ヨセフの話

死んで高く上げられたキリストの模型

笹尾鉄三郎

創世記四二章~四五章

四二章五節で「飢饉」があった。兄弟たちの困難がここから始まる。七節「ヨセフその兄弟を見てこれを知り」。我らが苦しむ時、主イエスは我らを見てこれを知っておられるのである(八節前半)。しかし「知らざるごとくして荒々しくこれにもの言う」(七節)。「汝らは必ず間者なり」(十六節)。敵のように扱う。「三日のあいだ捕らえおけり」(十七節)。兄弟らは思いもよらないことを言われ、意図しない辛苦をなめた。また、逃れ去ろうとしてもできなかった。我らが主の懲らしめに会う時、実にこの兄弟らのように感じるのである。十九節、懲らしめの中でも一方において寛容を示される。しかし別節において、さらに一層困難なことを命じられる。二一節、困難に直面して目覚め、自らを顧み、罪あることを知った。「我らは弟の事によりて真に罪あり……その心の苦しみを見ながらこれを聞かざりき。ゆえにこの苦しみ我らに臨めるなり」。

二三節、彼らは内側では心に責められ、外側では困難に遭い、当惑して悩み、互いに語りあったが、その言葉をヨセフは解した。しかし彼らはこれを知らず、通訳を用いたのである。我らもこのような場合に臨むとき、主はよく我らの一部始終と我らの独り言とを解したもうが、我らは自ら親しく直接主と交わり、その聖旨を知り、聖声を聞くことができず、他の兄弟の祈りまた勧めに頼る。

二四節後半「ヨセフ彼らを離れて行きて泣き」。ヨセフは七度泣いた(創世四二・二四、四三・三〇、四五・十四、四六・二九、五〇・一、五〇・十七)。我らが懲治に会う時、しばしば神は愛であることを疑いはしなくても信じないことがある。あるいはまた、神の愛を疑い、神を自己に対して厳酷な主人のように感じることがある。しかしこれは大きなはなはだしい誤解であって、我らを懲らしめたもう主の御目は、我らの悩みに対して同情と哀憐の涙で満ちているのである(へブル四・十五前半)。ただしばらくの間、我らが真に罪に服して悔い改めの実を結ぶまで、我らの益のためにその温顔と涙とを我らから隠したもうのである(へブル十二・五)。二四節後半、シメオンを縛った。内心涙を流しつつ、なお懲治の手を下したもう。

四三章一節。なお続いて試みの中にある。十一節、十二節。我らはなんとしても主を喜ぱせて和らげようと、自分の良いと思う犠牲や働きで神に贈り物をしようとする。しかし、神が求めておられるのは従順である。

十三節、十五節。(十四節は信仰の祈り)。従順になってベニヤミンを携えて行った。これは実に彼らにとって幸福の門であった。見よ、この章では彼らがヨセフの前に立った時に受けた待遇は前章とは全く異なっている。十六節、二三節、二四節の厚遇、二七節、二九節の温言は、実に兄弟らの意表を突いた。かつ、通訳なしでヨセフと兄弟らは直接会話し、共に食した。

三〇節「ヨセフその弟のために心焼くるがごとくなりしかぱ、急ぎてその泣くべき所を尋ね、室に入りてそこに泣けり」。彼が泣いたのは贈り物のためではない。弟のためであった。神が我らに対して指名された人は主イエスである。我らが主イエスを我らの先に立てて神の前に出る時、神は主イエスのために我らを厚遇したもう。これに加え、神の御心は感動し、喜びのあまり泣きたもうのである。三一節「顔を洗いて出で、自ら抑えて」。なお試みの中にある。試みられる我らよりも、試みたもう主の御心中はいかばかりであろうか。

四四章十二節、十三節。兄弟たちは夢を見たように感じたであろう。その驚き、その当惑、苦痛、実に思いやられる。しかしこれはみなヨセフの計画から出たものであった。最後の試みとして、彼らをこのように扱ったのである(ペテロ前四・十二、コリント前十・十三)。どんなことが我らの上に下って来ても、すべて神の御計画中にあるゆえ、われらは当惑するには及ばない。

十六節「神、僕らの罪を表したまえり。されば我ら……主の奴隷となるべし」。以前ヨセフに対して殺意を抱き、これを売り、また父を欺いた大罪を深く感じ、義なる神はどうしても自分たちを逃したまわざることを知り、自ら罪を認め、刑罰に服する覚悟をした。これこそ真の砕かれた魂である。

三一~三三節。十字架の麓に伏す砕かれた魂は、自ら人を愛する。我らが重荷を下ろした場所は、他人のために重荷を受ける場所である。以前は嫉妬によりその兄弟骨肉なるヨセフを憎んで殺意を抱き、これを奴隷に売りとばし、またその父の悲痛を少しも顧みなかった惨逆冷淡なユダが、今は悔い改めの実を結び、その父を深く思い、その兄弟を厚く愛し、自らその身を犠牲にしてその難を救おうとした。ヨセフがそれまで長らく自らを抑え、涙を飲んで懲らしめを重ねたのは、ただこの悔い改めの実を見るためであった。

四五章一節「ヨセフその側に立てる人々の前に自ら忍ぶあたわざるに至りければ、『人みな我を離れて出よ』と呼ばわれり」。我らが懲らしめに会い、ただちに悔い改めの実を結ぶ時、主は自ら忍ぶことができず、その真の姿すなわち完全な愛である御自身の姿を現したもうのである。そしてこれは常に傍に他人がおらず、ただ主と我らだけがいる時にである。

二節「ヨセフ声をあげて泣けり。エジプト人これを聞き、パロの家またこれを聞く」。どれほどの感動、大声か。兄弟らの感動よりもヨセフの感動の方が遥かに深く強かった。放蕩息子の父の感動もまたこうであったろう。主はこの恩愛の感動をもって我らに問いたもう。

四節「我はヨセフなり」。これまで厳酷な主のように見えていたその人が自ら名乗り出たところ、わが骨肉であった。これ我が親愛なる主イエスであった。

四節。ヨセフ言いけるは「請う、我に近よれ」。五節「憂うるなかれ。身を恨むるなかれ」。

八節「我をここに遣わしたる者は汝らにはあらず、神なり」。神の摂理の御手は我らの意の外にあって、人の失敗の中でも神の成功の車輪は絶えず回転している。ハレルヤ。

十五節。まず和らぎ、次に交わりに入る。二二節。新しい命を与えられる。今、兄弟らの身分は宰相の骨肉であるゆえ、威厳があることは当然である。

ヨセフはいったん穴すなわち墓に投ぜられた後、甦って栄光を与えられたのである。甦ったヨセフにあって、兄弟らもまた甦って新しい生涯に入った。その生涯とはすなわち、
 第一、栄光の主なるヨセフの近くで暮らす生涯(四五章十節)
 第二、天の所の福祉を所有する生涯(四七章十一節)
 第三、ヨセフより養われる生涯(四七章十二節)
 第四、敵人のエジプト人に囲まれて常に危難が迫っているけれども、ヨセフの保護により安全な生涯(四六章三四節)
 第五、皇族としてヨセフの栄光の中にあって高く上げられた生涯。

この生涯は信仰によって受くべし(四五・二八)。見ずに満足するのが信仰である。