第一に神の重荷、第二に人の貧しきこと、第三に我はいかにすべきか、この三点を考えたい。
まず初めに神が世人をいかに見たもうかを見よう。イザヤ書一章二節~九節にそれが書いてある。また、出エジプト記三章七節を見られよ。
「エホバ言いたまいけるは、我まことにエジプトにおるわが民の苦患を見、また彼らが追い使う者のゆえをもて叫ぶところの声を聞けり。我かれらの憂いを知るなり」とある。神はかく人々が罪に悩む有様を見そなわし、ついに非常手段をもってその御子イエス・キリストを降し、その十字架の死によりて救いの道を開きたもうた。
かつてある兄弟が箱根の湖辺を通りかかると、大勢の人々が群がり集って騒いでいる。「何だろう」と近よって見ると、二人の子供がたらいに乗って遊んでいたのが、いつの間にか沖へ出て、ふとした拍子にたらいが転覆し、一人の子供は何かにつかまったが、いま一人は浮き沈みして溺れかかっているところである。その子の母は地団太踏んで助けを求めたけれども、誰一人助けてやろうとはせず、あれよあれよと騒ぎ叫んでいるのみである。
その池は度々人が溺死したところで、その辺の者はみな迷信的に一種の恐れを抱いていたのである。兄弟はすぐさま着物を脱いで水中に飛び入り、なるほど泳ぐのは辛かったが、祈りに祈って、ついにその子を救い上げて親のもとに渡した。
「その時の親の狂喜する様といったらなかった」とのことであるが、さもあらん。ちょうどこれは、亡びる魂が浮きつ沈みつしているのを親心深き神が見て悶えていたもう有様とよく似ているのである。
第二、しかるにその湖辺の群集のように飛び込んで救おうとする者がいない。「また群衆を見て、その飼う者なき羊のごとく悩み、かつ倒るるをいたくあわれみ、ついに弟子たちに言いたもう『刈り入れは多く、働き人は少なし』」(マタイ九・三六、三七)。主の嘆きはこの嘆きである。働き人が少ない。「人は皆イエス・キリストの事を求めず、唯おのれの事のみを求む」(ピリピ二・二一)。
多くの人はおのれの事には熱心である。よく商売もし、勉強もする。けれども主のために働く者はまことに少ない。祈ることさえ度々自分勝手である。
ある貴族の息子は家の外を遊び歩き、家に帰るのはただ金をもらいに帰るときだけというが、我らはその息子のようではならぬ。主の重荷を見てそのために祈り、また働かねばならぬ。
第三、「我またエホバの声を聞く。曰く、『われ誰を遣わさん。誰かわれらのために行くべきか』と。そのとき我いいけるは、『我ここにあり。我を遣わしたまえ』」(イザヤ六・八)。
この章はイザヤが潔められた章で、彼が罪の根を潔められ、自己中心の生涯から離れた時に、「我たれをか遣わさん」との声を聞いたのである。
「我ここにあり」とは原語では「我を見たまえ」ということだという。「自分は弱い、また力がない、こんな欠点もある、足らない者です。けれども我を見て遣わしたまえ」。これが彼の祈りである。
我らもまたイザヤのごとくきよめられ、神の御声を聞きたいものである。「われ福音を宣べ伝うとも誇るべき所なし。やむをえざるなり。もし福音を宣べ伝えずぱ、我は禍なるかな」(コリント前九・十六)。