われらが祈り求めるものは神の聖旨であって、主イエスも「求めよ、さらば与えられん」(マタイ七・七)と教えたもうた。しかし愚かな我らは求めるべきものを知らず、あるいは金銀財宝、あるいは肉体の快楽、あるいは浮世の名誉、あるいは人の前の成功を求める。使徒ペテロもヤコブもヨハネもかつて愚かな祈りをした。「汝らは求むる所を知らず」とはこれ主の御歎息である(マルコ九・五、六、同十・三七、三八)。
主は今われらに求めるべきものを教えて言いたもう。「ただ神の国を求めよ」(ルカ十二・三一)。これ我らが求め得る最上最大の賜物である。ためしに考えてみよ。我ら庶民に一大王国が与えられるとするなら、これは空前絶後の大恩賜ではないか。神は実際にイエスを高く上げて天地万物の永遠の王とし、天国の嗣子とされた。かつ彼を信じる者を高めて彼と共に万有をつかさどらせ、共に神の国を嗣がせようとしておられる。神は我らが進んで獲得することを望んで、熱心に懇切に「ただ神の国を求めよ」と命じたもうのである。これほど我らに高尚遠大な願望を抱かせるものはない。では神の国とはそもそもいかなるものか。これはもとより筆舌に尽くせないものであるが、神と、無限の栄光と、聖さと、永遠の命と、祝福と、聖徒と、天使と、潔められた万有とから成るものであろう。これは未来において確かに信者が獲得するものであるが、現世において神の国を受け始めるのである。神はローマ書十四章十七節で我らに示したもう、「神の国はただ義と和と聖霊による喜びにあり」と。キリストはすなわち我らの義であり(コリント前一・三〇)、キリストはすなわち我らの和であり(エペソ二・十四)、キリストの喜びは聖霊によって我らの喜びとなるのである(ヨハネ十五・十一)。ゆえにキリストを受け入れた者は神の国を得た者である。キリストは今、聖霊により来たり、我らの心身を御住居となし、神の国を我が生涯に建設したもうのである。されば兄姉よ、「ただ神の国を求めよ。汝らの父は喜びて国を汝らに与えたまわん」(ルカ十二・三一)。「汝らの父は求むる者に聖霊を与えざらんや」(ルカ十一・十三)との御約束を信じて受けよ。しかして聖国にとどまれ。進んで聖国を拡げよ。