波風荒い暗黒の世から携え上げられてキリストの甦りの姿となり(マタイ十七・2)、変貌の時のようになることである。何と驚くべきことであろうか。単に霊魂のみならず、またこの賎しい身体をもキリストと同じ姿に栄化するのである(ピリピ三・21)。

今は未信者と肉体においては別に変わりはなく自然に支配されているが、主はこのままにしてはおかれない。血肉は神の国を嗣ぐことはできないから、栄化されて神の国を嗣ぐのである。何たる幸いであろうか。未信者には奇妙に聞こえることであるが、神によるこの望みは真実であるから感謝し喜ぶべきである。

(三)天国に行った時に小羊と婚姻することである

「『我ら喜び楽しみてこれに栄光を帰しまつらん。そは小羊の婚姻の時至り、すでにその花嫁みずから備えしたればなり。花嫁は輝ける潔き細布を着ることを許されたり。この細布は聖徒たちの正しき行いなり』。御使い我に言う、『なんじ書き記せ、小羊の婚姻の宴席に招かれたる者は幸いなり』と。また我に言う、『これ神の真の言なり』」(黙示十九・7~9)。

ハレルヤ、アーメン。ああ、喜び楽しめよ。小羊(キリスト)との婚姻は今に来る。近づいている。万物が創造された時、神はアダムを造りたもうた。しかし、万物がはなはだ良くても、アダムには何か一つ物足りなく思われた(創世記二・21~23)。そこで神は彼の肋骨をもってエバを造り、妻となしたもうたところ、このとき人は幸福な者となった。これはキリストと我らとの型である。今キリストは夫にいましたもうが、何か一つ物足りなく思いたもう。すなわち贖われた聖徒(花嫁)と婚姻せんことを願っていたもう。我らはキリストの肋骨より出されたエバである。我らがキリストを慕うよりも、主は我らを慕って愛していたもう。主は我らの罪を赦し、天国へ迎え入れたもうのみならず、永遠に我らを楽しませようとしておられる。主は今は我らを潔い処女として地上に置きたもうが(コリント後十一・2)、今に我らはキリストと婚姻して、あたかも夫婦が一家を司どるように天地を支配する身分となるのである。何という輝かしい美わしい望みではないか。あまりに事が大きく、あまりに幸いが多くて、真偽をわかりかねるようであるが、聖書に違いない。我らは日一日、時一時とこの望みに近づいているのである。

以下、少し準備について語ることにしよう。我らはこの世の尊い人の前に招かれる時でさえ、十分な注意と尊敬をもって服装を正し、決して汚衣を着ない。我らは聖い聖い神に召されて近づくのだから、少しでも世につく汚れを心中に持って行くことはできない。おお、兄姉方は神に召される準備ができているであろうか。第一は外部の汚れ、すなわち世につくものを一切捨てることである。第二は内心の汚れ、すなわち性質が潔くされることである。第三はキリストの霊を心中に宿し、キリストの愛に全身を支配されることである。一口で言うと、聖くされること、純粋透明にされて一点の汚れもなくしていただくことである。

(一)この世は名誉、権勢、財産、快楽、その他種々の見えるもの、肉につくものをもって誘うが、神は輝く聖国と永遠の望みをもって我らを励ましたもう。パウロは人物としては偉大な者であった。

「我は八日目に割礼を受けたる者にして、イスラエルの血統、ベニヤミンの族、へプル人より出でたるヘブル人なり。律法につきてはパリサイの人、熱心につきては教会を迫害したるもの、律法によれる義につきては責むべき所なかりし者なり」(ピリピ三・5~6)。

彼の血統、門閥、教育、履歴等、宗教家としても傷のない者であったが、心の目を開かれて生けるキリストを知った時、提灯と釣鐘の比ではなく、これらの世につくものを糞土のように思うと言った。

俗話に、狐に欺された者の目が覚めたら不潔物の中で楽しんでいたという話がある。このように悪魔に欺かれてこの世の汚れの中に座して平気でしかも喜んでいる者がいる。私も以前は自己の名誉や利欲や快楽のために世のものを追い求めて汲々としていたが、静かに顧みると実に狐に化かされ、否、悪魔に化かされていた一人であった。しかし主イエスの御犠牲と天の望みが見えて来た時、私は喜んで世のものを捨て、この身を主に献げ、主のために罵られ苦しめられることを勲章のように感じるようになったのである。

まことにこの世の富は糞土である。兄姉よ、この世のものがあなたに慕わしく見えるなら、自省されよ。天のものが何より美しく慕わしく見えるようにならねばならない。

(二)我らは心中に古い己というものがあるから、どうしても神と全く一致することができず、またしてもまたしても罪を犯す。自らを義として人を議し損なうのもこの己である。我らは自力でこれを取り除くことはできない。しかし、この一物のあることを言い表わし、誠意よりこの己の殺されることを願い、十字架にすがるなら、キリストの血はすべての罪より我らを潔めたもう(第一ヨハネ一・7)。我らはただ信じればよいのである(使徒十五・9)。

(三)我らはどうすれば神の性質すなわち愛で満たされることができるであろうか。神は我らが己のように隣人を愛し、なお進んで兄弟のために生命を捨てることを望みたもう。神は我らにできないことを命じたもうようなことはない。

「主は我らのために生命を捨てたまえり。これによりて愛ということを知りたり」(第一ヨハネ三・16)。

我らは愛の説明を聞いて愛を知るのではなく、このように愛されて愛を味わい知る時、主のために尽くしたいという心が浮かぶのである。かつ信じる者の心に聖霊は神の愛を注ぎ入れたもう。だから実際に神を愛し、人を愛することができる。

米国の一人の青年がある処女と婚約して大学を卒業し、なお英国やドイツに留学し、業成っていよいよかの婦人と結婚しようと楽しんで帰国した。しかし、彼女は婚約以来さらに教育を受けることもせず、田舎に引っ込んで気ままな生活をしたので、何の進歩もなく無趣味な婦人となっていた。そのため結婚はしたものの意気相合せず、話も合わず、木に竹をつぎ合わせたようであった。ああ、多年愛したこの婦人のために青年はどれほど失望したことか。そうとは言わなかったが、遂にこのために鬱病のようになって哀れにも死んでしまった。

世にこのように主を失望させている信者は多くないであろうか。主は神の栄光と魂の救いのために尽くし、永遠のために準備したもうのに、世にある信者が己の欲と地上のことだけを思い、主と結婚して聖国を嗣ぐ準備をしないなら、どれほど主を失望させることであろうか。だから我らは目を覚まして準備せねばならない。