聖潔の極意

笹尾鉄三郎

真面目な信者がたびたび我らに言われることは、「どうも聖潔ということがわからなくなりました。一体、潔められたら是々のことは無くなるはずですが、何々の罪、過ち等のあるのは潔められていないせいでしょうか云々」。この種の信者が随分多くいるようであるから、ちょっと申し上げよう。

(一)罪の問題

真に悔い改めて十字架の主に依り頼む者は、過去に犯した罪はもちろんことごとく赦され、現在は神の愛の懐の中で恩恵の義しい支配の下にあるのである(ローマ五・二〇、二一)。

「汝らは律法の下にあらずして恵みの下にあれば、罪は汝らに主となることなきなり」(ローマ六・十四)。

我ら各自の経験に照らしても、実際我ら自身が罪深く、力なく、何の取り柄もないことを感じて、主イエスの恩恵の救いに投じた時の精神をもって日を送る限りは、罪を犯さない。これは救われた当座において格別明らかである。これは新生命の力である。「すべて神より生まるる者は罪を行わず。神の種、その内にとどまるによる。彼は神より生まるるゆえに罪を犯すことあたわず」(ヨハネ一書三・九)。

我らが真に恩恵の下にあるならば、たとえ内心には原罪すなわち古い人があっても、これは圧迫されて罪を犯すまでには至らない。それなら信者がなぜ罪を犯すかというと、恩恵の下より離れて律法の下に来るからである。これは一種の堕落である(ガラテヤ五・四)。「罪の力は律法なり」というわけである。眼中に律法や理想があって自分の力でもがくとき、必ず罪が勝を制する。ローマ書第七章の経験もこれである。信者はこの先この堕落、この心得違いに気づき、恩恵の下に立ち返らなければならない。聖潔(きよめ)は罪を犯す問題よりもむしろ動機の問題である(もちろん、動機は罪を犯すことと関係する)。

(二)動機の問題

恩恵によって罪を犯さなくても、内心より果たして絶対の服従をしているか。「我が心のままをなさんとするにあらず。聖旨の天になるごとく、地にも、我が身にもなしたまえ」と心より祈ることができるか。我は全心全力を挙げて神を愛しているか。人を愛しているか。何を思い、何を語り、何をなすにも、神のため、人のためを思う以外の動機はないか。外形はともかく、古い人のある間は実際に動機は絶粋でなく、二心がある。パウロは「我にとりて、生くるはキリストなり。死ぬるもまた益なり」と潔い心より申したが(ピリピ一・二一)、古い人はその反対で「我にとりて、生くるはおのれなり。死ぬるは我が損なり」と申している。我らはこの二心あるのを自ら悟って、神の前にへりくだってこれを言い表し、この原罪のためにも十字架につけられたまいたる愛の主をもう一度見上げるべきである。しかり。見上げながら待ち望んでいるとき、十字架を通して主より我が根底に愛の火が下り来たり、愛ならざるものを焼き尽くし、神と人とに向かう純粋な愛をもって我が心を満たすのである。これがすなわち聖潔である。これに至らないものは聖潔ではない。