犠牲の愛

笹尾鉄三郎

「されば汝ら愛せらるる子供のごとく、神に倣う者となれ。またキリストの汝らを愛し、我らのためにおのれを香ばしき香の献げ物とし、いけにえとして神に献げたまいしごとく、愛のうちを歩め」(エペソ五・1、2)。

昔は燔祭、酬恩祭等が焼かれてその香が芳ばしかったとあるが、これはキリストの模型であって、キリストの愛より出た犠牲であった。ここではそれを述べて、親に似た子になれと勧められている。今朝、キリストがどれほど我らのために犠牲となりたまいしか、すでに知っていることではあるが今一度それを味わいたい。

ことにゲッセマネにおいて非常に苦しみ給うた。彼は神に服従するのが厭ではなかった。我らと同情同感なる主は、神より呪われたまわねばならなかった。これが肉体を持つ彼には辛かったのである。我らは愛の懲らしめを受けたことはあるが、いまだ罰を受けたことはない。ゆえにその味はわからないが、彼はこれを受けてはなはだ苦しみたもうた。もしそれが辛いことでなかったなら、それは贖いとはならなかったのである。

「血の汗」とはギリシャ語では「血の塊」という字である。極度の悲痛が心臓を狂わせ、全身血の循環にまで影響して、毛穴より血の塊が出るとは実に何ごとぞ。けれどもその中にあっても「されど我が意のままを成さんとにあらず、御意のままを成したまえ」と祈りたもうた。さらにまた十字架の苦痛はというと、唯一の慰めなる父なる神より捨てられ、向けられた顔は怒りの顔であった。「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」。おお、いかばかりの犠牲ぞや。

さて、神の救いの目的はただ我らを刑罰より救うのみならず、ローマ書八章にあるごとく「同じ形」に化せしむるためである。そのために色々なものが働いている。その中に大切なものが四つある。第一、十字架。第二、聖言。第三、聖霊。第四、摂理。これらが始終一つの目的のために働いている。いま言っているのは、その第一の主題についてである。

十字架はただ我らを罪より救うのみでなく、また我らをキリストの形に化せしむる能力である。我らはいかにもがいても、キリストの真似をしようとしても、それは不可能のことで、猿が人間の真似をするよりも難しいことである。しかし恩恵により信仰をもってキリストの御体と御血を受ける時、その中に化せしむる能力がある。それを信ぜよ。普通のものでも、そうである。野菜を食う虫は野菜と同じ色になり、樹皮を食う虫はその樹皮と同じ色になる。食べる食物がその動物に影響するのである。霊界においてもこれと同じ法則が働くので、我らがキリストの肉と血を信仰をもって味わう時、それが我らをキリストと同じ形にする。自己中心だった者も、全く自己のことを忘れて、キリストのために、人のために働く愛の人となる。この砕かれた御体を受ける時、あなたの固い心も砕かれ、しかしてこの血があなたに犠牲の愛を与える。パウロの中にこのキリストの形がいかに成っていたかを思え。

一例を挙げると、テサロニケ前書二章8節、ピリピ書二章6節、ローマ書九章2、3節などはそれである。我らを化せしむるために今も聖霊は働いていたもうがゆえに、これを信じて今この聖餐を受けよ。