主の御栄光

笹尾鉄三郎

「この世の司にはこれを知る者なかりき。もし知らぱ栄光の主を十字架につけざりしならん」(コリント前二・八)。

今日の題はあまりに大きくかつ多くのことがあるから、これをまとめるのに困難を感じている。それゆえ、ただ要点のみをわかりやすく申し上げることにするから、なにとぞ祈ってもらいたい。

今朝私は神の前に跪いた時、出エジプト記三章十八節の「願わくは汝の栄光を我に示したまえ」という聖言を思い出して、神に「わが兄弟姉妹にこの光を示したまえ」と祈った。モーセがここでこの祈りをすると、神は「わが顔を見ると死ぬ。それゆえ、岩の間にいて我が背後を見よ」と答えられた。

けれども新約においてはこれと全く異なり、言葉は肉体となって我らのうちに宿りたもうた(ヨハネ一・十四)。コリント前書にも「神、肉体となりて現れ」(三・十六)と記されている。我らから昇って行ったのではなく、神御自身が下に降って来て下さったのである。かくして我らは主の顔を拝することができるようになった。

すなわち栄光が隠されたので、肉眼で見ることができるようになった。そしてどんな人でもこれを拝することができる。旧約時代は見ることのできなかった御方が見える方として御自身を現したもうた。

そして初めは普通の人のようであったが、段々とその御真相を現して下さった。これはさらに有り難いことである。それゆえわれらは今朝、霊をもってこの主の栄光を拝したいものである。そうするにはただ、私の話に感じただけではならぬ。聖霊の働きによって拝さねばならぬ。

今、主の栄光を大別して、
 第一、御品性の栄光
 第二、職権上の栄光
とする。主の御性質はすなわち主の栄光で、主御自身が何ともいえぬ栄光である。第二の栄光は王であり救い主である栄光である。しかしこれをわかりやすくするには、むしろ時代で区分して語った方がよいと思う。

これを時代から申し上げると、
 (一)、世の始めから持ちたまいし栄光
 (二)、地上にありたまいし時の栄光
 (三)、甦りて天に昇りて受けし栄光
 (四)、再臨の栄光

(一)、世の始めから持ちたまいし栄光

「父よ、まだ世のあらぬ先に、わが汝と共に持ちたりし栄光をもて、今御前にて我に栄光あらしめたまえ」(ヨハネ十七・五)。

「彼は神の形にていたまいしが、神と等しくある事を固く保たんとは思わず」(ピリピ二・六)。

「初めに言あり。言は神と共にあり。言は神なりき。この言は初めに神と共にあり。よろずの物これによりて成り、成りたる物に一つとしてこれによらで成りたるはなし。これに命あり。この命は人の光なりき」(ヨハネ一・一~四)。

これらの箇所を見ると、キリストは造物主、光、また命でいます。この世には命も光もあるが、それは物質世界の命また光で、彼はこの物質世界の造り主、また霊界の光、また命である。のみならず御自身の言でこの万物を支えておいでになる。世にはこの意味においてキリストの栄光を知らない者がたくさんいる。新神学の人達もその通りで、彼らはキリストを担ぎ回っていても、キリストの栄光を知らない。しかし幸いにも聖霊は我らにこのキリストの栄光を示して下さるのである。コロサイ書一章十七節を見ると、「彼はよろずの物より先にあり、よろずの物は彼によりて保つことを得るなり」とあるが、事実キリストはかかる御方である。

(二)、地上にありたまいし時の栄光

「言は肉体となりて我らのうちに宿りたまえり。我らその栄光を見たり。実に父のひとり子の栄光にして、恵みと真理とにて満てり」(ヨハネ一・十四)。

ヨハネのようにこの栄光が見える人は幸いな人である。これすなわち主イエスの真相で、彼は幾年見ていてもこれで満足のいく、切りのない御方である。日光の日暮らし御門は見ていると日が暮れるというけれども、我らが見てもそれほど立派なものとは思わぬ。けれどもキリストについてはそうではない。どうか我らはヨハネのようにキリストの真相を知りたいものである。

キリストが地上におられた時の栄光は、その御品性の栄光で、彼の謙遜、彼の愛、苦難を忍びたまいしこと、みなこれ彼の栄光である。聖ヨハネはこれを新しく見たのである。

ある人は勲章でもブラリと下げることが栄光であると思っているが、それは真正の栄光ではない。品性こそ無上の栄光である。キリストの栄光はすなわち品性の栄光で、キリストの性質そのものが栄光である。

ある人は「キリストの栄光は服従にある」と言われたが、実にその通りである。ピリピ書二章にあるように、死に至るまで服従されたのがその栄光である。すなわち彼の驚くべき柔和、忍耐が栄光である。人間も同じことで、金や、衣服や、住み処や、食物はその人の栄光ではなく、その人物、その品性が栄光である。

イザヤ書四〇章五節を見ると、「かくてエホバの栄光あらわれ、人みな共にこれを見ん」とあるが、これはキリストがこの世に現れることを指したものである。

出エジプト記二八章には祭司の長の衣のことが記してあるが、この衣の美はキリストの品性の美の模型で、彼は父なる神より称賛と栄光とをお受けになった。かのキリストがバプテスマを受けたもうた時、天より声があって「これ我が心にかなう我が愛子なり」と言われた。またかの変貌の山においても、彼は父なる神より栄光を受けたもうた。ペテロはこのことをペテロ後書一章十六、十七節で述べている。

キリストは地上において罪人の地位につき、人間としてヨハネよりバプテスマを受けようとして来たりたもうた。これ実に畏れ多いことである。しかし神はその時、鳩のように聖霊を降してこれに栄光を与えたもうた。多くの人は他人の上に立ち、獅子なる霊を受けたがるが、これは栄光ではない。

また、かの変貌山において、モーセとエリヤと主との談話は十字架の話であった。彼はエルサレムに行って罪人のために死ぬ間際に高く上げられた。キリストの栄光はすなわちこれである。彼は誤解され、殺され、辱められようとする時に高く上げられた。

また、彼の栄光は奇跡において現れた。水を酒に変えた時、一言の下に病人を癒したもうた時、死人を甦らせた時、その栄光が現れ、人々は神を賛美した。

(三)、彼が昇天の時に受けし栄光

「このゆえに神は彼を高く上げて、これに諸々の名にまさる名を賜いたり」(ピリピ二・九)。

彼は十字架において、人より罪人の頭として殺されたもうた。けれども神はこれを甦らせ、御自身の右に座せしめたもうた。彼は三十三年の間、この世にあって悪と戦いたもうたが、ここで凱旋して驚くべき栄光を受けたもうた。なにとぞ我らはこのキリストを見たいものである。キリストの十字架は実に大事なことであるが、しかしそれだけでは十分ではない。それは半分であって、我らは福音を全て知ろうとするなら、この高く上げられたキリストを知らねばならぬ。我らがこの栄光を知れば知るほど、経験は高くなる。また自分の置かれた地位の高さを自覚する。黙示録を見ると、彼は諸々の王の王、主の主である。またキリストは祭司の長である。昔、祭司の長は実に貴い役目であって、神より命ぜられた者でなければこの役目に着くことはできなかった。それゆえ、キリストも自らすすんで祭司の長とはなりたまわなかった。神が彼を立てて祭司の長となしたもうたのである。

(四)、再臨の栄光

この再臨の栄光は未来に現れるべき栄光であって、キリストは前にこの世において踏みつけられたもうたが、今度は神たる御栄光をそのまま帯びてこの世に降りたもうのである。すなわち、彼は潔められた者を救うために、これを迎えに来られるのである。この時、潔められた者はその朽ちるべき肉体を栄光の形に化せられ、この主にまみえるのである。おお、実に嬉しい。

今われらはその御言をもって、また聖霊によって主を拝している。けれどもその時は顔と顔を合わせてお目にかかることができる。ハレルヤ。このことを思うと我らの心は引き立って来る。この主にお目にかかる時、すべてのことが解決する。おお、ハレルヤ!

そしてかのヨハネがヨハネ第一書三章一~七節で言うように、この望みを持つ時に聖別されて、その御品性に化せられるのである。

しかし、この主は不信者にとっては実に恐ろしい御方である。かのテサロニケ後書一章七節を見ると、この世のよこしまな人に対しては恐るべき方であることがわかる。テサロニケ後書二章三節を見ると偽キリストのことが書いてあるが、キリストは再臨の時、その御栄光をもって彼を滅ぼしたもうのである。また地上にいる民に対しては黙示録十九章十一~十六節を見られよ。この時、英国でもドイツでも神に反抗している国はみな拭い去られる。この時こそキリストが諸王の王、諸主の主として世界に君臨される時である。この時、彼を知る者は彼と共に王となることができる。おお、ハレルヤ。このキリストを知りたい。さすれば我らは高く天にまで挙げられるのである。これ神の言である。彼の言には少しの偽りもない。

のみならず、このキリストは新天新地において新しい栄光を持ちたもうのである。黙示録二一章二二~二三節を見られよ。ここは愉快きわまるところである。義しき者はここに住むに至る。かのソロモンの神殿は実に栄光あるものであった。しかしこの新しいエルサレムとその宮殿はこれに遙かにまさって立派である。その町の路は黄金である。ある人は「金なんかいらない。天国に行ったら踏んで歩くのである」と言っていたが、実際そうである。石垣の基を見ても最も高価な宝石で造られている。

アメリカのある所では、「大木の真ん中を馬車が通って行く」と言って威張っているが、そんなものは何でもない。ここでは一つの真珠で一つの門ができている。ハレルヤ。この美わしい町に宮殿があって、その宮殿はすなわち神とキリストである。またその光もキリストで、彼は我らの全き光である。

さて、ここで起きてくる問題は、我らはこの栄光の主をいかに迎えるかである。

この間、御牧氏が鎌倉において皇太子殿下が人力車にお乗りになるのを見たそうである。その時、車夫は殿下のお乗りなさるまでは地に頭をすりつけんばかりにして平身低頭して待っていたということである。しかし神が高く上げたまいしキリストは、殿下よりなお尊い御方である。であるから、主イエスの前にすべての者がみな膝をかがめると記してある。だがこの栄光を知らぬ人はキリストの前に出ても知らずに突っ立っている。

へブル書一章を見ると、キリストは神の真の形であると記している。そしてこの御方に各様の天使が仕えているのである。

またマタイ伝二八章十六~二〇節を見ると彼の権威が記してあるが、これを思うならどんな所でも我らには決して恐ろしくない。彼は在さざる所なき御方である。この御方こそ甦って高く上げられ、約束の聖霊を父より受けてこれを我らに注ぐ御方である。それゆえ我らがこの聖霊を受け入れ、我らのものとする時、ペンテコステとなるのである。この父より高く上げられたイエスは権力の右に座したもう御方であるゆえに、悪魔はいかに力を尽くそうとも、そんなことに頓着なく約束通りに聖霊を下し、これによって我らを全く愛の人となしたもうのである。

我らの信ずるキリストはかかる御方であるがゆえに、我らは自分のために信ずるのみならず、我が国のために信じて祈りたい。「主よ、信じます。あなたにおいては成しあたわざるところなしです」という風に信じて祈りたい。さすれば必ずリバイバルが起きる。我らは今までいかほど祈ったかわからないが、その答の来ないのを見て、悪魔が神より強いように思ったかも知れないが、実際はそうではない。彼は栄光を受けた主、勝利の主、栄光の主である。それゆえ信じれば必ず後の雨が降る。

また、このキリストはメルキゼデクのような御方である。へブル書七章を見ると、このメルキセデクはサレムの王でキリストの模型であるということである。

詩篇二四篇は昇天の予言であるが、我らはこれを心にあてはめて、今わが心を開いてこの栄光の主を入れ奉りたい。ヨハネ伝十七章二二節を見ると、主は弟子たちに栄光を与えたもうた。この栄光とは何であるか。一口で言うと聖霊である。その通り彼は我らの心の中にこの宝を入れ、そして天の所に彼と共に座せしめたもうた。のみならず、エペソ一章の十八節にあるように、極めて大いなる力、すなわち主の甦りの力が我らに働いているのである。そして我らが彼の形に化し、花嫁となるまでこの力が働くのである。されば我らはなお一層、彼の苦しみにあずかり、また現れようとする栄光を受けたいものである。