「汝らもしキリストと共に甦らせられしならば、天にあるものを求めよ。キリストかしこにありて神の右に座したもうなり。汝ら天にあるものを思い、地にあるものを思うな。汝らは死にたる者にして、その命はキリストと共に神の内に隠れあればなり」(コロサイ三・一~三)。
まず初めに記憶すべきは我らの身分である。「汝らもしキリストと共に甦らせられしならば」とある。これは世の人、一般の人々に言われたことではない。世の人に向かって「地の事を思うな、天の事を思え」と言っても、それはできぬ。けれどもキリストを信ずる者は二章十二節にもある通り、死んでしかして甦った者である。もはや古い身分の者でなく、新しい身分になった者である。ゆえにそのつもりで暮らせというのはもっともなことである。信者たる者は、ついこの間救われた者でも、みな甦った者である。もはや悪魔の子ではない。さらば神はあなたにも「天にあるものを求めよ」と仰せられる。
キリスト信者の一つの特色は天に属していることである。この世につかず、地につかず、霊につき、神につき、天についている。これは仏教の僧侶のように世から逃げ去ることではな く、俗務より離れることでもない。身は依然として俗界にあり、様々な雑務をしていても、心が天にあることを求めているのである。どうかここでキリスト信者の心得を知りたいものである。
第一に「汝らもしキリストと共に甦らせられしならば」とある。私どもは無理に天のことを思うのではない。これはむしろ当然である。なぜならば、キリストがかしこにいますからである。天下だれかキリストのごとく我を愛してくれた者があろう。我がために天を下り、すべてのことを犠牲とし、生命をも捨てたもうた主は、いま天にいます。昔、キリストの墓を重んずるあまり、十字軍が起こったことがある。もちろんこれには信仰の誤審はあるが、キリストのためという心がけは殊勝 なことである。けれども現在、キリストは果たしてその墓にいますであろうか。かつて金曜より日曜の朝までそこにいましたことはあったが、今はそこにいたまわない。今、キリストは天にいたもう。ゆえにキリストのいますところが天であることを真に記憶しているなら、私どもも思わずかしこに心が向く。詩篇七三篇二五、二六節を見よ。「汝の他に我たれをか天にもたん。地には汝の他にわが慕うものなし。わが身とわが心とは衰う。されど神はわが心の岩、わがとこしえの嗣業なり」とある。実にそのごとくである。ムーデーがよく言われたことに、「自分の娘が向こうの家に嫁いでから日に何度となく向こうの方を見る。別に用があるわけではないが、ついその家の方に目がつく」と。これは愛する者がそこにいるからである。私どももそのごとく、別にこれという用事のない時でも、常に天のことを思うようになって来る。上の方を向いていれば心の中に天のことが映り、下を向いていれば地のことが映る。
次に、私どもに先立ち行きし聖徒が天にいるからである。彼らは涙もなく悲哀もなき栄光の中に楽しんでいる。「(彼らは)このゆえに神の御座の前にありて、昼も夜もその聖所にて神に仕う。御座に座したもう者は彼らの上に幕屋を張りたもうべし。彼らは重ねて飢えず、重ねて渇かず、日も熱も彼らを侵すことなし。御座の前にいます小羊は、彼らを牧して命の水の泉に導き、神は彼らの目よりすべての涙を拭いたもうべければなり」(黙示七・十五~十七)。彼らは永遠の慰めの中にいるのである。このことを思えば、我らもまた慰められるではないか。今朝も、先日息子を失なったある兄弟が来られて、「人情としては悲しいけれども、慰籍がある。一晩悲しんだけれども、後は慰籍となった」と申された。先年私の知人が亡くなったが、その臨終のとき家族の者が泣くと、「私はいま上へ行くのに、お前らは下を向いているのだ。上を向け、上を向け」と、今や死なんとする兄弟が家族を慰めた。兄弟は「自分は墓に入るのだ」などと考えず、「天に行くのだ」と望みをもって輝いていた。しかるに家族の者は「肉体が死ぬ、肉体が死ぬ」とばかり思っていたから悲しんだのである。おお、天のことを思う、神のことを思う、そこに勝利がある。パウロは「わが願いは世を去りてキリストと共におらんことなり。これ遙かに勝るなり」と言った(ピリピ一・二三)。
いま一つは、天に我らのために住まいが備えてあることである。「わが父の家には住み処多し。しからずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝らのために所を備えに行く。もし行きて汝らのために所を備えぱ、また来たりて汝らを我がもとに迎えん。わがおる所に汝らもおらんためなり」(ヨハネ十四・二、三)。これが永遠の住まいである。キリストがこの世を去って天に昇りたもうた一つの目的は、私どものために所を備えたもうことである。御昇天から今に至るまで千何百年、キリストは忙しく私どものために所を備えていたもうのである。黙示録の終わりにある住まいの美は品性の美を指したものであるが、また実際住まいの美麗なことをも指すのである。へプル十一・十三~十六に「彼らはみな信仰を懐きて死にたり。いまだ約束のものを受けざりしが、遥かにこれを見て迎え、地にては旅人また宿れる者なるを言い表せり。かく言うは、おのが故郷を求むることを表すなり。もしその出でし所を思わぱ、帰るべき機ありしなるべし。されど彼らの慕う所は天にあるさらに勝りたる所なり。このゆえに神は彼らの神と称えらるを恥としたまわず。そは彼らのために都を備えたまえばなり」とある。これが信仰の人の足跡である。地にあってはほんの一夜の宿であることを思って、天の美しき住まいを求めたい。私どもの心が天に向いているならば、この世のつまらぬ物を貧るようなことはまずない。例えば何かの用でどこかに行く旅人が、道中に大きな良い家があるからといってそれを買ったりはすまい。雨露さえしのげればよしとして、あるところをもって足れりとするのである。おお、私どものためにこの世のものよりもさらに幾層倍も美しいものが天に備えられてある。これに目をつけて進みたい。
終わりにもう一つ大切なことを申し上げたい。天のものを求めよと言っているその後に、三章より四章にかけて色々なことを言って、夫婦、親子、主従の関係にまで及んでいる。ずっと高い天の理想を示しておいて、今度は台所の隅まで届くようなことを記している。色々な仕事や雑務をする時も、永遠のものに目を向け、霊的なものに目を向けていかねばならぬ。まず三章にある第一のことは、私どもの品性の問題である。地につける淫行、汚れ、情欲、悪欲、また貪り等は霊の剣、十字架の刀にて殺し、十二節にあるごとき慈悲、仁愛、謙遜、柔和、寛容などの衣を着よとある。これみなキリストの姿である。この世の美服ではなく、これらはみな、天にまで行くキリスト信者の美服である。
金銭のことについても、キリストのごとく天に財を蓄えることが天にあるものを求める人のなすべきことである。箴言にも「貧しき者に施すはエホバに貸すなり」とある。天に目を向けている人はこのことをするはずである。また仕事に従事するにも、永遠に目をとめるべきである。する仕事は何にせよ、たとえ雑巾がけでも、神のことを思いながら、また人のために、神の栄光のためにという心がけでなすべきである。しかしてかかる動機の下ですべての仕事にあたることが肝要である。ある人の家に「永遠のために働く」と書いてあったが、「神の栄光のため、人の益のために」と思って働く働きは永遠まで残るのである。冷水一杯でも愛のために人に与えるなら、それは天にまで至るのである。