最初の弟子の召命(ヨハネ一37~51)
〔41〕「二人の者のその一人は……」とあり、なお一人の弟子の名がない、これは記者自身すなわちヨハネである。ナタナエルは、マタイ一〇3にあるバルトロマイであろうとの説がある。最初の弟子は、ペテロ、アンデレ、ヨハネ、ピリポ、ナタナエルの五人である。
なお注意しなければならないのは、この章において六つのイエスの名が表わされていることである。すなわち
(一)バプテスマのヨハネには、「神の小羊」。これは世の罪を負う贖い主として示されている。
(二)「メシヤ」、キリストすなわち救い主として示されている。
(三)「予言者等の記しし所の者」とあるように、予言書に記されし名とはユダヤ人の思想において最高の尊称を示した。
(四)「神の子」ナタナエルの霊の眼にはイエスは神の子と見えたのである。
(五)「イスラエルの王」
(六)「人の子」
最初の奇跡(ヨハネ二1~11)
婚宴は神に聖別されたものである(へブル一三4)。わたしたちは婚宴の席にあるとき、イエスもその中にいますことを思ってつつしむべきである。「ぶどう酒つきければ」地上の快楽は尽きる時がある。「母イエスに言いけるは……」マリヤはキリストを使用しようとした。多くの人はキリストを使用しようとするけれども、四節のように拒絶されてしまう。「我が時未だ至らず」キリストは父なる神のお許しを受けないうちは、何事もなし給わなかった。「その母僕等に向いて……」マリヤはキリストを信任していたのでこのように言った。
〔7〕「水をかめに満たせよ」。わたしたちも神の言葉を充分心にとめ、聖言をもって心を満たさせ、これを人々に分け与える時に天来の酒と化して、聖霊の喜びを人々に与えることが出来る。ここで上席の人はこの栄光を見なかったが、水を汲んだしもべは親しくこれを見ることが出来た。わたしたち直接神の御用をなす者は、またこの栄光を拝することが出来る。一○節にあるように神の栄光は、人間の栄光よりもはるかに豊かである。
イエス神殿をきよめる(ヨハネ二13~22)
キリストは未信者の罪に対しては、はなはだしく怒り給わないけれども、信者、教会内に罪を見出し給う時には、容赦なく責められる。昔ユダヤでは神殿に行った時、お金を献げたり、牛、羊、鳩を献げたりした。そのため両替えする者、また色々な商人がいた。牛、羊、鳩を売り、また両替えすることは、悪いことではないけれども、彼らは偽善であり、また自分の欲望を満たすためにおこなったので、主はこのように追い出し給うた。ある人は熱心を道具として用いようとするけれども、イエスは熱心に食われ給うた。わたしたちもこのようでありたいものである。
イエスが宮をきよめ給うたのは、一方から見ると福音である。すなわちキリストが来て人間のすることの出来ないきよめをおこない給うたのである。わたしたちの心のきよめも、わたしたちの力ではなくて全く主の御業である。
〔18〕ユダヤ人はしるしを求めた。しかしイエスはヨナのしるし、すなわちキリストの甦りのしるしのほかは与えられないと仰せられた。今日の人にはこの甦りを伝えねばならない。甦りについては詩一六10参照。
〔19〕イエスご自身が神殿であると仰せられた。また信者が神の宮であることについては(ヨハネ一四20、詩九一19、コリント前三16、エペソ二22、コリント前六19)参照せよ。これによってわたしたちがどれほど神聖であるかを知る。だから少しの汚れも体と霊魂に置いてはならない。
キリストは再度神殿をきよめ給うた(マタイ二一12以下)この時は(マタイによる福音書にある方は)ヨハネ二12~23にある時とは違う。キリストは二度神殿をきよめ給うたことは味わうべきことである。
ニコデモとの談話(ヨハネ三1~21)
ニコデモは地位のあるユダヤ人で、パリサイ人、宗教家、また学者であった。以上は表面から見たものであって、彼の心には渇望があったので求道者の地位に立って、キリストのもとに来た。そして大いにイエスを称讃した。しかし主のお答えを見よ。実にイエスの態度の厳粛であることを見よ。イエスはニコデモの言葉には答えずに、心に答え給うた。多くの人はニコデモのように心の状態を言い表わさないで神の答を得ようとする。しかしキリストは五節のように熱心に教えられる。多くの人はニコデモと同じように新しく生まれることを不思議に思う。
五節の霊と言う字は、原語で風と言う字である。すなわち「水と風とによりて生まれざれば」の意で、風は人の注文によって吹くものではない。しかしわたしたちは、この風が吹くのを知ることが出来る。ニコデモは新しく生まれる方法を聞いたけれども、主はこの方法はともかくも体験すべきことだと言い給うた。生まれながらの人はいつも「いかでこの事あらんや」と言う。
地の事とは新生のことで、罪人は神の国に入ることは出来ない。天の事とは神の国のことである。
〔14〕「モーセ野に蛇を挙げし如く……」これは贖いの奥義であって、わたしたちは主が蛇となって呪われ給うたことによって、罪から救われる。三節で主は明らかに自分のことを言われた。十字架、甦りなどは実際人の予想外のことであった。ニコデモは自分は神に属するものと思っていたかも知れないが、主はニコデモが罪人であることを説き給うた。イエスはこれまで御自身が頭の上から足の先まで呪われなさると言う自身の愛を説き給うたが、ここから父の愛を説き給う。
〔16〕神が人間に与える最大の犠牲と賜物である。これより大いなる神の愛はない。ある聖霊に満たされた伝道師があって、ただこの節だけで説教したところ、多数の悔い改める者を獲得したとのことである。罪を悔いるのは人の好まないことであるが、これは救いを得るためであるから、しなければならないことである。
〔19〕キリスト教の審判は普通の因果とは相違する。わたしたちは福音を伝える時、このことを説かねばならない。第一、罪あること。第二、贖われたこと。第三、救われる道のあること。第四、イエスを受け入れないことは神の審判を受けるところとなること。
なお一九節には罪人の特色がしるされている。またここで人類が二種類に分けられる。すなわち光に来るか来ないかによって、救われるか、亡ぼされるかである。わたしたちは本当にイエスのもとに来たのかそうでないのか、自分自身を調ベなければならない。
ヨハネの証し(ヨハネ三22~35)
アイノンは二ヵ所ある。これはサリムに近いアイノンであった。わたしたちは二六節のように人に言われる時、二七節以下にヨハネが答えているように、真心から他人の伝道の成功を喜ぶことが出来るかどうか、反省しなければならない。もし他人の成功をねたむ分子が少しでもあるならば、聖潔のバプテスマを受けねばならない。
ヨハネは三一節でイエスが万物の上にあることを証した。三三節の印とは霊を指す。
イエス、ユダヤを去りガリラヤに帰り給う(ヨハネ四3)
サマリヤの女との会話(ヨハネ四4~42)
注意。主イエスがガリラヤに行き給うたことは誘惑のすぐ後のように記してあるが、実は試練と続いたものではなく、幾月かの日数があった。「旅の疲れにて……」これによって主イエスがわたしたちと同じように旅において疲れを感ずるお方であったことを知る。わたしたちが疲れた時、このイエスもスカルで疲れ給うたことを思え。イエスのみ真実にわたしたちに同情を表わすことが出来る。もしイエスに愛の心がなかったならば、このようにこの婦人に言葉をかけることはできなかったであろう。しかし魂を見られるイエスはその愛の心を押えることができず、日頃交わりをしない国の人に対しても、このように親切に言葉をかわされたのである。いかに主が謙遜であって魂を愛されたかをわたしたちはここで見ることが出来るが、また主が会話の糸口を開かれた方法をも学ぶことが出来る。主はご自身の身辺にある実物を用いて伝道をなさった。恐らく彼女は毎日ここに水を汲みに来ることを厄介に思っていたことであろう。しかし水は人間にとって欠くことの出来ないものであるため、この話の水のたとえは彼女に深い印象を与えた。伝道する時にただちに罪を示さず、生ける望みを示し、後に罪の恐るべきことを説く方法は学ぶべきことである。説教の時もまず簡単に愛を説き、次に罪を示し、後に救いを説くべきである。神の存在を信じ、罪あることを知っても、なお理屈を言う人がいるので、二四節のように霊とまことをもって礼拝すべきことを神が求め給うことを教えるべきである。
〔20〕ここでこの女は神学上の議論をしていたが、二一節以下のキリストの答によって、この婦人の救は完成された。今までこの女は世に属する水に心を奪われていたが、今彼女の心は霊のことに向った。わたしたちの経験もまた同じである。
〔32〕キリストがいかに父なる神の御旨に従うことを喜び、また魂を愛されたかを知ることが出来る。キリストの食物は、第一、神の言葉、第二、神の命じ給うことを行うことであった。「なお四ヵ月ありと言わずや」これは人間の目から見た状態であるけれども、キリストはそう言い給わない。人間が見て到底望みのない人も実を結ぶ。「目をあげて見よや」主はこのように目をあげよとはげまされる、主の目で見るときは人間の目では種を蒔く時も収穫の時であって、鎌を入れて見るとすでに実っている。だからどのように人間が議論をしたとしても今は収穫の時である。
以上はキリストの方面から見たものであるが、今の婦人の方面からしばらく学ぶ。この婦人は肉体においては快楽が多かったであろう。しかしその霊魂は飢えと渇きをもっていた。一九節を見るとこの婦人が罪に沈んでいたことがわかる。また婦人はイエスの言ったことを理屈を言わずに受けた。そして服従した。そのために恵まれた。主の言を受け入れ、服従することは恵みに成長する秘訣である。実に主の救は人間の理想や渇望をはるかに越えている。水がめは人間の望みや快楽を表わしているが、今は彼女はそれさえ忘れて町に行って証したのである。
役人の子のいやし(ヨハネ四46~53)
前に主はここでしるしをなさった。だから人々が来るのは自然である。ところでこの役人は自分の地位を忘れ、謙遜にイエスの許に来た。しかも信仰を持って来た。けれども主は御満足なさらなかった。主はこの人に本物の信仰を与えようとなさったので、役人はキリストに自分の家に来て欲しいと望んだが、キリストは自分で行けと仰せられた。これは役人に真の信仰を持たせるためであった。「言を信じて去りぬ」これが真の信仰である。このようにして主の言の通りになり、その家族まで救われた。この人が信じたことによって二重の栄光を見た。実に主を信じる人は幸福である。