イエス、ナザレにおいて捨てられる(ルカ四16~30)
この時とマルコ六1~6にある記事とでは時の相違がある。主はここでイザヤ六一章を引用なさったが、これは聖書の活用である。聖書は適当な所だけ用い、他は用いるべきでない。パウロもテモテ後二15でテモテにこのことを示している。真の道を正しく教え、分ち与えることは大切なことである。けれども多くの人は正しく教え、分ち与えることをしないので、人の徳を建てない。主にここでご自分の使命について語られ、主の目には世の人の苦痛がよく見えていた。世の中には心の痛んだ者が満ちている。地獄のあることを知らず、父なる神を知らず、悪魔の手で苦しめられている目の見えない者が満ちている。わたしたちは走って行って、これらの人に主の道を伝えねばならない。「今日なんじらの前になれり」これは大切なことである。単に聖書を語るばかりでなく、それが事実であることも語るべきである。自分の救われたことを証するのもよいし、他人の証を話すのもまたよいことである。神の救いはすでに成就したけれども、人間がこれを受け入れなければその人のものとはならない。そこで主は、やもめとナアマンの話を引いて救いを受けねばならないことを語られた。主の説教は愛の点から見ると抱きつくように見えるけれども、罪に対しては厳格であったため、人々は大いに怒って主を山の崖から落とそうとした。
イエス、カペナウムに行く(マタイ四13)
ペテロ、ヤコブ、アンデレ、ヨハネの召し(マタイ四18~22)
主が弟子を召されるのにエルサレムに行って学者や知者を召されず、海辺に育った者を召された(コリント前一27~28参照)。人をすなどる秘密は一九節にある。「我に従え」と言う命令に服従すること、一挙一動イエスに従うことである。社会的な事業によって巨万の富を得るよりも、一人の魂を得ることは大いなる業である。世の知者学者はこれを知らない。だから亡びる事業をなしつつあることはあわれむべきである。
マルコ一16~20。
二〇節は神の御摂理である。親の不自由を助けるために雇人を残し給うた。
ルカ五1~11。
五節に関してはコリント後五7参照。八節に関してイザヤ六8参照。人は神の聖さを拝して、自分の汚れを一層深く悟る。またこれはペテロのペテロたる理由である。ペテロは魚の数を見ないで、驚くべき業をなされるキリストを見、これによって自分の罪を悟り、主の恵みを受け、貴い御用をなした。沖は深くて危険な所である。わたしたちは危険をおかして、罪の深みを突き抜けて働かなければ真実の獲物はない。(ヨハネ二一、使徒二、マラキ三6~10を参照せよ)。
悪魔につかれた人のいやし(マルコ一21~28)
二二節に学者のようでなくとある。多くの説教者は学者風になり、興味のあるように、文学上宗教上の種々のものを引照するけれども、これらは霊魂を救うことが出来ない。魂を救うには上からの権威を与えられなければならない。
ルカ四32~36。
ここで悪鬼がいかにイエスを恐れていたかを見よ。今日でもイエスの霊に満たされている者が行く時には、悪鬼も恐れるのである。わたしたちもこのようにならねばならない。汚れた鬼とはinpure spiritと言うことで、もしこの霊につかれる時には思想も言葉も汚れるのである。
「神の聖なる者なり……」これによってキリストの品性を知ることが出来る。イエスこそ神の聖なるお方である。しかるに祭司がイエスを罪人としたのは彼らの心の目の盲目を証している。
シモンのしゅうとめと多くの人のいやし(マタイ八14~17)
「イエス、ペテロの家に入り」このようにイエスは身分の低い人の家にも入り給うお方であった。
「ふし居たるを見て」ある人は病人の所に行ってもそれを見ようとしない。けれども主は親しくご覧になり給うた。「さわりければ」イエスがさわる時はいかなる病気もいやされた。この「入る」「見る」「さわる」の三つはイエスの愛を表わしている。「女おきて彼らに仕う」いやしの目的はこれに外ならない。神と神の子供に仕えるためである。これを実践しない者はいやしを受けることが出来ない。詩一〇七20、一一九82参照。
一六節に「日暮るる時」とあるが、日中明るいうちは人々がイエスのもとに来ない。またこの節の中にある「多く」と「ことごとく」との二ヵ所に注意せよ。これは実に神の勝利を表わしている。一七節にある通りこの奇跡は普通の奇跡でなく、イザヤ五三4にある予言の成就したものである。イザヤ書には心の病気のように記してあるけれども、これは翻訳の誤まりであって、いずれも肉体の病気を記したものである。
マルコ一12~20。
三〇節「ある人……イエスに告ぐ」とある。わたしたちも苦しみ、悩んでいる人のある時は、このように祈りたいものである。
ルカ四38~41。
三九節に「人々イエスに願えり」とあるがこれは今日の祈祷会で、マルコによる福音書にある人とはこの祈祷会の使者であろう。また四〇節の主イエスのように人々をていねいに待遇すべきである。有名なムーデー氏は一度会って名前を聞けば、決して忘れなかったと言うけれども、わたしたちもこのようにありたい。
イエスのガリラヤ巡回(マタイ四23~25)
二三節に、あまねくとあるが、わたしたちの肉体的な面から見ると、苦しいことであるがこれはなさねばならい。
マルコ一35~39。
わたしたちは伝道の根拠をここに見る。すなわち三五節の「夜明けに祈り」とある、これである。わたしたちも伝道の根拠として要するものは祈りである。
ルカ四42~44。
四二節に「その去り行く事を止む」とある。わたしたちも伝道に成功した時、このようなことに遭遇する。しかし他に苦しむ魂のあることをおぼえ、他に行かねばならない。
山上の説教
分解
五章。
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1~12 真正の幸福。
13~16 信者の責任。
17~48 法律。
(1)17~20 法律の威厳。
(2)21~26 他人を害すること。
(3)27~30 姦淫罪。
(4)31~32 離婚罪。
(5)33~37 誓約の罪。
(6)38~42 復仇の罪。
(7)43~48 完全な愛。
六章。
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1~18 偽善者を戒しめる。
(1)1~4 ほどこし。
(2)5~15 祈り。
(3)16~18 断食。
19~34 肉体上の必要物。
(1)19~24 宝を愛してはならないこと。
(2)25~34 天父の養育。
七章。
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1~5 人を裁いてはならないこと。
6~12 求めるべきこと。
13~14 生命の道。
15~20 木と実。
21~27 聞く者と行う者。
第五章
この時主イエスの伝道に対する世論はますます高くなり、多くの人々がこの山に集まった。この山はカペナウムの近くにある小さい山で、主はここで多くの聴衆と弟子とを見て座につかれた。言わばこの山はキリストの講壇であった。
主がこの教えを語られた人は、格別に主を受け入れた人であった。その為に主のこの説教は求道者に適している。また実に円満な説教である。ここで「汝ら」とあるのは弟子に向って仰せられたので、福音の真理を単刀直入に説いておられる。この説教はたとえ話のように真理を隠すためでなく、真理を明らかに示すためであった。マルコ四12。主はある時豚に真珠を与えても益がないので、真理を軽んじる者にはワザワザわからないようにたとえを用いて説き給うたこともあるが、福音の解き明かしが奥義的部分にまで進んだ時には、真理を求める者には一層よくわかるように説き聞かせられた。
〔2〕「イエスロを開きて彼らに教えけるは……」。丁度箴言のような感じがする。(箴八6、7)
〔3〕「心の貧しき者は幸福なり」この言は神の引出しである。高慢な人は幸福を受けることはできない。心の貧しい者は自分の不徳を考え、欠乏のあることを思い、自分の空しいことを認める。原語の直訳によれば、この貧しきと言う字はDestituteと言う文字が使用されている。「天国はその人のものなればなり」。何を獲得すると言っても天国を得る程幸福なことはない。イザヤ五七15を見よ。これはその秘密である。神はご自身を低くして、心砕けて遜る者をその住居となし給う。ヤコブ四6、また詩五一篇においてダビデが心砕けてへりくだった時に天国がダピデの中に来た。
〔4〕「かなしむ者は幸福なり」これは三節と密接な関係がある。三節は自分の状態を悟った有様で、これはその結果と言う。すなわちその人の感覚である。わたしたちも真実にこの悲しみを必要とする。(コリント後七11、イザヤ六8参照)特にイザヤの有様は本当に悲しむ状態である。このような人こそマタイ一一章の終りにあるように主のくびきを負い、主に従うことができる。
〔5〕「柔和なる者は幸なり……」これも以上の結果であって、心の貧しいために悲しみ、悲しんでいる人は柔和になる。すぐ怒り、人をとがめる人は心の貧しい人ではない。柔和とは意気地のないことではない。いかなる場合にも自分の損を甘んじて受ける人である。
テトス三1。二三節にある通り自分が以前には悪かったと言うことを記憶している人は自然柔和となる。権限や論理の方から言えば、キリストはわたしたちを粉微塵にしてもかまわないのだが、しかしキリストは「われは心柔和にしてへりくだる者なればわがくびきを負いてわれに従え」と仰せられる(コリント前六7、ペテロ前三4参照)。このペテロの言った飾りは実に立派な飾りである。人間はまことに柔和において欠けている。ある人はまことに意気地なしである。意気地なしと柔和とはちょっと表面的に見ると同じようであるがこれは全然異なったものである。普通は柔和のように見えるが、柔和でなければならない時に柔和でなく、かえって角が出る。
「地を嗣ぐことを得べければなり」つまらぬ地位についても、物を取られても、貧乏暮しをしていても、神はこのような者にドシドシつぐないをなさる。コリント前三30を見よ。実に大いなる報賞である。詩三七11に記されてあるのは柔和な人のかおかたちであって忍んでいる写真である。このへりくだると言う字は英語で柔和の意で、ヘリくだりと柔和とは車の両輪のようなものである。神はへりくだる者をこの世で恵み、また来世においてはキリストと共に王として下さる(黙示録二○4、二27参照)。
〔6〕「餓え渇く如く……」以前よりも深い経験である。自分の卑しいことがわかり、粉みじんになっている有様であって、砕けた者は柔らかで麦粉のようである。餓え渇くは耐え切れない苦しみであって、人に○+死をおいたような感覚を与えるものである。このように義を慕う者は実に幸福である(詩一七15)。この詩にある「目ざめ……」とは甦りを指す。わたしたちはそのとき神のみかたちを拝し満足を得ることが出来る。わたしたちはこのように義を慕って初めて詩四二章のように神を慕うことが出来る。またこの飽くと言う字は浸たすと言う意味をもち、丁度海綿を水に浸した時、水が満ちるように飽きることが出来るのである。これが主イエスのあふれる恵みの約束である。
〔7〕六節までは消極的であるが、ここから積極的になる。自分の欠乏のために砕けた人は今度は同情の人となり、人が悪事を働いた時にもすぐさま自分で裁判する地位に立たず、あわれみを持つようになる。神はまことに同情に富み給うお方である。そのあわれみを味わった人はまたあわれみを持つ人となる。あわれみは新約を通じて表われている神の御性質である。そこでこの神はわたしたちにもまたあわれみの人となることを求められる(詩四一4、ヤコブ二13参照)。マタイ一八章にあるように人の負債をゆるさない人は、またその自分の負債もゆるされない。わたしたちはゆるされて、あわれみに富まれるイエスの足跡を踏むことが出来るのはまことに幸福なことである。わたしたちがあわれみの人となるには、まず神のあわれみを受け、そして他の人をあわれみ、さらになお神のあわれみを受けるようになる。
〔8〕「心の清き者は福なり……」先きには心貧しく、そのために悲しみ、神に求め、義とされたが、そればかりでなく、ここには心の清い人のありさまがある。清きとはすなわち純粋の意味であって、少しばかり清いと言うのではなく、少しの曇りもないありさまである。このような人こそ神との間に少しのへだたりもなく、神と結合し、交わることのできる人である。Iヨハネ一7にあるように心の潔さと神との交わりとは離すことの出来ないものである。しかしどこかに汚れを持つ人は、神と交わりまた主の御前に出ることが出来ない。へブル一二14、詩二四36、Iヨハネ三2、3、黙示録二二4にあるように心の清い人はこのような幸福を得る。
〔9〕「やわらぎを求むる者は福なり」平和を求めた第一の人は主イエスであった。彼は神と人との間に立って平和となり給うた。(コリント後五20)。次にわたしたちは平和を求めるベき者であるが、なお進んで人と神とを和解させるようにすべきである。また真実に平和を求めるのは神の子の特色である。
〔10〕これまで七つの品性を画いて来た。この節からは七つの品性を有する結果として、その人と世人との衝突を画いたものである。主はこの七つの品性をわたしたちに与え給う。そのためわたしたちがこの品性を受けた時には世と反対になって来る。テモテ後三12、13にあるように真面目であれば世と衝突するのは当然である。このような人は天国において報いが多い。かりに地上で何物を失っても天においては大いなる報いがある。もしわたしたちが地において反対を受けないとすれば、それはどこかに故障のある証拠である。この節はなお進んだ様子である。一〇節に「義しきことの為に」あったが、ここでは「我が名のために」とある。信者でなくても、正しいことのために迫害される人がある。けれどもわたしたちが「イエス」の名のために迫害されるのは特権であり、幸福の絶頂である。わたしたちはどうしてもここまで進まねばならない。パウロは実にこのような人であった。(ピリピ三10、使徒五41参照)。
〔12〕マルコ八35を見ると「この世にて百倍を受け」とあるけれども、全くその通りで、ルカ六22、23には喜び躍れとある、キリストの名のために苦しむのは金鵄勲章を貰ったよりもはるかに幸福である。イザヤはのこぎりで挽かれたと言うが、わたしたちも栄光の冠を望んでこのように忍びたい。
〔13〕塩は腐敗を止めたまま味を付けるものである。世の人は神の目からご覧になる時には腐れているが、この腐敗を止めるのは神からの塩だけである。レビ二13にある塩とはキリストの潔い生涯の型である。この世の人は外面は味があるようだが、心には少しの味もない。しかしほむべき主はわたしたちを塩とするために、ご自身の霊を与えられる。マルコ九49を見れば供え物は必らず塩づけられ、塩をよくするには火にかけるとあるが、このように火で造った信者でなければ、神の栄光を顕わすことは出来ない。願わくは兄弟姉妹たちよ!試練の火に投げこまれた時、このことを思い出しなさい。
また塩の味を失った時は、何も出来ないあわれなものとなる。未信者よりも味のない者となる。
〔14〕塩は人体中に入って働くもの、腹の中に浸み込むものであるけれども、光は外より照らすものである。そして塩がキリストであったように、光もキリストを表わす。信者はキリストによって光となる。太陽はキリストの型であって、月は教会の型である。そして星は各個人を意味する。わたしたちはこの暗黒の世に立てられた光である。そこで常に光を放たねばならない(ピリピ二15)。
神はわたしたちを山上に建てた城としてくださったので、世の人は特別に、わたしたちに目を留める。これは神の摂理であって、全ての人に貴い福音が伝えられる助けとし、わた したちの善行によって天にある父が尊ばれ、栄光をお受けになられるためである。わたしたちの務めは実に幸福である。
〔17〕今は新約時代だからと言って律法を守らない人もあるが、律法と恩恵とは決して衝突しない。主イエスは律法を完全にするためにこの世に来られた。またここに信者の責任の重いことを表わしている。ある人は律法位少々は破ってかまわないと言うが、それは大いなる間違いである。なお不義は必らず友を求めるもので、一人で悪事を働くことは良心がとがめて出来ない。あの人もやっている、この人もやっているなどと標準を人におき、そのうちにいっこう平気で不義をするようになる。多くの人は「大功は細瑾を顧みず」などと言うが、神の国の大人物は小事に忠実な人である。
〔20〕この言は実におごそかな言葉である。パリサイ人は目立って神の律法を守った人たちである。それなのにわたしたちは、そのパリサイ人よりも義しくなければ天国へ行けないと言うのは注意すべきことである。今日リバイバリストは義しい行いの問題で攻撃される。彼らは集会の時には、大気炎をはきながら、平常は世の道徳家よりも行いの点で劣ると言う。しかし真面目な信仰のあるところは必ず行いが伴う。
〔21〕キリストは律法を成就することを説き給うた。すなわち本当に律法を守る人は、このようにすべきであることを21~26において語り給うた。これは形式的文章ではなく律法の精神を説かれたのである。キリストはここで「故なくして……」と言われたが、わたしたち信者は神の霊によって神の怒りを表わす時以外は、怒るべきものではない。裁判、議会、地獄の火と区別したのは神の審判の綿密であることを指しているものである。昔、ユダヤ人は絞首刑に処せられる者は、村々にある二三人より成立する集議所で裁判したが、石うち刑、すなわち石をもって撃殺する刑罰に処する者は、エルサレムのサンヒドリン(七一名の議員をもって成立する議会)で審判された。ある人は人間が未来の刑罰を受ける時は、このように段階があるのだと言うが、それよりも、前述のように審判の綿密なことを意味すると理解する方がよい。
「兄弟に恨まる事を思い出さば……」神の前には真面目のように見えても、人に対して衝突があれば決して神からの恩恵を得ることはできない。また神の子となることはできない。わたしたちの体験においても人に対しての悪感情がある時には祈りに手答えがない。また神から罪の許しを受けることができない。
〔27〕キリストが格別にここで戒しめられたのは多くの人が、手の働きによって地獄に行くことがあるためである。
〔31〕今日の教会には、この戒しめを特別には重んじない風潮のあることをおぼえ、自分自身で固く守り、人々に警告し戒しめるべきである。
〔33~34〕神を知らない所には、このような罪悪はない。しかし神を知った国の人には、悪魔は特別にこのような悪にわたしたちを誘う。慎重でなければならないことである。アメリカあたりの下層社会ではやたらに主の名を呼んで、「神がお前を罰する」という風に実に聞き苦しい言をはく者がある。主の名を知ったわたしたちは大いに警戒せねばならない。
神は三八節において人に対する態度を示しておられる。ステパノが死に際に「主よ、この罪を彼らに負わしむるなかれ」と祈るまでには確かに順序があった。彼は聖霊に満たされていた。わたしたちはとても自分の力では悪に勝つことは出来ない。しかし聖霊によって勝つことが出来る。
〔41~42〕これは形式的文章ではなく、ただ霊によって歩む時に神の心に適うことが出来る。
〔43〕昔、神がイスラエル人の敵、すなわち異邦人を憎めと仰せられたのは、イスラエル人が異邦人に倣って偶像を拝むようになる恐れがあったからである。決して異邦人を憎むからではない。
〔44〕このように行うことは、とてもわたしたちの力ではできない。わたしたちは人に呪われる時、迫害される時、その敵を愛せるように、キリストの霊を受け、満たされていなければならない。わたしたちは霊によって歩まないならば失敗である。
〔45〕わたしたちは太陽の出るのを見、雨の降るのを見ても、神が悪い者をも愛し給うことを知って学ばねばならない。
〔47〕わたしたちは自分の気に食わない人には特別に愛の行いをしたい。元々人間は性質の異なる人には病気見舞をしないような傾向もあるが、しかし神の愛を見よ。神は自分にそむいた者をも愛し給う。
〔48〕この命令は実に真理そのものである。けれども神はできないことをするように命ぜられない。神はできるように、ご自身の霊を与えられる。
第六章
〔1〕人間の生まれつきの傾向は、自分を人の前に現わし、自分の義を弁護するものである。この傾向はどんな人にもある。そこでまだこれを取り去っていない者は、すみやかに御霊によって焼き尽されねばならない。そして神の御前に神からの報いの頂ける生涯を送らねばならない。
〔2〕今でもこの「人の栄えを得んとする」精神が働いている。だからわたしたちは確実にこれを取り去られねばならない。
〔3〕これは極めてひそかに正しいことをすることである。わたしたちの生涯は、本当に人の前に隠れ、神の前に見られる生涯でなければならない。アンドリュー・マーレー師の説教の中に、木は根を下に多く張れば張るほど幹は強くなる、だからわたしたちは神に深く根ざして、人に隠れた生涯を送らねばならないと言うことが記されていたが、わたしたちは本当にコロサイ三3のようになければならない。
〔5〕人の前に祈ることを好む人は、まず絶対に密室の祈りに力を入れない人である。ある人の祈りは人に聞かせる演説のようである。しかし祈りは神に語るべきものである。
〔6〕キリストはここで隠れたる所と仰せられた。だから隠れた所に神を求め、祈りの学課を卒業しなければならない。
〔7〕どんな場合でも繰り返えすなと言う意味ではない。心から出ていない空しい繰返し言を言うなと言う意味である。わたしたち伝道者は口の職業なので、慎しんでこの幣害に陥ちないようにすべきである。
〔8〕これは深い恵みである。ある人は神は必要なものをご存知なので祈る必要はないと言うけれども、神は祈りによって、その子らに必要な物を与え給う。
〔9〕この祈りの意味は簡単であるけれども、深くまた広い。「我らの父よ」祈りの時、このように神との親しい関係で祈らなければならない。またこの言は自分一人のためでなく、兄弟姉妹のためにも祈るべきことを表わしている。実に人ではなく、また地にでもなく、天にいます父に求めることは幸福である。「御名を崇めさせ給え」これは信者の深い願いである。「御心の天に成る如く……」わたしたちの行く所はどこでもこれを神の所となして父の御心を行わねばならない。「御名……」「御国……」「御心……」この三つの祈りを心から祈ることは、潔められなければ出来ないことである。またわたしたちは、まず神のことを祈り、次に自分のことを求めるべきである。「日用の糧」これは霊の糧と肉体の糧とを指す。
〔12〕わたしたちは自分と人との間の罪を明白にしておかなければならない。少しでも人の罪をとがめるようなことがあっては、神はその人の罪をおゆるしにならない。
〔13〕聖書の中で誘惑と試みとを原語では区別してはいないが、誘惑は悪魔から来るもので、試みは神から来るものである。例えばキリストは聖霊に導かれて試み、すなわち四〇日断食することを命じられたが、「この石をパンとせよ」との誘惑は悪魔から来たものであった。ここにある試みは悪魔の誘惑を指すものであって、その誘惑に落ち入るなとの意味である。「悪より救い出し給え」とは原語では、悪しき者から救い出し給えとある。栄光はことごとく神の持ち給うところであって、わたしたちはこれによって自分の無にひとしい者であることを認識し、力を得る。
〔14、15〕わたしたちが病気などで引きこもる時、人をとがめていることがある。神は人の罪をゆるさない者の罪を決しておゆるしにならない。
〔16〕これは偽善であって、自分は肉欲を捨てている、神に奉仕していると言う風に人に見せることである。昔ユダヤ人は日を定めて断食する習慣があった。今でも金曜日に断食する人がある。わたしたちはこの言によって目覚めさせられたいと思う。
〔17〕これは飾る為ではなく、断食中でも普通の時のようにしている為である。わたしたちの生涯はこの隠れた父の前で過ごさねばならないので、キリストは何度もここで隠れた父と仰せられている。祈りも、施しも、断食も、神の前になすべきものである。ローレンスと言う兄弟の伝記を見ると、その人の生涯の秘密は、神の前に一生を送ったことにあった。彼は一生料理人で終ってしまったが、その生涯が実に高潔なので、多くの伝道師も牧師も、この人の所へその秘密を聞きに行くという有様であった。すなわちこの人は神の前で、神の為に何事でもやったのであるけれども、多くの人は人の前で自分の為に生涯を送っている。わたしたちは父の前に現われる生涯を送りたい。
〔19~21〕昔の財宝は着物あるいは錦、縫取りをした立派なものが財産の大部分を占めていた。しかしこういう財宝は盗人が盗む。ただ盗まれないのは天に貯えた財宝のみである。財宝のある所には心があるというのは真実である。わたしたちはこれによって自分の姿を知ることが出来る。わたしたちが朝から晩まで、重んじ、思い、心を労しているものは果して何だろう。ルターは言った「その人の愛しているものは、その人の神様である」と。実際そうである。人間は必らず自分の愛しているものを、朝起きる時も、夜寝る時も思う。そのように、天に財宝を持っている人は必らず天のことを思う。テモテ前六17に天に財宝を貯える秘密が書いてある(箴言一九17、22)。
〔22~23〕「身の光は目なり」キリストのたとえは子供にもよくわかる。人間は目によってその身の安全が保たれるものである。もし目がなければ、どんな危険物があっても知ることは出来ない。霊においても同じである。内の光すなわち心の目の悪いのは実に不自由である。心の目の暗い人は地獄に行く。キリストは「その暗きこといかに大いならずや」と仰せられた。「明らか」と言う語は、英語で単純と訳している。すなわちコリント後一一3にあるキリストに向う心の目である。すなわち信仰の目で、キリスト以外のものは見ない目である。しかし他のものに目をつけている人がある。詩二五15、この網とは悪魔の網である。また目と足とは大いに関係のあるものであって、目の悪い人は必らず道を間違える。パウロはキリストに対する明らかな目を持っていたので、彼を知ることをもって最もまさっているとした。ルカによる福音書には「汝の目単純ならば全身光りに満ちてあるべし(英訳)」とある。キリストに対する目の明らかな人は必らず潔い歩みをすることが出来る。
〔24〕「人は二人の主に仕うること能わず」人には西と東を同時に見ることは出来ないように、二人の主人に仕えることは出来ない。(テモテ前六10)。財宝とは勿論世の中の肉に属するものをも含んでいる。またルカ六13には「これを軽んじかれを重んず」と言う風にもある。もしその人が財宝を重んじているならば、神は必らずその人に軽んじられている。わたしたちはどうか。
〔25〕「生命の為に何を食い……」生命は実に大切なもので、食物は割合に軽い。神は生命を与えられたからには、必らずこれを守る為の食物と衣服を与えて下さる。キリストはなお次の節でたとえをもって懇切に教えられる。
〔26〕「汝空の鳥を見よ……」キリストはこのように誰にも理解出来るように教えて下さる。「空の鳥は何も知恵をしぼり出してことをするのではない。ただ天の父がこれを養って下さるのだ」とおっしゃられた。「汝らこれよりも大いに勝れたるものならずや」と実に有難いお言葉である。人間が生活するのは要するに神の愛に安んずるか、自分の力でやるかこの二点に来る。とすれば少しでも思い煩うのは無益であることを知らなければならない。
〔28〕「野の百合は如何にしてそだつかを思え」宇宙の万物は無言の説教をしている。昔神はアブラハムに空の鳥をもって教えられた。神は万物を人間の為に作り給うた。いくら人間が金と力を尽して造っても神の与え給うものには及ばない。
〔30〕「まして汝らをや……」野生の百合でさえも美しく装うではないか。ましてあなたがたには豊かに与えて下さることを信じなさい。信じないでいてはいけないと親切に教えられた。神を知らない異邦人は言うかも知れないが、神を知っているあなたがたは思い煩ってはならない。あなたがたは「ただ神の国とその義しきを求めよ」とイエスはおっしゃられる。ルカによる福音書には「ただ神の国を求めよ」とある(ルカ一二31)。悪魔の国と不義とを持ってはいけない。不平のある所はすなわち悪魔の国ではないか。神の国と神の義を求めなさい。
〔34〕信仰の歩みは目前のただ一歩である。その時その時、一足々々である。この肉体上の神の守りを信じることによって、わたしたちは世界を駆けまわることが出来る。けれども霊魂に故障のある時は肉体上の答が来ない。主よ信じますとは言っても中々答が来ない。
第七章
〔1~5〕この言は平常よく言っていることであるが、実際において警戒せねばならない。ちょっとした人の欠点を見た程度でどのように思うかが問題である。その人を審く位地に立とうとすることはないか。また全てを神が審判することを思ってその人のことを同情をもって考えるか。主はよくこのことを知っておられる。わたしたちはアダムの子孫である以上、生まれつき人をとがめるのは天性であるけれども、イエスの血によって潔められる時悪い思いは取り去られる。しかし悪魔はほえたけるししのように荒々しく歩き回っているので、断えず血潮の中にいなければ必ず失敗する。悪魔は特別に力を尽して兄弟の罪を見させる(コリント後二11)。サタンに負ける人は必ず人をとがめる。この点についてはきわめて正直な人が多く失敗する。
〔3〕ここで兄弟の目にあるちりと自分の目にある梁とを比較しているのは大変大げさのようであるが、実際問題としてこう表現するのが当然ではないか。どうかわたしたちはこの点で深く警戒したいものである。
〔5〕キリストはそれを放っておけとはおっしゃられず、その人の目からちりを取る方法を教えられた。すなわち自分の目からまず梁を取って後、兄弟の目のちりを取ることが出来る。まず第一に自分からである。
〔6〕「犬に聖き物を与うるなかれ」もし自分がきよめられて人を教えると言う場合に、先方が犬のように汚れを好むものならば与える必要はない。犬と豚についてはペテロが言ったように、悔改めてもまた元のようになる人のことである(ペテロ後二22)。勿論これは軽卒に人間の心を判断することは出来ないことであって、特別に聖霊の御声を聞かなければならない。ユダヤでは犬と豚とは食べないことになっていた。そこで神の愛はすべての人に注がれているが、犬となり羊となるのは人間の自由意志で決定することなので、心を頑固にして神のお言葉を受け入れない者はついに地獄に行く。
〔7~12〕「求めよさらぱ与えられ……」ここでキリストはもう一度祈りについて教えられた。しかも特に力を入れて教えておられる。もちろん神の側としては人間に聖霊を与え給うが、人間の側としては熱心に求めなければならない。聖霊は祈りの目標であり、賜物の中の賜物である。「求めよ」とは自分の欲するものを指すので、神はこれを与えられる。「尋ねよ」とは失った物を尋ねることで、神を見失った時のことである。神を見失った者は雅歌四1~4にあるようにうろたえて神を熱心に求める。はじめは自分の寝床から出て尋ねる。それでも見当らない時は恥も外聞も何もかも忘れて求める。「叩けよ」とは外に出された有様である。これは人間の有様をよく表わしている。誰でも神との交通の切れた時にはたたく。理屈は誰でもよく知っているが、本当に天からの火を受けるまでたたくことが大切である。ある人は聖霊を求めるのにパンを求めるように求める。またある人は神を非常にけちなお方のように考えて神を求める。けれども神は必らずしもその人の熱心の度合に従って与え給うお方ではない。神はその賜物を重んじさせる為に、熱心に求めて来る者を待っておられる。なぜかと言えばそこまで熱心に求めた人はそれを中々離さないで守るからである。「すべて求むる者は得」神は必らず祈りに答え給うお方である。だから熱心に子供のように祈らねばならない。神はけちなお方ではない。その人の為を思ってよいとご覧になる時に、またその人の態度によって与えられるのであって、神は与えたい一心であるのである。
〔12〕これは人のことと神のことが、大変関係のあることを示しておられるのであって、六14、15にも神に罪をゆるされることと人の罪をゆるすことの関係あることが示された。すなわち人に対する態度は神から祈りの答が来るか来ないかに、密接な関係がある。このことに注意するならば日々の生涯が大変美わしくなって来る。あの人はこうして欲しいだろう。この人はこうして欲しいだろうと思ってこれを実行するのである。神はこのような人に豊かに恵みを与え給う。人に対しても無頓着な人は神からも無頓着にせられる。「これ律法と予言者たるなり」旧約にくれぐれも教えたのはつまりこの点だと言う意味である。
〔13〕「狭き門より入れよ」よく言う言葉であるが、天国へ行く道は本当に狭い。ただ信者になる時に狭いばかりでなく、信者の生涯を送るにも狭い。なぜかと言えば神がきよいお方である為である。けれども今日の信者はおろか伝道者でさえも狭い道をはずれている。罪と汚れを捨てること、全く献身することを非常にゆるがせにしている。聖別会に出席する人の中にも、本当にせまい道を歩いている人は少ない。どうしても人間の肉は狭い道を歩くことを好まないものである。この点は大変律法的であるけれども、自由の霊が住まわれるならば自由がある。他の人から見れば非常に狭いようであるけれども、内心には喜びが満ちる。つまり狭いから自由があるのである。詩一八19。
〔15~20〕内なる罪が働く時には、いつもこう言う風になるのである。茨が出て来るのである。けれども内なる罪を取り去るなら、必らずこの愛の実を結ぶのである。悪い木は良い実を結ばないように、古き人は聖霊の実を結ばない。信者がこの古き人を持っているなら必らず焼かれるようになる。
〔21~23〕主よ主よと言う人は、他人から見れば実に立派で敬虔な信者のように見えるけれども、その人が神の御旨に従っておらなければ地獄へ行く。キリストを信じておっても自分が中心となって働いているならば亡びる。けれども神の御旨を行う者は愛が動機となって働くことが出来る。古き人を持っている人でも活発な伝道は出来る。けれどもそれは草木の働きである。ただ愛に根ざしてことを行わなければならない。
〔24~27〕ここは非常に味のある所である。ルカ六48には「土を深く掘り」とある。わたしたちは全ての物を捨ててイエスの上に家を建てねばならない。ある人の立場は、人の意見、感情、自分の思想や理屈等である。けれども皆これらを捨てて深く罪を悔改め、捨てるべき物をことごとく捨てて、しっかりと岩なるキリストの上に家を建てねばならない。多くの信者の立場は岩まで届いていないので時々動く。
らい病人の潔め(マタイ八2~4)
「来り拝して……」これは真の謙遜である。ただの敬礼ではない。「主もし御心にかなわぱ……」この人は主の能力を信じていた。けれども御心については光の欠乏している人であった。しかしその信仰は決して弱くなかった。なぜならば三年や五年の病気であればともかく、らい病となれば、人の目から見て失望するのが当然である。次にイエスは「我旨に適えり潔くなれ」と仰せられた。実にこれは有難いお言葉である。全く服従する人ならば、必らずイエスはその御心をあらわされるのである。
アメリカのナップと言う人が死のうとする時、大変な病気だったので、ある人が祈ろうとすると、いや祈るには及ばない、モーわたしは召されるのであると申したと言うが、神は服従する人には必らずその御心を現わされる。ただ自分のことのみならず、他人のことについても示される。「己を祭司に見せ……」(レビ一四3~20参考)このレビ記の中にある香柏の木は人性を指すもので、ヒソプは信仰を表わしたものである。ここで二羽の鳥を用いるのは、一羽は罪人たるわたしたちを現わし、他の一羽はすなわちキリストの血に浸されて自由を得ることを意味する。また主の死と復活とを指すと理解してもよい。一四節に右の耳たぶと右の手の親指と右足の第一指に愆祭の犠牲の血を付けるべきことがあるが、これは今まで悪魔の声を聞いていた耳が神の御声を聞き、足も神の御用を勤めるためである。また油は聖霊を指すもので御霊に満たされねばならないことを示したもの、このようにしてキリストのように潔く(神と人との前に)あるべきである。わたしたちは本当に自分はらい病人であったことを知るならば幸福なことである。「慎しみて人に告ぐるなかれ……」キリストの御業は全く愛の精神より出たもので、少くとも自分の名を求めたいためではないのである。福音書を見ると所々にイエスが病人をあわれまれたことが記してある。これはイエスが他の人々と違う所である。これが他人であるならば自分の名をば表わすために、寝る目も寝ずに奔走するかも知れない。しかしキリストはその正反対であられた。ある人はマルコ一45、ヨハネ六15、イザヤ四二2が、キリストが癒された人に慎しんで他人に告げてはいけないと命じた理由だと申した。またこの人がキリストの仰せに従わなかった為に伝道の妨げとなったのであるから、人は何事をするにも時のあることを知らねばならない(伝道三7)。
マルコ一40~45。
ただマタイによる福音書と異なる点のみをあげよう。四〇節に「跪づき」とあるが、これは謙遜の態度である。四一節に「憐みて」とあるが、あたかもご自身がらい病になっておられるように同情を表わし給うたようである。四五節にはきびしくいましめたとある。
ルカ五12~16。
一二節には「身ことごとく」とあるがレビ一三12~13を見れば「全く白くなりたれば潔き者なり」とある。これは実に不思議なことであるがまた幸福の人である。すなわち自分が全く汚れた者であることを自覚した人にしてはじめて、全き聖潔を見ることが出来る。何の彼のと言って見ても、このように悟らない人の聖潔はあやしいものである。その次の節は「ただれ肉(ただれじし)出でなば汚れたる者なり」とある。すなわちこれは古き人の型で、このただれ肉は物に感じ易いものであって、ちょっと触れても痛みを感じるものである。そのように古き人はやはり怒りやすく、また人の噂も、自分の噂のように気にかかるものである。
中風の人の癒し(マルコ二1~14)
二節を見るとおびただしい群衆であることがわかる。また四人でこの中風の人をかついで来たことはマルコにのみ記してあり、四節を見れば四人の熱心が大変なものであることがわかる。彼らは百方力を尽したけれども入ることが出来なかった。しかし失望もせず、ついにその望みを達成した。ここにある病人は実に重病であったことがわかるが、四人の者が何としてでも彼を癒して貰おうとする熱心を持っていたことがわかる。しかし彼らの熱心は、彼を癒すことは出来なかった。けれども彼らはイエスに向う熱い信仰があったので彼は癒されたのである。真に彼らの信仰こそ本当の信仰であった。だから屋根からと言う困難を意に介せずして目的を達した。わたしたちも地平線上で行くことが出来ない時には上に行く信仰を用いるべきである。
神の子としなければどうしても聖書を理解することは出来ない。九節の答は神でなければ答えることは出来ない。一二節の「直に」とはマルコの特色であるが、マルコはペテロの 僕であるから、これはペテロの思想の流れらしいところがある。一二節これは群衆の驚きであるが、わたしたちは今も生けるキリストを所有することに注意せよ。そして彼は今も罪を赦し病を癒すことを実験したい。
マタイ九2~8。
二節に「心安かれ」とある。七節には「人に賜いし神を崇めたり」とある。
ルカ五17~26。
一七節には「彼らの病を癒すべき主の能力顕れたり」とある。一九節には「瓦を取り」云々とある。二〇節には「人よ」云々とある。以上はマルコの録した所と相違した所である。
取税人マタイの召し(マタイ九9~13)
人間が相手にしない者にイエスは行って「我に従え」と仰せられた。ルカによる福音書の方を見るとマタイは一切を捨ててイエスに従ったとある。欲の深い取税人が一切を捨て従ったのを見ると、彼が非常な決心を持っていたことがわかる。またマタイによる福音書と対照する時にマタイの特色を見ることが出来る。ここで悪魔は色々のことを言ったが、イエスはことごとく勝利を得た。
〔13〕神の好み給う献げ物は砕けた霊魂である。「悔改めさせん為なり」とは、人々を悔い改めさせて神に立ち帰らせることであって、これはキリストの恵みである。マルコ二12~18、ルカ五27~32は同様なので省略する。
イエスは過ぎ越しの祭に臨まれた(ヨハネ五1)
レビ二三2を見るとこの節は「エホバの節期」だとある。それなのに「ユダヤ人の節筵」とあるのは、儀式に流れて敬神の念がなくなったので、このように呼ばれたのである。今日であってもこのようなことがある。すなわちクリスマス、聖餐または洗礼等の儀式において敬虔の念のない時にはこのようになる。
三八年病んだ者の癒し(ヨハネ五2~16)
ベテスダとは原語では「恵みの家」の義であって、キリストの型である。すなわち神がキリストの型として、実物教訓として与えたものである。三、四章の出来事は特別の出来事であるが、神は御摂理の中にキリストをしてこのように大なる奇跡をなさしめ給うた。四節に先立って入った者だけが癒されたと録されているが、旧約では人間に行いを要求したので失望があった。しかし六節を見ると実に恵みに満ちていることを見る。すなわちイエスはその人の困難な状態を見て「汝癒んことを願うや」と仰せられた。癒えることは完全になることを願うかの意であって、この病人に対しては実に何とも言えない慰めの言であったであろう。七節は人間の叫びである。全く自分の力のないことと、他人の助けがないために失望している姿である。すなわち人間の側からはとても神の恵みに達することは出来ないことであるが、八節は実に希望である。ベテスダにおいて真実であられた主は、この望みのない人に近づいてその叫びに答え給う。またここに信仰の三段が示されている「起きよ、床を取れ、歩め」まさに背水の陣である。進むより外に道がない。本当の信仰はこのように働く。九節に「この日は安息日であった」とあるが、この日は確かにこの人の為には安息日であった。一〇節を見ればユダヤ人の誤っていたことがよくわかる。彼らは何もしないことで、安息だと心得ていたのである。床を取り上げてはいけないことは実に極端である。一四節を見るとイエスはもう一度この人に声をかけらておられる。実に主の御愛が顕われている。これによってこの人は確信を得た。
〔14〕「復再び罪を犯すなかれ」この御言葉は今日でも、恵みを頂いた人に語られる御言葉である。
〔15〕父なる神も、子なる神も働き給うお方であることがわかる。人間はエデンの園で神の安息を破ったので、神はなお今日も働かねばならない。実に有難くまたもったいないことである。キリストはここで、父が働き給うのでわたしも働くと仰せられたが、わたしたちも内に働くキリストに動かされて働くならば、これが真実の安息である(コロサイ一29)。
〔19〕キリストは父を離れては何事も出来ないお方であった。すなわちただ信じて働くお方であった。わたしたちも神を信頼するならば、神はわたしたちを信任し給う。父はキリストを栄えさせ人を生かす力を与えられた。またキリストは審判する権威を与えられた。そう言うわけで人の運命はキリストを信じると信じないとに関連していて、その態度によって定まるのである。実に信者の幸福であることを見よ。またこれによって永遠の生命は信じる時から始まることがわかる。
また審判には三種ある。その一は千年時代の始まる前、生きている諸国民の審判がある。その次は信者の審判、その後に千年後の大審判がある。
キリストはここで御自身が審き主であることと甦えりなさることについて示しておられるが、また御自身の証を四通りしておられる。第一は三三節で「汝等先に人をヨハネに……彼真理の為に証をなせり」。第二、三六節「我はヨハネより大なる証あり……」。第三は三七節「且われを遣しし父も我ことに証せり……」。すなわち父なる神はイエスについて「こは我愛子なり」と仰せられ、また山の上でも証された。またイエスを甦えらせ、イエスの神であること、救主であることを証された。第四は三九節「聖書は我について証するものなり」と仰せられている。
〔44〕キリストは彼らの不信仰の理由を示された。彼らは人からほめられたく思っているので、神のほまれ、すなわち神からほめられることを好まないのである。また彼らは悪魔の配下にあるものであるからである。けれども生命を望んでいる人は必らずキリストを信じるようになる。
弟子たちが穂を摘んで食べる(マタイ一二1~8)
申命記二三25を見れば、畑の物は摘んで食べてもよいと録されているが、パリサイ人は、安息日にこれをしたことを理由に、このようにキリストに抗議したのである。それをキリストは弁護して下さるのだから実に有難いことである。主の答は斬新で聖書的である。彼はサムエル前一二1~6の事実を引いて、見事にパリサイ人の鋒を挫き給うた。ここの記事によればダビデは確かに律法を犯した。けれども律法は人を苦しめる為に設けられたものではなく、神が人を愛されるが故に設けられたものである。これを誤解する時には一方ならぬ誤謬に落ち入る。この時祭司は普く律法の精神を知って居たので、ダビデにこれを食わせた。ダビデも祭司の要求した条件に適していた。わたしたちも心の清い時にはこのようにすることが出来る場合がある。しかし肉に所を得られている時は、霊を憂えさせる。
〔3〕「又安息日に祭司は宮殿の内にて安息日を犯せども罪なきを律法に於て読まざるか」。キリストの答は実にパリサイ人の意表に出た(民数二八9参照)。すなわち祭司は種々なる献げ物をなす為に、非常に多忙であったけれども、事実罪を犯すのではなかった。わたしたちもよく神の御精神を知ることが必要である。
〔7〕律法は儀式一本やりではなく、あわれみを行うことを主眼とするものである。だから罪のない者に罪を着せないように注意しなければならない。
〔8〕キリストを信ずるわたしたちは神の安息に入ったものである(へブル四4~7、10)。そこでキリストを信ずるわたしたちは安息を守っているものである。だからわたしたちは律法の上にあるもので、律法の下にある者ではない。セブンスデーアドベンチスト派においては土曜日が安息日であるとして極端なる律法を主張する。けれどもコロサイ二16、17を見れば安息日はキリスト型であるとあり、イエスを信ずる者は安息日を守っているのである(へブル四3)。しかし彼を信じた者は律法として守るのでなく特権として守る。わたしたちは一週の初めの日を主の甦えりの日として恵みに感じて守る。パウロはテモテ前一8においてその用い方を注意している。すなわち律法の設けられた理由を九節に示し、キリストに救われた者には律法は不必要であり、この点に関して人を審判してはならない。何故ならばわたしたちは各自それ相当の光を持っているからである。パウロがロマ一四5~9に書いたように、神は表面ではなくてその動機を見られると言うことに留意しなければならない。
マルコ二23~28。
二七節は他の福音書とは違う所なので注意するように。
ルカ六1~5。
同じなので省略する。
手のなえた人の癒し(マタイ一二10~13)
神は人間に両手を与えて下さったが、ある人の手はなえて少しも役に立たない。この人も肝心な右の手がなえていた。霊的にも片手のなえている人がある。その人は信仰によって恩恵を受け取ることの出来ない者である。また愛によって与えることの出来ない人である。神は片手ばかりでなく両手を人間に与えて下さった。受けるばかりでなく与えることも出来るようにして下さった。ある人が樹木を見たところ枯れていたのでその原因を調べた。ところが根の近くに虫の小穴があって、しんの所が食い荒されていたと言う。わたしたちもまた足下に小穴があれば、全体が枯れるようになる。
〔11〕人間が一方に傾くときに常識から見る時は、実に馬鹿気て見えるが、キリストの解答は常識的である。
〔13〕このような命令はその人の信仰の為、他人に神の栄えが顕われる為に必要である。すなわち群衆より離れて人々に見えるように立つことである。わたしたちは神と人の前に罪を認める時に潔められる。イエスはいつも生きた信仰を要求される。こう言う信仰を要求するのは無理なようであるが、これは信仰の試金石である。わたしたちはこの信仰によって手を伸ばし、神の栄えを顕わさなければならない。この力を実験するには主よ信ずと手を伸ばす時である。
マルコ三5
怒りとあるのは義憤である。わたしたちも義憤を起すことは必要である。何故ならば彼らは、他人の救われるのを拒むからである。
イエス退いて祈る(マタイ一二14~21)
これはガリラヤでの出来事であることは、マルコ三7~12を見れば明白である。イエスの行き給う所にはどこでも諸方面から沢山の人が集まったが、「我に来る者は我必らず」これを捨てずとの言葉の通り、彼は真実に彼に来る者を癒し給うた。
このイザヤの予言はイザヤ四二1である。その僕とはイエスのことである。喜ぶとは愛することであって、神の愛するひとり子のことである。イエスが聖霊のバプテスマを受けたのは異邦人に道を示す為であった。彼は聖霊のバプテスマを受けていたが、人間のように大声を発して騒ぐことをせず、また宣伝的なこともせず実に柔和にことをなされた。肉の思いは聖霊を求める時にも、自分の名を大いなるものとする為に求めるけれども、神はこのような者に聖霊を与えられない。三節は霊魂に向う熱情である。ある霊魂は傷んだ葦のようであるから、ちょっと手でもつけるとつまづいて倒れる。だから愛をもって親切に取扱わねばならない。また「ほのぐらき灯」とは、御承知のように大事に取り扱わなければただちに消える。このような者を取り扱うには始終油を差し、灯心をかき立ててやらねばならない。キリストがわたしたちに対される態度もこのようであった。この「真理」とは審判である。すなわち悪を悪と断定することは真理である。願わくはわたしたちをこのキリストの生涯に至らせ、キリストを顕わせて下さい。神の能力が加わる時にはこのようになることが出来る。表面から見る時は失望するけれども、ピリポ、ペテロ、トマス、ユダ等が立派な使徒となったことを見ると、失望するには及ばない。わたしたちが聖霊に満たされることは伝道者には是非必要なことである。聖霊を受けた者は、競う、争う、呼ぶことなくして愛の人となり、忍耐の人となり、霊魂を愛し、忍耐して御用をする者である。しかし聖霊のない者にはとても及びもつかないことである。まだ受けていない兄姉は、祈って受けられますように。
イエス十二使徒を立てる(ルカ六12~16)
ここで終夜イエスが祈られたのは使徒を立てる為であった。実に窮するに余りあることである。しかしある人は言うであろう。もしイエスが神の子ならば、このように長時間に渡る祈りは必要としないであろう。神に相談すればすぐ解るだろうと。しかしわたしたちは先ずここでイエスが人間であり、わたしたちと同じ肉体を持っていたことを考えなければならない。すなわち彼はわたしたちと同じく祈るべき地位にいた。こう言うわけでこれは全世界の救いに関することなので、これ程の時間を必要とする点は怪しむに足りないことである。加えるにご自身の昇天後はペテロのような人物だけが残る。そこでこのことを重荷に感じられたのは当然のことである
わたしたちは自分の為に終夜祈ることもある。しかし人の為に祈ることのないのは実に恥かしいことである。願わくはわたしたちも終夜祈られたイエスの霊を受け、彼にならって祷告の為に徹夜する程までになりたいものである。しかしわたしたちの献身が不完全な時は祈ることが出来ない。また祈る必要があっても祈れない。
使徒=アポッスルとは、遣わされた者との意である。また十二使徒は特別に黙示その他の使命を持っている者である。だから今日の信者と使徒との間には大いなる使命の相違がある。
マルコ三13~19。
〔13〕「その心に適う者」とあって、特別にイエスの許に置く為であった。丁度アダムにエバを配されたように、イエスを慰める為であった。だから神との交通はただ自分の為ばかりではない。神を喜ばせることである。また召されてもただちに伝道するのではなく、イエスと交わって後伝道すべきである。
ある人は一五節を目的とするが、これは誤まりである。一五節は最終的結果である。
〔16〕キリスト御自身は岩である。しかしイエスを神の子と信じる信仰は岩である。ペテロがこのように名付けられたのはこの理由からである。
〔17〕雷の子とは、神の権威を指したものである。
〔19〕ユダを使徒に入れたのは、不思議中の不思議である。しかしこれは一つの警告であってまた予言の成就である。これによって幾分かその理由を知ることが出来る。すなわち神の側として神の愛の深さが現われ、人間の側としては人間がどんなに残酷であるかを現わしている。なお一つユダについて注意しなければならないことは彼の意志が砕かれなかったことである。自分の弱さの為に犯した罪は赦される道もあるが、意志をもって犯した罪はどうすることも出来ない。
平野の説教(ルカ六17~49)
この説教が山の上の説教と異なる理由は、十二使徒選択後であること、またここでは平地にいることによって明らかである。
〔18〕ここに「ことごとく癒されたり」とある。イエスの身には常に能力が満ちていた。丁度電気にさわれば皆その力を感ずるように。ルカによる福音書にはマタイによる福音書の山上の説教とは異なり「いま」と言う文字がある。すなわちこの世の物に満足を得ることが出来ずに、餓え渇く者は幸福である。人の子とは第二のアダムのことである。神の子は人の身代りをすることは出来ないが、人の子は人間の身代りとなることが出来る。
ここでイエスは自分の為に迫害された時に、失望するな、喜び躍れと仰せられた。
〔24~26〕神が御覧になってわざわいなのは、肉に富む者、飽いた者、笑う者である。全ての人とは多数の人の意である。多数の人にほめられようとするのは、肉の固まりである。また伝道者の失敗するのはこの点なので注意しなければならない。
〔27~36〕愛の実行。これは理想であるけれども、わたしたちはキリストの霊によって、これを実行することが出来る。三五節に恩を知らない者にも愛の働きをするように勧めているのは実にさいわいなことである。
〔37〕さばくこと、罪に定めること、ゆるすこと、この三つは注意すべき事柄である。
〔38〕これはルカによる福音書だけにある福音である。コリント後八2~4にあるように、わたしたちは人に与えれば与える程、神から与えられるものである。もしそれと反対にするならば、箴一一24のようになる。
〔39~42〕39、40はわたしたちがキリストを手本とするようにと言うことを示したものである。キリストを信じ、これを手本としないので、自分の目に梁のあることもわからないようになるのである。キリストを手本として潔くなる時、また兄弟の目のちりをも取ることが出来るようになるのである。
〔42~45〕古き人は茨のように、またアザミのようなものだけれども、心に聖霊と言う樹が植えられる時、必ず良い実を結ぶのである。またこれは心の状態と外部の状態とを示したものであって、口に出たり、行いに現われるのは、心に満ちているからである。
〔46~49〕これは実行のない者を叱責された個所である。他の物を捨て、キリストに来る者には必らず行為が伴わねばならない。
「その人は家を建つるに土を……」とは他の福音書にはない言葉であるが、この「掘る」と言う言葉に注意しなければならない。信仰には必らず掘る所が沢山ある。これまでの罪も、自分の意見も、感情も理屈も捨てて、岩なるキリストに達するのである。すなわち眼中にキリスト以外のものがなくなるまで掘らねばならない。しかし多くの人はここに達せずに、人の行為、人の説などに頼っている。だから倒れやすいのである。
百卒長の僕の癒し(ルカ七1~10)
二節を見るとこの人が愛の人であったことを見ることが出来る。真に熱心な祈りは愛より来るのである。四節五節にも彼の愛が表わされている。「善人」偉い人とはない。「我等の為に会堂を建てたり」彼は神を愛していたので、ユダヤ人をも愛していた。
この人は愛の人であっただけでなく、謙遜の人であった。このような急な場合においても、七節のような態度をとったことを見る時、彼がどんなに遠慮深くあったかを知ることが出来る。しかも自分は百卒長であるにも拘わらず、二度までも使者を立てて「主よ、自らをわずらわすこと勿れ、我が屋根の下に入れ奉るはおそれ多し只一言を出し給わば……」と申し上げたのは、彼がどんなに自分の卑しさを表わしているかを見ることが出来る。
また彼は信仰の人であった。そういうわけで常に耳にふれ、物に接して、真理を学んでおった人であった。彼は言った「人間でさえも上官の命令があれば動くことですので、あなたが一言命じなさるならばわたしたちは治ります」と。ここをもって彼がいかに神の言の能力あることを信じていたかを知ることが出来る。
九節には「イエス奇みて」とある。これは実にさいわいなことである。わたし、僕(しもべ)もキリストを驚かすほどの信仰を持ちたいものである。
マタイ八5~13
ここに僕の病気は中風だとある。この病気は、人間では簡単に癒すことの出来ないことがわかる。
七節に「われ行きて、これを癒すべし」とは実に何とも言えない有難いことではないか。主は信仰のある所へは、たとえどんな困難があっても、それを超えて助けに行かれるのである。
八節のただ一言、と言うことについて詩三三9、一○七20参照。
一二節はイエスの歎きである。
やもめの子の甦えり(ルカ七11~17)
夫に死なれ、またひとりっ子に死なれたこのやもめを見られた主の御心には同情の心が燃えた。今も主は世の中の嵐に悩まされ、死と言う嵐にもまれている人に、どのように同情をもってお出でなされることであろう。
ペテロもまたその他の使徒も死人を甦らせたが、今の教会の中にこのようなことが行われていないのは、わたしたちが神から信用されていないからである。主はわたしたちに約束して言われた「われを信ずる者は、わがなす業をなさん、且つこれより大なる業をなさん」と。ある人は今日このようなことの行われないのは、その必要がなくなった為、また世が文明に進んで来たのでその必要はないと言う。しかし神に対する知恵は文明になっていない。今日奇跡の行われない原因は、わたしたちの不信仰と、服従と謙遜の足りない為に、神は信任してなさることが出来ないのである。何故ならばわたしたちが奇跡をする時、たちまち高慢となり、自ら神の栄えを盗むようなことをする為である。しかし奇跡をする人は、常に神と共に歩く人でなければならない。
バプテスマのヨハネ、使者をイエスに遣わす(ルカ一一2~19)
ヨハネの信仰は確実であったにもかかわらず、イエスに使を遣わしてメシヤのことを問うたのは、ヨハネの頭の中に幾分か地上での神の国を期待する考えがあったと思われる。それなのに彼は、自分は牢に入れられ、イエスはますます民の中に奇跡を行っておられるので、大いに怪しんだのである。そこで彼は使をイエスに遣わしてこのことを問うた。キリストは親切にこれを迎えて仰せられた「汝等が聞く所見る所のことをヨハネに告げよ、めしいは見、あしなえは歩み……」これはすなわちわたしのメシヤである証拠であると。ヨハネはこの答をもって満足したであろう。
〔6〕ユダヤ人がイエスにつまづいた理由は、救い主は栄光の姿をもって来るはずだと思っていたのに、思いがけない姿で来られたので、大いに彼らの期待に反した為である。
〔7〕ヨハネはあっちへもこっちへも曲らない人で、境遇によって変化する人ではない。また彼は肉に属する人でもない。勿論柔かい着物をまとい美食を好む人ではないのである。このような人が見たければ野に来るな、そのような人は王の家にいる、と彼は叫んでいる。ヨハネこそは予言者よりすぐれた者である。しかし天国にいる小さい者も、彼よりも大いなる者だとキリストは仰せられた。実にイエスを信じ神の子となった者は全世界において最も大いなる者である。
〔12〕ここにある「励みたる者」この励むと言う言葉は注意を要する。励むとは乱暴を許すことである。人間は天国を取るのに、余りに柔和すぎる。この乱暴はよい乱暴である。
キリストの言葉によれば、ヨハネはマラキ三章にあるエリヤであることがわかる。
〔16~19〕この世と神とは全く利害を異にしている。人は潔く正しく歩む者を貴ぶはずである。ところがかえってこれをそしっている。また神の恵みすなわち罪人の友であるキリストをも受け入れない。実にわざわいなことである。「知恵は知恵の子にただしとせらるるなり」とは、キリストを信じ、見る目をもってすなわち神に属する人から見るのでなければ、このような人を正当に観察することは出来ないとの意である。
イエス町々の頑くななのを責められる(マタイ一一20~24)
悔改めない人に対しては神の親切も、神の愛も恵みもことごとく水の泡となった。彼らはイエスのメシヤである証拠を見たけれども悔改めなかった。
コラジン、ベツサイダはガリラヤの町である。ここはキリストの伝道の根拠地であって、キリストの口より充分教訓を聞いたけれども悔改めなかった。勿論少数の人は悔い改めた。しかし大多数の人は悔い改めなかったのである。これは実にわざわいなことであって、異邦人のツロ、シドン、すなわち海辺にある風俗の悪い所よりも、福音を聞いて信じないコラジン、ベツサイダは一層その罪は重い。彼らは自分は神の選民であるとの理由で高慢となり、キリストを受け入れなかったのである。
「天にまで挙げられし」とは、最大の栄光を拝し恩恵を与えられた、との意味である。ある人が言うにはソドムの形跡は今日でも知ることが出来るが、カペナウムの跡はわからないと言うことである。
パウロもキリストを信じない者に向って「死の香」だと言った(コリント後二15)。スポルジョンはこの伝道者の責任を非常に重く感じて、説教する時にはその用意に熱中した人で、妻を他人と思ってあいさつしたことさえあったと言う。また説教の時は一言発っして次に何を語るのかわからなかったと言う、と言っても用意は前述のように周到であった。わたしたちが宣伝する福音が人々に及ぼす結果を考える時にわたしたちはこのように大責任を感じなければならない者である。わたしたちの語ったキリストを信じない者は亡びるのである。これを思ってわたしたちもキリストのようにその人の為になげかねばならない。
香油をイエスの足に塗った女(ルカ七36~50)
(二種の献げ物)
パリサイ人はいかにもイエスを愛していたかのように、金銭を費して彼を招いた。ここに出て来る婦人は町の中で悪いことをした女性だとある。
「後に立ち」これは謙遜を示している。またこのなげきは実に幸福なるなげきである。自分の罪を悲しみ、神の恵みに感じて流した告白の涙、感謝の涙であった。またこの婦人は自分の頭の毛をもって、イエスの足を拭いた。すなわち彼女は自分の毛を雑巾としたのである。頭の毛は実に婦人の光栄である。また大切なものであるがそれを雑巾代りにしたのである。「口を接け」とあるのは、子を抱き上げて抱きしめ、もし食べられるものなら食べてしまいたい位に、幾度も幾度も口接けするとの意である。実になつかしいありさまである。また彼女は石膏のつぼをとって、その香油を惜し気もなく注いだ。この時キリストの御心はどんなに嬉しかったことであろうか、想像も出来ない。彼はパリサイ人が与えた口の御馳走よりも、この婦人がした足への御馳走の方が余程甘かったであろう。神の喜び給うものは犠牲よりも、砕けた魂である。それなのにパリサイ人が批評を始めたので、イエスは譬をもってその誤りを指摘されたのである。
〔41〕ゆるされた分量と愛とは比例している。四二節を見ればこの口の御馳走をしたシモンとこの婦人の献げ物の優劣を知ることが出来る。ユダヤでは主人が客の足を洗うことになっていた。ここには実にこの婦人の愛が表わされている。今日でもパリサイ人のように、人が恵みを受けて喜びに満たされているのに、その人を批評し自分の受けるはずの大いなる恵みを受け損じ罪を犯している人がいる。
パウロは実にこの婦人のような人であった(テモテ前一13)。彼は先に神に反抗した者でわたしは罪人の首なりと言っている。しかし今は「信仰と愛は極めて大になれり」と言っている。このような人こそイエスの恵みを知りピリピ人への手紙にある通りの香油を注ぐことが出来る(ピリピ四3~9)。彼はキリストと一体になることをこの上もなく良いこととしている。わたしたちもこのように励みたいものである。
第二回ガリラヤ巡回(ルカ八1~3)
ここにわたしたちは巡回伝道者であるイエスを見る。わたしたちは巡回伝道をする時、このイエスを覚えたい。わたしたちは一人で行くのではなく、彼が先に行かれるのである。福音とは死んだ人に生命を与えることである。ここでイエスに従う者は先の十二弟子次は病を癒された者たちであって、マグダラのマリヤ、ヘロデの家令の妻もいた。実に大勝利である。彼らは十二弟子のように働くことは出来なかったが、陰で金銭を惜し気もなく出し、また食物をも供給したであろう。ここを見る時、彼らが癒されていかに恵みに感じたかを見ることが出来る。またイエスが彼らの献げ物を喜んで受けられたのは、何と言う恵みであろう。またこれをもって主を養い奉るとは何たる特権だろう。主から霊のものを受け、肉のものをもって主と主の弟子を養うことが出来ると言うことは、何と美わしいことではないか。
大運動の始まる時には、一方において、大いに働く者が起ると共に、一方においてはこれを助ける者が起らなければならない。このようにしてはじめて大いなる神の恵みを受け、ほまれを得るのである。
悪霊につかれた者の癒し(マタイ一二22)
これは大変な恩恵である。この人は悪霊につかれた為、目は見えず、口は利けず、世にあっては無に等しい者である。しかしイエスはこの悪霊を追い出し、口を利けるようにされ、目を開かれたことは、この恩恵の表われである。メシヤのしるしである。
〔24〕「この人」とある。これは英語のヂス・フェロー、すなわちこいつとの意であって、実に軽蔑の言葉である。
〔25〕これはキリストの論法である。すなわちサタンがサタンを追い出したのでは、サタンの組織は破れてしまうではないか。あなたがたは矛盾したことを言っているのではないかと。また汝らの子供とはあなたがたの弟子の意であって、パリサイ人もエホバの名によって悪霊を追い出すことをしたものと見える。ここにキリストは神の国の近いこと、ご自身が神の霊によって悪霊を追い出したことを確言なさった。
勇士とは悪魔のことである。先ず人間から悪魔を取り除かなければ、人間には天国は来ないのである。イエスが人間の身体と魂を悪魔の手より分捕り給うとは実に有難いことであ る。
〔30〕パリサイ人に対する言葉である。彼らは表面は立派なように見えるけれども、キリストに背くので散らす者と仰せられたのである。
〔31〕聖霊を涜すことは、実に恐ろしい罪である。ここにあるように聖霊を涜すとは、霊を悪霊であると言うことである。これは彼らがキリストは悪霊につかれていると言った為である。また聖霊を拒む者は救いを受けることが出来ない。何故ならば聖霊は救いの綱であって、これを認めなければ心に信じることが出来ないからである。すなわち彼はわたしたちに神の恵みを知らせ、また悔い改めに導き給うお方であるからである。
〔33〕木とは心、口とは実である。心に充ちているものは必らず口に出て来るのである。よく世の人は「心にも無いことを言った」と言うけれども、これは大いなる誤りである。わたしたちの言葉には、一言一句責任のあるものなので、先ず各々その心を守らねばならない。
〔35〕わたしたちの心の倉は果して良い物で満たされた良い倉であろうか、自ら反省したい。
〔36〕この世において、イエスを知っていると言い表わすことは、天においてどんなに大きな報いを受けることか、一方それに反して彼を知らないと言った者のわざわいはどんなであろうか。
パウロはヘブル一三15においてわたしたちの口がどんなに貴い用をなすかを言っている。すなわち神の前にこれによって献げ物を供えることが出来るのである。
さて死に至る罪に三つある。聖霊を涜すこと、イエスを信じない罪、悪い行いを離れない罪がこれである(へブル六6、一○29、第一ヨハネ五16)。
マルコ三22~30。
ここにイエスがどんなに熱心に伝道なさったかを見ることが出来る。一二節にはキリストの親族は彼の気が狂ったと言い合ったとある。
イエスしるしを求める者に答え給う(マタイ一二28~45)
キリストはすでに目しいを見えさせ、足なえを歩かせ、耳しいに聞かせ、ご自分のメシヤであるしるしを顕わされたが、頑固な学者とパリサイ人は天からのしるしを求めた。これによって彼らがどんなに頑固であったかを知ることが出来る。
〔40〕三日三夜とはユダヤ人の数え方であって、足かけ三日の意である。キリスト・イエスの神であることは、その甦えりによって証明することが出来る。すなわちパウロがロマ一4に言ったこと、使徒三章における弟子たちの証詞によって明らかである。
キリストはここにご自身が救い主であることを、彼らに悟らせようとしておられる。ソロモンよりも、またヨナよりも大いなる神の子があなたがたに説教しているではないかと。「彼は地の果てよりソロモンの知恵を聴かんとて来れり」ここにキリストはシバの女王とパリサイ人とを対照しておられる。シバの女王は地の果てから、遠い所から求めて来たではないか。それなのにソロモンよりも大いなるわたしが自分であなたがたに教えているではないかと。わたしたちは今ひるがえって内なるキリストについて考えて見たい。ソロモンより大いなるイエス。ソロモンに知恵を与えられたイエスがわたしたちの内におられるとは何と言う特権であろうか。わたしたちはこのお方によって賢明な者になり、大伝道者となることが出来るのである。
〔43~46〕キリストを受け入れない者のわざわい。空いているとは、悪かったと良心に恥じることである。学者パリサイ人は特別に律法を知っていた。だから善悪の判定はよくわかっていた。(すなわち空いている時に良い物をもって満たされなければ前よりもなお悪い物で満たされる)。そこで彼らがキリストを受け入れなければなお悪く成って行くだけである。
「掃き浄まり飾れる」これは人間の手細工を指すのである。たとえば大酒呑みが禁酒しようとして自分の方で禁酒を企てて失敗すると、やけを起してなお多くの酒を呑むのに似ている(ルカ一六4参照)。このようにパリサイ人もキリストを受け入れない時、悪霊はなお彼らの心を頑固にするのである。
イエスの身内の来訪(マタイ一二46~50)
マルコの言う所を見ると、この時イエスは伝道の為に大変多忙であったと見ることが出来る。その為イエスは断然これを拒絶された。イエスがどんなに天の父の御事業を重んじておいでになるか。それは彼の一二歳の時の精神と同じである。ここを見ると、イエスは自分の母や兄弟たちを非常に軽視しておられるようであるが、マルコ三21以下を見る時、彼の親族等も彼について種々なる誤解を持っていたところから、このように拒絶なさったことを知ることが出来る。
四八節以下を読む時、天に在す父の御旨を行う者を、キリストはどんなに尊敬しておられたかを知る。彼を信じる者は何と幸福な者であろう。
弟子とはどういう者を言うのか。(ヨハネ一五8)実を結ぶ者、神の栄えを表わす者。(ヨハネ八31)神の道にいる者。 (ヨハネ一三34)相愛する者。(ルカ一四26~27)父母兄弟でも主の道に反対する場合には十字架を負ってこれを憎む者。主に来る者。以上のような者は真のキリストの弟子である。普通の信者と弟子とは相違がある。
マルコ三31~35。ルカ八15~21。マルコ三32に「多くの人々イエスをめぐり座し」とある。他は殆ど同様なので略す。
種まきのたとえ(マタイ一三1~23)
マタイによる福音書一三章一節より五〇節までに七個のたとえがある。最初の四つは一般の人に語られたものであるけれども、後の三つは弟子たちに語られたものである。ある人は第一を緒言とし、残りの六個を三組に分け、第一組は第二と七、第二組は第三と四、第三組は第五と六であると言う。しかしここでは聖書の順序に従うべきである。すなわち最初の四つを一般として第一は神の種まき、第二は悪魔の種まき、第三は神の種まきの結果、第四は三一節以下で悪魔がどんなに人の心に恐ろしい働きをしているかを教える。これは一般の人に向って語られたものである。第二段は四四節以下で、弟子に神の国を専心求めるべきことを、隠れた宝のたとえで、また真珠のたとえで示されている。最後に良い魚と悪い魚とのたとえによって、再臨の時の大審判を説明しておられる。こうしてここには無限の真理が示されている。
三節から八節までは三六節以下にキリストの解釈があるので略す。
〔9〕「耳ありて聴ゆる者は聴べし」キリストは人の注意を引く為にこのような斬新な言葉を出し給うた。
〔12〕「もてる者」とは保つ者との意であって、神の恵みを大切に保存する人のことである。「無有者」とは、神から与えられた物を捨てる人である。このような人は持っているものまで取られてしまう。不真面目な者は神の道を聴く時といえども、これを軽んじるので、心に留まらず、従って信じるようにならないのである。説教の時にちょっと感じた所があっても、感じない様なふりをする人がある。このような人は救われない人である。
〔10〕弟子がイエスに質問したことは、非常にイエスの心を喜ばせた。何故ならば、真理を尋ねることは主の聖旨に適うことであるからである。そこで主は一六節において彼らを祝し給うた。
〔17〕ここで主は、弟子が実に幸福な者であること言っておられる。すなわちキリストの王国のことは予言者も天の使も知ろうと願った所であるにもかかわらず、その真理を悟ることが出来るとは実に特権であると。ペテロも言っている(ペテロ前一10参照)。ルカ八11~18にイエスの説明があるので参照すべきである。
毒麦のたとえ(マタイ一三24~30、36~43)
天国とは神の国との意義に用いられた所もあるが、ここでは真理を説けばとの意である。
〔25〕ここにあるように、悪魔は疲れた時、寝た時のように油断した時に、すきを狙ってひそかに悪の分子を投げ込むのである(マタイ一三36~44参照)。
〔26〕この世には悪魔の子と神の子とがある。教会の中にもこのように二種の者のあることは注意すべきことである。
〔27〕主人の僕とは伝道者のような者であろう。
〔28〕この世においては到底正しい審判をすることは出来ない。だからわたしたちは軽卒に人を悪魔の子だなどと決めつけることはよくないことである。しかし再臨の時には悪魔の子は取り分けられるのである(コリント前四5)。と言って、兄弟たちの罪を犯した者をそのままにしておくのかと言うと、決してそうではない。コリント前六9~11にあるように断然たる所置をなすべきである。このことについてはマタイ一八15~17に言っている。
からし種とパン種のたとえ(マタイ一三31~35)
このたとえには二つの解釈がある。一つは小さな福音の種が大いなる福音の実を結ぶことを示したものであると言うことである。他の一つは、小さな罪が非常に大きな罪となると言うことである。いずれも一面の真理であるが、前後の関係を見れば、後者すなわち罪のたとえと解する方がよい。わたしたちも知っているようにからし種は実に小さなものであるけれども樹木のように大きくなるものである(ユダヤのからしの木は非常に大きく成長するものである)。罪は初めは極く小さなものだが、ついには悪霊が住むようになる。実に恐るべきことである。あのユダの心は丁度この通りであった。初めは色々な理由をつけて、金銭を貯えることをした。その奥には神の前に殺されなければならない一物があったのである。彼はこの一物を断然抜き捨てなかった為に、悪魔が彼に住み込み、ついにイエスを売るようになってしまったのである(ヨハネ一三27参照)。ユダがイエスを売るようになったのは実に順序のあることである。ヨハネ一三2にはその順序が書かれている。
パン種は、腐敗、邪悪、偽善、隠れた罪等を言ったものであって、人の心も身体も腐らせる勢力である。イエスはルカ一二1後半にこのことを注意しておられる。この偽善の勢力は自分の心を腐敗させるだけでなく、他人をも腐らせるのである(コリント前五8参照)。このたとえにもあるように、極く少量でも多くの人を腐らせるのである。
〔34〕これは詩七八2のように昔から隠されている奥義を語られるとのことである。実に感謝なことではないか。すなわちイエスはこの隠された奥義を御自身の口と霊によってわたしたちにお語りになられるのである。
隠された宝と真珠のたとえ(マタイ一三44~46)
〔44〕このたとえを信者の側から見ないでキリストの側から見なさい。先ず第一にキリストは卑しいわたしたちを顧み、このわたしたちの魂を重んじて、これを求められた。すなわちわたしたちの魂を目がけて、天の栄えを捨ててこの地上に来られ、真珠のようにわたしたちを買い上げられたのである。これを土台として、人の側から味わうべきである。このようにして与えて下さるキリストの賜物を思い、地上の全ての所有を犠牲として、この賜を買うべきである。
「之を秘し」とは、失うまいと心を用いることである。このようにわたしたちは一度天の宝の貴さを知る時これを重んじるのである。この宝は偶然発見したようであるが、実際においてもこのようなことがしばしばある。
〔45~46〕ここは前とは反対で、求める姿勢である。これはわたしたちが聖霊を求め、またキリストを求める場合に当てはまる。すなわち何物をも捨てて聖霊を求めることである。パウロこそ実にこの人であった。しかし多くの人はすべての物を捨てて、キリストを求めることをしない。信者がキリストを求めるにはこのようでなければならない。
引き網のたとえ(マタイ一三47~50)
この世としては、マタイ二五章にある審判であるが、これは直接キリストの再臨を指したものである。勿論信者の審判にも当てはめることが出来る。
「各様の魚」とは種々の品性の人を言う。神は異邦人の時が満ち、選んだ数が充ちた時、網を引き上げられるのである。この時神はその聖旨に適わない者をことごとく外の暗やみに投げ出される。そこで人はこの時永遠の生命に入るか、永遠の刑罰に入るか、どちらかに定められるのである。目をさまして主を待っているのと、酒に酔っているのとでは何と大きな相違ではないか。
イエス嵐を静められる(マタイ八23~27)
イエスと共に舟で乗り出すことは大切なことである。次に注意しなければならないことは、イエスと共にいる時にも世の中の嵐は吹くと言うことである。このような場合神から捨てられたように、またこれは神の聖旨ではないなどと思うことがある。この時は実に心細く感じる。マルコ四35を見ると、水が舟に満ちたとある。その上その時は夕暮であった。弟子たちはどんなに心細く感じたことであろう。しかしイエスは風や波や暗やみを恐れるお方ではない。イエスこそ実に天地の支配者である。彼はこの時にも大胆に寝ておられた。
マルコ四38に「主よ我等が溺る上をも顧み給わざるか」とある。ここにおいて弟子たちが、キリストの愛をいかに疑い主を無情なお方のように思っていたかがわかる。これは実に主の安眠を妨げた罪である。弟子たちにこのような恐れのあったのは、主を見ないで波を見たからである。彼らは風よりも主の方が力の弱い者のように思ったのである。そこで祈りがつぶやきとなってしまった。人情としては同情を表わさねばならないが、不信仰の点は責めなければならない。しかし主は彼らの不信仰を憐れまれた。実に感謝すべきである。ルカ八22~25。二五節に「汝等の信何処にあるや」平常信じますと言っていたその信仰は何処にあるかと仰せられる。
悪霊が豚に入る(マタイ八28~34)
現在悪魔は、神の前に敗軍の将である。しかし個人から追い出される時は信仰する時である。これを飼主から見る時、豚が海に溺れたのは、大損害である。しかしユダヤ人より見れば、豚は汚れたものであって、律法で禁じられていた。だからイエスがこのようになされたのは当然のことである。パウロがピリピで悪霊を追い出した時も、金儲けの道を失った人が出て来た。
マルコ五1~20
レギオンとは連隊との意である。豚の価が一匹拾円としても、二千匹ならば二万円である。当然豚飼にとっては大損害である。
〔18〕「共に居らんことを願いければ」。この人はイエスと共に行くことを願ったが、主は家族に救いの証をするように命じられた。それは新たに救いを受けた人に対する神の要求である。ただちに伝道者になる人の例は少くない。
ヨハネの弟子の問と主の答(マタイ九14~17)
パリサイ人はどこまでも律法をやかましく言った。その為にキリストがその弟子たちと共に、実に楽しく飲食し、パリサイ人のようにしないのを見て、ヨハネの弟子は不思議に思ったのである。
新郎とはイエスのことであり、新郎の友とは弟子のことである。弟子たちはキリストの昇天する前は断食をしなかったが、キリスト昇天後には断食をした(使徒一三2、3)。現在はわたしたちも断食すべき時である。それは仕方なくするのではなく、喜んでなすべきである。
〔16、17〕両節は新約の精神と、旧約の儀式とがとても一致することのできないことを表わしたものである。すなわち新しい酒とは新約の精神、古い革袋とは旧約の儀式であって、新しい革袋とは新らしい戒しめである。
ルカ五33~39。
〔39〕人間の習慣性をたとえたものである。人間はなかなか古い習慣を捨て難いものである。
長血を患った女の癒しとヤイロの娘の復活(マルコ五22~43)
会堂の司とは宗教上重い役目である。当時信者のすくない時、しかも会堂の司の中にヤイロのような信仰篤い人物を出したことは驚くべきことである。
信仰には謙遜が伴うものである。「其足下にうつ伏して切々に求めいいけるは……」これは切なる祈りである。マタイによる福音書(九18~26)の方には「既に死ねり」とあるのを見れば、ここに矛盾があるようであるが、既に死ねりとは人間の方から見て望みないことを言うのである。しかしこのように望のない時に、このような信仰の祈をした彼の信仰は、イエスの手を動かした。この尊い祈りこそイエスを動かした原動力であった。
この長血を患った女の癒されたのは、イエスがヤイロの家に行く途中の出来事であった。レビ一五25を見ると長血のある女は他人と交際も出来ず、また神殿に礼拝の為に入ることが出来なかった。だからこの女には肉体上の苦しみ以上に、宗教上の苦しみのあったことを見ることが出来る。ここに医者が大層苦しめたとある。これによっても人間がどんなに力のないものかを知ることが出来る。と同時にこの女の望みのない状況が知られる。このような時女がイエスのことを聞いたのは、この世の中の唯一の福音であったであろう。
さてこの女はイエスの衣にさわったが、その時癒えたことがわかった。マタイ九21には裾にさわったとある。これはこの女の謙遜を表わしたものである。「衣にだにさわらぱ癒えんと思えばなり」この信仰があったから彼女は癒された。わたしたちも信仰を持ってイエスにさわるならばただちに癒される。
〔30〕「我衣にさわりし者は誰なるか」主は信仰をもってさわった者を探し出される。人の目から見る時皆さわっているようであるが、信仰をもってさわった者は、イエスでなければわからない。説教中、勧話中にも信仰のある所には力が働く。
「イエスこの事をなせる女を見んと……」イエスは何故このようなことを求めるのであろうか。イエスはこの女の信仰の発表を求めたからである。もし彼女が、そのまま逃げ去ってしまったならば、この女の信仰は影裏のある信仰となってしまう。そこでイエスは彼女を神の前人の前に信仰の証明をなさせられたのである。このようにイエスは今日においても、恵みを受けた者に証詞を求められる。
〔33〕は証詞の態度である。人は自分の罪を自慢している。神に逆らうことを自慢するのは実にすべからざることである。
三〇節にある通り、イエスの中には、能力が満ちている。信仰をもってさわるならば丁度水の満ちる袋を針で突いたようである。
〔31〕「女よ汝の信汝を救えり」この女は神の能力を既に受けたけれども、証詞した時にイエスから確証を受けた。このイエスからの確証は大切である。これは丁度両親が種々なる計画をして、ちょっと手をつければ出来上るようにして置き、その子供にさせて出来上ったのを見て、坊や、よく出来たと言うようなものである。
〔35〕「何ぞ師を煩わすや」このような望みのない時に悪魔は激しく働く。けれどもイエスは助けて下さる「恐るる勿れ唯信ぜよ」と。何と有難いことではないか。多くの場合悪魔は「駄目だ駄目だ」と言う、しかし主の言葉を信じて進むべきである。
〔37〕「誰にも共に往くことを許さざりき」不信仰な人はいざと言う場合に何の役にも立たない。一緒にいることさえ障害となる。このように重大な問題の場合には、信仰の一致した人だけでことを決めるべきである。不信仰な人はイエスを追い出す。イエスは決して不信仰な人を用いられない。このような時には神の栄えの為に、人の感情を害することはあるが、不信仰な人は退ける方がよい。わたしはある時一人の病人の前に遣わされた。そこにいた病人の親友は真赤になってこれに反対したが、その病人はかえってその人に説教を始めた。そこで友人は隣りの部屋に退き幾分か感情は害したが、ついにその人も癒しを信じるようになった。
〔38〕には不信仰な人と、信仰ある人との写真がある。不信仰な人はなげき悲しむ、しかし主は死んだのではないと仰せられる。それなのに「その時人々イエスを嘲笑う」不信仰な人はいつもこのようである。
〔43〕イエスは癒し主であるばかりでなく、強め主である。ただ口で「主よ信じます」と言うだけでなく、起って歩かねぱならない。
二人の目の癒し(マタイ九27~31)
ダビデの子孫とはメシヤすなわち救い主の意である。彼らはイエスがメシヤであることを信じていた。
「われこの事をなし得るや」と、イエスは信仰を要求される。そこでわたしたちが祈る時に神は、わたしにこのことをすることが出来ると信じるかと仰せられる。しかしその時主を見上げる者は「主よ然り」と言うことが出来る。ここに信仰の順序を見ることが出来る。
さてわたしたちは肉体の目は開かれているが、霊の目はどうだろう。真実に亡びる魂が、また来世が、はっきりと見えているだろうか。この点について調べて見たい。もし開かれていないならば、主の許に行って癒されなければならない。神は知恵と黙示の霊をもって、わたしたちの目を開かれる。しかしこれは理屈がわかるようになると言うこととはちがう。
口の不自由な人から悪霊を追い出す(マタイ九32)
悪霊の一つの働きは人間の口を不自由にすることである。
神が人間に口を与えられたのは、神を讃美させる為、人の徳をたてさせる為である。悪魔はこれを閉して、神を讃美させないようにした。また人をおしゃべりにするのである。ある人は口の不自由な人はのどの器械が足りないのだと言う。しかし悪霊の働きであることがしばしばある。今日といえども、信仰によって主を働かせるならば、悪霊につかれた者を癒すことが出来る。これは奇跡を行う為ではない、神の栄えを顕わす為なので、なお霊の目をもって、病気か、悪霊かを見分ける力を与えられなければならない。またこのようにする為には一層満たされなければならない。今日まで聖霊に満たされた人の起った時は、悪霊かまたは病気であるかを判断し、これを追い出すことが行われた。
〔34〕この学者の言葉は聖霊を涜す罪であって、赦されることの出来ない罪である(マタイ一二31参照)。
イエス、ナザレにおいて再び捨てられる(マタイ一三54~58)
ナザレの人々は、その親や兄弟によってキリストの値打ちを知ろうとした。多くの人は下からキリストを量る。しかしキリストは上から量るのでなければ、その値打ちを量ることは出来ない。どうしてもキリストを下より量る時に嫌い捨てるようになる。マルコによる福音書を見るならば、数人癒されたとある。しかし多くの人は下から量った為嫌って捨てるようになった。キリストは不信仰な所には決して働くことが出来ない。
マルコ六1~6
〔1〕ここには弟子と共に行ったとある。
〔5〕にある如く、キリストは大いなる愛をもってナザレに行かれたが、不信仰な彼らはついにイエスを追い出した。これは実に悲しい恐ろしいことである。この故郷の人がイエスの肉体を見て、霊魂を見ないのは人間の弱点である。わたしたちは外部の如何に関わらず公平な判断をしなければならない。そうすれば大いなる利益を得る。
十二使徒の派遣(マタイ一〇1~15)
汚れた霊を追い出すとは、キリストの敵を追い出すことである。また彼らは病を癒やす権威をも賜わった。人はどうしても霊と肉体との救いを得なければ満足することは出来ない。
〔5〕イエスはペンテコステ前は、ユダヤ人だけの救い主であった、だからこう仰せられたのである。「イスラエルの家の迷える羊に往け」キリストがいかにイスラエルを顧みておられたかがわかる。望みなく亡びに近づいている人々に、天国の福音を伝えるのは実に幸福なことである。
〔8〕ここに「せよ」と言う命令がある。これは必らず出来ることである。すなわちイエスの名によって出来るのである。「価なしに施すべし」多くの人は、金銭、物品こそは受けないが、名誉は受ける、これは決して無代償ではない。
〔9〕これは神の民の中に伝道する場合のことである。「働く者のその食物を得るは宜なり」。真に幸いな約束である。わたしたちはお金の信仰がなくては、伝道に困難である。わたしたちにお金の無い時は神に催促せよ。これは伝道者としての方面なので、信者は進んで助けなければならない。
〔11〕伝道者はちょっとしたことでそこを移ることは悪いことである。この村ではどこに泊るべきかを祈り、神が導かれるまではそこを動いてはならない。
〔12〕これはなすべきことである。「平安を問え」とは神の祝福を受ける為に神の言葉を伝えることである。「汝らの願う平安は汝らに帰るべし」実に幸福なことである。すなわち先方で福音を拒むならば、その願う平安は伝道者に来るのである。そこで人に福音を伝えることは、自分としては損のないことである。しかし受け入れない人はわざわいなので、わたしたちはその人の為になげくべきである。「足の塵を払え」とは、あなたの血はあなたに帰える、と言うのと同じ意で、不信仰の罪を憎む印である。
マタイ一〇16~42
1~15は信仰をもって出て行くべきことを示したものであって、16~23の一段は知恵と柔和とを示したものである。またこの中には忍耐をも含む。
24~42、ここは大胆にキリストの証詞をするべきことを教えたものである。わたしたちはこの決心と大胆を要するのである。
〔16〕どうしたらわたしたちは大胆に進むことが出来るか。この節にあるように「我汝らを遣す」の聖言にあるのである。ユダの獅子であるイエスが共に行かれるので、たとえ狼の中を行くようなことがあっても大丈夫である。しかしわたしたちとしては、もとより弱い者なので、敵を打ち破って魂を救うには知恵を必要とする。これは世の知恵でなくて、神の知恵である。世の聡明さではなくて、魂を捕える聡明さである。すなわち祈りに乗って魂を捕えることである。もしそうでなければ救霊の事業は失敗である。また神の前に知恵ある者も、人の前には実に愚かな者のように見えるものなので、決して人の目で判断すべきものではない。
次にここでは二つの動物をもって、剛柔の二要素を兼ねるべきことを示しておられる。すなわち敏速の中にも柔和でなければならないことを示したのである。
〔17~18〕これは未信者の中よりも、かえって宗教家の中に敵のあることを言ったものである。昔の弟子もまた主も、このように宗教家に苦しめられた。
あのパウロが鎖につながれて、カイザルの前に立ったのは神の摂理であった。パウロがもし普通の伝道者であったならば、とてもカイザルの前に立つことは出来なかったが、鎖につながれて、王の前に立つことが出来たとは、これは摂理によって為し得たのである。わたしたちは事情を見ずに、神の摂理を見なければならない。
〔19、20〕ことに接して思い煩いの多いのは人間に有りがちなことである。しかし、心配するなと言うことは、神の霊が教え給う。丁度ロマ人への手紙八章にあるように神の霊に導かれるのである。七章においては自ら非常に苦しんで居るが、八章に至って神の霊によって能力を得るのである。
〔21~23〕迫害のある時多くの人が倒れる。しかし忍耐する人は救われる。信じて救われることは簡単であるけれども、救いを全うするには忍耐を要する。迫害はどんなに激しくても失望してはならない。この時こそ神の救いの能力の顕われる時である。あのエルサレム滅亡の時には、キリスト信者は一人もエルサレムにはいなかったと言う。それは彼らが以前に迫害を受け、地方に追い出されて留守であったからである。表面から見る時には迫害で苦しい状態であるけれども、神が彼らを救い給う御手であったのである。
〔24、25〕僕が主と同一の待遇を受けるとは、幸福なことである。あのペテロはローマにおいて、十字架に釘づけられようとした時、主と同一の待遇を受けるのは勿体ないことだと言うので自分から頼んで逆さ十字架刑に処せられた。
〔26〕何物も神の前には裸かで現われるものなので、人を恐れるのは愚かなことである。
〔27〕これは密室の祈祷で神から聞いたことを公衆の前に証詞せよと言うことである。またこれは人に道を語る時、適用することが出来るのである。
〔28〕人を恐れるなかれ、神を恐れよ。人間は身体を殺すことが出来るだけである。しかし神は人の霊魂を地獄で滅ぼす権威を持っておられる。それなのにわたしたちの着眼点は時々狂い易いので注意しなければならない。
〔29~33〕雀さえも守られる天の父は、必らずわたしたちをお守り下さる。そして大胆に御用を勤めさせて下さるのである。それにもかかわらずわたしたちは、わたしたちに反対する人の目前で、口ではキリストを知らないとは言わなくても、その態度などでキリストを知らないと示すこともある。わたしたちはどこまでも、言と行いをもってキリスト信者であることを証詞しなければならない。
〔34~39〕これは非常に権威のある言葉である。信仰の為に家族の間に隔たりを生じても止むを得ない場合がある。しかしわたしたちはどこまでも「神第一で」なければならない。
「その十字架をとりて……」十字架には種類がある。各自己れの十字架を負うべきである。それなのに自分の十字架を負わないで、やたらに他人の十字架をうらやましがるようなことは心得違いである。この世で生命を全うしようとする者は、主の聖旨にそわず勿論主の新婦の資格はなく、栄光に与る資格もない。
〔40〕ここは主とその弟子の一体であることを示したものである。今日の軍人は国家の為に生命を捨てているのに、わたしの為に十字架におかかりになられた彼の為に死ぬことは何と言う特権であろうか。このようにして始めて生命を得るのである。主がわたしたちを遣わされるとは、何と貴いことであろう。
〔42〕神は自分を愛する者また自分の弟子を愛する者をよく知って、豊かに報いて下さるのである。
バプテスマのヨハネの死(マルコ六14~29)
〔14〕主の名の広まったことを見よ。
〔16〕ヘロデは罪のない者の首を斬った為に、このように恐れたのである。これによってどんなに猛悪な人間にも、良心の存在するのを見ることが出来る。歴史によればヘロデとピリポとは腹違いの兄弟である。ヘロデには当時他の妻があった。それなのに彼はヘロデヤと不義を行い、ヘロデヤはピリポと離縁してヘロデと結婚した。これは原因がどのようなものであるかわからないけれども、ヘロデはヘロデヤの美貌に心酔し、一方はヘロデの地位の高さに幻惑されたのであろう。
〔18〕律法によれば兄弟の妻を迎えるのは罪なので、ヨハネは大胆にこれを諫めたのである。王者に向って「汝兄弟の妻を納るるは宜からず」と直言した彼の大胆と義は学ぶべきである。わたしたち伝道者にはこの大胆が必要である。ことに長上の人に向って罪を責めるのは難かしいことであるからである。
〔19〕ヨハネを殺すに至った三つの動機がある。その第一は情欲であり、第二は怨らみ、第三はヘロデの優柔不断である。
〔20〕によれば、ヘロデは喜んで善を行ったことを見る。しかしながら一度ヨハネを通して語られた神の声を聴かなかった為に、ついにサタンに乗ぜられてしまったものである。
娘とはピリポの子であって、ヘロデヤの連れ子のことである。
〔22〕にこの娘の舞踏が用いられているのを見る。実に快楽はサタンの武具である。ヘロデはこの為に前後の見境いもなく無思慮に、このような約束をするに至った。これがヨハネの殺されるに至った第五の原因である。
〔24〕サタンの目的は人を殺すことである。サタンはこの目的を達する為に、あらゆる方法を尽している。
〔25〕を見れば、この娘がどんなに忠実であったかを知ることが出来る。またこの娘がどんなに忠実でその上大胆であったかを見よ。わたしたちは霊魂を救う為にこのようでなければならない。
〔26~28〕第六の原因は自分の名誉を求めること、すなわち彼は他人の批評を恐れてこのようにした。神を恐れる者は、義を義とし、不義を不義とする。人を恐れる者はこれに反し、その目的が実現せず、その為に人を殺すようになるのである。
〔29〕神の喜びはサタンの悲しみであって、地上のことと天上のこととは反対である。この時のヨハネの弟子の悲しみはどれほどであったか、察するに余りがある。ついに彼らはイエスの所に行った、本当にこの世にはイエスの他に慰める者はいない。
イエスの五千人給食(マルコ六31~44)
〔31〕イエスの伝道がどんなに多忙であったかを見よ。わたしたちも働きに疲れた時イエスと共に休むべきである。しかしわたしたちはとかくイエスと共に休まない為に、肉に所を得られ、力をサタンに奪われることがある。そこでイエスは「我と共に」と言われる。
〔36~38〕これは人間の考えである。あるいは今日の宗教家とも比較すべきか。彼らは自力をたのみとしている。「銀二百のパンを買い……」すなわち方法をもって人を満腹させようとする。しかしイエスは彼らに食物を与えるように、と言われる。この時の弟子の驚きはどれほどであったろうか。「パンは幾らある往て見よ」イエスは決して遠方にあるパンを求められないのである。
〔39〕信仰の試みである。何故ならば、五つのパンと二つの魚をもって、五千人の人に食物を与えることなので、イエスを信じない人には無茶なやり方であるからである。
〔41〕は信仰の結果である。今この五つのパンと二つの魚を持った人の側に立って考えて見よ。(ヨハネ六9)この少年は惜しみなく皆その持っているものを献げた。わたしたちも献身し、イエスの心のままに用いられる時は、このように多くの人を養うことが出来る。
しかしパンもイエスが祝して下さらなければ人を養うことは出来ない。このようにわたしたちが献身する時、イエスが祝し、これを用いて下さらなければ人に生命を与えることは出来ない。祝して頂くと多くの人に生命を与えることが出来るのである。
〔43〕これは豊かに恵みを受けた時にも、その恵みを無駄にしないことである。
ヨハネによる福音書の方を見るとこの時大いなる神の栄えが顕われたのを見る(ヨハネ六14)。
イエス水の上を歩かれた(マタイ一四22~33)
〔22~23〕キリストは人々を帰えし、また弟子たちをも向う岸に渡らせ、一人で密かに山に行って祈られた。わたしたちは集会の前には祈るけれども、集会の後には祈らない。わたしたちもキリストのように祈りの人となりたいものである。
この日主は非常に多忙であったことを知ることが出来る。わたしたちは二百人や三百人の集まりでも充分多忙であるのに五千人にも食物を与えることは、人間としては困難なことである。のみならずこの日は病人を癒し、その他種々なことの為に多忙であったことを見ることが出来る。しかし人々の為に重荷を負われる主は、この五千人の霊魂の為にお祈りになられたのを見る。何故ならば彼らの霊魂は真正なものではなかったからである。これこそ真の祭司である。わたしたちも聖霊に満たされる時は、こうなることが出来るのである。
あのフィニーは説教前よりその後に多く祈った人であると言う。真実霊魂に心を配る人はこのようにあるべきである。
〔24〕この出来事は非常な薬を弟子たちに与えたことである。普通は恵みに慣れてイエスが共におられることを何とも思わないが、さて主が彼らから離れられ、自分たちばかりでいる時、舟の中でこのようなことに遇った時、自分たちの実に寄る辺なきものであることを悟ったのである。弟子の中には漁師の連中も沢山乗り込んでいたので勇んでこぎ出したのであろう。しかし彼らより強い嵐がやって来た。
マルコ六48にはこの困難のありさまが明らかに書いてある。弟子たちは相当こいだであろう。もはやこぎ疲れてさじを投げた時にキリストが助けに来られた。わたしたちも幾分か自分の力のある時に主が助けられるならば、後にこれは自分の力で出来たと思うことがあるかもしれない。だから主はわたしたちの砕けた時、自分がもう何事も出来ない者であると悟った時に助けられるのである。
〔25~26〕「イエス海の上を歩みて」全く他の助けのない時に、主は天から助けを与えられるのである。「変化の物ならんと思い恐れ」不信仰のある所には恐れがある。この種の人はこの次はどうなって来るかと始終悪魔の側のみを見ている。わたしたちは今神様が手を延ばして下さると思っていればよい。
この時彼らは慣れていた為に、それがついに有形に顕われた。「恐れ叫びたり」実に面目ないありさまではないか。
〔27〕「心安かれ我なり」この言葉は先ず弟子たちの心の中の波を取り去った。今日心の中に波風のある人はこの言葉を受け入れるべきである。
〔28~31〕「主よもし汝ならば我に命じて……」ペテロはここで、主だと聞いて嬉しくてたまらなくなってこのように叫んだ。これはペテロの特色であるが、また非常な教訓がある。すなわちペテロはここで主の答を待った。彼は祈ったのである。またペテロはあの海辺で甦えりの主に遇った時よりも沈着な態度を取っている。
彼はこの時キリストの命令を待った為に、海を歩くことが出来たのである。もし彼が命を待たずに飛入りしたならば溺れたであろう。わたしたちもまたキリストの命令なくして死地に入るようなことは危険なことである。
「風激しきを見て恐れ」沈みかかるには順序がある。「何ぞ疑うや」疑う結果は恐れである。彼は風を見、波を見ていたから沈みかかった。しかしその時イエスは手を延べて助けて下さった。そして親切に教えまたお叱りになった。残念なことは信仰しないこと。疑うことである。
〔32〕「共に舟に乗りければ風静まりぬ」彼らの喜びはどんなであったろう。
〔33〕「誠に汝は神の子なり」弟子たちはしるしを見た時に、このように言った。見ないで信じたらばよかったものを!
ヨハネ六15~21。
〔15〕にキリストが山に入られた理由がある。彼らは肉のパンを下さるならば、キリストを王とすると言うのであって、もしキリストが己れを捨て十字架を負えと言うならば邪魔者扱いをする輩(やから)である。真にキリストを王とするとは、十字架を負って人を救うことである。しかし彼らは自分の利益から割り出す為、自分に不利益になる時には、直接十字架に釘づけよと叫ぶ連中である。
さてその弟子たちが海の中で恐れたのは一九節に「一里十町ばかり漕ぎ出せし時」とある。また二一節には「弟子たち喜びて彼をうけ舟に登ければ直に其往かんとする所の地に着ぬ」とある。
キリストを山に置いてこの世の海を渉ろうとする者はいつでもこの通りである。またここにおいて弟子たちの目がどんなに鈍かったかを知ることが出来る。しかしキリストを神の子と信じる時にすべてのことは解決する。
ユダヤ人の会堂での説教(ヨハネ六22~65)
〔22~25〕どのように主が彼らに質問されたかを見ることが出来る。しかし主は彼らの心の動機を知っておられる。彼らは生命を得る為にイエスを求めたのではなく、肉欲を満足させる為に主を求めたことがわかる。そこでキリストは彼らに対して「朽つる糧の為に働かずして永生に至る糧すなわち人の子の与える糧の為に働くべし」と仰せられた。しかし肉のことだけ考えている彼らには、このキリストの言がわからなかった。
「神の遣わしし者を信ずるはすなわち其工なり」信じることは確かに働きである。頭で考えることではない。神に頼ることである。この人々には大切なわざを行わず、他の朽ちるわざを行ったのである。
〔30〕に彼らの態度がある。「どうも信じられない」と言うありさまである。彼らはモーセのことを引照してキリストに天からマナでも降らせて見せれば信じると申し上げた。その時キリストは「あなたがたはモーセがマナを与えたと思っているが、マナを与えたのはモーセではない、昔マナをあなたがたに与えた神は今本当のパンをあなたに与えると仰せられた。
〔34〕「主よ恒に其パンを我らに与えよ」彼らは天からパンでも降って来るのかと思っていた。しかし「我は生命のパンなり」と主は答えられた。
「見ても信ぜざることをわれ汝らに告げたり」彼らはこの生命のパンを突きつけられても食べない。これは多くの人のありさまである。彼らは霊魂のことを言うと逃げて行ってしまう。
〔37〕「我に就ける者……」しかしキリストの目には選民が見えている。すべての人の心がよくわかっている。
「己れの任を行はんために非ず」いわゆる英雄豪傑ではない。神の僕として神の旨を行うために来られたのである。ただ人を救うのが生涯の目的である。すなわちキリストの目的はご自身の台前に立ち得る者を造ることである。
〔40〕ここにある「見て」は三六節の意とは違う。三六節にある見るとは、ただ目に映じるところを見ることであって、四〇節の見るとは、肉眼と共に心の目をもって見ることである。
この六章の中にユダヤ人がつぶやくと言うことが沢山書いてあるが、しかしそれが段々になっている。
〔42〕で彼らはつまづいた。しかしこの言葉を受け入れる方にとっては、段々と深い有難いお話になって来る。ここに両方ある。すなわちキリストを天より降ったパンとして信じる目と、両親や人物を見る目との二つである。
〔44〕「父若し引ざれぱ人よく我に来るなし」実にキリストを信じることの出来るのは、理屈やその他のことではない、父が引くのである。神の黙示である。わたしがアメリカにいる時、ある人がキリストの神性を拒み、多くの人はこれに誘われたけれども、わたしがイエスの神性を信じて動かなかったのは実に神の黙示であった。
〔46〕「然ど父を見し者なし……」すなわちキリストは父なる神を表わすお方である。
この六章中に「我」と言う言葉が三十幾回かあるが、ここでキリストはご自身を信じ生命を頂かねばならないことを主張しておられる。
かのマタイによる福音書における山上の説教とこの説教を比較して見ると、大いなる相違がある。マタイによる福音書の方は誰にも悟ることが出来るようであるが、この説教は実 に意味の深い説教で、信じる者でなければ了解出来ない教えである。
〔49〕この節は非常に権威ある言葉である。ユダヤ人はイエスをモーセよりも劣った者のように思っている。しかしイエスは言う「マナを食うた汝らの先祖は死んだではないか」と。
〔52〕四二節においてつまづいた彼らは、ここではなお驚いた。実際においても、肉の方面から見る時、大変ひどい言葉だからである。
〔54〕「肉と血」これは二方面ある。一つは罪のゆるしであって、一つは積極的な方面で生命を与えることである。
丁度乳児が母の乳すなわち血と肉とを食するように、またブドウの枝が幹の血と肉とをもって養われるように、わたしたちはキリストの肉と血をもって養われなければならない。
〔56〕実に感謝すべきお言葉である。わたしたちがイエスを信仰をもって受け入れる時、何の感覚はなくてもこれはわたしたちの血となり肉となり、キリストはわたしたちの内側に住んでおられるのである。またこれはわたしたちの生涯に関することであって、一時のことではない。
〔56〕はすなわち聖潔である。
〔57〕はキリストと父なる神、及びキリストとわたしたち信者との関係であって、わたしたちはキリストを食べなければ生命を頂くことは出来ないのである。
〔60〕彼らはまたつぶやき出した。今日と言えどもキリストご自身を説く時に、人々はこれはひどい言葉だと言って捨てる。(民数二一5参照)。
〔61〕これは「汝等も此言に依りて躓くか」と改める方がよい。実に主はおなげきである。今日信者と称する者の中にも、主からこのようなおなげきの言葉を受ける人がある。
〔62〕昇天のことである。十字架を理解しない者が昇天を見たら何と言うであろう。
〔63〕「云いし言は霊なり生命なり」キリストの肉を食べ血を飲むとは、キリストの言葉を信じることである。彼の言葉を受け入れることである。
またキリストは神の言葉である。丁度人の心を言葉をもって表わすより他に道がないように、神はキリストと言う言葉によってお現われになられた。これより他に道はなかったのである。何としてもキリスト教の奥義は御言葉を受け入れ、これを信じることにある。
〔64〕「おのれを売(わた)す者」とはユダのことである。彼は信者であったけれども肉的な信者であった。すなわち彼は自分を中心としておったのである。
〔66〕肉のパンを与えられてキリストを求めた彼らは、霊なるまた生命なるキリストを指示されたがこれを捨てた。かつてその弟子さえも離れて行ったとは実に情けないことである。今日でも自分の都合のよい時には、キリストと共に行くけれども、さて十字架を負う場合になると逃げてしまう人がある。これはキリストの肉を食い血を飲むとは十字架を負うことであるからである。
〔67〕今日もキリストはこのような言を仰せられる「もう止せ、もっと楽な方がよいだろう」と。
〔68〕サムエル後一五19~21にダビデとイッタイの話があるが、ペテロは丁度このイッタイのようである。彼はキリストが幸福の本源であることを認めていた。(詩七三25、26参考)しかしこれはペテロが偉いのではない。神の黙示である。
〔70〕「然れど其中の一人は悪魔なり」罪を示されて悔い改めないこと程、キリストに失望を与えることはない。この言葉の中にどれ程の失望のなげきが含まれているだろう。これ位のことと罪を軽んじている人は、何時しか悪魔と一体になってしまう。実にわざわいである。
パリサイ人に対する主の答(マルコ七1~23)
このことは主イエスの伝道の一転機であって、ヨハネ六章のパンの御説教の時から、多くの人は彼を離れ、反抗の機は熟して来た。次にこの出来事はどこの出来事であるかはっきりしないが、多分カペナウムであろうとのことである。
多くの人がキリストを離れて行くのに、キリストと談じるとはちょっと立派に見えるけれども、キリストに反抗する為であるとは実にわざわいである。
ユダヤ人と言うものは食べる時に箸やスプーンを用いず、手で食べる習慣であったという。そこで食前に手を洗わない者は、汚れると思ったのである。また床まで洗う習慣であったと言うことは、実に外部的儀式を重んじた人々であることを知ることが出来る。またこれらの儀式をもって自分は潔い者のように思っていた。そしてこれを人にも行わせようとする風であった。
〔6〕イエスはこの時彼らの偽善を知った後、イザヤ二九13をもって彼らの心が神から離れ愛のないことを責められた。実際彼らの心は神から離れ、祈っても神に達する祈りではなかった。また彼らの行うところは多くの人の伝説に力を用い、最も大切な神の戒めを破っていたのである。今日わたしたちの中にこのようなことをしている者はないか。深く反省せねばならない。
実際彼らは、人によく見られようとする為に、親に不自由をさせても寄附金などをしたのであろう。今日の青年の中にも、家族に伝道することを後にして、外部の伝道に熱中している者がある。これは多くの場合において、愛から出ていない業である。
〔18〕には自分の理想や、意見を行うことの非であることを教えている。祈りの時などには、実に敬虔らしい言葉を出しても、神の戒めを守っていない人がある。わたしたちの内にこのようなことはないであろうか。
〔14〕ここからは多くの人に対する言葉である。実際人間は外部の事情等にのみ目をつけて、潔くなろうとしている。わたしたちは外部の事情や誘惑物等に目を留めるべきではない。第一は自分の心である。その他のことは第二、また第三である。
〔20〕「人より出るものは是人を汚す」実際人の心は万物よりも偽わる者である(エレミヤ一七9)とは動かすべからざることである。
マタイ一五1~20。
〔12〕わたしたちが教会を治める時、このように大胆に偽善者を拒む必要がある。このようなことを断行するには、勇気がなければならない。
〔13〕「我天の父の植えざる者はみな抜かるべし」教会を花園にたとえたものであって、悪魔の植えた花もある。しかしこれらは皆抜かれて、地獄に追いやられてしまうのである。