いかにして我らは聖降誕を祝すべきや

笹尾鉄三郎

一、ザカリヤの感謝をもって

「ほむべきかな、主イスラエルの神、その民をかえりみて贖いをなし、我らのために救いの角を、その僕ダピデの家に立てたまえり。これぞいにしえより聖預言者の口をもて言いたまいしごとく、我らを仇より、すべて我らを憎む者の手より、取り出したもう救いなる。これ我らの神の深き憐れみによるなり。この憐れみによりて朝の光、上より臨み、暗黒と死の陰とに座する者を照らし、我らの足を平和の路に導かん」(ルカ一・六八~七八節)。

ああ、我が前生涯はいかに暗く、いかに苦しく、いかに危なかりしことぞ。主は我が苦難を見、我が叫びを聞き、我が憂苦を知り、親しく降りて救いたもうた(出エジプト三・七、三)。

あしたの光に照らされつつ正道を歩む身の幸福よ、平和よ。

二、エリサベツの信仰の喜びをもって

マリヤに会ったエリザベツは「聖霊にて満たされ、声高らかに呼ばわりて言う『女の中にて汝は祝福せられ、その胎の実もまた祝福せられたり。わが主の母われに来たる、われ何によりてかこれを得し。信ぜし者は幸いなるかな、主の語りたもうことは必ず成就すべければなり』」(ルカ一・四一~四五)。

ここには一つの不信仰も嫉妬もなく、ただ主の言に絶対の信仰と踊り立つばかりの歓喜のみがあった。我らもこの種の喜びをもってクリスマスを祝そうではないか。

三、博士らの礼拝をもって

切に主を慕い求めた博士らは、不思議な星の導きにより主の居所を発見し「家に入りて、幼子のその母マリヤと共にいますを見、ひれ伏して拝し、かつ宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬など礼物を献げたり」(マタイ二・十一)。この博士らはまだ主の御伝道をも贖いの聖業をも目撃していなかったが、彼らはこの時はや黄金を献げて「主なるイエス」を拝し、乳香を献げて「祭司の長なるイエス」を拝し、没薬を献げて「贖い主なるイエス」を拝した。その謙卑、その信仰、その礼拝の美わしさよ。乞う、我らをして博士らと共にただちに伏し、わが贖い主、わが祭司の長、わが王なるイエスを礼拝してクリスマスを祝さしめよ。

四、マリヤの献身をもって

ヨセフと婚約をなせるのみにていまだ結婚せざりし処女マリヤが妊娠の身となることは、人情としていかばかりの苦痛なりしことぞ。当時、悪魔はマリヤの耳にささやいたことであろう、「さすれぱ汝は必ず愛するヨセフに棄てられ、家族、親戚、朋友、世人の蔑視するところとなろう。誰か汝の罪なきことを証明しうる者があろうか。誰がその胎児が神の聖者なることを信ずるであろうか」と。されどマリヤの心はすでに定まった。彼女は静かに天使に答えて曰く「我は主のはしためなり。汝の言のごとく、我になれかし」と(ルカ一・三八)。

兄姉よ、我ら主イエスを我が内に宿しまつり、わが全霊、全身、全生、彼の占領するところとなり、主の生きる事を我らに現れしむるためには、身の安逸をも、愛する者をも、おのが名聞をも、一切犠牲に供する覚悟もて献身しようではないか。

「御使い、処女のもとに来たりて言う『めでたし、恵まるる者よ、主なんじと共にいませり』」(ルカ一・二八)。

さらば我らもマリヤと共に、「わがこころ主をあがめ、わが霊はわが救い主なる神を喜びまつる。全能者われに大いなる事をなしたまえばなり」(ルカ一・四六~四九)と証言することができよう。

五、ヨセフの愛護をもって

マリヤの懐胎はヨセフにとっても等しく大苦痛であったろう。悪魔は彼の感情を激興させ、マリヤを辱めて棄てさせようと試みたであろう。かの胎児を厭い呪わしめんとしたであろう。されど神を恐れ人を敬うヨセフは神の黙示を受けてただちに「主の使いの命ぜしごとくして妻を納れたり。されど子の生まるるまでは、相知る事なかりき。かくてその子をイエスと名づけたり」(マタイ一・二四、二五)。

何たる信仰、何たる果断、何たる同情、何たる制欲であろうか。ヨセフのこの結婚こそ、純然主のためにマリアを愛護せんためであった。主の御誕生の時および御幼児の時代にも、ヨセフはいかばかり主のために尽くしたことであったろう(マタイ二・十四、十九)。

願わくぱ我らヨセフの心をもって主を迎え、かつ、主の宿りたまえる我が兄弟姉妹をかくのごとく愛せんことを。

六、天使の賛美をもって

「たちまちあまたの天の軍勢、御使いに加わり、神を賛美して言う、『いと高きところには栄光、神にあれ。地には平安、主の喜びたもう人にあれ」(ルカ二・十三、十四)。

神、人となりて現れたもうた!これは世の成らざりし前より隠れたりし奥義であって、天使らも知らんことを願った。彼らはひとり子を賜うほど世を愛したもう神の愛に驚嘆して、覚えず「いと高きところには栄光、神にあれ」と叫んだ。平和の君(ソロモンはその型)なるイエスが地に降りて真の平和を与えたもうを見、人間に向かう神のかたじけなき大御心がここに表彰されるを見て、天使らは「地には平安、主の喜びたもう人にあれ」と賛美せざるをえなかった。傍観者たる天使すらなおしかり、いわんや恵みの目的者たる我らをやである。

七、牧者の伝道心をもって

天使より救主降臨の福音を聞いた牧者らは「急ぎ行きて、マリヤとヨセフと、馬槽に臥したる嬰児とに尋ね会う。すでに見て、この子につき御使いの語りしことを告げたれば、聞く者はみな羊飼いの語りしことを怪しみたり」(ルカ二・十六~十八)。

牧者らは狂うばかりに喜びまわり、会う人ごとに「恐るな、見よ、この民一般に及ぶべき、大いなる喜びのおとずれを我なんじらに告ぐ。今日ダビデの町にて我らのために救い主うまれたまいて、我らは目の当り彼を見まつりたり。信じて喜べ」と告げたであろう。我らもかくしてこのクリスマスを祝そうではないか。