ペンテコステの火 約束の聖霊

笹尾鉄三郎

「なんじら信者となりしとき聖霊を受けしか」(使徒一九・2)。

あなたがたが義と不義とをわきまえ、己の罪を悔い改め、イエス・キリストを信じるようになったのは、まさに聖霊の働きによる。けれども、これは聖霊の感化の一部にすぎず、この恵みの賜物はすべての人(特に未信者)にも及ぶのである。されど約束の聖霊すなわち円満なる神体は信者にのみ与えられるもので、聖霊御自身を受けることは聖霊の感化とは異なる。言葉を変えて言うと、神の恵みを受けることと神(約束の聖霊)を受けることとは大いに異なるのである。

約束の聖霊とは何か。主イエスが渡されたもうた夜、弟子たちに別れを告げて曰く「われ父に請わん。父は他に助け主を与えて、とこしえに汝らと共におらしめたもうべし。これは真理の御霊なり。世(不信者)はこれを受くることあたわず。これを見ず、また知らぬによる。汝らはこれを知る。彼は汝らと共におり、また汝らのうちにいたもうべければなり」(ヨハネ一四・16、17、26、同一五・26を見よ)。また曰く「われ真を汝らに告ぐ。わが去るは汝らの益なり。我さらずば助け主なんじらに来たらじ。我ゆかば之を汝らに遣わさん。かれ来たらんとき、世をして罪につき、義につき、裁きにつきて、あやまてるを認めしめん。罪につきてとは、彼ら我を信ぜぬによりてなり。義につきてとは、われ父に行き、汝ら今より我を見ぬによりてなり。裁きにつきてとは、この世の君さばかるるによりてなり。我なお汝らに告ぐべき事あまたあれど、今なんじら得耐えず。されど彼すなわち真理の御霊きたらん時、汝らを導きて真理をことごとく悟らしめん。かれ己より語るにあらず。おおよそ聞くところの事を語り、かつ来たらんとする事どもを汝らに示さん」(ヨハネ一六・7~13)。これすなわち主イエスが弟子らに約束したもうた聖霊である。

主イエス、死より甦らされたもう時、再び言いたもう「エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て。聖霊なんじらの上に臨むとき、汝ら力を受けん。しかしてエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、及び地の極にまで我が証人とならん」(使徒一・4、8)。かくて弟子たちは心を合わせて常に祈りにつとめたので、「五旬節の日となり、彼らみな一所に集いおりしに、烈しき風の吹きたるごとき響き、にわかに天より起こりて、その座する所の家に満ち、また火の如きもの舌のように現れ、分かれて各人の上にとどまる。彼らみな聖霊にて満たされ、御霊の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ」(使徒二・1~4)。これすなわち約束の聖霊が彼らに臨みたもうたのである。

ペテロが十一人と共にイエスを殺したユダヤ人に向かい、主の十字架と甦りとを説いた時、彼らはこれを聞いて心を刺されるような思いをしたのである。時にペテロは彼らに悔い改めるべきことを諭し、イエス・キリストを信じよと命じたので、この日弟子に加わった者はおよそ三千人であった。これより福音は四方に伝播して今日に至り、遂にほとんど全世界に及んだ。ああ、父、子、聖霊なる神に栄光あれ。アーメン。

今、この約束の聖霊、すなわち永遠に共にいまして内に宿りたもう慰め主を受けることについて説こう。

再び問う。兄弟姉妹よ、なんじ信者となりし時、聖霊を受けしや。君は絶えず神と共にあるか。実際のところ、ただ主イエスの名の中に入れられてバプテスマを受けただけで、いまだに聖霊を受けていない人がいる(使徒八・16)。このような信者はある時はキリストに従い、ある時は悪魔に従う。彼らは内心では神に従うことを願い、これを努める。しかし悲しいかな、彼らは絶えず境遇の奴隷となり、悔い改めてはまた罪を犯し、また悔いては罪を犯す。意志と言行との間に常に衝突が生じ、常に義との衝突を生じる。そのため彼らは世の光、地の塩となることができないばかりか、ますます未信者に疑いを抱かせ、つまずかせることになるのである。ゆえにかかる信者の心中に平和円満がなく、喜楽も永続することはないのである。

昔イスラエルの民は、神に導かれて暗黒無道なるエジプトの国よりのがれ、たえなる聖霊によって紅海を通過した。しかし、その全霊全生全身を全く神に帰服させることをしなかったので、一直線に信仰によって歩むことができず、常に境遇の奴隷となった。少し飢えを感じただけでたちまち不平をならして神を怨み、渇きを感じた時には神の僕モーセに迫ってこれを罵り恨んだ。あるいは暗黒なるエジプトに帰ることを願い、不義の財産を慕い、一時の肉欲に耽ろうとし、あるいはかの金像を拝してエホバの神を拝さなかった。けれども恵み深い神は常に忍んで彼らを顧み、昼は雲の柱、夜は火の柱をもって彼らを導き、また日々彼らのためにマナ(食物)を備えたもうた。しかるに彼らはなお神を疑い続け、私欲のために義なる神の命令に背き、とげある鞭を蹴り、自ら求めて辛苦をなめるに至ったことが度々あった。このようにアラビヤの荒野をさまようこと四十年、しかして後、ようやくかの乳と蜜の流れる神の約束の地なるカナンに入ることができた。兄姉よ、君はすでに一たび悔い改めてエジプトを出て、主キリストを信じて紅海を通過した者であろう。されば実際、君の罪は赦されて救われたのである。けれども君はなおアラビヤの荒野をさまよっているのではなかろうか。君は果たしてすでにカナンに入ったか。全知全能の神は知りたまわぬことはない。君は全く潔くあるか。また心を尽くし、意を尽くし、力を尽くして主なる汝の神を愛しているか。己のごとく隣人を愛しているか。常に喜び、絶えず祈り、すべてのことについて感謝しているか。兄弟姉妹よ、君はいまだに全く潔くなく、その潔くない心で計画した事業を行って神を喜ばせようとするのか。もしまことに神のみを喜ばせようするならなおよい。けれどもその内心の一部は密かに肉の利益を求め、世人の名誉を慕っているのではなかろうか。その事業を行うのは神を喜ばせようとすることよりも、むしろ己を喜ばるためではないか。その潔くない手で己の業をなし、聖き神の栄光を現そうとするのか。見よ、君は白く塗った墓のように、その内部の汚れを包み隠し、わずかに外面を飾り、しかして揚然自得の色あって、神に栄光を帰すよりも己に栄光を帰しているのではなかろうか。

さらに一例をあげるなら、ペンテコステ(約束の聖霊が弟子に下った日)以前のペテロはすなわちこれであった。眼前に敵なく、苦難いまだ来たらず、他の弟子たちと共に主の前にあった時、ペテロは血気にはやって奮発し、「主よ、我は汝とともに獄にまでも、死にまでも行かんと覚悟せり」(ルカ二二・32)と断言した。しかし数時間後、敵が襲ってきて、主は捕らわれて引いて行かれ、弟子たちは離散するに至った時、ペテロは果たしてその言葉のように主と共に行ったか。否々、彼は遠く離れてイエスに従った(マタイ二六・58)。これに加えて、敵の一人のはしためがペテロを見、「この人も彼と共にいた」と言った時、卑怯にもペテロは禍いが身に及ぶのを恐れて、愚かにも神より人を恐れ、ついに偽って「女よ、われ彼を知らず」と言った。さらに他の人の前で主の弟子であることを再び否み、三度目にまた別の人の前で主を罵り、拒んだのである。やがて鶏が鳴き、主が身を翻してペテロを見たもうに至り、彼は外に出て激しく泣いたのである(ルカ二二・56~62)。

ああ、兄弟よ、今君はどうか。君はペテロではないだろうか。時として遠く離れて主に従ってはいないか。今、君のために鶏が鳴く。今、主は君を見たもう。君の良心は叫び、君に警告しているのではないか。今、君はその場にいたたまれず、ペテロと共に外で激しく泣こうとしていないか。「わが欲する所の善は之をなさず、かえって欲せぬ所の悪は之をなすなり。ああ、われ悩める人なるかな。この死の体より我を救わん者は誰ぞ」(ローマ七・19、24)とは君の衷情の叫びではないか。

兄姉よ、君はキリストに属する者ではないか。君を悩ますものは何か。肉の心すなわち本性の己に他ならない。根があれば芽を生じ、また枝葉を生ずる。一時その芽あるいは枝葉を切り取っても、根がある間はまた生じ、また切ってもまた生ずる。君が罪を犯してやまない理由は、内に罪の根があるからである。いわゆる肉の心すなわち本性の「己」がまだ死んでいないことによるのである。「肉の思いは死なり。霊の思いは命なり、平安なり。肉の思いは神に逆らう。それは神の律法に従わず、否したがうことあたわざるなり」(ロマ八・6、8)。主は明らかに言いたもう「人は二人の主に兼ねつかうることあたわず。あるいはこれを憎み彼を愛し、あるいはこれに親しみ彼を軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼ねつかうることあたわず」(マタイ六・24)。

兄姉よ、君の内に絶えず戦いがある理由は二主に仕えようとするからである。ただ主イエスの名の中に入れられただけで、いまだに聖霊を受けていないからである。内心では神に従うことを願い、時々聖霊の感化を受けるが、実際に全霊全生全身を神に献げていないからである。聖霊ご自身がその円満なる神体をもって君の内に住もうとされてもその場所がないため、君は絶えず神と共にいることができないのである。

神命じて言いたもう「人もし我に従い来たらんと思わば、己をすて、己が十字架を負いて、我に従え」(マタイ一六・24)。神断言して言いたもう「我よりも父または母を愛する者は、我にふさわしからず」(マタイ十・37、38)。兄弟よ、今、神の光が君の身と心を照らしている。君は言い逃れできない。されば今おのれを捨て、地に属するすべての肉の欲念を絶ち、しかして十字架を取って主に従われよ。「見よ、われ戸の外に立ちて叩く。人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その内に入りて彼と共に食し(すなわち永住)」(黙示三・20)。今、君の心の戸を叩いている者はすなわち約束の聖霊である。今その戸を開き、身も、魂も、時も、財も、力も、名望も、みな神に献げ、聖霊に自由にこれを使用してもらわれよ。兄弟よ、君はキリストの血をもって買われた者であって、君は君のものではないことを知らないのか。「己が身を神の悦びたもう潔き生ける供え物として献げよ。これ霊の祭なり」(ローマ一二・1)。

君はすでに神の光によりその戸を開くべきことを悟ったが、これを開く力がないのか。己という肉の心を殺すことを願っていても、これを殺すことができないのか。憂うるなかれ。労して効なき自己の力を用いることなかれ。静まって誠意の目を上げ、世の罪を負う神の小羊を見よ。主イエスは我ら罪人を救うため、天の聖座と万軍の栄光をも惜しまずに捨て、自ら卑下して罪人の形となり、我らの中に来たりたもうた。主はかって言いたもうた「狐は穴あり、空の鳥はねぐらあり、されど人の子(主イエス御自身を指したもう)は枕する所なし」(マタイ八・20)。「彼は侮られて人に捨てられ、悲哀の人にして病を知れり」(イザヤ五三・8)。ゲッセマネの園でその汗が血のしたたりのように地に落ちた時の御悩みはいかばかりであったろう(ルカ二二・44)。カルバリの十字架上で「わが神、わが神、なんぞ我を見捨てたまいし」と叫びたもうた時の御苦しみはいかばかりであったろうか(マタイ二七・46)。兄姉よ、祈りのうちに目を開き、詩篇第二十二篇を見られよ。これ主イエスの十字架の写真である。「われ水のごとく注ぎ出され、わがもろもろの骨は外れ、わが心はろうのごとくなりて腹の内に溶けたり。わが力はかわきて陶器のくだけのごとく、わが舌はあごにひたつけり。汝われを死の塵に伏せたまえり。そは犬われを巡り、悪しき者の群れ我を囲みて、わが手及びわが足を刺し貫けり。わが骨はことごとく数うるばかりになりぬ。悪しきもの目をとめて我を見る。彼ら互いに我が衣を分かち、わが下着をくじにす」(詩二二・14~18)。「それ義人のために死ぬる者ほとんどなし。仁者のためには死ることを厭わぬ者もやあらん。されど我らがなお罪人たりし時、キリストは我らのために死にたまいし」(ローマ五・7,8)。いかばかり我らを愛したもうことであろうか。「キリストの愛われらを励ませり」。兄姉よ、これほど君を愛したもう主イエスのために、君は何を惜しむ所があろうか。しからば今こそ喜んで身も魂も主に献げ、「主よ、汝のものなる我なれば、どこへでも、何の働きでも、御旨のままに我を用いたまえ。主よ、我ここにあり、我を遣わしたまえ」と祈り、しかして今、祈りのうちに神の御言葉を聞け。君は神にはできないことはないことを信じるか。「その子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」(ヨハネ第一書一・7)。君はこれを信じるか。「もし己の罪を言いあらわさば、神は真実にして正しければ、我らの罪を赦し、すべての不義(本性の罪の根)より我らを潔めたまわん」(ヨハネ第一書一・9)。君はこれを信じるか。今、人を見ず、己を見ず、事情を見ず、ただ神を見て、誠意より「主よしかり、われ信ず」と言え。アーメン。

愛する者よ、それで良い。「主イエス息を吹きかけ言いたもう。聖霊を受けよ」(ヨハネ二十・22)。君の戸はすでに神の大能により開かれた。君の肉の心はキリストの血により潔められたのである。今、聖霊は君の内にあって、君の身をその宮となしていたもう。「汝は聖し、全く聖し」(ヨハネ十三・10)。「見よ、我は世の終わりまで常に汝らと共にあるなり」(マタイ二八・20)。兄姉よ、君は「バプテスマを受けしとき、彼と共に葬られ、また彼を死人の中より甦らせたまいし神の働きを信ずるによりて、彼と共に甦らせられたり」(コロサイ二・12)。また罪と世とに死別して、新たに生まれて今はただ神に仕える者である(ローマ六・11)。「我キリストと共に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉体に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨てたまいし神の子を信ずるによりて生くるなり」(ガラテヤ二・20)。「世の初めの前より我らをキリストのうちに選び、我らが受くべき嗣業の保証(来たるべき幸福栄光の確証の手付)なる約束の聖霊をもって我らを印し」(エペソ一・4、13)たまいたる父なる神の恵みはほむべきかな。願わくは栄光かぎりなく主イエス・キリストにより父なる神にあらんことを。アーメン。