至誠と信仰

笹尾鉄三郎

へブル書十章二二節に「真(まこと)の心と全き信仰とをもて神に近づくべし」とあり、二四節には、「互いに相顧み、愛と善き業とを励まし」云々とある。この誠真(まこと)と信仰は神に対する心遣いで、愛と善き業は人々に対する心遣いである。

「誠真」とは原語直訳すると「ゼヌイン・ハート」すなわち「正物で、贋物ではない心」という意味である。また信仰にも色々あって、ともすると「しかし」と言い出す信仰では何にもならぬ。ここの信仰は「フル・アシュアランス・オブ・フェイス」で単に消極的に疑いを抱かないのみならず、積極的に確信をもって満ちている信仰である。この信仰はその心の至誠であるか否かに大いに関係があって、至誠でない人すなわち混じり気のある人がいかに信ずると言ってもその信仰は駄目である。換言すれば、砕けた霊魂でなければ真の信仰は起きるものではない。自分では信仰を持っているつもりでも、誠の心が欠けているなら、それは自ら欺いているので、その信仰はいざという時に間に合わない信仰である。

さて、我らをして誠真の心と全き信仰を抱かしむる理由は、その前の方に述べてある。十九節以下に神は我らに四つのものを示していたもう。(一)砕かれしキリストの御体、(二)流されしキリストの御血、(三)開けたる新しき道、(四)大いなる祭司。この四つのものは他の人のためでなく、お前のためであると我らの前に突き付けられている。(中略)

新しき道とは前にはなかったもので、十字架によって新たに開かれた道である。罪人が神に近づくことは夏の虫が灯火に近づいて自分の身を滅ぼすのと同様で、ただ滅ぼされねばならぬのであるが、ここに我らのために新しき道が開かれた。その道は生ける道で、その上を歩む我らに命を与える。昔は東海道五十三次をわらじ懸けで一歩一歩あるいたものであるが、今は汽車に乗ってさえおれば、寝ていても走って行く。かように昔の時代には思いもよらなかった新しき道が開かれて、罪ある我らが神に近づくことができるようになった。これは何たる幸福であることか。

だがそればかりでなく、そこに大いなる祭司がいます。もしこの御方がおられないなら、神の前に出して載くのはありがたいが、恐れ多くて少しも物が言えない。人間同志の間柄でも、あまり身分の高い人の前に出る時は何となく心が臆するが、もしそこに向こうの人の友達でまたこちらの知己がいて紹介してくれると自由に話ができる。大いなる祭司イエスはこの紹介者なのである。

今や乃木大将の至誠に日本国民はこぞって動かされている。自殺はもちろん神の前に間違ってはいるが、その至誠や実に感ずべきの至りである。乃木大将はキリスト信者ではなかったが、かくまで至誠の人であった。我らの至誠はこれに比していかがであろう。「我なんじに告げん。学者とパリサイ人の義よりも汝らの義しきこと優れずぱ必ず天国に入ることあたわじ」。乃木大将をしてかく至誠の行為を行わしめたものは、寛大なる明治天皇陛下の御恩であった。我らも神の御恩を受けているゆえに至誠でなければならぬ。「われら世にありて殊に汝らに対し、神の清きと真実とをもて、また肉の知恵によらず、神の恵みによりて行いし事は、我らの良心の証しする所にして、我らの誇りなり」(コリント後一・十二)。この「清き」とは「至誠」と同じ字である。今、軍人の中また政治家の中の至誠なき者は、乃木大将のそれに比較されて攻撃を受けているが、神の軍隊の中にも至誠のない者が多くあるのではあるまいか。我らこの際大いに反省すべきである。

ある人は「至誠さえあればよい」と言うが、決してそうではない。その次には信仰を要する。精神一到何事か成らざらんと至誠に頼って何でもできると思うのは未信者のことである。何でもできるのは信仰で、全能の主に信頼してこそはじめて万事できるのである。救いも聖潔も自力でなく、わが功績でもなく、主イエスの功績によってできるのである。

砂に混ざっている金を吹き分けるのは骨が折れないが、他の石と混ざっているのを吹き分けるのはなかなか難かしいということである。だんだん熱くなっていく炉を通して吹き分けていくので、多くの手数を要するということである。その吹き分ける時に火花の散る間はまだ混り物があり、火花がなくなった時こそ純金になった時であるという。さて、われらの信仰もその通りで、純粋でなければ神は我らを炉の中に入れたもう。炉とは苦しみである。種々の苦しい所を通されるが、癇癪、短気、懐疑などの火花が散って、傍らにいる人にずい分迷惑をかける。その火花の散る内はまだ駄目なのであるから、そんな人はさらに熱い炉を通される。神はかくして我らを純粋な者となしたもう。

次には人に向かう態度である。この「互いに相顧み」とあるのは、「注意して人のことを思う」という意味を持つ字である。神に向かって至聖となる同じ心は、人に向かっては愛となる。神に近づいている時のみ、人の魂に近づきうる時である。愛の結果は善き業となって人を励ます。我らが人のために尽くす時、人々はいかにそれによりて励まされることであろうか。乃木大将の行動によりても、いかばかりの人が励まされることであろうか。我らは日々主の再臨の時に近づきつつあるゆえに、いよいよ互いに相顧み、愛と善き業に励まねばならぬ。