我が使命

笹尾鉄三郎

大きく考えて人類はという話ではなく、「自分は一体何のためにこの世に生活しているのか」という問題である。神をも知らず従って天職をもわきまえぬ未信者ならいざ知らず、信者たる我らがおのが使命を自覚することなく漫然無意味に生活を送ることは、これあるまじきことである。自分の使命を自覚することなく、飲食、交際、労働、その他のことで、まるで車が回るように忙しく、さらに深い意味を持つ一事のために生きるという観念なしに日を暮らすことは、実に空しいものである。私の知人の家の玄関を入ったところに、「Working for Eternity(永遠のために働く)」いう句が書いてあるが、これこそ意味深き生涯である。

ヨハネ伝二十章21節。また同書十七章16節、18節。この世はキリストにとって旅の道中であったが、この主が「父の我を遣わしたまえるごとく、我もまた汝らを遣わす」と仰せられた。これにより我らの身分は明らかである。我らがこの世にいるのは御用のためであって、この世は一時来ている旅の上である。されば第一、わが身分を自覚すること、第二、わがなすべき御用を自覚することが大切である。キリストのこの世における職分はただ一つ、すなわち暗黒の世に神を示すことであった。この世には様々なものがあり、悪魔は色々なものをもって誘ってくる。この世には様々なものがあり、キリストにも同じような誘惑があった。けれどもキリストはこの世において名誉を得ようとしたまわず、また地位を得ようともしたまわず、悪魔をして一言の下に退かしめたもうた。

もしキリストが自らを楽しませようとして、この世の快楽をむさぼり、この世のものに溺れたもうたとすれば、我らの運命は今頃どうなっていたであろう。救わるべき道は杜絶していたに違いない。キリストがこの世にありたもうことは冗談事ではない。厳粛なることを自覚して、それを果たしたもうた。我らにおいてもその通りでなければならぬ。我らの中のある者は、朝早く起きてすぐさま炊事に取りかからねばならぬ。またある者は忙しく勉強せねばならぬ。しかし、もし働きや勉強の奴隷となるならば、これほどつまらぬことはない。そこに大いなる目的がなくてはならぬ。要するに主の御用をせんがためである。そのために勉強する必要も起きれば、また食事をする必要も起きて来るのである。「彼に居ると言う者は、彼の歩みたまいしごとく自ら歩むべきなり」(ヨハネ一書二・6)。これがキリスト者である。これ我らが範とすべきことである。我らの心に使命を自覚して、かかる目的のために生活するのでなくては、金や木の機械と何の異なるところがあろうか。一体我らが信者となったのは決して偶然の出来事ではない。数千年前より神の予定の中にあったのである。これは我らが神の栄光を表す美しき器となるためである。されば漫然と日をいたずらに過ごしてはならぬ。マタイ伝二十一章28節には「子よ、今日、葡萄園に行きて働け」とある。これは愛を含んだねんごろなる親の命令である。兄姉よ、今この聖なる御声が聴こえないであろうか。

ここに二人の子があった。一人はこの命令を聞いて否と言ったが、後で悔いて行った。一人は行くと約束しながら行かなかった。我らも神の招きを受けておりながら、永らくの間、おのが欲に従って歩み、招きに応じて行かなかった。けれども、今はそれを悔い改めて行くべきである。この主によって覚醒された者は多くある。英国の一人の伝道者は、ある日この言葉によって大いに目覚めさせられ、それまでの無為の生涯より奮然立ち上がって主の御用のために活動するようになった。今は我らもこの聖声を聞きたい。ユダヤでは多くの葡萄を栽培しているが、その実が熟して収獲期になると多くの人手を要し、一日半日を争うということである。なぜなら、ちょっと油断すると、すぐさま実が悪くなくなってしまうからである。ちょうどそのごとく、魂の収獲物は多いが働き人は少ない。我らもこの聖声を聞いて、奮然立ち上って御用を務めなければならない。

マタイ伝二十章の初めに、主人が葡萄園のために働き人を雇うたとえがある。朝の九時頃に雇われた者があり、午後の十二時及び午後三時に雇われた者がある。しかして日の暮れんとする五時頃に街に出て見れば、茫然と立っている者がある。主人はこの者に「なぜ終日ここに空しく立つのか」と問うた。これは実に我らを探る言葉である。我らは今まで様々なことをなしたかも知れぬ。けれども神が見たもう時、それは空しいことではなかったか。その人の答えは、「誰も我らを雇わぬゆえなり」であった。これは我らにとっても実際である。

我らは何の役にも立たぬ者であったが、主は我らをも見捨てたまわず、この主人のごとく「汝らも葡萄園に行け」とのたもうた。神は誰も見捨てたまわぬ。「汝らも行け」と仰せられる。神の御用に用いられぬ人はいない。老若男女、誰でも相応の御用がある。オーストラリヤに一人の婦人がいる。この人は病気のため両手両足とも切断している。今だに少し痛むということである。その人はかかる不具の身でも大いなる御用をしている。自分で義手のような字を書く機械を発明して、ある医者の書記をしているが、そのかたわら書き物をし、小冊子を印刷して諸方へ配布している。その人はかくのごとく書物において、また祈りにおいて、広く世に伝道している。私などもその書物によりて恵まれた一人である。志さえあれば、その仕方は色々ある。何事をなしても主の御用を務めることができる。少なくとも祈りにおいて人を助け、また家族の者に主の愛を表わすなどのことは誰にもできるのである。

大将ブースがいまだメソジスト教会の牧師であった頃、大病にかかったことがあった。その時しばらく息を引き取って、傍にいる人々もすでに息絶えたと思っていると、しばらくして息を吹き返した。その時、彼は一つの幻を見た。それがあまりに厳粛なため、長らく秘しておいたが、「聖栄えのために言わねばならぬように感じた」とのことで、後で小冊子を出してその時のことを発表している。彼はその時、天国に上ったところ、天国の門前に一人の老女がおり、彼を待っていた。見るところ、その老女はかねてよく知っていた人であった。一通りの挨拶の後、老女が言うには、「時に御身に託しておきましたあの息子はいかにして下さいましたか」。ブースはこの言葉を聞いて返答できなかった。彼は冷淡にして、その老女が世を去る時くれぐれも頼んでいたその息子を救うことができず、今はどこにいるのかわからなくなっていたのである。さればブースはこれを聞いて悲痛やるかたなく、一人もがいていると、彼方より栄光の一群がこちらに向かってやって来た。やがて近づいて彼の前を通ったが、見る者見る者みな美しく輝き、誰も彼も皆ブースを意味ありげに見ていく。彼はもはや「穴でもあれば入りたい」と思って小さくなっていた。やがて、その行列の中央にいたもうた主イエスがその前を通りかかりたもうた。彼は苦しさでいても立ってもいられなくなり、死ぬかのように思っていた。すると恵みの主は憐れみの顔をもって御覧になり、「今一度世に遣わすから、忠実に尽くして来い」と優しく仰せられた。次の瞬間、彼は蘇生したということである。彼は以来大いに活動し、後に救世軍を起こすに至ったのである。おお、君に託された魂はいかに。君しか届かない魂があるが、それはどうなっているであろうか。

使徒行伝二十章24節にパウロの言がある。「されど我わが走るべき道のりと、主イエスより受けし務め、すなわち神の恵みの福音を証しする事とを果たさんためには、もとより命をも重んぜざるなり」。パウロはおのが使命を自覚し、そのために身を献げて尽くしたのである。後、彼はローマにおいて斬首されたのであるが、その晩年は実に勇ましいものである。「我は今供え物として血を注がんとす。わが去るべき時は近づけり。われ善き戦いを戦い、走るべき道のりを果たし、信仰を守れり。今よりのち義の冠がわがために備われり」(テモテ後四・6、8)。何たる勇気、何と勇壮なる凱歌ではないか。主イエスもこの世を去りたもう前に、「我に成さしめんとて汝の賜いし業を成し遂げて、我は地上に汝の栄光をあらわせり」と仰せられた(ヨハネ十七・4)。多くの人はこれと反対に「我に成さしめんとて汝の賜いし業を成し遂げず、我は地上に汝の栄光を汚せり」と言わねばならぬのではあるまいか。おお、どうか主の前に出る時、かかることを言うことのないように、日々おのが使命のために忠実に務めたいものである。