キリストの精兵卒

笹尾鉄三郎

「汝キリスト・イエスの精兵卒として我と共に苦しみを忍べ。兵卒を務むる者はなりわいのためにまとわるる事なし。これ募れる者を喜ばせんとすればなり」(テモテ後二・三、四)。

テモテ後書はパウロが死ぬ前に書いたものであって、テモテヘの遺言とも言うべき書である。これを思ってこの書を読むならば、なおさら言々句々千釣の重味あると感ずるであろう。

パウロはまず一章においてテモテに非常に同情を表わし、二章に入って厳粛に命令する事があった。ことに三節のこの命令のごとき、何と厳かなものではないか。テモテはこの時まだ若かったが、エペソ教会の監督であった。彼は性来豪傑肌の人ではなく、むしろ小心翼々としておのが歩みを慎む底の人で、折々沈みこんだようである。おそらく、この命令が深く彼の心底に徹していたからであると思う。

さて、我らは皆キリストの精兵卒たる者である。かく言うからには明白なる一事は、戦闘が眼前にあるということである。我らは迫害のある時、または困難な事情に遭遇する時に、キリスト信徒の生涯が戦闘であることを記憶するが、無事である時はともすればこのことを忘れる。さればたちまち失敗するに至るのである。我ら信仰の生涯を送る者は、時々刻々が戦闘であることを記憶せねばならない。敵はあるいは前から、あるいは後から間隙を狙い、いかにしても我らを滅ぼそうとしている。試しに新聞を見れば、始めから終わりまで悪魔が人を害し、殺すために働いているのを見るであろう。あるいは名誉、あるいは財産をもって、あるいはその他様々のものをもって、彼は人を滅ぼさんとして朝夕活動してやまぬのである。かかる世にあることを思えば、我ら戦闘あることを自覚すべきである。されば家族の都合やおのが事情、その他世のことをもって自己を煩わさず、一切を捨てて神のために働く者とならねばならない。

兵卒たる者の資格として要するものは、全き献身、全き服従、全き犠牲の精神である。先年、私の義兄は日露戦争において戦死した。そして血に染み、寸裂し、所々弾丸のために穴のあいた軍服を郷里にまで送って来たということを聞き、私はまだそれを見ていないが、あたかもそれを目に見るがごとく感じ、私がイエスのためにこの覚悟をもって日々戦闘の生涯を送っているや否やを反省して、まだ呑気な生涯であることを思い慚愧にたえなかった。いまだにこのことを思い出すたびに厳粛な感に打たれる。今や迫害もなく、信仰の生涯を送るのにこれという困難もない。されども霊界の激戦がまだやまない。どうか死に至るまで忠実な者、死を決して奮闘する者となりたい。されど一切を捨てなければ真に奮闘することはできない。兄姉よ、足手まといになるものはないか。何かに後髪を引かれるように感ずることはないか。主イエスはのたもうた、「人もし我に従い来たらんと思わば、おのれをすて、おのが十字架を負いて、我に従え」(マタイ十六・二四)と。「汝らのうちそのすべての持ち物を退くる者ならでは、我が弟子となるを得ず」(ルカ十四・三三)と。されば我ら深く自ら省みて、おのれに属するすべてのものを捨てて主に従う者となりたい。

次に、積極的に苦しみを忍ぶことである。ある者は消極的に邪魔になるものを捨てるが、苦しみを忍ぶことをせぬ者がある。いざ戦争という時に、苦しみを避けようとして出ることをせぬ者があるならば、これ兵士であって真の兵士ではない。パウロは「我と共に苦しみを忍ぶべし」と言った。勇敢なる大将が真っ先に進んでおのが部下を励まし、「兵士ら続け!」と叫ぶごとくである。コリント後書十一章二二節の中程から二八節までを見れば、パウロが体においても心においてもいかばかり苦難を忍んだかを見るのである。されど彼はキリストの精兵卒として戦場にあったから、よくこれに耐えてかかる大いなる苦しみをも「軽き苦しみ」と言うた(コリント後四・十七)。我らキリストの苦しみを思い、またパウロの苦しみを思うてこの声に励まされ、苦難を覚悟して戦場に進もうではないか。私は今ダピデの部下のことを想起する。彼が山に逃れ、洞穴に隠れた時のことであった。悩める人、負い目ある者、心に飽き足らぬ者らが彼のもとに集まって来た(サムエル前二二・二)。ろくな者は一人もいなかった。しかるに後に至って、これらは能力ある軍勢となったのである。サムエル後二三章にダビデの勇士のことが記されている。その中に、ダビデがベツレヘムの門にある井戸の水を慕ったのに応じた三勇士がいた。彼らはペリシテ人の陣を突き通り、そこの水を汲み取ってダビデに献じた(十三~十七)。彼らは命じられて行ったのではない。ダビデの心中を汲み、その忠誠の心に駆られてやむにやまれず敢えてこのことをなしたのである。ダビデがその故郷の水を慕ったように、主はその故郷とも言うべきこの世の魂を求めたもう。「われ渇く」との十字架上の叫びはまた、魂を慕って叫びたもう御声ではなかろうか。「われ誰を遣わさん。誰か我らのために行くべきか」とは一人イザヤのみが耳にした声ではない。我ら主の御旨をわきまえ知った者は、走って行って敵陣を突き通り、亡ぶる魂を救い取って主のもとに献げようではないか。伝道は戦争である。敵に損失を被らせることであるから、その怒りは必然のことである。されど「慕える者の心を喜ばせん」ため、敢えてこのことをなすべきである。報賞は我らの前にある。よしこれがなくとも、やがて面と面を合わせて主にあいまみえる時、主が喜んで一言の賛辞を賜わるそれのみで結構である。我ら主を喜ぱせまつらんために、苦しみを忍んで奮闘しようではないか。