「エホバ新しきことを地に造らん。女は男を抱くべし」(エレミヤ三一・二二)。
この女とは処女マリヤを指し、男とは主イエスを指して預言したものである。そしてこの章では、主イエスの御降臨と彼の贖いとによって神の民が回復され、救われ、恵まれることが示されている。今ここでこの章全体を研究することはできないが、ただ我らに関する四、五の要点を味わうことにする。
(一)人生の悲劇
「エホバかく言いたもう。嘆き悲しみいたく憂うる声ラマに聞こゆ。ラケルその子供のために嘆き、その子供のあらずなりしによりて慰めを得ず」(エレミヤ三一・十五)。
これはマタイ伝二章十六~十八節にある通り、主イエスが生まれたもうた時、ヘロデが恐ろしい嫉妬と憤怒とにより、ベツレヘム地方の二才以下の嬰児をことごとく殺した時の悲惨な状態を指すのであるが、悪魔はベツレヘムのみではなく、どこでも罪と死の害毒を流している。彼はどうにかして神の恵みが我らに届かないように妨害し、魂を殺しつつ荒らし回っている。我らもかつてはその毒手にかかって悩んでいたものである。「嘆き悲しみいたく憂うる声全世界に聞こゆ」と言っても過言ではあるまい。「人々…嘆き…慰めを得ず」。名誉も財宝も満足を与えず、神仏も朋友も慰めることができず、冴え渡る月を見てさえ悲哀を増し、さえずる鳥の声を聞いてすら物憂く感ずる人がどれだけあろうか。世にあって神なく、キリストなく、望みのない人ほど哀れな者はない。
「汝は我を懲らしめたもう。我はくびきに馴れざる子牛のごとくに懲らしめを受けたり。エホバよ、汝はわが神なれば我を引き返したまえ。されば我帰るべし。われ帰りし後に悔い、教えを受けし後に我が腿を撃つ。われ若き時の恥を身に持てば、恥じかつ辱しめらるるなり」(エレミヤ三一・十八、十九)。
これは我らが罪のために失敗し、神の懲らしめを受けて覚醒し、自ら悔い恥じ、砕けた時の祈祷である。
(二)神の憐れみ
「エホバ言いたもう。エフライムは我が愛するところの子、喜ぶところの子ならずや。われ彼に向いて語るごとに彼を思わざるを得ず。ここをもて我がはらわた彼のために痛む。われ必ず彼を憐れむべし」(エレミヤ三一・二〇)。
「遠くよりエホバ我に現われて言いたもう。われ限りなき愛をもて汝を愛せり。ゆえにわれ絶えず汝を恵むなり」(三)。
ああ、有り難きは親の心である。放蕩息子の父が走り迎え、抱きしめ、接吻したように、神は無限の憐憫をもって哀れな我らを顧みたもう。
おお、彼の腹を見よ。「我が心わが内に変わりて、我の憐れみことごとく燃えおこれり」(ホセア十一・八)。こうとも知らず、彼に逆らい、彼を恨み通したことの恐ろしさよ。「主の民に罪の赦しによる救いを知らしむればなり。これ我らの神の深き憐れみによるなり。この憐れみによりて朝の光、上より臨み、暗きと死の陰とに座する者を照らし、我らの足を平和の道に導かん」(ルカ一・七七~七九)。
(三)エホバの非常手段
「エホバ新しきことを地に造らん。女は男を抱くべし」(二二)。
「主みずから一つのしるしを汝らに賜うべし。見よ、おとめ孕みて子を産まん。その名をインマヌエルと称うべし」(イザヤ七・十四)。
「実に大いなるかな、敬虔の奥義。『キリストは肉にて現わされ』」(テモテ前三・十五、十六)。通常の道理から見るなら、我ら罪人が救われて神の子となる等のことは決してできないはずである。「誰一人おのが兄弟を贖うことあたわず。これがために贖い代を神にささげ、これをとこしえに生き永らえしめて朽ちざらしむることあたわず。(霊魂を贖うには費いと多くしてこのことをとこしえに捨て置かざるを得ざれぱなり)」(詩四九・七~九)。「エホバは人なきを見、仲立ちなきをあやしみたまえり」(イザヤ五九・十六)。「それ神はそのひとり子を賜うほどに世を愛したまえり」(ヨハネ三・十六)。「汝いけにえと供え物とを欲せず、ただわがために体を備えたまえり。神よ、われ汝の御心を行わんとて来たる」とはクリスマスにおける主イエスの御叫びである(へブル十・五、七)。いと高く、いと聖き神の化身でいます方が我らのために御卑下してこの御犠牲をなしたもうとは。ああ、神の愛は理想ではなく現実である。その手段は法外であり非常である。有り難い奇跡ではないか。
(四)贖いと勝利
「エホバ、ヤコプを贖い、彼らよりも強き者の手より彼を救い出したまえり」(エレミヤ三一・十一)。悪魔の勢力も、罪悪の力も、世の力も、また死の力も、みな我らの力よりも強いが、我が主は我らを「仇の手より救い、生涯、主の御前に、聖と義とをもて恐れなく仕えしめたもうなり」(ルカ一・七四、七五)。
(五)祝福と慰め
「その魂は潤う園のごとくならん。彼らは重ねて憂うること無かるべし。その時乙女は舞いて楽しみ、若き者と老いたる者もろともに楽しまん。われ彼らの悲しみをかえて喜びとなし、彼らの憂いを去りてこれを慰めん。われ油をもて祭司の心を飽かしめ、わが恵みをもてわが民に満たしめんとエホバ言いたもう……。汝の声をとどめて泣くことなかれ。汝の目をとどめて涙を流すことなかれ……。われ疲れたる魂を飽かしめ、すべての憂うる魂を慰むるなり」(エレミヤ三一・十二~十四、十六、二五)。
ハレルヤ、何とねんごろで温かい満ち足りた御恵みであろうか。今日、心の口を信仰もて広く開き、この約束の賜物もて充たされ、雀躍して主を讃美しようではないか。
(六)新約と永遠
「エホバ言いたもう。見よ、我イスラエルの家とユダの家とに新しき契約を立つる日きたらん。すなわち、われ我が律法を彼らの内に置き、その心の上に記さん。我は彼らの神となり、彼らは我が民となるべしとエホバ言いたもう。人おのおのその隣とその兄弟に教えて汝エホバを知れとまた言わじ。そは小より大に至るまでことごとく我を知るべければなりとエホバ言いたもう。われ彼らの不義を赦し、その罪をまた思わざるべし……すべての田畑みなエホバの聖き所となり、永遠に及ぶまで再び抜かれ、また倒さるることなかるべし」(エレミヤ三一・三一、三三、三四、四〇)。
ああ、驚くべき御救いなるかな。神の聖と愛とを我が心に入れ、我をして真に神と一致させたもうとは。世は移り、物は変わるとも、神は永遠に我が神となり、我は彼の民とならんと誓いたもう。
(七)クリスマスの決心
これほどまでに恵まれた我らは御恵みに感激して喜び進んで、今日父なる神と共に最愛のものを犠牲に供し、主イエスと共にこの身を生ける供え物として神に献げ、神のため、民のため、亡びる魂のために己を低くし、死に至るまで聖旨に従おうではないか(ピリピ二・八)。