病人への福音

笹尾鉄三郎

「汝らのうち病める者あるか。その人、教会の長老たちを招け。彼らは主の名によりその人に油を塗りて祈るべし。さらば信仰の祈りは病める者を救わん。主かれを起こしたまわん。もし罪を犯しし事あらば赦されん」(ヤコブ五・14、15)。

病人なる愛する兄姉よ。ここに主は特に病める者をねんごろに訪ねて語りたもう。私どもも度々、重患にかかり悩んだ者であるから、誠にあなたに御同情申し上げる。どうか御心を開いて主の聖言を受けられよ。

あなたは日夜さぞ御悩みであろうが、主の愛は少しも減ったわけでなく、かえってこの懲らしめのあるのは父なる神の愛の証しである(へブル一二・6)。「エホバ言いたもう。我が汝らに向かいて懐くところの思いは、我これを知る。すなわち、災いを与えんとにあらず、平安を与えんと思い、また汝らに後と望みを与えんと思うなり。汝ら我に呼ばわり、行きて我に祈らん。我なんじらに聴くべし。汝らもし一心をもて我を求めなぱ、我に尋ね会わん」(エレミヤ二九・11~13)。この際、主イエスは確かにあなたの最も近き助けであられ、あなたのために同情をもて祈り、責任をもて働いていたもう。しからぱ今、

第一、良心の咎むることはことごとく悔い改め、全く主の聖旨に服従せよ。

第二、生死の問題を全く天父の御手に託し、生命に関する思い煩いと恐怖とを棄てよ。一羽の雀さえも天の父の許しなくぱ地に落ちない(マタイ十・29)。もし思し召しあらぱ、いつでも天国へ行くのである。また遺族をも主は引き受けて顧みたもう。

あなたをこの世に置きたもう間、余生をただ主のために送られんことを決心せよ。「今より後、人の欲に従わず、神の御意に従いて、肉体に宿れる残りの時を過ごさんためなり」(ペテロ前四・2)。「我にとりて、生くるはキリストなり。死ぬるもまた益なり」(ピリピ一・21)。

病人に対する主の聖旨はどうかというに、冒頭に掲げた聖言によりて分かる。信仰をもて祈られよ。主は必ず癒さんとは聖霊の御奨励である。三十八年病に悩む人ありしが、イエスその臥しおるを見、かつその病の久しきを知り、これに「なんじ癒えんことを願うか」とねんごろに尋ね、ただちに癒したもうた(ヨハネ五・5~9)。また、あるらい病人が主の足下にひざまずき、「御意ならば、我を潔くなしたもうをえん」と言ったところ、「イエス憐れみて、手をのべ彼につけて、『わが心なり、潔くなれ』と言いたまえば、ただちにらい病さりて、その人きよまれり」(マルコ一・40~42)。有り難い聖旨である。主は恐れ多くも自ら我らの患いを受け、我らの病を負いたもうた(マタイ八・17)。主の御身には癒しの力が充ちている(マルコ五・30)。「我はエホバにして汝を癒す者なればなり」(出エジプト十五・26)。全能の主にとりては、あたわざることはない。いかなる不治の病も聖手ひとたび触らぱ必ず癒される。しかして、「イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも変わりたもうことなし」(へブル一三・8)と記された通り、昔も今も同じ愛の生ける主である。彼はもはや肉体をもって我らの間を歩みたまわないけれども、彼の聖名と共に彼の御霊はいまして、我らの霊魂と身体とに救いを施したもう。

しからぱ医薬は何のためかと言わば、私どもは答える。医薬はやはり神の賜物で、神癒の信仰のない人々及び動物等のために用いるものである。しかし、癒し主イエスの超自然の聖力に依頼委任する信仰ある者には、医薬の必要はない。ある人は医薬を用いながら神に祈る。これは決して悪いことではないが、神癒の信仰とは一段進んで全く主イエスの聖手に任すことである。そこで大切なのは、我らが単純な信仰もて主に頼ることである。「われ汝に、もし信ぜば神の栄光を見んと言いしにあらずや」(ヨハネ十一・40)。「我このことをなし得と信ずるか……汝らの信仰のごとく汝らに成れ」(マタイ九・28、29)。ああ、人間の不信仰がいかほど主の聖業を妨げていることであろうか。

幸いに単純なる信仰をもって癒し主イエスに頼る者は、今も昔のごとくドシドシ種々の病より癒されている。私も重き肋膜炎その他より癒され、今まことに健康でいる。肺病、熱 病、コレラその他種々なる難病より癒された者が多くある。主は確かにあなたの病を癒し得るお方である。信仰をもて祈られよ。また、できれば神癒の信仰ある伝道者あるいは信者を招きて祈ってもらわれよ。

終わりに、ヨブ記三三章19節以下をひもといて読まれよ。これはあなたへの福音である。