聖霊を受ける必要

笹尾鉄三郎

ルカ伝第十一章1節より13節まで。

分解

一、神のため
 (1) 聖名のあがめられんため(2)
 (2) 御国の来たらんため(2)
 (3) 聖旨の地上に行われんため(2)

二、我ら自身のため
 (1) 日々の満足、力をえんため(3)
 (2) 罪に対する勝利をえんため(4)

三、迷える人のため
 (1) 夜半の旅人(5)
 (2) 我らの無能(6)
 (3) 聖霊の必要(6)
 (4) 主イエスの内意(7)

四、祈りと確信
 (1) 熱祷の必要(9)
 (2) 信仰、服従、待望(10)
 (3) 天父の聖旨と聖霊の賜物(11、13)

御覧の通り、この一段はキリストが祈ることを教えられた所である。弟子たちはへりくだって「祈ることを教えたまえ」と言った。我らは度々見当違いな祈りをすることがある。不要なものを求め、必要な物を求めないことがある。へりくだって求めると、主は祈ることを教えたもう。ただ言葉のみならず、精神を教えたもう。

十章の終りでは「なくてならぬものは一つだ、マルタよ、一つだぞ」と言っておいでになる。マリヤは他のことを忘れて、一心にこれを求めている。「マリヤは善き方を選びたり。これは彼より奪うべからざるものなり」。種々のものではなく、主ご自身こそ求むべきものである。名誉、金、地位、これらを求めることも悪いことではないけれども、これは第二、第三のもので、なくてはならぬ第一のものは聖霊である。昨晩も述べたように、棄てるべきものは欲と傲慢、受けるべきものは愛と謙遜である。多くの人はこれを良くわかっているけれども、できない。いかにすればよいか。欲を焼き尽くし、傲慢を打ち砕き、愛の人となり、謙遜の人となるには、どうしても聖霊がなければならない。

未信者のみならず信者の中にも聖霊を受けていない者がある。ピリピがサマリヤに行って伝道したとき、多くの人々がキリスト信者となったけれども、ペテロ、ヨハネが行って祈るまでは聖霊を受けなかった(使徒八・5~17)。ある人は救われた時に聖霊を受けたと思っているけれど、事実はそうではない。もとより我らが罪を悟らされ、悔い改めてキリストを信じ、神の子とされたという確信は、言うまでもなく聖霊の御導きによるので、我らはその感化を受けたに違いないけれども、これはペンテコステの聖霊とはちがう。そこをよく弁別せねばならぬ。

本日の要項はこの所にあるように

(一)、これらのことが神のことでなければならない。

(二)、聖霊を受けなければ、ある時は喜んでいるが、その次は不可。罪に打ち勝って全き勝利を得るためには、是非とも聖霊が必要である。

(三)、家族、親族、世の人を導くためには聖霊がなければならないから、求めよと仰せられる。求めないから与えられないのである。

(四)、祈りと確信である(分解参照)

一、神のため

(2節)朝起きた時、一番先に「今日はこうなったらいい、こうして欲しい」ということは何か。終日仕事をする間、一番欲しいものは何であるか。真っ先に「聖名をあがめさせたまえ」であるか。あるいは自分の名が上げられることであるか。「御国」すなわち愛と和と聖霊による喜楽が人々の心の中、家庭の中、すべてのところに建設されるために祈るべきであるのに、自分の勢力範囲を広げたい、事業を拡張し、自分の国を拡張したいという心はないか。「聖旨の天に成るごとく」多くの人はおのれの心が遂げられることを願う。おのが心を今日も行おうとしている。これでも信者であるか。我らは心を察したもう神の前に聖名のあがめられることを願っているか。聖国の来たることか、自分の勢力範囲の広がることか、聖旨か、我が旨かを探られたい。なぜそんなに間違った考えを持っているのか。それは腹の中に「おのれ」があるからである。

私はこのことについて諸君を叱るのではない。自分の経験を話したい。私は明治二十一年米国に行き、その年の暮れに救われた。その時一種の平和があった。二十二年、二十三年を越えて二十四年の春になるまで信者であり、教会にも出席し、祈りもする。実際信者にちがいなかった。私は当時キリスト教主義のある学校にいたが、毎朝礼拝には必ず主の祈りをする規則だったので、私もこれを行った。ところが二十四年の春のある朝「聖旨の天になるごとく」まで祈ったが、その後の句が続けられない。神様は私の心を刺したもうて、「口先だけか、腹の中からか」とささやきたもうた。私は当時、神の聖旨が成るよりは、我が心の成ることを思っていた。どこまでも自分の志を遂げようと思っていた。これは未信者より見れば実に美しいけれど、神より見れば自己中心である。金、名誉、肉体の楽しみ、その心棒はおのれである。神は「お前は毎朝その祈りをしているがそれで良いか」と言いたもうたようである。私は主の祈りをすることが恐ろしくなって言えない。けれども学校の規則だから言わねばならぬ。苦しくてたまらぬ。そこで友人に言ったら「僕もそうだ」と言う。しかし彼はそう苦しく感じないらしく平気で続けている。私は伝道師らに告げたが「仕方がない」と言われた。ついにひとり野原に行って神に求めることにした。そして毎晩毎晩、野原に出て祈ったがいくら祈っても潔くならない。聖霊を受けられない。悪魔は「駄目だ」と言った。聖霊は来ない。実に悲しい。駄目なのか。到底だめなのか。実に悲しい。空を仰いでぼんやりとしていた。もう祈ることもやめてしまった。しかし満足できない。なすところを知らない。せんかたつきた……

その時、神が私の目を開いて下さった。その時、主の愛を知った。「お前の心が苦しいのは、目のつけどころが違うからだ。おのれを見、世を見るからだ。主がどれほど愛して下さったかを見ないからだ」という声を聞いた。その夜、私は主の愛を考えた。また私が主を愛したかを考えた。主は私を愛するために天を辞し、人となりたもうて、ついに十字架の死さえ受けて下さった。私に届くために、私の沈んでいた所よりもっと下に降って下さった。「悲哀の人にして病を知れり。また顔をおおいて避くることせらるる者のごとき」。御生涯、「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子は枕するところなき」御苦労を、みな私のためにして下さった。恥ずかしめられ、捨てられ、呪われ、キリストの方から献身して下さった。これを思った時、キリストの愛が私に焼きついた。御恩に感じた。

「私はキリストのものだ。買い上げられたものだ。心得違いであった。しからばあなたのために何をいたしましょう。生死共にあなたのために過ごしますよ」と申し上げた。忘れもせぬちょうど学校卒業前だったが、私は「紙屑買いをしても、百姓をしてもよろしゅうございます」と申し上げた。その晩より一途な心となり、恩によって以後ずっと一途な心で今日に至った。元より無知によって歩み損なった時には御心を痛めたこともあるけれども、その時よりいかなる時にも「主のため、人のため」ということ以外に心がなくなった。これは私が誇るのではなく、主の血、聖霊の火の力である。それから後、心より主の祈りができるようになった。

聖名、聖国、聖旨が具体的に成就されるのは、主の再臨の時である。我らはかの日に携え挙げられて千年王国時代の幸福に入る準備として、今聖霊を受けておかねばならぬ。

二、我ら自身のため

(3、4節)「我らの日用の糧を日毎に与えたまえ。我らに負い目あるすべての者を我ら赦せば、我らの罪をも赦したまえ。我らを試みにあわせず、悪より救いたまえ」。

霊魂に絶えざる糧を与えられるよう、肉体のために三度の食事をして働き得るよう、満足して力ある生涯を送れるよう、終日「与えたまえ」と祈るのである。おのれがおれば聖霊の交わりはない。祈りは外にそれる。聖書を読んでいても糧が来ない。聖霊が父と子と交わらしめ、聖書を開きたまわなければ、真から開けて文字以外の意味を悟ることはできない。

罪に対する勝利。人の罪を赦すことはその入口である。主の祈りをするにはまず、ここから片づけていかねばならぬ。諸君はいかがか。腹の中はいかがか。

「我らを試みにあわせず」は「我らを試みに陥らせず」の意である。試みに出合わぬわけにはゆかぬ。「負けないように、陥らないように、勝ちますように」という祈りであ る。これは外から来るものについてではない。肉にある悪の精神、自己中心よりの救いである。ローマ書七章に「ああ、われ悩める人なるかな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」とあるその「救い」と、ここにある「悪より救いたまえと」の「救い」とは同じ文字が用いてある(英訳参照)。火が通らなければならない。腹の中が焼かれて、欲が去らなければならない。罪に対する全き勝利の生涯は聖霊を受けなければ送ることができない。

三、迷える人のため

(5節以下)夜半の旅人は世の中の人である。今は夜の時で、かって江戸の市中を白昼ちょうちんを灯して暗いと叫んで歩いた者があったとのことだが、実際そうである。政治界、実業界、家庭、まかり間違えば教会も暗い。しかし格別未信者の間である。六千年来、暗闇はますます暗さを増して来ている。その暗い中を重い荷を負って、路を失って来た。その上、彼は飢えている。しかも責任が我にある一人の友で、我をおいて他に頼るところのない者である(英訳参照)。

世の中の人はこれだ。彼らは神を知らないゆえに神に直接行けない。神を知らず、キリストを知らない。そこでキリスト信者に来る。ところが信者は何を与えるか。「おのれ」を持っているために哀れな未信者をつまずかせ、失望させている。怖ろしいことである。以前マントル氏が来朝したとき、救主教会でお話しになった。英国に一人の頑固な求道者があった。伝道者はこの人がキリストを信ずるように尽くすけれども、中々信じない。この求道者の親は信者であったから、彼は常に一緒にいる父のことを持ち出して、「キリスト教がこういうものなら、キリスト者になりたくない」と言った。親の生涯が子の障害となっていた。我らはその種のクリスチャンになりたくない。世の人は上辺だけ見ていない。足元を見る。裏面から観察する。飾っても駄目である。交際しているうちにポロがでる。潔くなければ実に災禍である。家庭の者、親族、友達、隣家の人も、自己中心な振る舞いをしている時、つまずいている。心すべきことである。

「供うべきものなし」。書物を読む。理屈を知っている。しかし、それは人に真の満足を与えぬ。真の愛、神の力を要する。人物じゃない。孔子でも孟子でも満足しない。聖霊である。愛の人、潔き人のみが霊魂に満足を与えうるのである。このことを真に悟り、「供うべきものなし」と自分の姿を知った者は幸いである。

気が付いてどうする。「我に三つのパンを貸せ」と叫び、放っておけぬ。キリストのところへ行くのだ。この三つのパンには色々な意味があろう。三位一体の神の霊を指すという者があるが、私の味わっているのは、力と愛と慎みの霊(健全なる理性、健全なる良識)としてである。これは聖霊によって来るもので、我らはただ願えばよい。「おお神よ、三つのパンを与えたまえ」と。

(7節)主はこのようなことを決して仰せられない。(8節)その人の価値によらない。ひたすら乞い、必要に迫っている。「神よ、みすみす見殺しです」と一生懸命に祈るゆえ、「求めの切なるにより、起きてその要する程のものを与えん」と言いたもう。

四、祈りと確信

主はここで締め括って言いたもう。(9節以下)戯言ではない。一生懸命に祈らなければならない。「求めよ、さらぱ与えられん。尋ねよ、さらぱ見出さん。門を叩け、さらぱ開かれん」と流行語のようになっている。しかし「求めよ」、ないからである。「尋ねよ」、失われているからである。「叩け」、熱心でなくては得られないからである。

ある冬のこと、私は一人の青年とこたつで話したことがある。その青年はキリストを信じて品性を高くし、大いなる人物になろうとしたことが、自己中心であったことを話して、「このままでいるなら、死んだ方がましだ」と言った。私は色々話したが、その青年は「聖霊を与えたまわねば取り去りたまえ」と祈った。彼はついに聖霊を受けて、一変した生涯に入った。

(10節)「すべて求むる者は得」。一人残らず得る。必ず得る。「尋ぬる者は見出し」。尋ねるものはどうやって見出せるのか。その条件を尋ねて服従することである。罪の懺悔、全き服従、全き献身、すべてを献げて聖旨の通りにすることである。「あれこれ申しません」と言え。「叩け」。これは待ち望むことである。信じつつ、信仰をもって待ち望め。祈り続けて待ち望む者は必ず受ける。

(11節以下)子供を持っている方は子供のことを思われるであろう。昨日××さんから受け取った私の家からの手紙に、「美和(私の子)がいつもパパのことを話す」と書いてあった。そして美和からパパへの伝言がある。「大阪から帰る時はバナナを持って来て下さい」と。私はどれほど高くても買って帰ってやろうと思う。「まして天にいます汝らの父は」我らのためになるものは聖霊だと知っていなさる。これさえあれば愛も、力も、潔めも、忍耐も、謙遜もでき、神の栄光となることを知っていなさる、それゆえ、「求むる者に聖霊を賜ざらんや」と言いたもう。誠心をもって求めたい。これは何を得るよりも幸福である。いかなる熱心をもって求めておられるか。ぜひとも聖霊を受ける必要がある。祈りましょう。