新なり、新なり、新なり

笹尾鉄三郎

「伝道者曰く、空の空、空の空なるかな。すべて空なり。日の下には新しきものあらざるなり。見よこれは新しきものなりと指して言うべきものあるや」(伝道一・2、9、10)とは、この世の様を見抜いた名言である。人の心は古さを嫌って新しさを追求するが、やはり罪悪の古着を脱げないで苦しんでいる者がいる。読者諸兄姉も、新しさを慕っているであろうか。神は我らが、

(一)真に新しくなる秘訣

を教えていたもう。「人もしキリストにあらば新たに造られたる者なり。古きはすでに過ぎ去り、見よ、新しくなるなり」(コリント後書五・17)。キリストの外に出ていながら新たになることは不可能である。「見よ、われすべてのものを新たにするなり」(黙示二一・5)。「見よ、われ新しきわざをなさん。やがて起こるべし」(イザヤ四三・19)。我らではなく、神が新たにして下さるのである。我らはただ主に来て、彼を信じ、彼に所を得させまつるのである。

(二)新しい契約

「この杯は我が血によれる新しき契約なり」(コリント前書十一・25)。「新しき契約を設くる日来たらん。そは小より大に至るまで、皆われを知らん。我もその不義を憐れみ、この後またその罪を思い出でざるべし」(へブル八・8、11、12)。旧約すなわち律法は我に命令し、要求し、禁制し、叱責して、死罪に定めた。しかし、新約の血は我を憐れみ、贖い、赦し、救い、更生し、神の子となしたもうた。もったいないことではないか。

(三)新しい生ける路

神人の一致は到底人力では望みえないことであるが、主イエスの肉体が裂かれることによって神と人の隔てが除かれたのである(マタイ二七・55)。それゆえ主は、「われは道なり。我によらでは誰にても父の御許にいたる者なし」と言いたもうた(ヨハネ十四・6)。「されば兄弟よ、我らイエスの血により、その肉体たる幕を経て我らに開きたまえる新しき活ける路より憚らずして至聖所に入ることを得」(へブル十・19)。ハレルヤ。

(四)新しい生命

「我らはバプテスマによりて彼と共に葬られ、その死に合わせられたり。これキリスト父の栄光によりて死人のうちより甦らせられたまいしごとく、我らも新しき命に歩まんためなり」(ローマ六・4)。神の命、甦りの命がわが内にあって働き出したまわぱ、我が生涯は真に新しくされるのである。

(五)新しい心

「われ新しき心を汝らに賜い」(エゼキエル三六・26)。「われ彼らに一つの心を与え」(同十一・19)。「われ彼らに一つの心と一つの道を与えて常に我を畏れしめん。こは彼らとその子孫とに幸いを得せしめんためなり」(エレミヤ三二・39)。何とありがたいことではないか。

(六)新しい霊

「我、新しき霊を汝らの内に授け」(エゼキエル三六・26)。古い皮袋に新しい酒を入れることはできないように、人間の生来の心と魂との中に神の霊を宿すことはできない。新しい心と新しい霊とは神の御安所である。また、キリストの良き連れ合いである。

(七)新しい戒め

「われ新しき戒めを汝らに与う。汝ら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし」(ヨハネ十三・34)。旧約にも「心を尽くし、力を尽くして、神と隣り人を愛すべし」とあるが、我らはこの戒めを守ることができなかった。新しい戒めはこれと異なり、主がまず我を愛して驚くべきことに我を救い、我が心中に愛を注ぎ、かくて「愛せよ」と命じたもうのである(申命記三十・6、8)。「その戒めは難からず」(第一ヨハネ五・3)。

(八)新しい奉仕

「我らいま儀文の古きによらず、霊の新しきに従いて仕うることを得るなり」(ローマ七・6)。はしためが働くのと妻が働くのとは、同じことをしても心が違う。聖霊は我らを父に対する孝子とし、キリストに対する良妻とし、その心をもって喜んで御用を勤めさせたもう。殊に生命があり、自由がある(コリント後三・6、17)。

(九)新しい名

「汝はエホバの口にて定めたもう新しき名をもて称えらるべし。汝をヘフジバ(わが喜ぶところ)と称え、汝の地をベウラ(配偶)と称うべし」(イザヤ六二・2、4)。「勝を得る者には……我が新しき名と書き記さん」(黙示三・12)。おお、思い見よ。これが神のつけたもう新しい名である。

(十)新しい天地

神の目には、「天燃え崩れ、もろもろの天体焼け溶けん。されど我らは神の約束によりて、義の住むところの新しき天と新しき地とを待つ」(ペテロ後三・13)。アーメン、ハレルヤ。

(十一)新しい歌

かくまで愛され、恵まれた我らは、いかで歌わざらんやである。「新しき歌をエホバに向かいて歌い、喜びの声をあげて巧みに琴をかき鳴らせ」(詩三三・3)。「エホバは新しき歌を我が口に入れたまえり。こは我らの神にささぐる讃美なり。多くの人はこれを見ておそれ、かつエホバに依り頼まん」(詩四十・3)。パウロとシラスのように(使徒十六・25以下)逆境にも神を讃美し、御栄えを賛えようではないか。天国に行ってモーセの歌と小羊の歌とを歌う時はいっそう新しいであろう。