イエス・キリストの誕生(ルカ二1~7)
〔1〕カイザルと言うのは、英語のシーザーのことである。
〔7〕「布に包みてうまぶねにふさせたり」。王の王、主の主たる君がうまぶねの中に生み落され給いしとは、いかにも痛ましい限りである。しかも主が今日うまぶねのような者の心を宮として住み給うことは、更に奇蹟的なことである。わたしたちはただ神の恵みを感謝するより外はない。
イエスの系図(マタイ一1~17、ルカ三23~28)
マタイによる福音書の方は、ダビデ王の子孫としての系図を示し、ルカによる福音書の方は人の子、すなわちアダムの子孫としての系図を示されたのである。注意して見よ。
天使羊飼らに現われる(ルカ二8~20)
〔9〕神は九重の雲深き王の宮殿に、救主の大いなる喜びの福音を告げずに、この世から軽蔑されている身分の低い羊飼に告げ給うた。これは罪の中に沈んでいる不幸な罪人に現われ給うと言うことの前兆である。
〔14〕天地人の三つが示されている。天地人に完全調和が行われる時は、これは理想の新世界が実現された時である。しかもこれは聖徒の皆待望するところである。主もこの14節の成就するように祈り、「主の祈」の中に教え給うた。すなわち「天にいます我らの父よ、願わくは…み国を来らせ給え」の聖言である(マタイ六9、10)。わたしたちは熱心にこのように祈るべきである。
〔19〕「マリヤは……心にとめて思いめぐらしぬ」。この思いめぐらすと言う字は精密に観察すると言う意味がある。彼女が思慮に富んでいたことがこれでわかる。
イエスの割礼と命令(ルカ二21)
イエス神に献げられる(ルカ二22~24)
マリヤは天にも地にもただ一人の手の中の宝とも言うべき愛児を喜んで神に献げた。わたしたちもわたしたちの最も愛する者を献げねばならない。神は、私物として専有するのを許し給わない。
シメオンとアンナの予言(ルカ二25~38)
シメオンは救主を見ることをもって最大の光栄としていたが、彼は聖霊に感じて幼児イエスを見るとすぐ、イエスが万民の救主であることをさとった。彼は幼児を抱いて神を賛美した。彼はなおイエスが単にイスラエルの救主であるのみならず、万民の救主であることまでも予言した。
〔33〕「その父母は幼児について語ることをあやしみおれり」。聖霊に満たされている人は、すべての人の意表に出ることをさとるものである。シメオンはなおヨセフとマリヤとを祝福しただけでなく、マリヤについて予言をして「剣なんじが心を刺しとおすべし」と言った。後年イエスが十字架上で刺され給うた時、これを見たマリヤの心中は実に刺しとおされるような思いであったであろう。
〔36〕「夫にゆきて七年ともにおりたり」。アンナは人情から言えば不幸な人であった。彼女は嫁して七年目に夫を失い、やもめとなった。彼女の悲しみは察するに余りある。しかしながら彼女はこれによって肉の夫に数千倍もすばらしい神様を夫にして、八四歳の高齢に至るまで「宮を離れず夜も昼も断食と祈祷をして神に仕え」た。彼女の生涯がいかに美わしく高潔であったかを想像することができる。彼女は常に「われエホバのまくやにて喜びのそなえものを献げん、われうたいてエホバをほめたたえん」(詩二七6)と歌って居たのであろう。
〔38〕このような人はすみやかにキリストを認めることが出来る。彼女は「エルサルムにて贖いを望める全ての人にこの子のことを語れり」。万民にわかる大いなる喜びのおとずれを見た彼女は、黙っていることが出来なかったのである。
博士の訪問(マタイ二1~12)
このところにおいて次の三つの教訓を学ぶことが出来る。
(一)ヘロデ王は自分だけが王位を占めるものであると思っていたから、「ユダヤ人の王」が生まれたはずとのことを聞いて悪い思いを燃やし、すなわちイエスを殺そうと企てたのである。今日わたしたち各自に自我と言うヘロデの如き王が住んでいるならば、イエスを心の中に宿すことは、到底不可能なことであるばかりでなく、ついにはイエスを殺そうとはかるまでに至るのである。またヘロデは博士たちにイエスの所在を尋ねさせ、自分の悪企みを遂行しようとしたが駄目であった。今日でも時にキリスト教会の中に偽わりの信者が入って来て、キリスト教の欠点や失敗を追求して、キリスト教に反抗しようとする者がある。このような者たちは決して神の真理を覚り、またキリストを知ることが出来るものではないのである。(二)博士たちが星を見てイエスの所在を知ったと同じように、信仰はわたしたちをイエスに導くものである。(三)博士たちが黄金、乳香、没薬の三つの高価な贈物をイエスに献げた。この三つの物品は、第一、黄金は王者に対する贈物としてふさわしいもので、キリストの王であることを表わしている。第二、乳香は祭司が神殿での奉仕に用いたもので、祭司であることの型を表わしている。第三、没薬は死人に塗ったもので、贖い主を表わしている。これをわたしたち各自に応用する時は、黄金は混じりけなぎ信仰を示し、乳香は神の心を喜ばせる祈りを示し、没薬は献身を示しているのである。
エジプトに避難(マタイ二13~15)
〔13〕主の使がふたたびヨセフに現れている。ヨセフは前にも述べた通り、彼は祈りの人であり、また私情のない全く神の命令に忠実に聞き従った人であった。「ヘロデ幼児を求めて殺さんと…」ヘロデは実に悪知恵にたけた残酷なる王であった。しかしながら神は彼がしょうとする全てのことを知っておられるので、彼の手にイエスを渡し給うことはなさらなかったのである。
〔14〕ヨセフは人情から言えば、イエスをそれほどまでは愛していなかったはずである。しかしながら神から養育を委託されたことを固く信じていたために、彼はイエスについて深く責任を感じていたのである。彼は主の使の声を聞くとすぐに、深夜起きてエジプトに避難した点、彼の美わしき従順について大いに学ばねばならない。
幼児の皆殺し(マタイ二16~23)
本項は特別、講義に記載すべきものはない。読者各自で味わって読むこと。
イエスの十二歳の時(ルカ二41~51)
〔エルサレム〕
〔41〕家族こぞってエルサレムの宮に上るのは楽しいことであったろう。美わしい家庭の姿が想像される。わたしたちも家族こぞって教会に行くのは、実に楽しいことである。主イエスはご自分の父(なる神)の家に行かれることのため、心中どんなに愉快に感じておられたかが推察出来る。
〔42〕「十二歳」ユダヤの習慣として十二歳になると、公会の席に連ることができ、また断食をなし、あるいは当番になることができるのである。丁度わが日本における元服の習慣のようなものである。わたしたちはここにおいて左の教訓を学ぶ。(一)自分を欺くな、自分では大いに恵まれていると思っていても、実は他人の感化を受けているだけで、イエスが共にいて下さらないことがある。(二)目をさましていなさい。彼らは一日路ポンヤリしていたために三日間苦心して、イエスを尋ねた。わたしたちも常に目をさまして、イエスが片時もわたしのうちより離れないようにしなければならない(雅歌三1~14)。
〔46〕「教師の中に坐し且つ聴き且つ問いたり」。当時は教師について、自由に質疑応答することが出来たものと思われる。イエスは十二歳の時、すでに神の言を聞くのにどんなに熱心であったかを見よ。イエスはすでに後年なすべき伝道の準備をしておられたのである。彼が後年、パリサイ人や学者たちの質問に対し、どのように答えたらよいかを、この頃に学んでおられたのである。
〔47〕十二歳のイエスのその知恵とその応対ぶりを見て人は皆驚嘆した。当時イエスの問答は実に教師たちの胆玉を抜いたのである。イエスはこの時から伝道を始め給うたとしても、彼は確かに神の子であることを示すのに不足はなく、また奇跡を行う力をもっておられたのである。けれども時が熟していないことを知っていたので、すぐにはとりかかり給わなかったのである。ナザレの寒村に更に一八年間時期を待っておられた。ことわざにしゃくとり虫が身をちぢめるのは、まさに伸びようとする時であると言われていることを示しているが、わたしたちも血気に任せて軽々しく動かないよう、知恵や能力について充分に修養をなすべきことの必要を教えられたのである。
〔48〕人間の愚かさを見よ。自分たちの不注意を考えず「子よ、何ぞ我らにかくなしたるや。汝の父と我と憂えて汝を尋ねたり」と言っている。とかく人間は自分たちの罪過を人になすりつけたがるものである。
〔49〕「我は我が父のことをつとむべきを知らざるか」。人情から言えば主のこの返答は、あまりにスゲない言いかたであるように見えるけれども、実はそうではない。イエスはこの時すでにご自分の父なる神の御用をすると言う最も大切なことを示し給うたのである。わたしたちは今日神の御用をここまで重んじているかどうか。各自よくよく反省せねばならない。
〔51〕「ナザレに帰り彼らに従いおり」。イエスの親孝行であることを見よ。なおここでイエスのご忍耐を学ぶことが出来る。今日の青年の多くは、少し聖書や神学の知恵を得るとすぐに伝道界に身を投じようとするが、このような軽卒な挙動は戒めねばならない。エルサレムの宮で教師の胆を寒からしめ給うたイエスは、なお一八年間静かに修養し給うたことを追想しなければならない。
パプテスマのヨハネの伝道 (マタイ三1~4、 マルコ一1~8、 ルカ三1~18、 ヨハネ一6~15)
〔1〕バプテスマのヨハネはユダヤの荒野で宣べ伝えた。ここで、伝道するに場所を選択する必要のないことを学べ。ステブングレレットと言う人が祈っている時、不意に山奥に行って説教せよとの神のみ声を聞いたので、ただちに山に行って説教した。そこにはただきこりの小屋があるだけであって、人の影すらなかったけれども、ステブングレレットはその人の居ない場所で導かれるままに実行した。その後彼がロンドンのある所で説教している頃、一人の気高き老人が説教が終った時、彼に告げて言った。「かつてあなたがあの山で説教なさった時、あなたはご存知ないかもしれませんが、わたしはあなたの説教に深く感動し、自分の罪人であることを知り、その後悔改め、今は神の僕として働いております」と。ちなみにかく言うその人はその当時山賊であったとのことである。
〔2〕罪を悔改めよと叱責するだけでなく、天国は近づいたとヨハネは叫んだのである。
〔3〕マルコ一3、イザヤ四〇3、マラキ三1を見よ。
〔4〕「いなご」は潔い虫である(レビ一一23)を見よ。(マルコ一1~8は読者自身研究されるように、ルカ三1~18を見よ)。
〔5〕「すべての谷」とは憂いの谷、失望の谷、悲しみの谷、涙の谷である。「すべての山岡」、倣慢、出しゃばりなど謙遜でないことを言う。「屈曲」は「素直」の反対である。
〔7〕ヨハネはユダヤの荒野において成長したいわゆる野生の人であるため、蛇やまむしのような言をもって、パリサイ派やサドカイ派の人々を譴責したのである。
〔8〕ヨハネの権威あることを見よ。彼は真向から悔い改めねばならないことを命じている。彼の伝道がいかに峻厳であったかを見よ。
(ヨハネ一6~36)
当時の人々はヨハネを崇拝しようと思って来た。しかしながら彼は自身を全く隠して、ただキリストのみを表わした。
〔20〕ヨハネは、わたしはキリストではない、またエリヤでもないと明らかに言っている。しかし旧約の予言書(マラキ)に、彼はエリヤの力をもって来るとあるが、これは明らかにヨハネを指したのである。彼はただ謙遜な意味で、わたしはエリヤではないと言ったので、彼は実際エリヤの力をもっていたのである(ルカ一17)。
〔29〕「世の罪を負う神の小羊を見よ」。ヨハネの鋭い目はただちに彼を認めたのである。彼はイエスを指して、イスラエルの王を見よとは言わないで「世の罪を負う神の小羊を見よ」と言った。わたしたちもこの万民の罪を負って死なれた神の小羊を見よと、生涯叫ばねばならない。ヨハネは祭司アロンの系図から出て来た人である。
イエスの受洗(マタイ三13~17)
〔15〕ここに「我ら」と言う複数の言葉を用いたのは、神人両性を備えておられるからである。他に一緒に受洗した者があったからではない。
〔16〕「神の御霊の鳩の如く……」霊はすべての人に見えたか、またヨハネだけに見えたか、それは疑問であるが、とにかくヨハネは霊眼の明らかな人であったから、あるいはヨハネだけに見えたのかもしれない。
イエスの誘惑 (マタイ四1~11、 マルコ一12~15、 ルカ四1~13)
〔1〕「さて」と言う字はThenと言う英語と同じで、その時と言う意味である。マルコによる福音書の方に聖霊ただちにと非常に力をこめている。強い意味を知れ。「聖霊に導かれ」とは聖霊がイエスの腹の中よりグッと動かすようになさることである。「悪魔」原語には敵と言う字が用いてある。
〔2〕第一のアダムは美しい、楽しい、食物などに不自由しないエデンにおいて罪を犯した。これに反して第二のアダムは、荒漠として獣の住む原野で、四十日四十夜断食して、なお悪魔に打ち勝ち給うた。主はわたしたちと同じ肉体をもっておられたから、どんなに飢え疲れておられたか、想像するだけでもおそれ多いことである。
〔3〕このような場合には悪魔はキリストの弱点を突いたのである。「この石をパンとなせ」わたしたちには悪魔は言って来ない。また言って来ても不可能だから何でもないが、キリストは石をパンにすることの出来る力を持っておられたから、強い試みであった。
〔4〕悪魔は第一番に肉の欲に向って誘惑して来たが、イエスは常日頃聖書を愛読しておられたので、ただちに申命記八3の聖句をもって拒否なさった。すべてと言う字に力を入れ給うた。
〔5~6〕キリストが宮から身を投げて、少しの負傷もなさらなかったならば、多くの人はただちに神の子として信じたであろうか。いや決してそうではない。イエスは彼がただ試しているだけであることを見破っておられたので、やはり聖霊の言をもって応じられたのである。悪魔は主が前に御言をもって拒まれたので、今度は自分も御言をもって誘惑しかかったのである。そしてこれも前と同様に申命記六16の聖句をもって退け給うた。この誘惑は目の誘いであった。アダムはやはり目の誘いのために、果物を食ったことをわたしたちは記憶している。
〔8〕主がもしナポレオンやシーザーのような世俗の連中と同じように、世に名を挙げようなどと言う野心のある人であるならば、もち論悪魔の謀略に落入ったに相違ない。しかしながら神なるイエスには決してそんな考えはなく、ただキリストとしてこの世に来り給うたので、栄誉栄華でなく滅び行く魂を求められたのである。だから9節において、大喝一声サタンよ退けとしかりつけられた。
〔11〕ここに福音がある。第一のアダムは悪魔の誘惑に見事に失敗したが、第二のアダムであるキリストは、肉の欲、眼の欲、名を求める欲の、悪魔の三本槍を打ち落とし、見事に勝利を獲得された。悪魔に勝つ秘訣は、一に聖霊、二に聖書の言である。イエスは非常に困難な境遇の中にあって勝利を獲得された。わたしたちは悪魔の誘惑に負けて、境遇だから罪を犯したなどと申し訳をするが、そんなことはないはずである。伝道に出陣しない前、まず祈りの戦争において勝利を得なければならない。祈りにおいて勝利を得ない者は伝道においても勝利を得るはずがない。主はヨルダンの河畔において、聖霊に満たされ、その導きによって行き給うたから、悪魔の力でもどうすることも出来なかったのである。