第一章 悔い改めにふさわしい実
「さらば悔い改めにふさわしき実を結べ」(マタイ三・八)。
我らは永らく剛腹で悔い改めない心に従い、己のために神の怒りを積むのみであったが(ローマ二・五)、神はその聖霊と御言をもってねんごろに我らを諭し、悔い改める心を与えたもうた(テモテ後二・二五)。そして「神の求めたもう祭物は砕けたる霊魂なり」(詩五一・十七)とある通り、神はこの悔いくずおれた心を軽しめたまわず、喜んで迎え入れたもう。これは大いなる御恵みである。
なお、悔い改めとはただ過去のことを後悔するだけでなく、また今後勉めて善行をなそうとすることでもなく、実際に罪悪と悪魔とを捨てて真の神に帰服することである。
使徒行伝二〇章二一節を見ると、
一、「神に対して悔い改め」とある。多くの人の悔い改めは自分や人に対する懺悔で、一時の気安めである。彼らは神が満足したもうか否かを考えない。神に対する悔い改めとは、
(イ)、神に逆らった己の罪を認めることである。昔ダビデ王は姦淫と殺人の大罪を犯し、人に対して無上の罪人となったが、彼の悔い改めの祈りには「ああ神よ、我はわが咎を知る。わが罪は常にわが前にあり。我は汝に向かいて、ただ汝に罪を犯し、聖前に悪しきことを行えり」と言った(詩五一・一、三、四)。罪の恐ろしさは人を害することよりも、また己のために不都合な結果を生じることよりも、神に逆らって神を傷めまつることにあるのである。我らはこの意味において深く己の罪を悲しみ、憎み、悔い改めるべきである。
(ロ)、エホバを恐れて悪を離れよ
罪は我にとって不倶載天の敵である。我が罪を滅ぼさなければ、罪は我を亡ぼす。我らは神の光に照らされた善なる良心の声に従い、わが身心にまといつく罪悪を退治しなければならない。「それ神に従う憂いは悔いなきの救いを得るの悔い改めを生じ、世の憂いは死を生ず。見よ、汝らが神に従いて憂いしことは、いかばかりの勉励(厳密に注意して己の罪を見出すこと)、また怒り(悪魔と罪悪に対し)、また恐れ(神に対し)、また恋慕(義と聖とを)、また熱心、また罪を責むる心などを汝らのうちに生じたりしかを。汝らかの事につきては全く潔きことを表わせり」(コリント後七・十、十一)。ついでに言うと、罪を離れると同時に罪を共にした朋友にも悔い改めを勧め、もし彼らが悔い改めなければきっぱりと彼らから離れ、主にある友達を求めるがよい。
偶像、仏壇、神棚およびこれに付帯する一切の物をきっぱりと捨てるべきである。「これは汝の神エホバの憎みたもう者なればなり。恐らくは汝もそのごとくに呪わるる者とならん。汝これを大いに忌み、いたく嫌うべし。これは呪うべきものなればなり」(申命七・二五、二六)。これらの物を売り払い、また人に与えてはならない。そうするなら人を害する。ぜひとも焼き、また壊すべきものである。エペソの悔改者は魔術に関する書籍銀五万を人々の前で焼いた(使徒十九・十九)。これは良い模範である。「先祖代々家付の物である」とか「世間に対して憚られる」といった口実は神の前に通用しない。位牌を先祖だと思ってこれを拝し大切にすることも迷信である。しかし、墓地には実際に先祖が埋葬されているのでこれを大切に保管すべきであるが、神社や寺院および偶像信者との宗教上の交際は断絶すべきである。人や場所によってはこれはかなり困難なこともあるが、全智全能の神は我らと共にいますことを信じ、彼の能力によって断行すべきである。「『われ更に汝を去らず、汝を捨てじ』と言いたまいたればなり。されぱ我ら心を強くしてかく言わん『主わが助け主なり。我おそれじ。人われに何をなさん』と」(へブル十三・五、六)。
次に悔い改めにふさわしい実とは、
二、人の前に自己を低くすることである。自分一人で神に祈り、その罪を悔い改めていても、人に対してなすべきことをなさない人が多くいるが、それは全き悔い改めではない。
(イ)、罪の告白。ヨハネのもとに来てバプテステを受けた人々は己の罪を告白した(マタイ三・六、使徒十九・十八)。神に対してはもちろんであるが、人に対しても少なくとも己の罪に関係ある人(被害者)に告白して謝罪すべきである。「その罪を隠す者は栄ゆることなし。されど言いあらわして之を離るる者は憐れみを受けん」(蔵言二八・十三、ヨハネ一書一・九)。これは場合によっては実に苦しく感じるが、神に従って断行しなければ平和が来ない。しかし、ある場合には知恵が必要なので、伝道者に相談すると良い。
(ロ)、人と和らぐこと。自分に対する人の罪を心から赦し、打ち解けなければならない。これは我らの罪の赦しと密接に関係する(マタイ十八・三五)。また人から恨まれていることを思い出したら、すぐさま行ってその人と和らぐべきである(マタイ五・二三、二四)。神と和らぐにはこれが必要である。
(ハ)、正当な賠償を行うこと。人の物を盗むことはもちろん、払うべきものを払わないこと、借りた物を返さないこと、また人のものを無断に使用することは、みな罪である。必ず返却または賠償しなければならない(レビ六・一~五、ルカ十九・八)。
第二章 救いを得る信仰
「イエス女に言いたもう『汝の信仰なんじを救えり。安らかに行け』」(ルカ七・五〇)。
天の下には誰一人、己の行いによって神の前に義とされ、救われる者はいない。しかし神は我らに難かしい行いを要求したまわず、ただ信仰によって我らを救いたもう。これは大きな恵みである(エペソ二・八)。しかし信仰にも色々あって、何でもかんでも矢鱈に信じても救われない。ある人は「鰯の頭も信心次第」と言うが、どれほど熱心に鰯の頭を信仰したとしても何の巧徳もあるはずがない。それで功徳があったと思うなら、これは迷信である。我らが霊魂の救いを得、限りない命を受けるのは、唯一の生ける神と救い主イエス・キリストを信じることによるのである。迷信とは己の心の思いや人の言葉や死物を信じることで、真の信仰とは生ける神とその御言を信じることである。
「それ神は唯一なり。また神と人との間の仲立ちも唯一にして、人なるキリスト・イエスこれなり。彼は己を与えてすべての人の贖いとなりたまえり」(テモテ前二・五、六)。
今の世には似て非なるキリスト信者がかなり多くいる。キリストを歴史上昔の大人物として、聖賢として、理想模範として仰ぐことは真の信仰ではない。真の信仰は次のように信じることである。(一)、イエスは神の子、すなわち神である。(二)、イエスの十字架は我らの罪の贖いである。(三)、イエスは甦って今も生きておられる我らの救い主である。
(一)、子なる神イエス
真の神は三位一体と言って、父、子、聖霊なる神である。イエス・キリストは子なる神であられ、父なる神と一体なる御方である(ヨハネ十・三〇)。彼は永遠の昔から存在したもう御方で、天地万物はキリストによって造られ、また全てのものが今まで存在しているのもキリストによるのである(コロサイ一・十五~十七)。このことを信じないでイエスをただの一介の人間とする者はキリストの敵である(ヨハネ一書四・二、三)。クリスマスを祝う時も、我らに近づくためにこれほど御自分を低くされた主の御恩を深く味わい感謝したいものである。
(二)、十字架の贖い
イエスの品性は実に高潔である。彼の生涯は真に美わしい。しかしこれらのものは我らの救いにはならない。我らに罪の赦しと天の平和とをもたらすものはイエスの死である。彼の十字架である。「これは契約のわが血なり。多くの人のために、罪の赦しを得させんとて流す所のものなり」(マタイ二六・二八)。「今は神、キリストの肉の体をもて、その死により汝らをして己と和らがしめ、潔く傷なく責むべき所なくして、己の前に立たしめんとしたもうなり」(コロサイ一・二二)。
(三)、甦ったイエス
イエスは我らの罪のために死にたもうたが、我らが義とされるために甦らされたもうた(ローマ四・二五)。彼は甦った後、四十日間も人々に現われ、神のことについて語り、その後天に昇りたもうた(使徒一・三、九)。我らが信じる者は昔の死んだ人物ではなく、今も生きておられる救い主である。イエスの甦りによって彼の神性は証明された(ローマ一・四)。イエスが生きておられるから、彼を信じる我らに命があるのである。この甦りの力により、我らはこの世において悪魔と罪悪とに打ち勝って進むことができるのである。またイエスの甦りによって、我らは未来に対する生ける望みを得たのである(ペテロ前一・三)。なおこれについては後に詳しく語ることにする。終わりに、真の信仰の行いについて述べよう。
信仰というものは、見えるものによらず、感情にもよらず、また理性にも関せず、ただ我らの心霊が意志をもって動くことである。この信仰は神の言を聞くことにより起きるもので(ローマ十・十七)、その要点は、
(イ)、受け入れること。「されど之を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与えたまえり」(ヨハネ一・十二)。「おおよそ幼子のごとくに神の国を受くる者ならずば、これに入ることあたわず」(マルコ十・十五)。すなわちイエスを我が救い主として受け入れることである。
(ロ)、依り頼むこと。「他の者によりては救いを得ることなし。天の下には我らの頼りて救わるべき他の名を、人に賜いし事なければなり」(使徒四・十二)。己にも人にも物にも依り頼まず、ただ主にのみ依り頼み、今(後と言わず)我が心身を彼に任せ、安んじ、信ずる信仰――このような信仰には少しも自ら誇るところはない。
(ハ)、服従すること。「その御名のために諸々の国人を信仰に従順ならしめんとて」(ローマ一・五)。物体に影が伴うように、信仰には服従が伴うのである。救助船に乗せてもらった人は船の行く通りに進む。我らもそのように主に従うのである。
(ニ)、告白すること。「それ人は心に信じて義とせられ、口に言いあらわして救わるるなり」(ローマ十・十)。心に信じても人を憚ってその信仰を隠している人は救いを全うすることができない(マタイ十・三二、三三)。主の恵みを味わった我らは誰の前でも高らかに主の御名を語るべきである。
第三章 救われた者に与えられた恵み
「それ人の子(キリスト)の来たれるは、失せたる者を尋ねて救わんためなり」(ルカ十九・十)。
我らは主イエスに尋ね出され、悔い改めて神に立ち帰り、心から神の子キリストをわが救い主と信じて依り頼んだが、憐れみに富む神はすぐさま我らを救いたもうた。「汝らは恵みにより、信仰によりて救われたり。これ己によるにあらず。神の賜物なり」(エペソ二・四、五、八)。今ここで、救われた者は神からどのような恵みを与えられたかを聖書から学び、恩に感じて神をあがめたいと思う。
(一)、罪を赦された。「イエス彼らの信仰を見て、中風の者に言いたもう『子よ、心安かれ。汝の罪ゆるされたり』」(マタイ九・二)。ああ、これは罪深い我らに対する何と有り難い御声ではないか。永らく恐れていた神の怒りはかの十字架の上にすでに注がれ、いま父は我を抱いて接吻し(ルカ十五・二〇)、「我もその不義を憐れみ、この後またその罪を思い出でざるべし」と言いたもう(へプル八・十二)。これより我が上に下り来るものは審判の刑罰ではなく、恩恵と憐れみだけである。「エホバは我らの罪の量に従いて我らをあしらいたまわず。我らの不義の量に従いて報いたまわざりき」(詩一○三・十)。
(二)、義とされた。「すべての人、罪を犯したれば神の栄光を受くるに足らず。功なくして神の恵みにより、キリスト・イエスにある贖いによりて義とせらるるなり」(ローマ三・二三、二四)。「我ら信仰によりて義とせられたり」(ローマ五・一)。神は我らを「赦された罪人」の地位にとどめておかれず、進んで我らを「義人」と称したもう。義人とは生まれてから罪を犯さず、義のみ行って来た人である。我ら人間の力では義人は一人もいないが、これは神の賜物である。イエスは死によって罪というわが汚衣を脱がせ、甦りによって義という新しい衣を我に着せたもうた(ローマ四・二五)。これは天使に見せても恥ずかしくない着物である。
(三)、神と和らいだ。「我ら…我らの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得たり」(ローマ五・一)。「汝らもとは悪しき業を行いて神に遠ざかり、心にてその敵となりしが、今は神キリストの肉の体をもて、その死により汝らをして己と和らがしめたり」(コロサイ一・二一、二二)。敵対していることがいかに恐ろしい結果を生じたか、講和がいかに喜ばしい結果をもたらしたかは、日露戦争から明らかである。神の敵となる恐ろしさ、神と和らぐ嬉しさよ!今は恐れずに憚ることなくわが神に近づき、親しみ交わることができる。
(四)、新たに生まれた。主イエスは「人あらたに生まれずぱ、神の国を見ることあたわず。人は水(神の言)と霊(神の霊)とによりて生まれずば、神の国に入ることあたわず」と言いたもうた(ヨハネ三・八)。我らはどうしても自分で更生することはできないから、神の霊が不思議な働きをもって我らを更生したもうのである。「およそイエス(人となって現れ、かの十字架に付けられ、甦ったイエス)をキリスト(神が遣わされたわが救い主)と信ずる者は、神より生まれたるなり」(ヨハネ一書五・一)。「汝らバプテスマを受けしとき、彼(キリスト)と共に葬られ、また彼を死人のうちより甦らせたまいし神の働きを信ずるによりて、彼と共に甦らせられたり」(コロサイ二・十二)。(ついでに言うと、バプテスマは死と甦りを表わす儀式で、水を墓として用いる。これは主の御命令で、各信者が受けるべきものである。マタイ二八・十九)。
(五)、神の子とされた。「これ(キリスト)を受けし者、すなわちその名を信ぜし者には、神の子となる権を与えたまえり」(ヨハネ一・十二)。我らはもともと悪魔の子であったが(使徒十三・十)、今は神の子と称えられているとは何という御愛か(ヨハネ一書三・一)。我らはいくら願っても世の帝王の子となることすらできないのに、天地の王なる神の子とされるとは!もったいなくありがたいことである。「かく汝ら神の子たるゆえに、神は御子の御霊を我らの心に遣わして『アバ、父(おとっつあん)』と呼ばしめたもう」(ガラテヤ四・六)。これは空想ではなく事実である。聖霊は我が心にこれを証明したもうのである(ローマ八・十六)。
(六)、永生を与えられた。「罪の払う価は死なり。されど神の賜物は我らの主キリスト・イエスにありて受くる永遠の生命なり」(ロ―マ六・二三)。「わが言を聞きて我を遣わしたまいし者を信ずる人は、永遠の生命を持ち、かつ裁きに至らず、死より生命に移れるなり」(ヨハネ五・二四)。「われ神の子(キリスト)の名を信ずる汝らにこれらのことを書き送るは、汝らに自ら永遠の生命を持つことを知らしめんためなり」(ヨハネ一書五・十三)。秦の始皇帝は不死の薬を求めて得なかったが、我らはイエスによって遥かに優れたものを得た。我らもはや死を恐れない。
(七)、天国の望みを得た。我らは神の子であるから、将来は神の後継ぎ、すなわちキリストと共に後継ぎとなる者である(ローマ八・十七)。我らはいつ死んでもすぐさま楽園に上り、主イエスの御側へ行くことができるのである(ルカ二三・四三)。また我らが生きている間に主が再臨されるなら、我らは死ぬことなく生きたまま天に昇るのである。これについては後段で詳説しよう。ああ、楽しいかな、我が望み。ああ、慕わしいかな、天津古里。
第四章 聖書を探索すること
「汝らエホバの書をつまびらかに尋ねて読むべし」(イザヤ三四・十六)。愛なる神は天地万物を我らに与えたもうたが、今日目にする賜物の中では聖書が最大の賜物である。聖書はみな神の黙示である(テモテ後三・十六)。「人の心より出でしにあらず。人々聖霊に動かされ、神によりて語れるものなればなり」(ペテロ後一・二一)。我らの信仰の基礎は聖書に記された神の言である。聖書はまた乳房のようなもので、謙遜と祈りとをもってこれに吸い付くなら、我らの霊魂を養う恵みの乳がたくさん出て来る。おお、兄弟姉妹よ、聖書を読まれよ。たとえ少しずつでも毎日必ず読まれよ。さがして味わわれよ。頭で理解するだけでなく、信じて心に受けられよ。
聖書の目的
これを略説すると、第一われらに光を与えるため、第二われらに命を与えるため、第三われらに栄光を与えるためである。すなわち父なる神は聖書によって御自身の聖なる光を発し、子なる神は聖書において御自身を現して我らに命を与え、聖霊なる神は聖言と共に我らの内に働いて栄光を与えたもうのである。
(一)、光。「神は光にして少しの暗き所なし」(ヨハネ一書一・五)。神は人間が思うよりも遥かに聖い御方である。聖書はこの聖なる神を現す光である。「それ戒めはともし火なり。掟は光なり」(蔵言六・二三)。この光によって我らは己の罪を悟ることができるのである。「心はすべての物よりも偽るものにして、はなはだ悪し。誰かこれを知る得んや。我エホバは心腹をさぐり、腎腸を試み、おのおのにその道に従いその業の実によりて報ゆべし」(エレミヤ十七・九、十)。「神の言は生命あり、力あり、両刃の剣よりも利くして、精神と霊魂、関節と骨髄を透して之を分かち、心の思いと志とを試すなり」(へブル四・十二)。我らが聖書を読み、深く己の罪と醜い姿とを悟ったなら、聖書の第一の目的は遂げられたのである。
聖書はまた暗いこの世の旅路を照らす光である。「汝の聖言は我が足のともし火、わが道の光なり」(詩一一九・一〇五)。されぱ我らは日々聖書を読み、心の中にも言行の上にも十分神の光を受けるべきである。
(二)、命。神は光を照らし、罪を示して、我らを悔い改めに導きたもうのみでなく、進んで救い主キリストを我らに現したもう。我らを罪より救い、我らに永生を与えたもう方はキリスト以外いないが、聖書はそのキリストを手に取るように現したもう。主は言いたもうた「聖書は我につきて証しするものなり」と(ヨハネ五・三九)。創世記の初めから黙示録の終わりまで、聖書を一貫するものはキリストである。もちろん、旧約は種々の模型と予言によってキリストを示しているが、調べれば調べるほどキリストの愛、力、知恵、徳、栄光、御旨、御業などを驚くほど拝することができる。このキリストは昨日も今日も(昔も今も)永遠に変わらない御方である(へブル十三・八)。聖書を読んで到るところにキリストを見出し、信仰によって彼をわがものとする者は幸いである。
(三)、栄光。キリストを信じる者は罪を赦されるだけでなく、罪の性質から潔められて神の性質を受け、聖と愛と全ての美わしい徳と上よりの権能とを与えられることができる。これはすなわち聖霊のバプテスマである。この聖霊はやはり聖書の言を通して働きたもう。
キリストは言によって教会を潔め、汚れなく皺なく全てそのような類なく、聖なる傷のない栄光の教会を自らの前に建てたもうのである(エペソ五・二六、二七)。聖書は我らを教え、また責め、我らをあらゆる良いわざに間に合う完全に整えられた者とする(テモテ後三・十六、十七)。されぱ我らは幾度となく聖書を読み、よく聖言を服膺(ふくよう)し、聖言に浸され(コロサイ三・十六)、心の思いも口の言葉も身の行いも全く聖書に支配され、聖書に従って動くべきである。
聖書を読む時の心得
(イ)、敬虔な思いをもって。聖書は前述したように神の貴い聖言であるから、人間の書いたものを見る時とは違って、我らは聖書を開く時、神を恐れ、自己を低くし、謹んで拝読し、常に無条件に神の言に服従する態度を取るべきである。
(ロ)、祈りの精神をもって。「神よ、今われに語りたまえ。我を教え、我を導き、我を祝して、聖名の栄光を現したまえ」と聖書を読む前も、読んでいる時も、読んだ後も祈るべきである。
(ハ)、信仰と喜びをもって。神の御言はことごとく真理である。少しもごまかしは無い。またこの言葉は我に与えられたことを信じるべきである。また神の約束はキリストによって我が身の上に成就したこと、これによって聖栄えが現われるようになることを喜ぶべきである(コリント後二・二〇)。
第五章 祈ること
「絶えず祈れ」(テサロニケ前五・十七)。
「われ望む。男はいずれの所にても潔き手をあげて祈らんことを」(テモテ前二・八)。
祈りの必要
聖書は食物のようであり、祈りは呼吸のようであって、この二つのものは我らの霊魂の命を維持するために一日たりとも欠かせないものである。祈らない人は窒息した人である。祈りは単に我らのために必要であるだけでなく、また神をあがめ主を喜ばせたてまつる方法である。それゆえ祈りは我らの義務でもあるが、また人生最高最大の特権でもある。我らの多くは一生に一度もこの世の帝王と語ることはできないが、祈りの中で我らは王の王、主の主なる神と日に幾度でも談話することができる。されぱ我ら朝晩は言うまでもなく、その他いつでも祈るべきである。
祈りの人なるイエス
我らと同じ肉体をとり、この世の波風にさらされたまいし主イエスの御一生は、全く祈りの生涯であった。彼はこの世に来る時に祈りたもうた(へブル十・~七)。バプテスマの後、祈りたもうた(ルカ三・二一)。また朝早く人のいない所に行って祈りたもうた(マルコ一・三五)。十二使徒を召す前に山に行って終夜神に祈りたもうた(ルカ六・十二)。働いている時も(ヨハネ十一・四一、四二)、喜びの時も(ルカ十・二一)、悲しみの時も(ルカ二二・四四)、苦しみの時も(ルカ二三・三四、マタイ二七・四六、ルカ二四・四六)、主は常に祈りたもうた。今もなお昼夜父の前で祈り続けていたもう(へブル七・二五)。主イエスでさえこれほど祈りたもうたなら、まして弱い我らはどうして祈らずに立つことができようか。
祈りの真意
は何かと言うと、
(一)、礼拝。これは被造物が造物主を崇め、彼を真に己の神として拝し、彼の聖栄、聖さ、美わしさ、愛、徳、知恵、力、富、尊貴を仰ぎ、真の尊敬をもってひれ伏すことである(黙示五・十一~十四)。
(二)、感謝賛美。これは父なる神と主イエス及び聖霊が我らのためになしたまえる恩愛の奇しき聖潔と彼の驚くべき賜物とを思って、心から感謝賛美することである。ことに十字架の御恩を知る我らは日夜感謝賛美しないではいられない。
(三)、懇求。主の御言に「求めよ、さらば与えられん。汝ら悪しき者ながら、善き賜物をその子らに与うるを知る。まして天にいます汝らの父は、求むる者に善き物を賜わざらんや」とある(マタイ七・七、十一)。有り難いことではないか。我らは少しも遠慮せず、大いに父上に求めるべきである。懇求に二種類ある。一は自己のため、二は他人のためである。自己のために聖と愛と智と力とその他霊肉の全ての必要物を求めるのは当然であるが、進んで自己を忘れ、他人の霊肉の欠乏や苦痛を己の重荷となし、彼らのために切に祈り求めることは、さらに幸福である。もう一種類の祈りは、再び来ようとしておられる主を招き奉ることである(黙示二二・二〇)。
(四)、交わり。これは特に願い求めることがない時でも、何もかも父上にお話しし、かつ聖声を聞くことである。時には無言でただ主と我と互いに顔を合わせ、心情が通じて喜ぶこともある。これは実に幸いなことである。いずれにしても祈りの大目的は主が仰せられたように(マタイ六・九、十)、神の聖名が崇められること、聖国が来ること、聖旨が成ることである。我らのうち、己の名の崇められること、己の領分勢力が大きくなること、己の志望が成就することを願って祈っている者はいないか。
祈りの秘密
どうかよく注意されよ。
(イ)、聖霊に感じて。「御霊も我らの弱きを助けたもう。我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊自ら言い難き歎きをもて執り成したもう……御霊は神の御意に適いて聖徒のために執り成したまえばなり」(ローマ八・二六、二七)。己の騒がしい心に従って口やかましくやたらに祈るのは駄目である。まず静まって、この祈りの霊が働かれるのを待ち、聖霊に感じて祈るべきである(ユダ二〇)。
(ロ)、イエスの名により。「汝らが我が名によりて願うことは、我みなこれをなさん。父、子によりて栄光を受けたまわんためなり」(ヨハネ十四・十三)。イエスの名を用いる人は、もちろんイエスの心を心とする者に限る。イエスの名によって祈ることは、もはや我らの願いだけでなくイエスの願いをもって父の前に出て行くことである。それゆえ、何事でも聞き届けられるのである。
(ハ)、明確に。暖昧な捉え所のない祈りは駄目である。あなたの必要を明白に言いあらわされよ(マルコ十・五一)。
(ニ)、信仰をもって。「疑うことなく、信仰をもて求むべし。疑う者は主より何物をも受くと思うな」(ヤコブ一・六)。「祈りのとき何にても信じて求めば、ことごとく得べし」(マタイ二一・二二)。
(ホ)、気落ちせずに。「また彼らに、気落ちせずして常に祈るべきことを、たとえにて語り言いたもう」(ルカ十八・一)。「主の耳は義人の祈りに傾く」(ペテロ前三・十二)。答えは遅くても必ず来る。ますます励んで祈るべきである。(終)