主よ我らに祈ることを教えたまえ

笹尾鉄三郎

「イエスある所にて祈り居たまいしが、その終わりしとき、弟子の一人言う、『主よ、ヨハネのその弟子に教えしごとく、祈ることを我らに教えたまえ』。イエス言いたもう、『汝ら祈るときにかく言え、天にいます我らの父よ、願わくは聖名の崇められんことを。御国の来たらんことを。みこころの天のごとく地にも行われんことを。我らの日用の糧を日毎に与えたまえ。我らに負い目あるすべての者を我ら赦せば、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせたもうな・・・・・・』」(ルカ十一・一~十三)。

我らは愚かであって祈ることを知らない。祈ることを知らなければ、計画も事業も徒労である。だから我ら何事よりもまず聖霊によって祈ることを教えられなければならない。弟子たちが主に願ったように、我らも教えられやすい心をもって主に「祈ることを我らに教えたまえ」と今黙祷のうちに申し上げたい。

主は弟子たちの願いに答えて次のことを教えたもうた。
 第一、神のために祈ること。
 第二、自分のために祈ること。
 第三、人のために祈ること。
 最後に、他のものでなく聖霊を求めること。

(一)神のために祈ること

「願わくは聖名の崇められんことを」。聖霊の祈りと人心の祈りとは全く異なる。人はまず自分のことを先に祈ろうとする。己の名のためでなくても、己の家名のため、おのが団体の名のため、己の国のためならば熱心に祈り求めるのである。そしてこれは高尚らしくあるが、つまり自己中心の野心でなくして何であろうか。聖霊によって祈る者は、まず父の聖名の崇められんことを祈る。我らはすべての場合に神を第一にせねばならない。

昔、神の名のある所は神の宮であった(列王上九・三)。新約においては神の宮は我ら信者である(コリント後六・十六)。我らはパウロのように主の名を担う者である(使徒九・十五)。だから我らは「願わくは聖名の崇められんことを」と祈る時に、まず我らのうちに聖名を崇めねばならない。「なんじ心のうちなるキリストを崇むべし」。言いかえれば、我らはまず潔められねばならない。この聖名の崇められることが第一のことである。

我らは自分の必要から割り出すのではなく、神の側から考えて、神の必要なものを求むべきである。今も、

「彼らその行くところの国々に至りしが、ついにわが聖き名を汚せり。すなわち人かれらを見て、『これはエホバの民にして、彼の国より出で来たれる者なり』と言えり。ここをもて我、イスラエルの家がその至れる国々にて汚せしわが聖き名を惜しめり」(エゼキエル三六・二〇~二一)。

とあるように、神の民によって主の大いなる聖名は汚されている。我らが潔められ、満たされるべきは、自分が苦しいためではない。それならば我慢もできるが、我らにとって忍ぶことのできないのは神の聖名が汚されていることである。だから我らは聖名のために潔められんことを求めるのである。ただ我らばかりでなく、また全教会が潔められるのでなければ、聖名は崇められない。ゆえに我らはまず自ら潔められて、全教会のために祈らねばならない。今の時代は使徒行伝にあるように、主の聖名が崇められていない。

「御国の来たらんことを」。活眼を開いて見れば、今や神の御国は打ち壊されて悪魔がその国を建てつつある。

「彼はおのれの国に来たりしに、おのれの民はこれを受けざりき」(ヨハネ一・十一)。

これは千九百年前のことであるが、今はますます甚しい。主は御自身を入れるべき所もなくて馬槽の中に生まれたもうた。そしてその御一生は狐や天空の鳥にも劣って枕する所さえ無かった。これを思えば我らはこの祈りをせずにはいられない。またある信者はイエスを受け入れてはいるが、この通りになっていないのである。

御国とは王国のことで、キリストの支配したもう所である。多くの信者はキリストを王として受け入れてこれに仕えることをしない。兄姉の時間も、金銭も、持ち物も、家族も、身も、魂も、みなキリストが支配していたもうであろうか。

「みこころの天のごとく地にも行われんことを」

私は前には私の願望を通そうと思っていた。そして毎朝口先では主の祈りを唱えていたが、心の中は御旨よりも我意を通すことを願っていた。ゆえに一朝光を受けた時、これが聖潔を求める動機となったのである。兄姉よ、各自の生涯において、すべてのことにおいて神の御旨が行われているであろうか。あるいは、自分の旨か悪魔の旨ではないだろうか。テモテ後書二章二六節には悪魔がその旨を行うことを記している。今日、多くの人は悪魔の手先になり、彼の旨を行いつつある。

(二)自分のために祈ること(筆記略)

(三)人のために祈ること

次に主は人のために祈るべきことを教えたもう。我らは己のためには霊肉の上に日用の糧を与えられれば充分である。しかし主は進んで我らに飢えた魂を示したもう。「夜半に我らのもとに来る飢えた旅人を見させたまえ」とは私の切なる願いである。夜は六千年来更け渡った。今や暗黒である。この暗黒の中に哀れにも旅人さまよい、飢え疲れて我らに助けを乞うている。昨今、未信者の間に渇望が起きていることは我らの熟知するところである。彼らは何かを求めつつある。そして彼らの渇きは非常なものである。彼らは信者が安心を得たということを聞いて、何か助けを受けることができるかも知れないと思って来るが、多くの信者はここにあるように供うべきものを持っていないのではないか。

罪の雲に道さえも 踏みわけ難き世の中を
重荷を負いつつ旅人の 覚束なくも辿り行く

落つれば消ゆる白露を 生命と頼むうつせみの
空しきからになる迄も 罪の街にさまよえり
(新選讃美歌九十四番)

おお、神よ、我が目を開き、この世の夜半の旅人を示したまえ。

十四、五年前のことであった。アメリカのニューヨークにおいて、クリスチャン・アライアンスの年会があった。例年のようにその最後に宣教会があったが、その時著しい聖霊の働きがあった。閉会後、食堂で多人数の者が会食した時のことである。西洋では食事の時には楽しく語り合うのが恒例であるのに、しかもそのように多くの人が食事するのであるが、その時には誰一人話す者もなく、少しの声もなく、ただ時にフォークやナイフの音がするだけで、人々がただ顔と顔を見合わせては無言のうちにその眼に涙をたたえていた。このように終わりまで一言も発する者がなかった。これはなぜであったか。彼らが亡びる魂を示されたからであった。その年、その団体から百人の宣教師が外国に遣わされたという。亡びる魂を見せられる時、金持ちも金を守っていることができず、事業家は事業を楽しんでいることができず、あらゆるものを献げ、間接的に魂を救わんとするに至るであろう。おお、「我が目を開きたまえ」と我らは祈ろうではないか。

しかし、我らは自ら魂に与えるべきものを持っていない。我らはまず友に行って求めねばならない。友とは父なる神である。哀れな魂のために神のもとに行って三つのパンを求めよ。三つとは神の数であって完全を表わす。亡びる魂のためにはひとり子をも与えたもう父なる神の愛と、生命をも与えたもう主イエスの愛、及び雌鶏のように覆いたもう聖霊の愛を求むべきである。罪人は実にこの三つのものを要するのである。あるいはまた、この三つをテモテ後書一・七にある力と愛と慎しみの霊として味わっても良い。神と人と自己とを満足させるものは、ただ聖霊に満たされる一事あるのみである。ただ一度願うのみならず、ひたすら求むべきである。多くの人は聖霊を求めるが与えられず、また満たされない。これは懇切に求めないからである。神は惜しみたもうのではないが、我らが果たして何を失うとも聖霊に満たされることを求めるや否やを試みるために、懇切に求めさせたもうのである。だから我らは幾日でも、幾月でも懇切に求むべきである。けれども長びくならば飢えた者は待つ間に死ぬかも知れぬ。我らが真面目になりさえすれば、神は長く待たせたまわない。「起きてその要するほどのものを与えん」。我らが求めるほど、必要なだけ、ことごとく与えたもうのである。今や父は起き上がり与えんとしていたもう。だから我らは信仰をもって懇切に祈り求むべきである。そうすれば天にいます我らの父は求める者に聖霊を与えたもうであろう。