――コリント後書における伝道者の三つの名
コリント後書三章より六章までに三度伝道者のことについて述べられている。
一、三章六節 新約の奉仕者
二、五章二〇節 キリストの使者(全権大使)
三、六章四節 神の奉仕者
この一つ一つに非常な意味がこもっており、教訓が多くてすぐには味わいきれないが、今その概略を語ろう。
パウロは「新約の奉仕者」という時には特別に霊について語り、「キリストの全権大使」という時にはキリストの代表者であることに力を入れ、「神の奉仕者」という時には父なる神を代表する者であることを述べている。すなわち、パウロは三位一体の神を代表しているのを見るのである。
一、新約の奉仕者
これについては二、三、四章にかけて述べられている。第一に、二章の終わりでパウロは我らは神のために「キリストの香ばしき香」であることを述べて、「救わるる者にも滅ぶる者にも、我らは神に対してキリストの香ばしき香なり。この人には死より出づる香となりて死に至らしめ、かの人には生命より出づる香となりて生命に至らしむ」と言っているが、すなわち新約の奉仕者には人を生かし、あるいは殺す権能があるのである(二・十五、十六)。
例えば、光線が一方においては動物を生かすと共に、他方にては細菌を殺す力があるごとくである。この奉仕者の宣べ伝える福音を受け入れる者は永生に至るが、これを受け入れぬ者は永遠に滅亡する。これを思うとき、我らの責任の重大なることを思わざるをえない。ことにこの「香」というのが面白い。香は隠れたもので目には見えず、手でさわれないものであるが、さればとてこの良い香はとうてい隠すわけにはいかない。旧約にキリストは香ばしき香であることが記されているが、我らもまたかかる身分の者である。すなわち、何時でもどこでも香を放ち、その香がある人をぱ生かし、ある人をぱ殺す身分の者である。この力ある身分を自覚して、我らは非常に責任を感ずる。大手術を施す医者は、寒中でも汗を流し、また手が震えることがあるそうであるが、これはその責任を感ずるからである。スポルジョンは有名な雄弁説教家であるが、講壇に立つ前はいつも恐れおののいたという。伝道者はかくなくてはならない。世人が演説するような調子であってはならぬのである。まあ、この身分を自覚するとき、パウロがここで「誰かこの任に耐ええんや」と言っているのも無理はない。自分はちっともできない。到底この重大な任務を果たしきれない。しかし、三章に入って「神は我らを新約の奉仕者となるに足らしめたまえり」と言っている(三・六)。これは"Able minister" すなわち「やり手の奉仕者」という意味である。我らは神によりやり手の奉仕者たるべきはずである。聖霊は我らをかくなしたもうのである。
三節を見ると、我らは人の心の肉碑に神の言を記す者である。記すには霊を筆として記すのである。福音を語っても、もしそれがただの形式や文句にすぎないなら、それは儀文となったのである。しかし、霊によってこれを人の心の肉碑に記すとき、大いなる力が現れる。この霊は人を生かすものだからである(六)。新約の奉仕者が宣べ伝える新約の福音は、第一には生かすが次には義とする(九)。しかしてこれは永らえるもので(十一)、我らより顔おおいを除くものである(十六)。かくして主の栄光を拝するを得るに至り(十八)、かつキリストの形に同化され、モーセにも優りて品性が光るに至る。かく述べて、四章でその光について述べている(四・六)。これは聖霊の働きによる。
二、キリストの全権大使
キリストの全権大使については、まず四章十節に「常にイエスの死を我らの身に負う」とある。これがキリストの全権大使の始まりである。これは古い人の死ではない。古い人はすでに十字架に付けられて死んでいるが、我らは日々おのれに打ち勝っておのが十字架を負って主に従うべきである。
またパウロは「汝のために我らは、終日ころされて屠らるべき羊のごとき者とせられたり」(ローマ八・三六)と言っているが、ここに言う「イエスの死を身に負う」とは、すなわちこれと同じことである。我らは自分を犠牲にすることでしか人に命を与えることはできない。おのれの肉を人に食わせてはじめて人を養うことができるのである。この死の経験のある者は次に主と共に甦ることができ(十四)、ついには極めて大いなる永遠の重き光栄を受けるのである(十七)。十字架を負い、おのが身に主の死を経験する者にのみ、この栄光が現実になるのである。パウロはキリストのために大いなる苦しみを受けているから、それを言う力がある。彼の前にはこの栄光が輝いているから、この栄光のためにいかなる苦痛も忍んでいけるのである。どうか我らキリストの全権大使としてこの方面の経験を得たいものである。
五章に入ってもその思想を受けて十四節に至り、「キリストの愛われらに迫れり。我ら思うに、一人すべての人に代わりて死にたれば、すべての人すでに死にたるなり」と言っている。ああ、この愛、キリストの愛、すべての人のためにおのれを捨てる身代わりの愛。これがすなわち彼の秘密であった。この愛によってキリストのために残りの生涯を送る決心をすることが次節に記してある。しかして十六節では、人に対する際の心構えについて述べている。「されば今より後われ肉によりて人を知るまじ」。すなわち人に対する時、肉体を見ず、霊魂を見る。王を見てもその権勢によって心を奪われず、また乞食を見てもその服装によってこれを判断しない。誰に対しても、ただ霊魂のいかんによりて評価を定める。これがすなわち霊魂に対して目の開かれた人である。
神はかかる人に、十八~十九節にあるように、和らがしむる務めを授け、和らがしむる言を委ねたもう。パウロは「されば我らはキリストの使者たり」と言っているが(二〇)、すなわち人を神と和らがしむることがこの全権大使の使命である。神の方ではすでにキリストのゆえに和らぐ道を開いていたもうのであるが、人の方が罪を捨てずに和らがないでいるから、神はこの貴い職分を我らに託したもうのである。パウロはこの大使命を目覚して「我らキリストに代わりて願う。汝ら神と和らげ」と言っている(二〇)。この「願う」とは"pray"すなわち「祈る」という語で、切なる願いを示す。キリストの全権大使はこの職分のために身命を献げ、このために力を尽くして労するのである。
三、神の奉仕者
六章に来るとパウロは「神の奉仕者」と言っている。これは実に厳かなる所である。まず第一節で「神と共に働く」と言っている。神の奉仕者は自分勝手に働いているのではない。神の最大事業は罪人を救うことであるが、その事業のために召された我らは神と共にこの目的のために働くのである。
かつてある人がこの句を捉えて説教をし、「神が我らと共に働くのではなくて、我らが神と共に働くのである」と力を込めて語った。多くの人は主客転倒して自分勝手なことをしながら、神が共に働いていたもうかのごとく言っているが、これは間違っている。我らは神の目的のために、神の事業のために、神と共に働くのである。
次に三節に「何事にも人をつまずかせず」とある。すなわち神の奉仕者は義しき者であるべきである。
第一の霊による新約の奉仕者というときには生命について語り、第二のキリストの全権大使というときには愛について語り、第三の神の奉仕者というくだりについては義に関して高調している。
何事にも人をつまずかせないというこの聖書の標準まで来なければ駄目である。欠点を人より大目に見てもらわなくてはいけないようでは、人は神の奉仕者たる資格はない。
パウロはここで「かえってすべての事において神の奉仕者のごとくおのれをあらわす」と言った後、四節と五節で様々な困難逆境について語り、そして六節より八節においてその逆境の中にもポロを出さず、かえって「廉潔と知識と寛容と仁愛と聖霊と偽りなき愛と……云々によりて表す」と述べている。ここが人々の敬服するところである。彼はこの終わりの句を繰り返し言っている。我らは量においてパウロの真似はできずとも、質においてどうかこの聖書の標準まで上りたいものである。