エノク

笹尾鉄三郎

一、家庭の人

「エノク六十五才に及びてメトセラを生めり。エノク、メトセラを生みし後、三百年神と共に歩み男子女子を生めり」(創世五・二一、二二)。

彼は独身者ではなかった。神と共に歩むことは家庭を持った者には困難で到底できないことであると思うのは間違ったことである。独身者でなければできないと思うのは、自分の力で行おうと思うからである。

二、信仰の人

「信仰によりてエノクは死を見ぬように移されたり。神これを移したまいたれば見出されざりき。その移さるる前に神に喜ばるることを証しせられたり。信仰なくしては神に喜ばるることあたわず。そは神に来たる者は、神のいますことと神のおのれを求むる者に報いたもうこととを、必ず信ずべければなり」(へブル十一・五、六)。

信仰の生涯とはおのれを頼まぬ生涯である。全く神に依り頼む生涯である。信仰の人を見たいならば幼児を見ればよい。彼は父母に全く依り頼んで少しの思い煩いもしない。信仰とは信心、信向、信頼、信任、信用を総括した意味があると思う。

三、高潔なる実行の人

「エノク、メトセラを生みし後、三百年神と共に歩み男子女子を生めり。エノク神と共に歩みしが、神かれを取りたまいたればおらずなりき」。

彼は地にありながら、天にある歩行をした人である。我らも地につける者、世の者ではない。さればエノクのごとく歩むべきである。神を離れたならば、どこに行っても、何をもってもだめである。「汝の法は命よりも勝れるゆえに」神の行きたもう所には、どこにでも行くというようでありたい。父を失ったある子供が母を慕って、便所にまで従い行くのを見て非常に感じたことである。

共に歩むとは、ただ同じ方向に進むというばかりでなく、互いに心が通い親密に語ることをも含んでいる。「エノク、メトセラを生みし後、三百年神と共に歩み」。子供ができてから、彼は非常な責任を感じた。これが神と共に歩むようになった助けである。子供は親の言う通りにしない。親のする通りにする。蟹の親がその子に「縦に進め」と言っても、自分が横に歩んでいれば、子蟹も横に歩むのと同じ道理である。

四、予言者

「アダムより七代に当たるエノク彼らにつきて預言せり。曰く『見よ、主はその聖なる千万の衆を率いて来たりたまえり』。これすべての人の裁きをなし、すべて敬虔ならぬ者の不敬虔を行いたる不敬虔のすべての業と、敬虔ならぬ罪人の、主に逆らいて語りたるすべてのはなはだしき言とを責めたまわんとてなり」(ユダ書十四、十五)。

これはエノクの予言である。真の敬虔家は審判を恐れ、人々を警戒する者である。

五、当時比較的短命の人

「エノクの齢は都合三百六十五才なりき」(創世五・二二)。当時の人々は八百年、千年近くも生存した。それに比較してエノクの三百六十五年は誠に短い。まだ青年である。しかしこの世におることが短かければ、先方(天国)に行ってから長い勘定である。パウロは「死ぬるは最も善きことなり」と言い、また「死ぬるは我が益なり」と言った。ダラダラな生涯ではなく、他の人が長くかかるところを短い時間でやった。我らも御用事をセッセとやって早く先方に行きたいものである。三十代に死んだ人に偉人が多い。キリストでも、ヨハネでも……

六、死せずして昇天せし人

「エノク神と共に歩みしが、神かれを取りたまいたればおらずなりき」(創世五・二四)。

「神かれを取りたまいたればおらずなりき」。これは生きながら天に移されたのである。人は「生者必滅しょうじゃひつめつ会者定離えしゃじょうり」と言うが、心ばかりではいけない。生けるそのまま昇天したのである。エリヤもそうであった。我らもまた末のラッパの鳴る時、たちまち瞬間に化するのである。ハレルヤ。我らは堕落した天使と死せずして昇天したエノクとを対照して学ぶとき、大いなる教訓を得るのである。

七、神と共に歩む道

ついでながら、神と共に歩む道について学ぶことにしよう。

(一)、信仰によりて(へブル十一・五、六)

これは前に学んだごとく、自分の力によってではなく、頼り縋って行くのであるから、できることである。

(二)、謙遜によりて(ミカ六・三)

能力のない、意気地のない、弱い者は都合が良いわけである。

(三)、正義をもって(ミカ六・三、マタイ二・六、創世六・九)

神と一致のあるところに平安がある。正義がある。

(四)、全き愛をもって(ミカ六・三、黙示三・四、ヨエル三・三)

白衣は全き潔め、全き愛である。全き心をもって神を愛し、人を愛することである。アモス書の「合する」の語は英語では「一致する」の意である。心が一致しなければ神と共に歩むことができない。「神はすなわち愛なれば」愛なくぱ神と一致することができない。