美なるものは世界に多くある。その美の力たるや偉大なものであった。人の心を奪うに足る。そして人が一度美に心を奪わるるやその結果は非常なもので、そのために足も動き、手も動き、心にても様々なことを計画する。されば真に美わしきはそも何であろうか。世には景色の美わしいところがあり、建物に美わしきものがあり、姿の美、顔の美、その他さまざまな美がある。しかし果たしてそれは真の実であろうか。咲く花も美わしく、さえずる鳥もまた美わしい。我らはこれによって心を楽しませ、喜ばせることができる。されど真の美とは何ぞや。花か、鳥か、はた人の容色か。
不幸なことに、人は万物の霊長として生まれ出で、両眼共に開きおるも、真の美を知らない。これ人をしてその生涯を哀れなものたらしむるゆえんである。もし眼が盲目であったならば、その人は実に哀れなる者である。霊眼の盲者がこの世に多い。さればこそ嘆きが絶えぬのである。
真の美とは何ぞや。主イエス・キリストに他ならない。もしもキリストの美を見ることができたならば、人生の幸福に達したと言うことができる。しかしこの美たるや、人の知識によって得られるものではない。何人も神の前に出て、おのが霊眼の盲目であることを告白し、その開かれることを求むべきである。昔の詩人が歌っている。
「われ一つのことをエホバに請えり。我これを求む。われエホバの美わしきを仰ぎ、その宮を見んがために、わが世にあらん限りはエホバの宮に住まんとこそ願うなれ」(詩二七・四)。
エホバの美、これこそ人生の幸福であればこそ、ただこのことを望んだのである。我らもこれを求めたい。求むべきはただこれのみである。美わしき絵は画家の頭脳に描かれた美より生まれる。宇宙万物の美は末のものであり、主イエスこそその美の本体である。すべての受造物、動植物の美はみな、我らにこの本源を指しているのを感じないであろうか。迷いとは受造物の美のために心を奪われていることの意であって、悟りとはすなわちそれを知って本源に帰った状態を言うのである。
伝道の書と雅歌の区別はここにある。この両書はいずれもソロモンの作であるが、彼がこの世のあらゆるものに失望したことが伝道の書に記され、しかしてただ主イエスによりて心飽き足りしことが雅歌に記される。聖書の配合もまたよろしきにかなえりと言うべきである。
今一つの例をあげると(伝道二・四~八)、彼は人のあらゆる美を尽くして楽しんだ。実に彼みずから言えるごとく(同二五)、誰かその食うところ、その快楽を極むるところにおいて彼に勝る者があろうか。しかし「これもまた空にして風を捕うるがごとし」とはまた彼の告白である(二六)。風は勢いよく吹く。しかしそれを捕えんとすれば空なるのみ。ソロモンの金殿玉楼も、手を入れて美を極めたる庭園も、多くの妻妾も、山海の珍味も、みなこれ空のみ。彼は受造物に満足を求めたから失望したのである。受造物の美が必ずしも悪いのではないが、それのみでは人の心に満足を与えることはできない。しかるに雅歌五章八節を見よ。ここは彼が主を慕う切なることを表わせるところである。
「エルサレムの女子らよ、われ汝らに固く請う。もしわが愛する者に会わぱ、汝ら何とこれに告ぐべきや。われ愛によりて病み患うと告げよ」。
しかるに批評する者あり、曰く、
「汝の愛する者は他の人の愛する者に何の勝れるところありや。婦女の中のいと美わしき者よ、汝が愛する者は他の人の愛する者に何の勝れるところありて、かく我らに固く請うや」(九)と。されば彼は答えて曰く、「わが愛する者は白くかつ紅にして万人の上に越ゆ・・・・・・」(以下みなキリストの美わしき徳を述べたものである)。
世にいかに美わしきものがあっても、キリストの右に出ずるものはない。「まことに彼に一つだに美しからぬところなし」。ソロモンの述懐にして、これまことに新婦たる信者の感ずるところである。
旧約に幕屋のことが記されてある。その構造はキリストの美の予表である。今その一つを言えば、至聖所と聖所の間にあるとばりは、白、赤、青、紫の糸をもって錦のごとく織り、それにケルピムの姿を織り出し、えも言われぬ美を呈したものであった。これはすなわちキリストの美の型である。白はキリストの純白、青はその聖義、また青は天空の色であるからその天に属すること、赤は血の色であるから犠牲、紫は王服の色であるから彼の王者たる気高き品性を持っていることを表わす。このようにすべてのものをしてキリストの美を連想せしむるものである。願わくぱ我らもこのイエスの美わしさを仰ぎ見んことを。いま詳しくここで述べるには限りがあるので、各自吟味していただきたい。
いま一歩を進めて、主が我らをも美なる者となしたもうことを見よう。「汝の美しさのために汝の名は国々に広まれり。これわが汝にほどこせし我が飾りによりて汝の美しさ極まりたればなり」(エゼキエル十六・十四)。これは信者のことを神がのたもうところである。美の極みとは第一にキリストのことであるが、そのキリストの美が与えられることによって信者個々人も美の極みとなることができる。詩篇に「シオンは美しき極み」という語がある。神は我らをこの美の極みにさせんとしたもうのである。そもそも神はいかにして我々を美なるものにしたまうやと言わば、第一我らの醜きことを知らしめ、次にキリストの美を与え、これを着せて下さる。
第一はおのれが真に醜いことを認めることである。「われは黒けれどもなお美わし。ケダルの天幕のごとく、またソロモンのとばりに似たり。われ色黒きがゆえに、日のわれを焼きたるがゆえに、われを見るなかれ……」(雅歌一・五、六)。
あたかも海水浴から帰って来た者のようである。多くの人はこれを思わず、自分が色黒いことを知らぬけれども、神の前によく自分を考えたならば、パウロの言っているごとく性来のままではいささかの善なるところもないのである。「我はわが内、すなわち我が肉の内に善の宿らぬを知る」(ローマ七・十八)。
しかるに人はなかなか自惚の強いものである。「私にはこれこれの欠点がある」と言ったかと思うと、すぐさま「しかし」と付けて、結論は自分の特長を言うに至るのである。しかも自分の特長は自分には大きく見える。しかし神の前には「我らはみな潔からざる物のごとくなり、我らの義はことごとく汚れたる衣のごとし」(イザヤ六四・六)。
パウロはダマスコヘの途上、真昼よりも輝く光に打たれて倒れた。彼はその時まで義しい宗教家であるとして自ら任じていたのであったが、この時から彼が晩年に至って述べたごとくに、「罪人のうち、我はかしらなり」との念が起こったのである。彼は真の光に打たれて自分が真黒であったことを悟った。雅歌にある「われは黒けれども」とはすなわちこれである。
ソクラテスの門弟の中に一人の奇人があって、世の人がみな虚栄に駆られ、奢侈に流れ、つまらぬことのために心を奪われていることを大いに憤慨し、わざわざぼろをおのが身にまとい、倣然として大道闊歩して人々を諷した。師ソクラテスはこれを見て曰く、「その質素なことは誠によい。しかし注意せよ、そのぼろの破れの穴から高慢というものが見えているよ」と。
ある人はこの弟子のごとく、「自分は他の人のごとく高ぶらないから」と言って自らを高くする。「我が肉の内に善の宿らぬ」とは実に真である。聖霊によって美を与えられなければ、我らには善なるものは寸毛たりとも有り得ない。されどこれを認めて神の前に出て、自分のらい病患者のごとく全く汚れ果てたことを認め、その憐れみを求めるならば、そこに血潮の働きは起こされる。
ここにおいて次にローマ書十三章十四節を見よう。「ただ汝ら主イエス・キリストを着よ」。殿様の定紋のある羽織でも下賜されたならば、これは何という恩恵であろうか。実に無上の特権である。さてここには主が我らの衣となりたもうとある。前に言える美の極みたるキリストを我らが着ることを得るとは何たる特権であろうか。我らはこのキリストを着て、キリストの美を現すのである。またペテロ前書三章三~四節を見ると、そこには真の飾りについて言っている。「汝らは髪を編み、金をかけ、衣を装うごときうわべのものを飾りとせず、心の内の隠れたる人、すなわち柔和、静かなる霊の朽ちぬ物を飾りとすべし。これこそは神の前にて価貴きものなれ」。
美しいのは着飾ったことではない。髪を立派に結ぶこともでもない。勿論金の指輪などの贅沢品でもない。美しき飾りは柔和である。謙遜である。これこそ神の前に価貴き飾りである。聖霊は我らにこの飾りを与えんとして働きたもう。そのために主の御血は流されたのである。「このゆえに汝らは神の選民にして聖なる者また愛せらるる者なれば、慈悲の心、仁愛、謙遜、柔和、寛容を着よ」(コロサイ三・十二)。
これらの諸徳は自ら造りうるものではない。もし自ら造らなくてはならないとしたならば、困難この上もないものであり、到底不可能な業たるを免れないであろう。されどただ、聖霊にところを得させ、信仰によってその働きを受けるならば、これらの諸徳は与えられるのである。
以上説いたのは品性の美であったが、なお神は働きにおいても我らを美なる者としようとして下さっている。「『ああ美わしきかな、善き事を告ぐる者の足よ』と記されたるごとし」(ローマ十・十五)。人は頭や口を見る。すなわち、その人の思想や弁説を見る。されど神は足を見たもう。足とは歩み、すなわち行いである。また福音を運ぶ足、すなわち導きに従ってたちまち動く使命に迅速なる服従心である。神はこれを見て「美わしきかな」とのたもう。我らはどうぞこのような美しい者とされたいものである。