夜半の叫び

笹尾鉄三郎

「夜半に『新郎きたりぬ、出で迎えよ』と呼ばわる声す」(マタイ二五・6)。

夜半といえば暗い、また多くの人の眠っている時であるが、その時「新郎きたりぬ、出で迎えよ」との呼び声がある。さて今の時代は丁度夜半で、罪悪は横行して世は真暗である。しかるに多くの人はその危険をも知らずに眠っているという有様である。この時においてこの叫びを聞きたい。

この「新郎きたりぬ」という訳は少し訳しすぎで、英語では「見よ、新郎来たる」とある。しかしこれも語を入れており、直訳では「見よ新郎」となる。「来たりぬ」といえば来たことになるが、これはそうではなく、来る間際の叫びである。この夜半の叫びは現今聞こえるではないか。キリストの再臨に関して以前からこれを信ずる者がなかったわけではないが、特にこの四、五十年というもの、諸方においてこれが説かれ、叫ばれて来た。これは普通のことではない。バプテスマのヨハネが荒野に呼ばわる声としてキリストの先駆者となったごとく、この叫びは再臨の主のいよいよ間近いことを示すものである。

この十人の処女はみな燈火を持っていた。すなわち、みな光とされた信者で、しかも十人とも新郎を待っていた者、すなわち主の再臨を信じこれを待ち望んでいた者である。しかるに、みなまどろんで寝てしまった。この「まどろみて」とは、全く眠りに落ちたことではなく、眠るべきでないときに眠気がさして、起きている姿勢を保ちながら半醒半睡の状態でコックリ、コックリしたことを言う。その次の「寝ぬ」とは、いよいよ本式に気を許して寝てしまったことである。この「まどろみて寝ぬ」とは堕落の二段階を示している。

ある人は全く堕落しているわけではないが、まどろんでいる。聖霊を受けた者でもまどろんでいる者がある。態度は崩さない。依然として覚めているようであるが、その実、心は眠っている。説教を聞いても耳に入ることは入るが、心にまで徹しない。こういう半醒半睡の状態の者は目を覚ますべきである。

7節に「ここに処女みな起きてその燈火を整えたるに」とある。またルカ伝十二章35節を見ると、「なんじら腰に帯し、燈火をともしておれ」とある。この二ヶ所の句から、第一は起きること、第二は腰に帯すること、第三は燈火を整えることについて学びたい。

第一、起きること

この起きるとは、いわゆる十分目を開けて全く覚めることである。仮に夜半に突然「火事だ」と叫び声があれば、眠っているわけにはいかない。あるいはまた、盗賊でも来たなら、どんな寝坊でも目が全く覚めるに相違ない。ちょうどそういう風に、全く起きなければならない。兄姉よ、あなたは眠気がさしてまどろんでいないか省られよ。肉にところを得させたり、安逸に耽ったり、世に心が向いたり、何か偶像を愛したり、または祈りを怠ったり、聖書を読むことを怠ったりすれば、まどろむようになり、ついには深い眠りに陥るようになる。おお、目を覚ませよ。

第二、腰に帯すること

これには多くの意味がある。一つは出エジプト記にある過ぎ越しの食事をした時、腰をひきからげて食したことである(出エジプト一二・11)。我らもエジプトを出ようとするイスラエル人のごとくかくあらねばならぬ。今は呑気にしている時でもなければ、この世はそういう所でもない。まさに刑罰が下らんとしているこの世にあって過ぎ越しの小羊の肉を食うに当たっては、よろしくこの世の生涯に対しては旅装束でなければならぬ。

もう一つはペテロ前書一章13節である。「汝ら心の腰に帯し、慎みてイエス・キリストの現れたもう時に、与えられんとする恵みを疑わずして望め」。「慎みて」とは真面目であることである。腰に帯した生涯とは真面目なる生涯である。

次にコロサイ書三章14節「愛は徳を全うする帯なり」これである。「神のため、人のためのみ」と思うこと、これが帯である。様々な徳があるが、そのすべては愛である。愛の生涯を送ることが腰に帯することである。

ヨハネ伝十三章4節「手ぬぐいを腰にまとい」。これもまた一つの帯である。これは僕の姿を示すものである。腰に帯するとは、僕になって人に仕える生涯である。自分を落として、しなくても良いことをするのである。人の土足、汚い所をも洗ってやることである。しかるにある人は人の過ちを噂してまわるが、我らはその人のもとに行ってその汚れを洗ってやらねばならぬ。教会全体は一つの体であるから、人が汚れていることは自分の恥で、足を洗わないのは自分の怠慢であると思わねばならぬ。

第三、燈火を整えること

ただ燈火を持っているだけではいかん。また油を携えていても燈火を整える必要がある。すなわち、燈火が徐々に大きくなるよう始終注意し、芯を切り取ってよく光るようにすることである。

昔、祭司は幕屋で朝夕燈火を整えることが一つの務めであった。イザヤ書四十二章3節に「ほの暗き燈火」という言があるが、聖霊なる油を受けていない人はもちろんであるが、受けている人でも油と芯との間に故障があればほの暗くなる。燈火は芯が大きくなれぱなるほど、火が小さくなって芯が見えるようになるのである。すなわち、我らの古い経験が見えだすと光が薄らぐ。もちろん我らは受けた恵みの経験を証しせねばならぬが、始終、新しく油注がれ、新しく恵まれていないと、古いものが邪魔になる。

兄弟姉妹、主がいつ来たりたもうても、我らは差し支えないであろうか。自分の魂、また自分に託された魂の準備はできておられるか。