個人伝道に関して

笹尾鉄三郎

キリストはある時は大勢に向かって説教されたが、格別に個人伝道をされた。ヨハネ伝には特に主の個人伝道が多く記されている。説教なら伝道者しかできないこともあるが、個人伝道は誰にでもできる。平信徒は始終これを心がけて務めなければならない。

個人伝道をするには、まず第一に神の愛を自ら経験していなければならない。そうでなければ、学者が倫理の講議をするのと同じものになってしまう。昔の経験もよいが、それがまた今の経験でなければならない。すなわち、現在まで継続している経験でなければならない。かのペテロが「金銀は我になし、ただ我にあるものを汝に与う」と言ったように、いま自分が持っている恵みを人に語らねばならない。

魂に向かう愛がなければならない。説教なら愛がなくてもただ面白ければ人が聞いてくれることもあるが、個人伝道はこれがなければ少しもできない。これは我らが以前の有様を思い、また感恩の情に溢れてさえいれば、同病あい憐れむ的に、救われた者なら誰にでもあるはずのものである。昨日救われたばかりの者でさえ、自分の知己友人を招いてくる者がいる。これはお互いに与えられているのだから、その愛に支配されてすればよい。

言うまでもなく、聖霊に頼っていなければならない。人を救いに導くのは人間業ではない。全く神の愛の働きである。我らはただその管となるに過ぎない。このことを覚えて、話している間も心の中で祈っていなければならない。

神の言葉を用いなければならない。ペテロの説教を見ても、彼は始終聖句を用いて論じている。他のどんな聖人賢人の言葉でも駄目である。孔子やソクラテスが何と言っていても、それは人を救いに導くことはできない。他の言葉は説明するだけであって、相手の人に受けさせるのは神の言葉である。

常識を用いなければならない。これは説教の時よりも個人伝道の時、格別に必要である。真っ向から「君は罪人だ」等と言っては、相手を怒らせてしまう。キリストはかのサマリヤの女に向かって頭ごなしに「汝は罪人だ、悔い改めよ」とは仰せられず、水のことより話を起こし、まず「飲ませよ」と求めていたもう。キリストがいかに常識に富んだ御方であるかを見よ。当時の風習によればユダヤ人はサマリヤ人とは交際しないのに、ことに男が女に物を頼むとはあまりに意気地ないようである。けれども、主はその哀れな女を救うために下手に出られたのである。個人伝道では格別に口を開く時が肝腎である。一番最初に話しかける言葉に大いに注意が必要である。もとより一概にどう言わなければならないというわけではないが、丁寧に話しかけて相手の人に近づくことを心がけなければならない。

余計なことを話して不得要領に終わらないように注意を要する。相手の人に要点を握らせることだ。私は色々なことから話して、とにかく安心したいと言うようになった人には「君はこの三つのことさえわかればよい」と言って三つのことを順序立てて話している。すなわち、神、おのれの罪、救い主のことである。

相手の人の要求を知ることが大切である。我らは霊魂の医者であるから、医者と同じことである。医者は病人の言うことを一つ一つ聞く。そして十分容態を聞いて診察する。ちょうどそのように、相手の魂の状態をまず良く知ることが大切である。ただむやみにこちらだけ話してはいけない。争ってはならない。これは議論の勝ち負けのことではない。攻撃的になってはいけない。迷信を笑うような態度をしてはならない。相手の人を気の毒に思って、丁寧にその迷信なることを説いてやらねばならない。

神のこと、罪のこと、救い主のことについて順番に話す際、むやみに多くの聖句を引用してはかえって迷わせる。一つの題目に関して一つの引照で十分であると思う。例えば神のことについては、ローマ書一章十八~二〇節でたくさんである。いかなる学者に対してもこれでたくさんである。

罪のことは悪いことであるが、ぜひはっきりと言わなければならない。「私は君を攻撃するのではない。君の罪を攻撃するのだ」と罪を攻めることに容赦してはならない。しかしそれには言い方に注意しなければならない。まず人の罪、自分の罪(以前のことを証しして)を語って、「君はいかに」という風にもって来る。この順序で行けば相手が怒るようなことはない。

時に、伝道するのかされるのか判らないような、よくしゃべる人に接することがある。この場合、心の中で祈りつつ、機を見て話の主導権を取らなければならない。「ちょっと待って下さい。その点に関してちょっとお聞き下さい。そもそもキリストの教えでは……」という風に。

しかし他方、あまりこちらばかり話してもいけない。相手を刺激して願いを起こさせることだ。「どうです、それについて君はどう感じられますか」と、時々相手が返答しなければならないように仕向ける。そしてそれに応じて話を進めて行くべきである。

神のことがわかり、自分に罪のあることがわかったら、神の愛の結果であるキリストの救いを明白に説くことである。そしてそれに自分の証しを少し添えて、その救いの力の実際なる事を説く。十字架と甦りとを必ず説かなければならない。そして信仰を促して共に祈るのであるが、もし十字架がわからなければ、「それではそれが君にわかるように祈りましょう」と言って祈る。次に、「とにかく君にわかる範囲でいいですから、罪を悔い改める必要があります」と悔い改めの祈りをするように教えるべきである。