主の再臨がいよいよ切迫して来たことは、聖書の預言に従って日々起きてくる種々の世界の出来事、及び聖徒の心に聖霊の暗示なさることにより明らかである。
さて使徒パウロの書簡中、テサロニケ前後書は主の再臨をことさら明白に説いたものであって、いわば再臨の福音書とも言うべきものであるから、この切迫している時にこれらの書を研究して、再臨に対する準備をすることは大変有益なことと考えるのである。
前書においては再臨に対する聖徒の準備、信徒と未信徒に関する出来事が記されている。後書においては再臨に関する教理の誤謬を訂正し、あわせて前書の説明の不足を補っている。ここで前書の中から重要な数項目を挙げると次の通りである。
(一)再臨と聖徒の待望
米国などには無智と迷信とによるきわめて極端な再臨待望者がいる。すなわち主の再臨の期日を算定し、「何年何月何日に主は必ず来臨する」という偽預言を信じて職業を止め、財産を売り払い、家族を引き連れて野山に行き、今か今かと主の来臨を待ち望んでいたという連中である。彼らは主が来られなかったため失望し、ついには道に躓くという始末で、実に気の毒である。
それならば、敬虔な聖徒はどんな態度をもって主の再臨を待ち望むべきか。見える所によらず神の言葉に基く生ける信仰によって行動し、時々刻々神を愛し人を愛するがゆえに労苦し忍んで、主の再臨を待ち望むことである。あたかも朝を待ち望むように、切に切に主を待ち望むべきである(テサロニケ前一・三、四、九、十)。
(二)再臨と報酬
人が所用で遠方へ旅行するとき、必ずその帰宅の際には最愛の妻子を喜ばせようと相当の土産物を持ち帰るのは人情である。ちょうどそれと同じく、主は再臨の際、その忠実な僕らに対して相当の報いをなしたもうのである。「主人言う、『よいかな、善かつ忠なる僕。汝は僅かなる物に忠なりき。われ汝に多くのものを司どらせん。汝の主人の喜びに入れ』」(マタイ二五・二一)。パウロもまた述べて、「我らの主イエスの来たりたもう時、御前における我らの望み、また喜び、また誇りの冠は誰ぞ。汝らならずや」(テサロニケ前二・十九)。これ主のために労苦した者の受くべき報酬である。
(三)再臨と聖潔
「従順なる子らのごとくして、先の無知なりし時の欲にならわず、汝らを召したまいし聖者にならいて、自らすべての行状に潔かれ」(ペテロ前一・十四~十五)。
しかり、神の子の特質は聖潔である。たとえ天使の言葉を語り、すべての奥義ともろもろの学術に達し、山を移すほどの信仰があっても、潔くなければ神の子供として三文の価値もない者である。さらに「もし潔からずぱ、主を見ることあたわず」であるから、我らは今現に潔いかどうか省みなければならない。しかし、ある人は言うであろう。「私は数年前ある聖別会で潔められた」と。それは真実であったろう。しかし、あなたは今潔いか。過去の経験では駄目である。主の前に恐れなく立つわけには到底いかない。あなたは短気ではないか。偽言を言い、借金をしたり、食物につぶやいたり、人を議したり、あるいは情欲に所を得られるというようなことはないか。たとえそのようなことがなくても、聖霊に満されてすべての人を愛し、敵をも愛するというところまで進んでいないなら、御前に出るとき責め無しとされることはできない。「願わくは主、汝ら相互の愛および全ての人に対する愛を増し、かつ豊かにして・・・汝らの心を堅くし、我らの主イエスの、すべての聖徒と共に来たりたもう時、我らの父なる神の前に潔くして責むべき所なからしめたまわんことを」(テサロニケ前三・十二、十三)。
(四)再臨と聖徒の携挙
主の第一降臨の際、天の万軍は大いなる讃美をもって主を地上に奉送したが、罪に眠る地上の人の中にはこれを知る者がはなはだ少なく、ただ粗野純朴な牧羊者数名のみであった。このように主の再臨の時にもそれを知る者は少数である。主は携挙する者を集めるために号令と天使長の声と神のラッパをもって自ら天より下りたもう(テサロニケ前書四・十六)。その時、我ら真実に潔められ、満たされ、主のために尽くしていれば、携挙されて空中で主と会い、こうしていつまでも主と共にいることができる(同十七)。
ある人はこれらの福音を耳にして、かえって失望するかも知れない。なぜなら、このような大きな祝福にあずかる資格のない弱い薄信の者であると自ら諦めてしまうからである。しかし兄姉よ、失望したもうな。我らが罪から救われたのは決して自分らに取り柄があったからではない。ただ主の大いなる恵みによったのである。再臨の時も同じであって、切に切に主に憐れみを求め、主の再臨を慕っている者に、主はこの幸いにあずかることを許したもうと信じる。
(五)再臨と未信者
主は未信者の思いもよらぬ時、盗人のように来たりたもう。また人々が平和無事だと言っている時、滅亡をたちまち来たらせるのである。
「汝らは主の日の盗人の夜来たるがごとくに来たることを、自らつまびらかに知ればなり。人々の平和無事なりと言うほどに、滅びにわかに彼らの上に来たらん。はらめる女に産みの苦しみの臨むがごとし。必ず逃るることをえじ」(テサロニケ前五・二、三)。これは実に恐ろしいことである。これは信徒には直接何の関係もないようであるが、大いにある。すなわち自らに対しては絶えず目を覚ましていることと、未信徒に対しては常にこのことをもって警告することである。
「見よ、さばきする者、門の前に立てり」。