昔ユダヤ教の儀式では、罪を犯した人が悔い改め、神からその罪の赦しを受けようとする時、一頭の小羊を引いて来て、神前でその罪を言いあらわし、手を小羊の上に置いて己の罪をこれに負わせ、その後、祭司はその小羊を屠って、その人のために罪の贖いをなし、これによって罪の赦しを宣告したということである。これはもとより一つの儀式であって、畜類が人間の罪を贖えるはずはないが、神はこれを用いてキリストの贖いを説明されたのである。
小羊というものは潔く無害で、極めて柔和従順である。それが屠られるときも、狂暴な動作は少しもなく、声さえ出さずに倒れるのが常である。キリストはすなわち小羊であって、我らの罪の贖いの犠牲として神が備えたもうたところのものである。彼は神の子であられ、もともと全く潔く、罪を知らない方である。彼がこの世におられた時、人間はあらん限りの言葉と手段とをもって彼を辱め、彼を苦しめたが、彼は少しも人を害したまわず、それゆえ当時の裁判官ピラトもびっくりしたほどである。こうして彼は遂に十字架に付けられ、その肉は裂け、その血は流れ、我ら人間の受けるべき神の刑罰をことごとく御身に負い、測り知れない苦痛を忍び、「こと終りぬ」との一声の下に息絶えたのである。ゆえに言う、「世の罪を担う神の小羊を見よ」と。愛する友よ、我らが不完全であること、徳義上罪人であることは明かである。しかし世人は往々にして罪の罪たることを感じず、義なる神の審判と刑罰の恐ろしさを悟らず、依然として日々罪悪を重ねつつある。これあたかも欺かれて毒酒を飲み、恍惚として日を送る者のように、覚えず知らぬうちに速やかに死に近づきつつあるのである。しかり、滅亡に近づきつつある。神は我らの危機をご覧になり、我らを憐れみ、我らを救うために御愛子イエス・キリストを降して、我らの贖いの小羊となしたもうた。彼を信じる者は罪の赦しを得、神の子とされ、限りない命を受けるが、信じない者はその罪すでに定まり、滅亡に至るのである。余は大いなる罪人であったが、憐れみ深い神はイエスによって余の罪を赦し、以来実に平和の内に世を送らせ、また来世の輝く望みを与えたもうた。我が友よ、あなたは救いを求めているか。あなたの罪をことごとく十字架上で担われた神の小羊イエス・キリストを信じよ。そうするなら、あなたとあなたの家族も救われるであろう。