聖霊の交わり

笹尾鉄三郎

「願わくは主イエス・キリストの恵み・神の愛・聖霊の交わり、汝らすべての者と共にあらんことを」(コリント後十三・十四)。

聖霊の交わりとは、聖霊が我らと交わりたもうことではなく、聖霊が働いて我らを父なる神あるいは主イエス・キリストと交わらしめたもうことである。コリント前一・六、ヨハネ第一書一・三をも見られよ。この「交わり」または「共に」というのはみな同じことである。我らをして父および主イエスと交わらしめたもうことは聖霊の働きである。

「交わり」とは上辺のことでなく心が一致することである。すなわちヨハネ第一書の方にあった「同心」という字はよくその意味を表わしている。心が通うところに真の楽しさがある。人間の間でも心が通わぬことほどつまらぬことはない。ことに明け暮れ顔を合わせている親子または夫婦が心が合わなければ実に苦しいことである。我らと神との関係もその通りである。あるいは聖書を見、あるいは祈りをし、または教会の用をなすに当たって、無理に義務的にやっているようなことはないか。これつまり聖霊の交わりが欠けているからである。この交わりのある時は、例えば電車が電流に感じているようなものである。しかし、それが一度停電するなら、もはやどうすることもできぬ。聖霊というこの電流が流れていなければ、いかなる名士の説教も、いかなる著書を読むことも、全く駄目である。なくてはならないのはこの電流である。諸君の中に停電している者はないか。ある人は停電していることを感じないでいる。しかして自分で押して動かしているから、苦しいのはもっともである。けれども停電していることに気づき、自分でもがくのを止め、聖霊の交わりを求めるならば、この電流はすぐに来る。この電流が来なければ能力がない。もしそれでもなお動いているならば、それは肉の力か、または惰性である。かかる人は外に向かって喜楽を見せかけてはいるが、その実、内には有り難いという感謝が欠けている。理屈はわかっているが心に潤いがない。あるいはまた、諸君の中に全然停電はしておらずとも、ともすれば止まることはないか。神の御用をしてはいるが、義務的に感じておらぬか。諸君は真に神の御用を歓迎してこれを務めておられるか。「共に」とは例えば二つの車輪が同じ方向に向かって一緒に回転しているようなものである。ところが同じ方向に回転するにも、一方は速く回るのに、こちらではゆっくり回っているようではならぬ。また、神の車輪と反対に回転しているのももちろんいけない。心の中に肉があればいつでも反対に回る。ルカ伝十五章の放蕩息子の兄は、弟のごとく放蕩もせず義しい行いをしていたのであるが、その心が父と通じていなかった。父が喜んだ時にかえって怨み言を言った。これは以前から心が合っていなかったからである。日頃心が通じていなければ、いざという場合に衝突する。

聖霊の働きによって起きる心の結合は、木を竹に接いだようなものではない。我らの中に肉の思いがあるならば、一致できぬ。これはローマ書八章七、八節に「肉の思いは神に逆らう。それは神の律法に従わず、否したがうことあたわず。また肉におる者は神を喜ばすことあたわざるなり」とある通りである。しかし聖霊が働きたもう時、一致できるようになる。聖霊が来たりたまわぱ、肉とその情および欲とは焼き尽くされ、また神の性質を与えたもう(ペテロ後一・四)。神の性質とは、あるいは聖潔、あるいは愛などである。神の聖きがごとく我らも潔くされ、神が愛なるがごとく我らも完全な愛を与えられる。ローマ書五章五節を見よ。神の愛とは父なる神の愛である。この愛はあまりに高く届かなかったのであるが、これが表れたのが、すなわち第八節にあるごとく十字架である。ここに神の愛が手に取るように表われた。しかし、ただ表れたというのみであれば何でもないが、その驚くべき愛が 聖霊によって我らの心に注がれる。すなわち我らも愛に満たされるようになる。聖霊の働きはかくして我らを愛の人とするのである。愛の人とはおのれのない人である。「愛はおのれの利を求めず」とある通りである。主のために働くにも色々な動機で働くことができるが、愛の動機なくして働いているならば堕落しているのである。聖霊の交わりがなくなれば、愛のなくなるのはてきめんである。なにとぞ自ら省みたい。

聖霊の交わりはちょっとしたことで断絶することがある。聖霊が逃げ去るのではない。その交わりが絶えるのである。雅歌一章二節「願わしきは彼その口の接吻をもて我にくちつけせんことなり。汝の愛は酒よりもまさりぬ」。これは主を愛していながら交わりが断絶している有様である。しかしそれに気づいて願うならば、ただちにその答えが来る。「王われを携えてその後宮に入れたまえり」(四)。すなわちここで愛の交わりの深みに入ったのである。いま詳しく語るわけにはいかぬが、ただ二、三のところを見よう。二・九、十―自己中心という家の中にいれば、中は冬の生涯である。主は外より、「起ちて出で来たれ」と仰せられる。また五・二~八―これは主イエスを恭っておれど、その心が主に通じず、つまらぬ有様である。これは新婦たる信者が献身を取り落としたからである。聖霊の聖声に従わず、王イエスの霊を憂えしめるならば、もちろん交わりは切れる。これは亡びるか否かという問題ではない。これはまた理屈のことではなく、時々刻々我らの霊において経験することである。

ヨハネ伝十五章十五節を見ると、主はその弟子らを友と呼びたもうた。アブラハムは「神の友」と呼ばれているが、ここでは弟子らも主の友として扱われている。キリストはかかる態度をもって出られるのであるから冗談事ではない。大いに本気にならなければならぬ。パウロはピリピ書三章十節において、丁度世の中の人が金を貪るようにキリストと共に苦しみたいと言っているが、これが聖霊の交わりに入った人の願いである。「もっとキリストの苦しみにあずかり、魂を救いたい」というのがその切なる願いである。なにとぞ、かかる聖霊の交わりに入られよ。