「わが肉体は汝を恋い慕う」(詩六十三・一)。
「身は主のためなり。主はまた身のためなり」(コリント前六・十三)。
暑中に肉体を不注意に用い、あるいは肉体の休養を図るうちに、知らず知らず悪魔の罠に陥ることがあるから、この際特にわが肉体の何たるかを熱慮したいと思う。
(一)神の目的と人間の邪悪
人間は言うまでもなくその霊魂が神の形に造られたのであるが、肉体もまた神の形である最高動物(地上の)にふさわしく造られたのである。
「神その形のごとくに人を造りたまえり。すなわち神の形のごとくにこれを造り、これを男と女に造りたまえり」(創世一・二七)。
「エホバ神、土の塵をもって人を造り、命の息をその鼻に吹き入れたまえり。人すなわち生ける者となりぬ」(創世二・七)。
この霊魂とこの肉とをもって人間は神を代表し、地上で主となって万物を支配し、栄え楽しむはずであった。しかるにアダムとエバの堕落以来、人間はこの神聖な肉体を悲しくも罪と欲との器にした。それゆえ神は彼らをその心の欲を遂げるのに任せて、互いにその身を辱める汚れに渡したのである。「かくのごとく彼らは……その迷いに値すべき報いをおのが身に受けたり」(ロ-マー・二四、二七)。この聖言に照らし、我らの肉体について思い当たることが多くあるであろう。
(二)キリストの肢体
神は我らの肉体をいつまでも罪の中に捨て置きたまわず、尊い価をもってこれを買い上げたもうた。「汝らの身は、その内にある神より受けたる聖霊の宮にして、汝らはおのれのものにあらざるを知らぬか」(コリント前六・十九)。
ここに一つの家屋があって、その内に皇帝陛下が宿りたもうと仮定せよ。我らはその家を汚し、あるいは壊すことをするであろうか。否々。
「汝らの身はキリストの肢体なるを知らぬか」(コリント前六・十五)。
我らの肉体はキリストの御体の一部分である。おお、何と神聖厳粛な事実ではないか。我らは皇帝の指一本といえども己のために乱用し、損傷することをするであろうか。主は我らの肉体に対して大いなる希望を持っておられ、我らの肉体もまた主イエスを恋い慕うのである。元来、我らが仁愛、忍耐、忠信、貞節等、聖霊の実を結んで栄光を宿すのも、肉体と大いに関係がある。ことに働きをなすためには肉体が必要である。
パウロは己の肉体についてこの必要を常に認めていた(ピリピ一・二二、二四)。彼はまた、「われ今なんじらのために受くる苦しみを喜び、またキリストの体なる教会のために、我が身をもてキリストの艱難の欠けたるを補う」(コロサイ一・二四)と言った。実を結び、働きをし、十字架を負う上で、肉体の使命は実に重大である。
(三)超自然の体力
我らの肉体の上にこのような大使命を与えたもうた神は、またこれに対する十分な準備を整えたもうた。わが肉体を苦しめ弱める疾病は、十字架の上でことごとく贖われた。
「これは預言者イザヤによりて『彼は自ら我らの患いを受け、我らの病を負う』と言われし言の成就せんためなり」(マタイ八・十七)。
この功によって、今や聖霊は甦りの力をもって信じる我らの肉体に働きかけたもうのである。
「もしキリスト汝らにいまさば、体は罪によりて死にたる者なれど、霊は義によりて命にあらん」(ローマ八・十)。
「神の大能の勢いの働きによりて信ずる我らに対する力の極めて大なるとを知らしめたまわんことを願う。神はその大能の力をキリストの内に働かせて、これを死人の中より甦らせ、天の所にておのれの右に座せしめ、もろもろのまつりごと・権威・力・支配、またこの世のみならず来たらんとする世にも称うるすべての名の上に置き、よろずの物をその足の下に従わせ、彼をよろずの物の上に頭として教会に与えたまえり」(エペソ一・十九~二二)。
悩む者よ、疲れた者よ、主に来たれ。そして「わが肉体は汝を恋い慕う」と申し上げよ。炎天に木陰を慕うように主を慕い、来て信ぜよ。安んぜよ。主はあなたを癒し強めたもう。超自然の力があなたのものとならんことを願う。
「しかはあれど、エホバを待ち望む者は新たなる力を得ん。また鷲のごとく翼をはりてのぼらん。走れどもつかれず、歩めども倦まざるべし」(イザヤ四〇・三一)。
(四)肉体の望み
前述のことだけでも身にあまる光栄であるが、主はなおこの上に輝かしい望みを肉体のために与えたもうのである。
「わが肉体もまた望みの中に宿らん」(使徒二・二六)と言いたもうた主イエスはすでに甦らされたもうたが、「神すでに主を甦らせたまえり。またその力をもて我らをも甦らせたまわん」(コリント前六・十四)。ああ、しかり、主が再び来たりたもう時、この卑しい体は化して主と等しい栄光の体にされるのである(ピリピ三・二一)。この肉体の救われる時、我らは神の子となって神の形を持つのである。これ我らの望みである(ローマ八・二三、二四)。