神と共なる生涯

笹尾鉄三郎

「我らの見しところ聞きし所を汝らに告ぐ。これ汝らをも我らの交わりにあずからしめんためなり。我らは父およびその子イエス・キリストの交わりにあずかるなり」(ヨハネ第一書一・三)。

この集会における我らの願いは、彼の聖名のためになお深く彼を知ることである。父なる神およびイエス・キリストを知るのに必要な方法は、その交わりにあずかることである。だから我らが彼を知る前に、まず現在、我らは主と一体となって主と共に歩んでいるかという実際問題について調べることにしたい。もしこの点が確実でないなら、外側で成功した働きをしているように見えても、主の前では失敗の生涯であり、また深く主を知ることは到底できない。電車が電線から離れるなら、二、三分は惰力によって動くが、ついには少しも動かなくなる。そのように我らが主との接触を失うなら、初めの間は良いかも知れないが、ついには少しも神の栄光を現わせなくなるのである。「二人もし相会せずぱ、いかで共に歩かんや」(アモス三・三)。神との交わりにあずかることは、我らにとってあらゆる面で堅い基である。我らはこれから聖書によって、キリストとの接触を失う時の状態を調べよう。

「律法によりて義とせられんと思う汝らは、キリストより離れたり。恵みより落ちたり」(ガラテヤ五・四)。

「キリストより離れたり」。これは断絶の意味である。表面上罪を犯していなくても、知らず知らずのうちに律法の下に来て、キリストとの接触を失うことがある。その時はもはや恵みから落ちたのであるから、もちろん聖潔もなく、真の生命も、進歩もないのである。しかし救いは失わない。ただ神の働きと力とがなくなるのである。しかし、罪を犯せば聖潔も称義も失い、未信者同様になる。また、空想を描いたり、人に目をとめることによって、キリストとの接触を失う。悪魔はこの手段をもって多くの人々を陥れている。これは誰でも陥りやすい所であるから、よく注意しなければならない。

「わが愛する者の声きこゆ。見よ、山を飛び、丘を躍り越えて来たる」(雅歌二・八)。

ここにはキリストと信者との交わりが切れた様が記してある。ここを見ると信者は壁の中にいて、キリストが山や谷を越えて信者の前に立ちたもうた。信者は恵みによって聖なるキリスト、美なるキリストを拝することができたが、キリストと自分との間に壁があって接触することができない。信者はキリストが戸を開けて入って来て下さると思っていた。しかしキリストは、「わが愛する者よ、わが美わしき者よ、起きて出で来たれ」と仰せられた。我らの型の中にキリストを入れるのではない。我らが出てキリストの中に入るのである。おお、これは大いなる福音である。また、キリストは我らを汚れた者と言わないで、「わが愛する者よ、わが美わしき者よ」と呼びたもうた。このような卑しい者も、神の目には美わしく見えるのである。

「夜われ床にありて我が心の愛する者を尋ねしが、尋ねたれども得ず」(雅歌三・一)。

ここでは、信者は安逸を貧ってキリストの前に出なかった。そのため、信者はその後キリストを尋ねたが会うことができなかった。そのように我らの献身に全き服従が伴わないなら、主との交わりが断たれてしまう。その時、我らの状態は変わってくる。神の子が悪魔の子に堕落することはないが、我らの身によって神の栄光が現われなくなる。暗黒の力がますます強くなって、再び取り返しのつかない失敗をもたらすようになる。全き服従のない結果がいかに恐ろしいか、これによって学びたい。

「われは眠りたれども、わが心は覚めいたり。時にわが愛する者の声あり。すなわち門をたたきて言う。『わが愛する者、わが鳩、わが全き者よ、われのために開け。わが頭には露満ち、わが髪の毛には夜のしずく満てり』と。『われすでにわが衣を脱げり。いかでまた着るべき。すでにわが足洗えり。いかでまた汚すべき』。わが愛する者戸の穴より手をさし入れしかば、わが心彼のために動きたり。やがて起き出でてわが愛する者のために開かんとせし時、没薬わが手より、没薬の汁わが指より流れて、関の木の把柄の上にしたたれり。我わが愛する者のために開きしに、わが愛する者はすでに退き去りぬ。さきにその物言いし時はわが心さわぎたり。われ彼をたづねたれども会わず。呼びたれども答なかりき」(雅歌五・二~六)。

キリストが戸を叩きたもうたのを信者は知りながら、肉体の安楽を求めて戸を開かなかった。その結果、ついに主を見失う悲境に立ち至った。我らの経験でもこのようなことが度々ある。ことに雑談の時に失敗する。チャンバルス兄は「人に話すよりも二倍多く神に話せ」と言われたが、どうか我らももう一度親しく神と話す者となりたいものである。

以上の諸点を自分に当てはめて、自分の身に欠けた所を見出されたか。おお、苦しまずに真一文字にイエスに出られよ。堕落した人にもイエスは変わらぬ愛をもって臨んでいたもうのである(雅歌二・十三、五・二)。愛の懐に無条件にすがれ。このようにして自分の生涯にキリストを使うのではなく、キリストに使われる者となられよ。このようにすれば、我らが驚くほど働きにも品性にも御自身を現わしたもう。そして父の心とあなたの心が一つとなり、父の願いがあなたの願いとなる。父の苦楽があなたの苦楽となるばかりでなく、歩みにおいても主の足跡を踏むことができる。

神は万物を造りたもうて七日目に安息に入りたもうたが、アダムのためにこの安息が破られて以後は苦痛の生涯で、キリストの再臨までは安息に入りたもうことはできない。潔められて主と同心となった人は、この苦しみにあずかることができる。しかし自己中心の人は駄目である。

アブラハムは天にも代えがたい一人子を神の命令のままに犠牲に供した。その時、彼は神に喜ばれる者となった。先年、女宣教師が清国で殺された時、その母はそれを聞くや否やまた自分の次女を宣教のために送ったのである。普通の人ではできないことである。しかし、その母は父と一体となり、父の苦痛、主の苦難がわが物となっていたので、この驚くべきことをもなしえたのである。我らは今、目を覚ましている必要がある。今や世の終りが近づいて来たので、悪魔はその本性を現わそうとしている。使徒時代に悪魔はあらゆる手段をもって使徒たちを苦しめ傷つけた。今のように手ぬるいことはない。確かに真向から打ち込んで来る。その時、我らがキリストと一致結合しているなら、キリストの愛に励まされ、キリストの苦しみにあずかることが特権となり、感謝して受けるに至る。

また一方に注意すると、一人の霊が救われるなら天に大いなる喜びがあることを見る。その時われらは他人には解することのできない喜びを父と共に味わうことができる。かの放蕩息子が帰って来た時(ルカ十五・十一~三二)、兄は父の喜びに入ることができなかったが、父は「死にてまた生き、失せてまた得られたれば、我らの楽しみ喜ぶは当然なり」と衷心から喜悦を表した。我らも父と共に放蕩息子の帰ったとき喜ぶ者の一人とされることを願うのである。

おお、我らの上に主イエスの再臨が近づいている。これは我らばかりでなく、少しでも真面目に祈っている人なら感じていることである。シンプソン氏曰く、「千二百六十日(ダニエル十二・七)とは千二百六十年のことである。紀元六百三十年にかのトルコ兵がエルサレムの宮にトルコ神殿を建てた。それから今までにおよそ千二百六十年経っているので、今やユダヤ人の中に大いなることが行われる時である」。しかり、今より十年ほど前から、ユダヤ人の大いなる復帰運動が起きている。過去十年間に、何百年もかかるような事業が彼らのうちになされている。金が出来次第、彼らは国へ帰って集合している。表面上は依然としてトルコ領のように見えるが、実際はもはやユダヤ人のものである。おお、イエスはやがて来たりたもう。されば我らは恐れなく主の御前に立つことができるよう、願わくは主と共なる生涯に入り、主より与えられた使命を残らず果たされんことを。アーメン。