家庭のキリスト

笹尾鉄三郎

ルカ伝十九章一~十節。

順序としては、第一キリストは我ら個人の心の中に受け入れられ、愛され、崇められるべきもの、次には我らの家庭において受け入れられ、愛され、崇められ、その結果、公 の集会においてキリストが真に受け入れられ、愛され、崇められる。これは自然である。

さて、このザアカイは金銭には何不自由のない身であったが、その心は飢え渇き、金では到底だめであると悟り、恥も外聞もかまわずに桑の木に登り、一目なりともキリストを見ようと思った。彼はキリストとは一面識もなかったが、キリストは幾千とも知れぬ人々の中から彼一人を抜いてその名を呼び、「ザアカイ、急ぎおりよ」と仰せられた。彼はさぞかし驚いたことであろう。しかしてこの一言によって悔い改めたのであろう。彼の心もこの時、高慢という木から下りたであろう。

キリストはまた、その家族に目をとめて、「今日われ汝の家に宿るべし」とのたもうた。天皇陛下が我らの家に宿りたもうことは願っても決してできぬことであるが、キリストは願わざるその家族を救うために来たりたもうとは!

この日キリストが来て宿りたもうたことによって、彼の家族は救われることができた。どうか我らはキリストをただ個人の救い主として受けるのみならず、さらに家族の主人として受け入れたい。キリストはこの時、滅びの道に迷い金銭の中に埋もれて失われていた彼とその家族を救うために来たりたもうたのである。

家庭はもとより、くつろぐ所であろう。されど真にくつろぐにはキリストを我が心に受け、キリストを我がホームとしなければ駄目である。座敷が立派だとか、着物が美しいとか、食物が良いなどでは駄目である。キリストはその弟子に「我と共にしばらく淋しきところに行きて休むべし」と仰せられたことがあった。イエスの中にこそ安息がある。イエスのいまさぬところに安息はない。外形の家、親しい家族のみでは、必ずしも我らに安息を与えるものではない。

要するに我らの喜びの中心はイエスでなくてはならない。金が儲かった、衣服を新調した、人から誉められた等のことが喜びの中心となったならば最後である。これはキリスト者の家庭にあるべきことではない。我らの小さな家庭といえども、これ地上の天国たるべきものである。地上の天国は個人の心の中に存する。されど家庭はさらにそうなのである。

人は我らの心の中に立ち入って見ることはできないけれども、我らの家庭には入って見ることができる。しからぱ我らの家庭は家庭としての光を発しているものでなければならない。私が家庭を持って以来、始終大黒柱のごとくなり、またそれによって探られている聖句は、「それ神の国は飲食にあらず、義と平和と聖霊によれる喜びとにあるなり」(ローマ一四・十七)との言である。しかして主は我らの家庭をかかるものの完備せるところとなしたもうのである。

また我らの心すべきはコリント前書十三章の愛である。未信者の家庭でも、人情の愛によって円満に治まっているところがある。けれども信者の家庭においてはそれでは駄目である。信者は未信者よりも光が鋭いから、ややもすれば人を議する。実際に信者は未信者よりも厄介なところがある。そして未信者よりも取り扱い難いものである。家庭においても、信者の家庭は未信者の家庭より醜いところがある。不平がかえって多いところがある。武士道をもって教育され、女子大学でしつけられた未信者の家庭が実に立派であるのに対して、信者の家庭においては妻君が(妻君を攻撃するのではないが)すぐさま聖書を引いて夫を攻撃し出すのである。ひとり婦人においてのみならず、男子においてもまたこの流儀である。ああ、これ実に嘆かわしいことである。かくて武士道で教育された者と果たして何が違うか。かえって劣っているのではないか。「学者とパリサイ人の義よりも、汝らの義、勝らずば必ず天国に入ることあたわじ」。要するに愛がないからである。各自コリント前書十三章の愛をもって一つ一つ調べるべきである。

私自身のことを告白すると、家庭において失敗するのはいつもこの愛が欠け、この愛の中にいない時である。外出する時は神の御用のために出かけるのであるから、身を堅 めて出て行くが、家に帰ってやれやれと思ってくつろぎ(くつろぐことは悪くないが)、自分のためについ他人のことを忘れ、このコリント前書十三章の愛を離れるのである。されば、帰って楽しいはずの所がかえって苦になることがある。我らはこのことを覚えておきたい。家庭は自分だけくつろぐところではなく、家族と共にくつろぐ所であることを。しかして妻は夫を、夫は妻をくつろがせ、父は子に親切を尽くし、子は父を安心させるべきものである。「このようではせっかく家に帰ってもくつろげないのではないか」と懸念する者があるか。さらば試みられよ。あなたが一人自分の都合しか考えない振る舞いをして、果たして真にくつろげるや否や。これは信者たる者には少しもできないことを発見するであろう。これに対して、互いに顧み、互いにくつろがせようと努める時は、いかに幸福を感ずることであろうか。

第二の要点は、衣食住についてである。これについては長く語る必要はないと思う。かかる万事において主を信仰することが肝要である。生活難は今日一般の苦痛であるが、我ら信者はこの点において生ける信仰を抱かねばならない。思い切って信じてみよ。神は魂のみならず、身体のことをも顧みたもう御方である。もし衣食住についてさえ神を信用できないなら、どうして他のことにおいて神を信用できるであろうか。我らは食うにも飲むにも何事をするにも神の栄光のためという動機からせねばならない。滋養物を摂るのは神の栄光のためである。

また、金を使うことや品物を用いることにも祈り深く注意せねばならぬ。おのれのものと思って勝手に用いてはならぬ。この点において極めて厳密であらねばならぬ。格別にこれについてはまず受け方も大切である。すなわち信用によって受けなければならないが、ことに使い方に注意せねばならない。必要があって祈っても与えられないのは、この出し方に過剰なところがあるからである。さればかかる時は自ら深く省み、今まで出し方において間違いがなかった かと考え、もしあったなら直接悔い改めよ。されば必要は与えられる。これ私の経験であり、また多くの人の経験である。もとより十分の一を献げるは言わずもがなである。

第三は交際である。家庭は始終いろいろな人の入り来る所である。我らが人に接する時は、わが家庭は神の国の型であるから、誰が来ても何らかの祝福を受けるよう心がけていなければならない。だからといって、人の来る毎に一々説教をするのではない。これは考えものである。もとより証しはすべきであるが、何かにつけて親切を尽くし、その人の心に温かみを感じさせるべきである。主人も妻君もこれを心がけて人に接せられよ。ことに旅人をねんごろにもてなすべきは聖書のしばしば教えるところであって、キリスト者の家庭の一つの特色としたい。私が先年洋行した時、外国の兄弟姉妹の優待は実に心底に徹した。我ら信者の家庭においては、御馳走を出せぱ良いというものではない。話においても、未信者のようにつまらない世間話ではなく、主を崇め人の徳を建てることを心がけられよ。

また我らは聖書において家庭が教会となっていることを見る。プリスキラとアクラの家庭がそうであった。これは幸福なことである。家庭において家族の者がみな恵まれていれば、人が来ても恵まれ、また未信者も来て救いを得るに至るであろう。プリスキラとアクラは天幕造りの労働者であったが、主のために実に熱心な者であった。彼らは伝道者アポロが巡回に来たのを家に招いてもてなし、一平信徒の身でありながらこの成功した伝道者をもさらに深い恵みに導いた。

我ら互いに主イエスをわが家庭に受け入れてかかる家庭をつくりたい。