神人の満足・ペンテコステ

笹尾鉄三郎

「汝ら安息日の翌日より、すなわち汝らが揺祭の束を携え来たりし日より数えて、安息日七つをもてその数を満たすべし。すなわち第七の安息日の翌日までに日数五十を数え終わり、新素祭をエホバに献ぐべし。また汝らの住み処より十分の二をもて作りたるパン二つを携え来たりて揺るべし。これは麦粉にてつくり、種を入れて焼くべし。これ初穂をエホバにささぐるものなり。汝らまた当歳の全き小羊七匹と若き牡牛一匹と牡山羊二匹をそのパンと共に献ぐべし。すなわち、これらをその素祭およびその灌祭と共にエホバにたてまつりて燔祭となすべし。これは火祭にしてエホバに香ばしき匂いとなるものなり。かくてまた牡山羊一匹を罪祭にささげ、当歳の小羊二匹を酬恩祭の犠牲にささぐべし。しかして祭司その初穂のパンと共にこの二匹の小羊をエホバの前に揺りて揺祭となすべし。これらはエホバにたてまつる聖き物にして祭司に帰すべし。汝らその日に汝らのうちに聖会をふれいだすべし。何の職業をもなすべからず。これは汝らがそのすべての住み処において永く守るべき条例なり」(レピ二三・十五~二一)。

ペンテコステとは第五十日節という義で、イスラエルの民が神の命により毎年守った節(いわい)である。最初の節は過ぎ越しの節、次は初穂の節、この初穂の節の日より数えて安息日七つを経、その翌日すなわち五十日目がペンテコステである。この過ぎ越しの節の真意は、我らの罪のために棄てられ、屠られ、血を流したまいたる小羊イエスを憶えることである。初穂の節は、我らのために甦らされ、神に受け入れられたまいたるキリスト・イエスを示す。ペンテコステとは、イエスの完全なる贖いの効力が現れて、聖霊の降臨となったことを表わすものである。

御承知のごとく、イエスは甦りて後四十日間地上にいまし、御昇天後十日を経てペンテコステの日に至り、弟子たちに聖霊を注ぎたもうたのである(使徒二・一~四、三三)。この聖霊を受けることによって我らは驚くべき栄光の器とされ、神にも人にも自分にも満足を与えるに至るのである。

ペンテコステに神の前に供えられた献げ物はよくこれを表わしている。
 第一 罪祭 レピ二三・十九
 第二 燔祭 同十八
 第三 新素祭 同十六
 第四 初穂のパン 同十七
 第五 灌祭 同十八
 第六 酬恩祭 同十九
 第七 揺祭 同二〇

一、罪祭

ここには愆祭がなく、ただ罪祭のみ献げられる。愆祭とは犯した罪過のための贖い、罪祭とは主として生来の罪性の贖いである。主イエスは我らのためにこの二重の贖いをなしたもうた。ペンテコステの恵みを求める者はすでに罪過を赦されているから、いま愆祭を要しない。しかし、なお生来の罪性、すなわち古き人、また「己」があるために神と全き一致ができぬゆえに罪祭を要するのである。

主イエスは我らのために罪祭となり、おのれの血をもって我らのために罪祭となり、おのれの血をもって我らを潔めんために門の外なるカルバリに於いて十字架の苦しみを受けたもうた(へブル十三・十二)。しかり、我らの古き人は彼と共に十字架につけられている(ローマ六・六)。イエス・キリストの血すべての罪より我らを潔む(ヨハネ一書一・一、七)。この罪祭を我がものと信仰によって受け取る人はたちまち潔くなるのである(使徒十五・九)。愛する者よ、仰ぎ見て確実に握られよ。

二、燔祭

これは全き献身、服従、また犠牲を表わすものである。恐れ多くも主イエスはまず我らを愛して、我らのために燔祭となりたもうた。ああ、我らは彼の御謙卑、御熱愛、御最後を思うとき、感恩の情禁じ難く、いかに冷たき我が心も熱せられ、蒸発せしめられる。キリストの愛我らを励ませり(コリント後五・十四)。我らは自ら進んで燔祭となり、生きるにも死ぬにも聖霊の力によってこの身をもってキリストを崇め、神の前にこうばしい香りとなって昇ることができるとは何たる栄光であろうか。

三、新素祭

初穂の節にも素祭が献げられたが、ここにまた新たに素祭が献げられる。「素」とは白すなわち聖との意で、前の素祭は主イエスの聖潔を表わし、新素祭はイエスの霊を受けた我らの聖潔を表わすと思う。

素祭の材料は麦粉と油と乳香と塩とで(レビ二・十一、十三)、これに禁物なのはパン種と蜜とである(同十一)。麦粉は砕かれて真白になり食となるもの、油は聖霊、乳香は祈り、塩は恩恵をもって味をつけかつ腐敗を止めるもの、パン種は偽善、蜜は人情の愛を示すものである。愛する者よ、願わくぱ主、聖霊をもってあなたを新素祭となしたまえ。

四、初穂のパン

初穂の節においては初穂一束が献げられた。しかし、ペンテコステの時は初穂のパンである。主が十字架にかかり、また甦りたもうても、聖霊が下らない間は穂の束のごとく、主と信者と、また信者と信者とが一束になっているだけで、やはり穂と粒とが別々で、人は人、我は我というように存在している。しかし聖霊が下る時はもはや穂も粒もなく、主および兄弟姉妹と愛によりて全く結合し、各々自己をなくし、こねられてパンになるのである。命のパンとは勿論イエスであるが、我らも聖霊によりて神と人とに真に満足を与えるパンとされることができる。

五、灌祭

これは人のために神の前に注ぎ出される献げ物である。ああ、神たる御身分をも、天の宝座をも、万有の富をも、惜しみなく我らのために注ぎ出したもうたイエスを見られよ。深夜人知れず血の汗のしたたるまで御心を注ぎ出したまえる彼の御祈りを聴かれよ。十字架におのが霊魂を注ぎ出して死に至られた主を仰ぎ見よ(イザヤ五三・十二英訳)。

我らは彼によりて救われ、潔められ、充たされ、今は我らも灌祭となることができる。パウロはピリピの信者に向かって「汝らの信仰の供え物と祭とに加えて、我が血を注ぐとも我は喜ばん」と言い(ピリピ二・十七)、彼が殉教する前には、「我いま灌祭とならんとす。わが去るべき時は近づけり」と言った(テモテ後四・六、原語の意味)。主よ、我らをも灌祭となしたまえ。アーメン。

六、酬恩祭

これは感謝の献げ物である。神の前に最も香ばしいものは感謝と賛美である。主イエスの御一生は感謝の生涯であった(ヨハネ十一・四一)。十字架の御苦しみの中にも彼は神を賛美したもうた(詩二二・三、二四)。彼にある我らの生涯も酬恩祭である。「常に喜べ、絶えず祈れ、すべてのことを感謝せよ」(テサロニケ前五・十六~十八)。歓喜と賛美とはペンテコステの一特色である(使徒二・四六、四七)。

七、揺祭

これは神にすべての栄光を帰することである。主イエスは常にかく自己を隠して神を崇めたもうた(マタイ十九・十七)。聖霊に満たされた者は常に揺祭を献げる(使徒三・十二、十六、コリント前十五・十)。「エホバよ、栄えを我らに帰するなかれ。我らに帰するなかれ。汝の憐れみと汝の真とのゆえによりて、ただ御名にのみ帰したまえ」(詩一一五・一)。

終わりに、ペンテコステの特色は安息することと、貧しき者及び旅人を顧みることである(レピ三・二一、二二)。聖霊は我らより重荷とくびきを取り除き、全き安全と自由とを与えたもうが、なお進んで哀れなる迷える魂のために愛と力とを与えて証しせしめ(使徒一・八)、彼らを救う知者となしたもう。兄弟よ、姉妹よ、あなたがたはペンテコステを経験されたであろうか。