四福音書
イエス・キリストの伝記とその事実を知ろうと欲するならば、わたしたちはまずキリストに関する知識の得られる書物を精しく調べねばならない。ここに権威ある書がある。すなわち四福音書である。
〔一〕記者
(イ)第一福音書の著者はマタイである。彼がキリストの弟子となる前の職業及び彼が主の召しを受けたことについては(マタイ九9)を見よ。彼の別名についてはマルコ二14を見よ。当時収税人の状態については(マタイ一19、ルカ一八11、一九2、5、7)を見よ。収税人の不名誉であった理由は「第一」外国政府に税金を納めたこと。「第二」収税人は課税及び収税の両権を持ち、実際には何の制限もなかったこと。「第三」彼らの多くは貧欲不正な事業家であった。
(ロ)第二福音書はマルコの著書である。彼の家庭と母については(使徒一二12)。彼の親戚については(コロサイ四10)を見よ。(マルコ一四51、52)は多分彼について書いたものであろう。彼の初期の伝道については(使徒一三5、13、一五37~39)を見よ。その後の彼の友情については(テモテ後四11、ペテロ前五13)を見よ。これらの引照によってマルコの伝記に関する五つの場所を見出すことが出来よう。このように彼は早くから伝道に従事していたので福音書を著わす資格を持っていた。伝説によれば彼はエジプトのアレキサンドリヤにおいて殉教したと言う。
(ハ)第三福音書はルカの著書である。彼の職業については(コロサイ四14)、彼が始めてパウロに会ったことについては(使徒一六10)を見よ。彼は始めからイエスの弟子の一人であったわけではない(ルカ一1~4)。彼はパウロの晩年に至って同労者であり親友であった(使徒二○~二八)。彼はあちらこちらでパウロと一緒に伝道した。(コロサイ四14、ピレモン23、24、テモテ後四10、コリント後八18)は多分ルカに関することであろう。
(ニ)第四福音書はヨハネの著書である。彼は漁師であったが相当の生活をして、社交上地位のあった者と思われる(マルコ一19、20、ヨハネ一八15)。彼が始めてイエスに会ったことについては(ヨハネ一35~40)、彼とイエスとが親密であったことは(ヨハネ一三23~25、二一24)に見える。彼は最も奥深い心霊的達観を持っていたため主の最も愛するところとなった。イエスの甦えりを第一に信じた者は彼であった(ヨハネ二〇8)。口碑によれば彼は晩年を小アジアのエペソで過したと言われる。
〔二〕福音書の記された時と場所
(一)マタイによる福音書はおよそ紀元五〇年頃パレスチナにおいて。
(二)マルコによる福音書はおよそ紀元六五年頃ローマにおいて(この書はペテロの指図の下に記されたと言われる)。
(三)ルカによる福音書はおよそ紀元六三年頃ローマにおいて。
(四)ヨハネによる福音書はおよそ紀元九〇年頃エペソにおいて。
〔三〕福音書は誰のために記されたか
(一)マタイによる福音書 ユダヤ人のため 理由 旧約の引照が多く、六五回に及ぶ、その他の点においても明白である。
(二)マルコによる福音書 ローマ人のためまた一般の異邦人のため 理由 旧約の引照が少なく、その上ユダヤ人の風俗を説明しているのを見る(マルコ一5、二18、一三13、一四12)等。
(三)ルカによる福音害 ギリシャ人のため 理由 本福音書は他の福音書と異なって明瞭流暢なるギリシャの流儀で、キリストについての思想をギリシャの精神に適合させたもののようである。
(四)ヨハネによる福音書 キリスト信徒のため 理由 本福音書は深遠なキリストの教を記している。
〔四〕福音書の書かれ方
(一)マタイによる福音書は秩序的である。本書は年代順ではないが、すこぶる論理的に記されている。例えば思想単位にまとめて全般を示すために、イエスの教訓、比喩、奇蹟等に分類して記されている。
(二)マルコによる福音書は絵画的である。
(三)ルカによる福音書は物語的な書かれ方である。
(四)ヨハネによる福音書は俗話的である。会話体にしてもまるで老人の談話のようである。
〔五〕福音書の主題
(一)マタイによる福音書はキリストの説教(マタイ五~七、一○~一三)等。
(二)マルコによる福音書はキリストの事業。本福音書は他の福音書と異なり、冒頭を省略し、ただちにガリラヤ伝道より記している。
(三)ルカによる福音書はキリストの伝記。
(四)ヨハネによる福音書はキリストの談話(一、三~六)。
〔六〕福音書のキリスト観
(一)マタイによる福音書はイスラエルのメシヤ(王者)としてて(一1、二2等)
(二)マルコによる福音書は神の子として(一1)
(三)ルカによる福音書は人の子として(三23~38)
(四)ヨハネによる福音書は神人両性として(一1、二、一四等)。
パレスチナの地
パレスチナはアジアに属し、その広さはわずか一二、五○○平方マイルに過ぎない狭く小さな国である。その海岸はツロよりガザに至るまでおよそ一八〇マイルの長さであって、ヨルダン河はヘルモン山より死海に至るまで一六二マイルである。
パレスチナの地勢は五つの平行線より成立する。
(一)北方で幅二、三マイルより、南方ガザに至ると殆ど幅二〇マイルの平原がある。
(二)この地を越えれば九〇メートルから一五〇メートルに至るセフエラ(低丘)の平地がある。
(三)以上の低丘を登ると山脈が四方に連なっている。その高さは七六〇メートルから九〇〇メートルに至る。聖書の時代にはこの山地は常に旧約時代のイスラエル人と新約時代のユダヤ人が占領していた所であり、平原と村落は外国人や異教徒が住んでいた。
(四)この山地を越えてヨルダンの低地がある。その幅は五マイルから二〇マイルである。
(五)この地を越えて東部に平丘地がある。この山脈から東方に向うとしだいしだいにシリヤ大沙漠に臨む。
キリスト時代の政治上の区画
パレスチナはキリストの時代、政治的には五つに区画されていた。すなわちガリラヤ、サマリヤ、ユダヤ、ペレヤ、バシャンがそれである。
(一)紀元前三七年からキリスト降誕時代、すなわち紀元前四年まではローマの属領としてヘロデ大王の王国であった。
(二)ヘロデの死後領地を三分し、その子アケラオはユダヤ、サマリヤ(マタイ二22)ヘロデ・アンテパスはガリラヤとペレヤを(マタイ一四1、ルカ三6、7)ヘロデ・ピリピはバシャン(ルカ三1)の各地方の領主となった。
(三)紀元七年頃アケラオ王はローマ皇帝によって廃せられて、その領地は総督ポンテオ・ピラトの支配する所となった。
(四)紀元三七年頃へロデ・アグリッパ一世がユダヤ王となり、四一年に至って祖父の全五州の王となったためにパレスチナは再び王国となった(使徒一二1)
(五)紀元四四年アグリッパの死後、アグリッパ二世は、ガリラヤ、バシャン二州の領主となった(使徒二五13、二六1,2)ユダヤ、ペレヤ、サマリヤはローマの直轄地となった(使徒二三24、二四27)。
(六)紀元六六年ユダヤ人の謀反後、パレスチナはローマ皇帝の代理ヴエスパチアヌスの管轄下にあってシリヤの一部分となった。これから以後ユダヤ人は独立の国民としては歴史上から今日に至るまで消滅している。
キリストの生涯
イエス・キリストは全聖書の中心である。旧約を見ても使徒行伝や手紙を見ても、その生涯は最大の関係を有している。
キリスト伝の七区分
(一)準備の三○年。
(二)不明の時代。
(三)人望の時代。
(四)反抗の時代。
(五)苦難の週間。
(六)十字架の日。
(七)復活後の四○日。