イエス過越を避けてツロとシドンの地に行かれる(マタイ一五22~28)
この出来事は過ぎ越しの祭りの時のように思われる。マルコ七24、25を見れば、彼がここに退かれたことが理解出来る。またヨハネ七1~2を見る時に、イエスは過ぎ越しの祭りを避けて、ツロとシドンに行かれたように思われる(ヨハネ六4参照)。
マルコ七24を見ると、キリストは実に灯のようであり、また香のようであることがわかる。どうしても隠れることの出来ないお方である。
〔25〕キリストを慕う者は、必らず自分から進んで質問する。
マタイ一五22、これは異邦人なので、ユダヤ人から見ると、実に卑しい者であった。しかし彼には信仰があった。キリストが世の初めより約束されたメシヤであることを信じていた。また彼女の心には愛があった。彼女はわたしの娘をあわれんで下さいとは祈らなかった。「我を憐み給え」と祈った。たしかに彼女は自分の子の苦しみを自分の苦しみのように感じていた。彼女は他人が恵まれるのではなくて、自分が恵まれるように祈った。(ガラテヤ五6)に「愛より出る信仰のみ益あり」とあるが、たしかに信仰にも種類があり、愛のない信仰には少しの益もない。事実わたしたちが他人の為に祈る時、愛から出ていない時は、確信を頂くことは困難である。
ここにキリストは、彼女の祈りに一言の答をもお出しになられなかった。ちょっと考えると、これはキリストの御性質に矛盾しているようである。キリストはただちにこれに答えられるように考えられる。しかし神は時として、このようなことをなされるのである。しかしここになお別の理由がある。すなわち彼女は異邦人であった。キリストは弟子たちを遣わされる時に、異邦人に行くなと命じられた。
〔24〕のキリストのお答より考える時は、彼らは「ガヤガヤ喧しいから癒してやって下さい」と言ったような態度で、自分の肉のことを思っていたことがわかる。またこれはこの女に対する第二の試みであったであろう。この言葉を聞いたこの女は、実に不快の念を起したかも知れない。
今の教会においても、神の子供が他人をつまずかせることがあるが、丁度このありさまである。またわたしたちも他人の為に執り成しの祈りをする時「あの人が悔い改めなければわたしが困りますから」と言うような、自分から割り出した祈りをすることがあるが、注意しなければならないことである。
次にこの女はなお屈せずキリストに願った。わたしたちは外の信者の行いなどを見ないで、キリストに叫ばねばならない。
〔26〕のキリストの答は、彼女の第三の試みであった。二四、二五両節のキリストの答は、無慈悲のようであるが、実際キリストが全世界の救い主となられたことは、昇天後にあることなので、この答は正当である。だからと言って、どこまでもと言う極端な意味ではない。実際彼はサマリヤの女にもまた百卒長にも、救いの能力を与えられた。
またもう一つこの答は、彼女の信仰を試みるためであった。ところが彼女はますますキリストに近づいて来た。こうして彼女は自分が犬である、とのキリストの言葉を承認した。大低の人ならば怒ってしまうであろうが、この女の信仰は実に大いなるものであった。
〔27〕この女の論法である。この内には何とも言えない謙遜が見えている。実に謙遜は神を離さない能力である。
ここにこの女の三つの美徳を見る。第一、愛の人。第二、謙遜の人。第三、忍耐の人である。わたしたちは一、二度祈って、聞かれないからと言って止めてしまうことなく、忍んで祈らなければならない。「婦よ、汝の信仰は大なり……」弟子たちは時々キリストから不信仰を責められたが、この女は彼からほめられた。信仰の能力こそ大いなるものである。
イエス多くの人を癒される(マタイ一五29~31)
この出来事はイザヤの予言の成就である。ここで注意すべきことは、多くの人が病人を連れて、イエスの許に来たことである。わたしたちもイエスの許に病人を連れて来ることは大切なことである。そうすればキリストは癒して下さる。
聾唖者の癒し(マルコ七32~37)
この出来事も同じく、祈りから始まった。三二節、三三節に、キリストはこの人を外へ連れて行ったとあるが、深い恵みを味わせるには、人から離して心を主に集中させる必要があるのである。
「指を其耳にさし入れ」キリストの実に用意周到なことがここにおいてわかる。すなわちその人の状態に応じて丁寧にお救いになるのである。この人は聾者であった為、言葉をもって語ることが出来ない。そこで主は指を耳に入れ、癒すことを知らせ、また信仰を起させられた。そしてこれはイエス自身がこれを成されることを示したのであって、唾をつけたのも同じことである。いずれの方法も信仰を呼び起すためであった。方法は何でも、信仰が神と一致する時に神の能力は現われるのである。
「天を仰いて嘆じ」これが真実な仲保者の態度である。イエスはここでこの病人の側に立っておられる。
「エパタ」これは実に神の権威ある言葉である。指や唾は能力あるものではなくて、この霊なる生命なる、言葉に能力があるのである。
ここで注意すべきことは、わたしたちが他人の為に仲保する時、その人の側に立ってその人と同じ地位に自分を置き、同情をもって祈るべきである。このような祈りこそ聞かれるのである。またここに人々がイエスの言葉に従わないでこの奇跡を言いふらしたが、これは確かに人間の失敗である。すなわちイエスはこれによって、非常に伝道を妨げられたのである。
「此人の行し所ことごとく善し」イエスのなされるところは実に良い、感謝に堪えない次第である。
イエスの四千人給食(マタイ一五32~39)
〔32〕は先の先まで、見通し給う同情である。またここにイエスは、このことに関して弟子たちに、相談するような態度をとっておられる。わたしたちの同情はこのイエスの同情に同化されたものでなくてはならない。
〔33〕弟子たちの不信仰と、神の恵みを忘れることが現われている。
わたしたちも実際問題に出遇って、古い経験を忘れて祈っていると「我を信ぜよ」と、同じ聖声を聞くことがしばしばある。
イエス、パリサイ人のパン種を戒しめ給う(マタイ一六5~12)
六節と七節とを対照する時、キリストの思いと弟子たちの思いとは大いなる相違のあるのを見出すことが出来る。
〔10〕の終りにある記憶することは、信仰上の一要素である。この記憶は人間の真心の記憶であって、頭脳の善し悪しには関係しないことである。無学な人が、しばしば神の恵みを記憶して深く感じていることをよく聞くことがある。
パリサイ人とサドカイ人の相違は使徒二三6~9にある。参照して見よ。
今日の教会にも、このように議論や学問を主とする分子がある。注意すべきである。
目しいの癒し(マルコ八22~26)
この出来事は、肉体の癒しの漸次的な実例である。時として神は段々御手を加え給う場合がある。だからわたしたちからかれこれと注文すべきものではない。
これをまた霊的に味わうならば、心の目に適用することが出来る。心の目の盲目な者は、天の栄光も、地獄も、キリストも、永遠もまた神の存在も明らかに見ることが出来ない。勿論頭では合点していても、ハッキリしていない。しかしキリストの手すなわち聖霊によってその心の目も開かれるのである。
ここで注意すべきは、この出来事は人々の祈りによって始まっていることである。
〔23〕「村の外へ携出し」とあるは、丁度七章のどもる者の場合と同じであって、人間から離して主ご自身に、全力全心を集中させる必要があるからである。すなわち食を断っても、何を捨てても、主と交通する必要があるのである。わたしたちの生涯もこのような必要がある。
唾とは七章にあるように、能力が主から来ることを示す為である。
〔24〕「人々の歩行を見るに樹の如し」これはまだ半分の癒しである。
人間が義とされるのもまた半分の癒しであって、潔められるのは全き癒しである。これはただ以上のように解釈するだけでなく(エペソ一17、18)のように目が明らかにされることにも適用される。すなわち聖霊の能力によって、第一神を知り、第二望を知り(再臨)、第三財産、第四能力(イエスを甦えらせた)を知ることが出来るのである。目の開いて居ない人は、わかっていてもおぼろであって、それに生命がない。たとえば霊魂を見ることにおいて、実際霊魂は全世界よりも貴いことはわかっているが、どうも悩んでいる霊魂に同情がない。けれどもイエスは両手をもって、開いて下さるとは実に感謝すべきことではないか。
「凡てのものあきらかに視たり」こうなるには、自分のありさまをそのままイエスに訴えねばならない。あのラオデキヤ教会の者は、盲目であることを知らなかったように、わたしたちは自分のあり様を知らないことがしばしばある。
ペテロ、イエスの神性を認む(マタイ一六13~20)
〔13〕はイエスの弟子の目の試験である。
〔14〕の弟子たちの答は、世の人の目である。このような目を持つ者は地獄行きである。
〔16〕はペテロのイエス観ではなくて、、聖霊のイエス観である。キリストとは、神から油注がれた者の義である。
〔17〕キリストは明白な信仰を持っている者に報いを与え給うのである。文字通りならば、ペテロの上に教会を建てると解すべきであるが、これは一人ペテロのみならず、キリストをキリストと信じる信仰の上に教会を建てるとの意であって、すなわち教会とはキリストと言う岩と、これを信じる信仰の上に建てられるものである。
〔18〕「陰府の門」とは悪魔の政府である。すなわち悪魔が全力を尽して総攻撃をしても勝つことは出来ないのである(第一ヨハネ五4、5参照)。
〔19〕天国の鍵を与えられたのは、実に大いなる特権である。ただ自分が入るだけでなく、他人をも入れることが出来るのである。これはキリストを信じる者、誰にでも与えられる特権である。
マルコ八27~30、ルカ九18~27。
ルカ九18には「衆人の在ざりし時」とある。実際わたしたちが独り主と交わる時に、時としてこのようなことが明らかになることがある。また他人にイエスのキリストであることを知らせる時も祈りによることが多い。
イエス自己の死を予言される(マタイ一六21~29)
この出来事はあのペテロの告白と対照して見ると大いなる教訓がある。ペテロは「汝は活ける神の子なり」と言って、キリストからおほめを頂いたが、キリストが長老、祭司たちから苦しみを受けること、すなわちキリストが十字架にかかられることがわからなかった。イエスは弟子たちがご自分がキリストであることを悟った時に、十字架のことをお知らせになられた。
弟子たちは、キリストがエルサレムに行くならばただちに王となり、自分たちは、右大臣左大臣になれると考えていた。弟子たちの考えは何時もこのようであった。
神は何時も十字架の後に栄えを受けさせられる。しかし人間はただちに人間の栄えを求める。だからイエスは苦しみし救い主であるが(ヘブル二10参照)、これは神の聖旨であって全く人間の理想とは正反対である。悪魔はキリストの伝道の始めに、野において大成功の秘訣を教えようとした。これが人間の思う救い主である。しかし神のキリストは、苦しみを受けて後甦える救い主である。
(マルコ八32)の「諌める」とは翻訳不適当であって、けん責する、との意である。ペテロがイエスをけん責したとは実に恐れ多いことである。「己れ」は何時でも、人の上になって教える。高慢になる。
〔22〕「主よ宜らず」とは英語では「あなた自身を憐れめ」との意味であるので「まあ大変です」と言うような風である。
〔23〕この時キリストの目に見えた者は、ペテロではなく、サタンであった。サタンはいかにも愛するような格好でやって来る。この時サタンとペテロとは一体になって来たのである。
ペテロは一六節で、神の霊に動かされ、イエスを神の子であると証詞したが、今はサタンに用いられた。実に人間の弱いことを見る。
〔24〕ペテロは父も、舟も、網も捨てた。しかし自分を捨てなかった。
わたしたちは献身していると自称することは簡単なことであるが、己れを捨てると言うことは、そう簡単なことではない。多くの人は十字架を捨てて、己れを持っているが、十字架は負わねばならない。キリストはわたしたちの罪の為に十字架を負われた。そこでわたしたちはこの十字架を見るとき、わたしの十字架を負うことが出来る。
〔25〕「生命」とは肉体の生命である。永遠の生命を得ようとする者は、肉体の生命を捨てねばならない。「我ために其生命を失う者……」今日の人は国家のために自分の生命を捨てるが、わたしたちはキリストの為に己れの生命を捨てるべきである。
〔26〕ここは全世界と生命とを天びんにかけたのである。多くの人は悪魔から色々なものを貰うが、その代り生命を悪魔に渡してしまう為に、地獄に投げ込まれるのである。どうかわたしたちは未来の審判を恐れて、生命を得たいものである。
マルコ八35には福音のために生命を捨てるとある。世はキリストの敵なので、その福音の使者であるわたしたちを憎むのである。
〔27、28〕はキリストの励ましである。「父の栄光を以て……」キリストの真実の栄光は(出エジプト二四16、17)のようであるが、わたしたちはキリストと共に忍耐してその栄光に入るべきである。
キリストの変貌(マタイ一七1~13)
この変貌は弟子たちのためだけでなく、キリストへの奨励であった。神は何時でも全く服従する時に、ご自身の栄光を顕わされる。すなわち弟子たちは、まず大体十字架を負う決心があったので、神はこの栄光を顕わされたのである。
〔2〕キリストの容貌は、実に見苦しいお方であった。しかしこの時真実の栄光が顕われた(マルコ九3参照)。
〔3〕エリヤは予言の中で大いなる人、モーセは律法を立てた人、イエスは新約の根底となるべきお方である。(ルカ九31)にはエルサレムで、イエスが世を去ろうとすることを語ったとある。すなわちキリストの十字架によって、律法と予言が成就するものであって、これによって人間の救われる道が開かれたのである。
〔4〕ペテロの眼には、モーセとエリヤと、イエスの三人が見えたので彼は非常に嬉しかったのであろう。何故ならば、ユダヤ人にはモーセとかエリヤとか言う人には実に貴く思われていたからである。多くの人はモーセの律法や、エリヤの偉大なることはわかるけれども、キリストが見えない。そこで父なる神は彼らの目から彼らの栄光を取り去り、そしてイエスに聴き従えと仰せられる。すなわち信じて歩めと仰せられるのである。
〔6〕彼らが倒れたのは無理もないことである。何故ならば、ユダヤ人はエホバの栄光を見る時は死ぬと思っていたからである。
〔7〕「手を按けて……」これは実に幸福なことである。わたしたちが真に神の前に倒れる時、イエスはこれを起して下さる。
弟子たちの信仰はこの時から一変したに相違ない。またこのことは彼らが一生忘れることの出来ないことであった。(ペテロ後一17参照)
わたしたちの心霊上の経験としても、また同じようである。自分で十字架を負おうと決心し、力のないことを感じる時に、祈って神の栄光と愛とを体験する。その時ペテロのように、何時までも変貌の山にいようとすれば、神はその栄光を隠される。そして肉体を持っているイエスを見させ、信仰の生涯を送らせられるのである。
イエス悪霊を追い出す(マタイ一七14~21)
この三人の弟子は、山の上で恵みを受けたが、また山を下らねばならない。山の下には多くの悩んでいる者がいる(マルコ九22)を見れば「我らを憐みて助けよ」とある。すなわちこの子の父は、子の苦しみを自分の苦しみのように思っていた。丁度あのツロ・フェニキヤの女と同じ態度であった所を見ると、この人は確かに信仰を持っていたに相違ないが、全き信仰ではなかったらしい。
〔16〕「これを汝の弟子に携え行きたれど」これは実にキリストの恥である。わたしたちが不信仰であれば、同様にキリストの恥となる。
〔17〕は「わたしは何時までも世の中にいるのではない、何時までもあなたがたを我慢出来ない」と言う意ではない。これは不信仰に対するイエスの堪えざる感情を表わしたものである(英訳は幾分これに近い)。
マルコ九20を見ると、悪霊はなおさら子供の病気を悪くした。多くの場合癒される場合は外面から見ると、返って悪く見える。しかし神はこれを追い出して癒されるのである。
マルコ九22を見るとこの子の父は子供の状態を見て失望し信仰を失おうとした。肉親の関係なので当然のことではあるが、不信仰はイエスをなげかせる。
マルコ九21にイエスは、子供がはなはだしく悪い状態にある時、ゆうぜんと「いつごろより……」と問うておられる。このように尋ねられたのはイエスの能力ではどんな難病でも癒されることを知らせる為であって、要するにこれはただ信仰の問題である。そしてキリストは二三節のように、わたしたちに責任を負わせられる。すなわちあなたがたが信じれば癒してやると仰せられるのである。
二四節におけるこの子の父の単純さと正直なのを見よ。「われ信ず……」信じることは人間の側である。人間の意志の働きである。だとすれば全力を尽して信ずるべきである。
二六節には人々は子供は死んだと言った。この時その父は試みられた。しかし彼は信仰の上に堅く立っていた。
二七節は(ヤコブ五15)と同じである。オー、イエスを信ぜよ。彼は病んでいる者を起し給う。
〔19〕(マタイによる福音書に返る)「我らこれを追い出すこと能わざりしは何故ぞ」弟子たちが、これを追い出すことが出来なかったのは、彼らの不信仰の為であった。勿論彼らはキリストの名によって命じたであろう。しかし彼らには信仰がなかったのである。多分彼らにはまだ肉に属している分子があったのであろう。追い出すことの出来なかったのは、何か故障があったからである。「からし種の如き」とは小なりとも、純粋な信仰を指すのである。
〔20〕この信仰は万能である。この意味においてわたしたちは神と等しくなることが出来る。すなわち神は全能であって信仰するわたしたちは、神の聖旨のある所において全能である。
〔21〕祈りは霊の手である。すなわち断食によって肉を捨て、この手で神を握るのである。わたしたちは全く心から世の物を拒絶しなければ、からし種の信仰を持つことは出来ない。「信なき曲れる世」とは、弟子たちと、子供の父を指して仰せられたのである。
イエス再びその苦難を予言する(マタイ一七22~23)
イエスがこの悪霊につかれた者、誰も癒すことの出来ない者を癒された時に、弟子たちの得意は、実に非常なものであった。彼らはこの調子では、間もなくキリストはエルサレムを占領し、自分たちは右大臣、左大臣の位でも得ることが出来ると思っていたであろう。
ところがイエスは二三節に十字架のことを話された(ルカ九44)この「耳におさめよ」とは英語で、「沈み込ませよ」との意であって、非常に強い意味である。しかし弟子の耳にはこれが入らなかったのである(日本訳で「悟らざる様隠されたり」は不適当な訳であって、「悟らざる故、隠されたり」と訳する方があるいはよいか)。
弟子たちにはこの十字架は大変理解しにくいものだった。と言うのは己れを捨てて十字架を負うことは彼らの為には都合の悪いことであったからである。しかし彼らには、エルサレムに行って、キリストが王となると言うようなことは耳に入りやすかった。
わたしたちは深く十字架を憶えたいものである。
実際十字架を負って苦しんでいる生涯は、外部から見る時、敗北の生涯であるが、その後に栄えのあることを忘れてはならない。それなのに今日も多くの信者がこの十字架を知る時に、後戻りをしている(ルカ九45参照)。
この時キリストは充分に弟子たちを教える必要があった。何故ならば、弟子は間もなくキリストの足跡を踏んで、十字架を負わねばならないからである。(マルコ九30参照)
税の金についての奇跡(マタイ一七24~27)
この税の金は(出三〇13)にある二〇歳以上の人が納めねばならない、神殿において用いる金であった。(半シケルは現在では、五十五円か六十円ほど)
〔25〕このイエスの同情を見よ。また人の為にどんなに注意深いかを見よ。
〔27〕実に小さいことまで神の摂理の中にあるかを見たい。「われと汝のために納めよ」。キリストのご同情が手に取るようにわかる。わたしたちが必要なものに欠乏した時、キリストを思い出したい。
イエス弟子たちの欲望を叱責される(マタイ一八1~20)
マルコ九34、弟子たちの頭からとかく大いならんとする分子が抜けなかった。やはり自分はどの位偉いのだろうと言う精神が残っていた。
天国に入るにはまず幼な児のようにならねばならないが、天国にいる者はまた幼な児のようである。幼児について学ぶことは遜っていることである。幼児は人がこうだと言えばその通り信じるものである。このようでなければ神様と一致することは出来ない。マタイ一九14にもこのことについての教訓がある。あのヨハネは自分の手紙の中に「幼な児よ」と言うことを繰返し言っている。幼児こそ神の前に大いなる者である。(マタイ一八5、6)においてキリストがどれ程主を信じる者を、重んじているかを見ることが出来る。この五節には幼児とキリストが一体となることを教えている。実に恐れ多い、また有難いことではないか。また六節にあるように、わたしたちは人をつまずかせない為に、自ら苦しいことを忍ばねばならない。ユダをつまずかせた者はわざわいである。勿論ユダは悪い、しかしつまずかせた者はわざわいである。
わたしたちはこの世において、人を害する為に生きているのではない限り、神がどんなに罪を憎んでおられるかを思って罪を離れたいものである。信者の中においても、つまずかせることはつまずくことよりわざわいなことである。
〔8〕罪を棄てるためならば、どんなことをも棄てよ。愚かな人間は苦情を言って、罪を棄てない。しかし神はどんなに苦しくとも棄てよと仰せられる。何故ならば、罪は人を地獄に落ち入らせるからである。わたしたちはこの地獄の火を明らかに認めたいものである。
〔9〕わたしたちは兄弟を重んじたい。それはどんな信者をも天の使が守っているからである。(詩三四7、へブル一14)を見れば、どんなつまらない信者であっても天使が守っていることがわかる。丁度王子たちが外出する時に護衛兵を連れて行くようである。このことを考える時に実にわたしたちはもったいないことを感じる。わたしたちは知らなくても、天使はわたしたちを守っていて下さる。どうかこれを記憶していたいものである。
仮りにその人に罪があったとしても(一二節)のようにこれを重んじたい。
〔13〕一人の人が悔い改める時、天においてどれ程の喜びがあることだろう。
〔15~17〕ここにおいて罪を犯した者に対する順序に注意せよ。
〔18〕これは信者の特権である。
〔19〕において一致の祈りの能力を見ることが出来る。
〔20〕極く少数と言えどもキリストが共におられる。さいわいな約束である。
薄情な僕のたとえ(マタイ一八21~35)
〔21〕これがペテロであったのが面白い。ペテロは弟子たちの中でも、出過ぎる方であった。主が何か仰せられると、彼は弟子たちの代表者となってイエスに向った。しかし何時でも出過ぎては頭を打たれた。多分彼は友人たちからきめつけられたのであろう。それがしゃくにさわって時には抑えたが、抑え切れずに主の前に持ち出したものであろう。これは潔められる以前のペテロである。すなわち一方では許す精神もあったが、一方では爆発する精神もあった。
人間としては一度か二度許せば、後はなかなか許さないがさすがはペテロ、大奮発して七度と言った。
〔22〕「七度を七十倍せよ」この答を聞いた時のペテロの顔が見たい。人間の方でどんなに我慢しても限界がある。しかし神は数えることの出来ない程許し給うのである。七十倍とは「限りなき」との意味がある。わたしたちは他人に対してどうであろう。自ら反省せよ。
〔23、24〕一万タラントとは大変なもので、現在三七億円ばかりになる。これは数の多い、重い罪をたとえたのである。
〔25〕これは神の義の方面である。神の律法によって照らされると、どんなに苦しいことでも償わねばならない。これは当然のことである。(マタイ五26)のように最後の一円までも償うべきである。律法は決してそのままでは済まない。
〔26〕「平伏して」罪に服したありさまである。「請うわれをゆるし給わば……」ここに全き悔い改めと、憐みを求める態度を見る。悔い改めはこのように立派ではなくてはならない。二五節には「償い方なかりければ……」とある。道理をもって厳しく責められても、いたしかたないが、「何卒憐んで下さい」と言った。これは主イエスを信じる者の態度である。一方においては全くへりくだって罪に服し、一方においては大胆に憐みを乞う。
〔27〕これは大いなる恵みである。主イエスもまたこのようであった。
〔28〕「銀一百」わずかな罪である。「これを捕え……」実にその言行ともに同情のない、惨忍なありさまである。
〔29〕実にへりくだった態度である。
〔30〕キリストはペテロの心を知っておられたのでこのように仰せられたのである。
わたしたちの思うこと、すること、皆神の前に現われている。そこでわたしたちは神から赦された自分の罪を思って、百倍の他人の罪を心に留めないように慎しまねばならない。わたしたちは上部では許すかも知れないが、心でその人に悪く当るような、また時々攻撃するような言葉を出すことはないか。このような僕はキリストの前に実に恐ろしい罪人である。誰の心をも見ておられるキリストの前に自らの心の状態を調べたい。
〔33〕これは神の論理である。心があるならばこうあることは自然である。主の柔かな暖かい愛に感じているならば、人を赦すのは極めて自然なことである。それでも許すことの出来ないのは、何か心に石のような一物が残っているからである。
〔34〕相手の人が悪いことをして、それをとがめると自分も自由を失うのである。人の罪をとがめれば、ただ恵みから落ちるだけでなく、義とされた状態からも落ちてしまう。
〔35〕口先では許すと言っも、心では兄弟の罪を許さなければ、神もまた許しては下さらない。わたしたちが律法で人をとがめれば、また律法によってとがめられるのである。
七十人の弟子の派遣(ルカ一〇1~16)
以前に十二弟子をつかわす時と同じなので詳しくは述べない。
〔1~2〕主の御目には亡びる霊魂が見えている。またここで伝道の前に祈るべきことを教えられる。またキリストが行けと仰せられてから行くことである。二人で行ったことは大切なことであって、神の知恵を見る。その後主が伝道に行かれることは記憶すべきことである。
〔3〕この「往け」との声を聞いて立つ時は、神の力が加わる。軽卒に立つことは危ないことである。
〔4〕肉体に属する思い煩いをする必要のないことを言う。「人に会釈をもする勿れ」ユダヤの風習として挨拶の為に時間を多く取ったので、このような虚礼のために大切な使命を後回しにすることのないようにいましめ給うたのである。
〔5~6〕祈りの無駄にならないこと。
〔9〕病を癒やす力は特別の霊の賜物であるが(コリント前一二9)信仰によって病を癒やすことは誰にでも出来ることである。
〔12~15〕不信仰の罪がどんなに恐ろしいかを見よ。
〔16〕伝道者は使命がどんなに責任の重いものであるかを知らなければならない。伝道者はキリストと同一の権威を持つものである。
イエス仮庵の祭りに臨まれる(ルカ九51~56)
この時イエスは地上のみわざが殆ど終りに近ずいていた。丁度人が夕方今日の日は暮れると言うので、力一杯働く様子に似ている。しかも天に昇るとは言うもののその実は殺されるので、死が近ずいたのである。しかしキリストにとってはこの死が勝利の秘訣であり、彼はこれを確信しておられた。この時キリストは十字架の悲しさと、昇天の嬉しさ喜ばしさが交互に混ると言うようなありさまであったであろう。
キリストの方面からは、ヨハネ一10~11にあるように、自分の国に来たのにその民に受け入れられない為、実に何とも言えない悲しみに満たされたことである。ましてその民の為に十字架に釘づけられる身にとってはなおさらであった。しかし神の側から言えば実に大勝利である。これによって多くの人は救われ、神の子となるのである。
〔51〕人間だと、神の導きがないとか何とか理屈をつけて避けるが、イエスは自分で堅く決心された。キリストの顔はある意味で鉄面皮である。迫害に対しては金剛石面皮である(エゼキエル三9参照)。
しかしこのように自分の力でなることは出来ない。イザヤ五〇7のように、主エホバがイエスをお助けになられた為に、このように鉄面皮であることが出来たのである。
〔52~53〕ヨハネ四章でサマリヤの女が、イエスと礼拝の場所について論じたが、ここでイエスがエルサレムに礼拝に行くと言うので、サマリヤ人はイエスを受け入れなかった。丁度サマリヤに来て礼拝をするのなら良いが、エルサレムに行くのなら嫌だと言うありさまである。
〔54〕ヤコブとヨハネはここで、エリヤのように天から火を下して、イエスを受け入れない人を亡ぼそうと思った。また彼らはそれで良い気になっていた。しかしキリストに尋ねたのはまだしも救いであった。
〔55〕「汝らの心如何なるかを自ら知らざるなり」サマリヤ人の心どころではない。自分の心が実は悪いのである。理屈から言えば良いようだが、その実悪魔によって動かされているのだ。すなわち自分がしゃくにさわったから人を亡ぼすと言うのである。
あのエリヤは聖霊に動かされて火を下したが、彼らは悪の霊に動かされたのである。
〔56〕わたしたちは時々律法で人を罰しようとするが、人の怒りは決して神義を行うものではない(ヤコブ一20)。「ついに他の村に行けり」イエスは決して無理をなさるお方ではなく、拒む所には決しておいでにはならない。
〔57〕この言葉は実に立派である。しかしキリストのお答を見ると、これは表面だけの軽卒な言葉であったことがわかる。
〔58〕キリストはここで「私に従うと言うことの味を知っているか、私の生涯は狐、また空の鳥よりも劣った生涯であるが、それでもよいか」と仰せられた。わたしたちはこの言葉で深く探られる。また肉の安楽を求める者はここで失敗する。
またこの言葉は一方においては警戒の言葉であると共に他方では実にキリストの姿を明白にわたしたちに示す。これを思うと、わたしたちはこの世ではどんな風になってもよいではないか。
〔59〕この人は伝道の召を受けた人であるが、ただちに従うことの出来ない人であった。この人と主との間には何物かあった。「先ず行きて父を葬る事を我にゆるせ」仲々立派な理由であるけれども、彼はこの悪魔の声に従ったのである。「死にし者」とはここでは罪に死んだ者、すなわち悪の奴隷の意である。
〔61〕五九節の人とよく似ている人である。従うつもりであるが先ず自分の好きなことをやる人である。このような人に限って従わない人である。
インドの宣教師の話に、インドにはこう言う人が多くある。しかし決して戻って来た例がないとのことである。
〔62〕すきを使用する人は決してわき見をすることは出来ないものであると言う。もしちょっとでも目をすきから離すと牛に怪我をさせたり、また他の過ちを招くものだと言う。まして後を見ることなどは出来ない。わたしたち伝道者も自分の職以外に目をつけるようでは神の御心に合うことが出来ない。
(ヨハネ七2~13)
六節、イエスは父なる神の命令でなければ動くお方ではない。一○節、父から命令を受けたので行き給うた。
イエス神殿で民を教え給う(ヨハネ七11~53)
この時は、仮庵節であったが、これはただ儀式で、キリストを表わすものである。すなわちキリストは、わたしたちのためには仮庵節である。昔イスラエル人が、荒野を旅行する時仮庵の中に住んだ様に、わたしたちは、この世の荒野でキリストと言う天幕、すなわち仮庵に住むことができるのである。また、天に行ってからも、わたしたちの真実に安息するところは、キリストである。また、かの荒野で、雲の柱、火の柱がイスラエルには光となり、敵には暗きとなった様に、イエスは我らを照し給う。また、荒野で岩より水が出た様にキリストの身体より出た血と水によって我らは、命を得るのである。
〔13〕このところで、人間がいかに意気地ないかを見ることができる。また、これは人間の特色である。今日、信者の中にも自分の信仰を発表できない人がある。
〔14〕これまで、多くのラビは、民を教えていたが、イエスこそ真実の教師である。当時民の中で、神殿の中で人を教えるなどと言うことは、普通たいていの者には、できないことであった。しかしながら、キリストはこのところで、しかも権威をもって教えた。彼はパウロの様に、ガマリエル門下で学んだと言うのでもなく、従って民の驚きは、もっともである。しかし、イエスは、父なる神より親しく教えられたのである。今日は、聖霊の時代であるから、誰でも聖霊によって聖書を悟ることができるから何でもない様であるが、この当時民に聖書を説き教えることは、非常に困難であった。
〔16〕キリストの謙遜である。
〔17〕非常に厳かな言葉である。世の中の学問であれば、研究して、また取捨することができるけれども、神のことであるならば、頭から服従すべきである。この悟りと服従とは、大いに関係のあるもので、自分の心の中に神に従う精神をもって、取り掛る時に、神の奥義をも悟り得るのである。これは、悟りを得る秘密である。どうかこれを、わがものとしたい。サムエル前書十五章全体にも、服従の実に神の前に、麗しいものであることが記されている。
〔18〕このところに、明かに聖人や君子の教えとキリスト教との差違が示されている。彼らは、自分によって語っている。自分の栄えを求めている。けれどもキリストは、少しも自己の栄えを求めていない。神の栄えを求めるのみである。彼は少しも自分のために生涯を送らぬ、人から捨てられても、神の栄えを現わさんと勤めてい給う。「その内に不義なし」これは、神の僕べの極めて必要な徳である。わたしたちは、どこまでもこの態度を取るべきである。人間はいつしか自分の誉れを、求めたがるものである。けれども、自分の栄えを求める者は、キリストの僕べではない。わたしたちは、口先では自分の栄えを、求めないけれど、心の中にたびたびその様な思いが来る。どうか腹の奥底まで一点のやましいところはないか、よく調べたいものである。キリストは、ヨハネによる福音書十四章三十節で、自分が悪魔と関係がないとおおせ給うた。しかしわたしたちが順境の時、人々に持てはやされる時に、彼とかかわり易い。深く慎むべきである。
〔19〕短刀直入な言葉である。この時、彼らの心には殺すと言う心があったからである。
〔20〕自ら欺く様を見なさい。
〔21〕ヨハネによる福音書五章五、九節の出来事を指す。
〔22~23〕割礼は、肉体に傷つける儀式である。まして人の病いを癒すのは、当然のことである。
〔24〕わたしたちは、とにかく表面より判断する。人の事を聞いた時に、深く根を掘って判断すべきである。
〔25~27〕聖書には、キリストがどこから来るか解らないとも何ともない。多分これは、当時の説であったろう。彼らはこのところで、キリストの出所を知っていると言うが、実は知らないのである。何故ならば彼らは、イエスがナザレから出たものとばかり思っていたからである。
〔33~34〕実に厳かな言葉である。これは、心が剛腹であり、悔い改めない人に対する言葉である。「われを尋ねるとも、会うべからず」これほど、人間に悲しいことはないのである。
〔35〕このところで、彼らは、キリストのうわさをしているが、実は自分の批評をやっているのである。なぜならば、彼らは、自分たちが、そういう事をしつけているからである。
〔36〕パリサイ人は、物知りと自任している連中であるけれども、彼らは、キリストの天に行き給うことを知らなかった。今日でも、賢いと自任する人に、このような種類の人がたくさんいる。
〔37〕仮庵節の時には、祭司は、シロアムの池より汲んで来た水を、神殿の庭に注いだと言う。これは、悔い改めを表明したものであり、神の前に心を注ぎ出すことである(サムエル前七6参考)。それ故に、イスラエル人には、何とも言えぬ感じのある時である。その時にイエスは、非常に大きな声で呼ばわり給うた。「人もし渇かば、我に来りて飲め」実際、多くの人は渇いている。罪のために渇いている。キリストは、われに来れとおおせ給う。エレミヤ書二章13節の様に、キリストは、命の水の源である。
〔38〕腹とは、心の奥底である。口先ではない。「聖書に記しし如く」とは、引照したのではなく、聖書にたくさん水と言うことがあるが、その水が……との意味である。けれども、これはエゼキエル書四十七章にある命の河を主に意味したものであろう。この河こそキリストが、父なる神の主座に仲保するところからいづる聖霊の大河である。今はその時代である。今はその時代である。わたしたちは、この大河の様な聖霊を受けることのできるものである。オーハレルヤ。
〔39~53〕略す。各自味わられよ。
姦淫した女イエスの前に引き出される(ヨハネ八3~11)
〔3〕このところで、学者とパリサイの人は、この女を訴えたけれど、自分たちは、返って恐ろしい者であった。彼らは実際罪を憎んで訴えたのではなく、自分たちが、律法に対して熱心であることを現わさんために、第二は、キリストを試みんためにこの様に訴えたのである。申命記二十二章二十二節を見れば、この様な者は、石で打ち殺すように書いてある。もし、律法を重んずるならば、この女は殺されるべきであった。従って、パリサイ人と学者は、なんとかしてキリストを害そうとしてこの訴えをしたのである。なぜならば、もしイエスが、これを殺せと言ったならば、ローマ政府の手を借りて、キリストを罪に定めさせるもくろみであった。ユダヤ人は、その当時ローマ政府のもとにあったので、ユダヤ人には人を殺す権利が、なかったからである。「また身を屈めて地に書けり」これは、イエスが彼等に自ら省みるべき折を与え給うたのである。わたしたちも、時々自分のことを棚に上げておいて、人のことを批評するが、これは恐ろしいことである。
〔9~11〕この集りは、幸福な集りであった。実に意味のある集りであった。ある人は、こう言う時に返って敵の罪を数え立てる。ちょうど十字架上の盗人が、キリストをののしった様に。しかし、この女の心には、確かに罪を悔ゆる心があり、自分の心の有様を知ったのである。この時女は、人より受ける罪ではなくて、神より受ける罰を思って悲しんでいたと思う。従って「われも汝の罪を定めず……」とのキリストの言葉を聞いた時、どんなにか嬉しかったであろう。わたしたちは、この女の地位に立つ時に、真実の神の恵みとイエス様を知ることができる。普通この八章を、光の章と言う。なぜならば、この章の様に、はっきりと御自身を現わし給うたことは他にない。誰でもこの光に来るならば、自分の罪を言いのがれることはできぬ。学者もパリサイ人も、皆自分の罪を悟って逃げだした。けれどもこの女は、自ら砕けて心を閉じないので、イエスの恵みをこのところで知ることができたのである。
節の後の説教(ヨハネ八12~59)
〔12〕イエスこそ、実に心霊界の太陽である。世の人は、自然界の太陽を知っているが、心霊界の太陽を知らない。実に悲しいことである。しかしながら、キリストを持つ者は、命の光を歩み得るのである。この所で、注意すべきことは、悪魔も光の使いのようになってくることである。それ故に、世の中に悪魔の与える光を、真実の光と思っている人がある。これは実に、危ないことである。それならば、わたしたちは心して悪魔を退けねばならない。
〔17〕申命記十七章六節には、二人以上の証人がなければ、罪を定めるなとある。
〔18〕キリストが、ヨルダン河でバプテスマを受け給うた時に、父なる神は、天より証を下した。また種々なるしるしを与えて、キリストの神より遣わされたことを証し給うた。
〔19〕父なる神を知った人は、必ず、父なる神を知るはずである。彼らは、神を知っていると言うが、その実知らないのである。(ヨハネの第一の手紙、二22~23参照)今日神を信ずると言って、キリストを信ずることのできぬ人が、たくさんいる。実は、その人の信じているのは、父なる神ではなくて、彼らの頭の中に描いた一種の偶像で、自分勝手な考えで刻んだ偶像である。キリストは父と一体である。この様な人は、偶像と一致すべきはずがない。
〔22〕以前、ギリシャに行くかと言ったが、今度は、自殺するかと言った。実に彼らの心の目は、暗いと言うことがわかる。
〔23〕上とは父なる神のこと、下とは悪魔かまた世のことである。従って二十四節の様に、自分の罪のために刑罰を受けなければならない。しかし、ヨハネの第一の手紙五1~3の様に、六千年来、約束のメシア、すなわちキリストなるイエスを信ずる時は、罪より救われ、限りなき命を得るのである。
〔28〕この所に記された通りに、ユダヤ人は、キリストが昇天した後、彼のメシアであることを知って、悔い改めた。
〔29〕キリストの使者の大胆である理由である。しかし、その条件として神の喜び給うところを行わねばならない。
〔31〕この「おのれを信ぜし」ものとは、この時信じた者を指したものであると言う人もあり、また以前に信じた人であると言い、種々の議論があるけれど、とにかく自分を信じた者、すなわち信者に対しての言葉である。「居らば」とは、英語で「続く」すなわち、神の言葉を守るという意味である。多くの信者は、信仰に入った時のみ神に従って、その後はやはり以前のように行かなくとも、神の言葉に対して冷たいのである。従ってこの言葉は、キリストが信者に対する願いの第二の階級である。またこのキリストの言葉に居るということは、弟子であることの資格である。従って同じくキリスト信者の中でも、普通の信者と弟子との区別がある。この居るということについて味うならば限りがないが、今三四の引照を引いて味わって見る。ヨハネによる福音書一五4~7にキリストに「居る」ということがある。すなわちちょうどぶどうの枝が付いたり離れたりしては、実を結ばない様に、わたしたちが恵みを求める時のみ、キリストに来り、み恵を得るや否や、キリストを離れるようでは、ちっとも実を結ぶことはできない。どこまでも、主に従うのが弟子である。使徒行伝一三43に「神の恵みに居らんことを勧めた」とある。これ、やはり神の言葉に居るのと同じである。なぜならば、神の恵みなるものは神の言葉よりいづるものであるから、すなわち我らの思いも、行いも、神の言葉以外に出ることがないように注意することである。また使徒行伝一四22には「信仰に居らんことを勧め」とある。これも同じことである。信仰は、神の言葉を聞くことによって生ずるものであるから。また、あるところには「我肉を食い、我血を飲む者は彼われに居り、我彼に居る」と言うことであるが、これも言葉である(ヨハネによる福音書六63)。
〔32〕この真理とは、世の真理、即ち理屈とは違うのである。わたしたちは神の言葉に居る結果として、真理即ちキリストを知ることができる(ヨハネによる福音書一四6参照)。またこの「知る」と言う言葉は、心の中で見ることで、頭で解るとは違うのである。「真理は、汝らに自由を得さすべし」即ち、我らがキリストと全く一致した時、真の自由を得るのである。即ち、キリストの奴隷となった時に、真の自由があるのである。この点は、この世の人の考えと全く異なっている。彼らは、自分勝手が自由だと思っているのである。
〔33〕彼らの心には、一物あることがわかる。彼らは、主の言葉を、そのまま受け入れることができないのである。
〔34〕彼らは、心にささやく悪魔の声を聞いて、それに従っているのである。我らは、自分の時間、舌、身体、金を用いているか。あるいは、悪魔の言葉に従って用いていないか。我らは、主の御声、主の言葉に従いたいものである。
〔35〕奴隷は、仕事をする時だけしか入り用がないように、奴隷的根性の信者は、恵みを求める時のみキリストに来る。従って、苦しい時には主から離れて自由を失うのである。けれども、主はそうではない。いつもキリストと一致して行くのである。いつも、家、すなわち神の中に住んでいるのである。わたしたちが、恵みに感じて働く時、この根性がなくなるのである。この誘惑は、極めて真面目な人に来るものであるから注意しなければならない。悪魔は、ああもしなければならない、こうもしなければならないと、もがかせる。言いかえれば、仕事が主人公となるのである。わたしたちは、この秘密を主イエスの生涯において見る。彼は父なる神に全く服従した態度をとり給うた。故に、このところに自由があった。わたしたちは、この言葉を黙想しなければいけない。これによって秘密を知るのである。
〔37〕彼らは悪魔の声に感心して、成程と思っている。それ故、こんな恐ろしい考えをもつのである。
〔38〕キリストと父なる神、また罪人と悪魔の関係を見なさい。
〔39〕アブラハムは、実に父なる神に服従した人であるから、アブラハムの子ならば、神に服従しているはずである。
〔40、41〕「姦淫によりて生れず」とは、偶像信者ではないという意味である。
〔42〕論より証拠、愛と言う計りではかる時、神の子と悪魔の子は明かにわかる。
〔43~44〕彼らは心の中で、悪魔の声を聞いているから、決して神の声も聞くことができない。「彼はいつわり者、またいつわり者の父なり」。悪魔の性質を見なさい。彼は、偽りに満ちている。
〔50〕神は、キリストを崇め、これを軽んずる者を、神は審判するという意味である。しかし五十一節にあるようにキリストの言葉を信じ、これを守る者は、死を見ず、すなわち無罪となる意味である。
〔52~53〕人間の目から見ると、イエスはこのところで閉口しているように見えるが、決してそうではない。
〔54~55〕キリストは、このところで自らを現わすために、そのように弁護し給うたのではない。なんとかして彼らに悔い改めを与えようとしたのである。「我は彼を知り、またその言葉を守るなり」キリストの秘密は、このところにある。ちょうどヨハネによる福音書十五章十節のようである。
〔56〕アブラハムは、立派なキリスト信者である。ただ信仰の目的が、未来にあったばかりである。
〔58〕イエスがいかに権威あり、また永遠より永遠に存在する全能者であることか。出エジプト記三章十四節の「在りて在る者」とこのところの「在る者」とは同じ意味である。
盲人の者癒される(ヨハネ九1~41)
ヨハネによる福音書九章一節は前章の続きで、キリストが人々の中を通って行き給いしその途中の出来事である。ある批評家は、キリストが人々を恐れて逃げたと言うが、イエスは命が欲しくて逃げたのではない。まだ殺される時でなかったので去り給うたのである。それ故、途中で盲人の者に会えば、これを憐み癒し給うたのである。もし恐れて逃げるのならば、盲人がいても癒すどころではない。ここでいかにイエスが、落ちついてい給うたかがわかる。「生来の盲人」とは、ユダヤ人の型である。彼らは、表面上肉眼は見えたけれど、心の眼は盲人である。知識では神を知っていると思っていたが、心では見えなかったのである。「誰の罪なるか」弟子たちの中でも病いは、罪より来ると言うことを信じていたと見える。しかしこの場合は特別であったのである。すなわち、この盲人がメシアによって癒され、神の栄光が現われるためであったのである。多くの人は、この例を引いてきて、病いは罪の結果でないと言う。またある人は、病いになっていることが、神の栄えだと言う。しかしそうではない。これが癒されてこそ神の栄えが現われるのである。また雅歌五章十四、十五節を見れば、病いは、罪の結果であることがわかる。
〔4〕今の時は昼であるから、我らは一生懸命で働きたいものである。この時イエスは、生涯の短い事を知って懸命になって働いていたことがわかる。五節にあるように肉体の内にある間が戦争であるのだから、一日一日が貴いことを知って働くべきである。
〔6~7〕生来の盲人に泥を塗り、おまけに近くもないシロアムの池に行って洗うことは、実に馬鹿気たことである。普通の人ならば、腹が立つかも知れぬ。しかし幸いなことには、この盲人は直ちにその通りなした。すなわちこの者には信仰があった。故に、栄えを見ることができたのである。また、この池は、キリストの型であった。イエスは、ヨハネ伝の中に、「我は神より遣わされし者」と言うことを、四十一度もおおせ給うておられる。わたしたちはこの遣わされた者に行くならば、どのような生来の病い「心の病い」も癒される。イザヤ書八章六節にはこの池をシロアと言っている。ユダヤ人は、この静かに流れるシロアの水であるイエスを拒んだ。彼らは祭司の長のような立派な者ならば信じたであろうが、このイエスを捨てた。
〔11〕は実に明白な信者の証しである。しかし彼はここでイエスを人と言っている。彼の信仰の幼稚なことを見なさい。
〔12~16〕いつもユダヤ人のやることである。
〔17〕これも彼の証しである。「予言者」とは、神よりいでた者の意味である。
〔22〕ユダヤ人が会堂より追い出されると言うことは、実に苦しいことで、ちょうど破門されるのと同じで、物を買うこともできぬと言う有様である。それ故に、この両親は、責任を子供に押しつけた。しかしここで大胆に両親が証しするには非常な勇気が必要であった。
〔24〕これは、悪魔のこうかつな手段である。悪魔は、キリストなき証しに賛成するのである。
〔35〕実に幸福なことである。我らは、他の者より捨てられた時、キリストの愛を知る。詩篇二十七篇十節と同じ経験である。
〔39〕「見ゆる者」とは、自分免許で見える者であるという意味である。
〔42〕「見ゆと言いしによりて……」自ら欺くことである。
羊の門また善き牧者なる基督(ヨハネ一〇1~21)
囲いとは、昔のユダヤ教また今日のキリスト教である。神の備えた入口以外の所から入る者は盗人である。また門と牧者とは、離れることのできない関係にあるもので、牧者は必ず門より来るものである。
〔4〕の「羊彼の声を知りてこれに従う」とは、キリストとその弟子の関係である。パリサイ人は、決してキリストの声を知らなかったから従わなかったのである。天国に入るには必ず門であるキリストから入らなければならない。キリストは、天の御位を捨てて門の外にある者を、門より引き入れ給うた。門の特色は開けることである。このようにキリストは御自分の肉を裂き開いて、我らを天に至らしめ給うたのである。今日まで多くの聖人と称する者が出たけれども、朱塗りの閉じられた門のようで開けられない。決して神と我らとを一つにしてくれない。しかし幸いにも主イエスはこの門である(へブル人への手紙十19)。わたしたちはこの門であるキリストを深く味わいたいものである。かくして九節のように命と力と自由とを得るとは何という幸いなことか。
〔8〕の「門守り」とは、聖霊を指す。羊は実に意気地のないものであるが、聖霊なる門守りは門を開いてキリストを迎え入れて下さるのである。彼のパウロがピリピに伝道した時に聖霊は、ルデヤという女の心を開き、キリストを受け入れさせ給うた。ユダヤには一つの大きなおりがあって夜になると牧者は、皆自分の羊の名を呼んで引き出したということである。従って羊はこの主人の声を知っていたのである。かの幼児が母からその名を呼ばれた時の嬉しさはどんなであろう。もし他の人がその子の名を呼んでも、返って嫌な顔をするであろう。しかし主イエスが名前を呼び給うならば、どのように嬉しいことであろう。昔、祭司の長の胸には民の名が刻まれてあったように、主イエスは、わたしたちの名をその御手に刻んで父なる神に祈り、また導き給うのである(イザヤ書四三1、四九16)。
〔4〕の先に行くなりとは、実に幸福なことである。我らは百人の命令者よりも一人の導き手を要する。また羊は、従順に従うものである。
〔5〕我らの霊魂はイエスを求めるはずである。どんな神学説が流行しても心の奥底はイエスを求めるはずである。それを求めないのは調子が狂っているか、またはイエスの羊でないからである。
〔8〕「先に来りし」とは、キリストの前に立ちふさがるという意味である。いくら上手な説教をしても、主イエスを現わさないで自分を現わす説教者は、すなわち盗人である。
〔9〕キリストより入る時は救われ、出入りし(自由を得)。草を得(養いを得る)。真正の満足を得るのである(詩篇一二一8、六三5、6参考)。
〔10〕悪魔の目的は、殺すことにある。手先に使用される者は善いと思っているか知れないが、悪魔の目的は殺すことである。祭司の長は神と民との間に立つ羊である民を養うべきものであるのに、かえって悪魔に使われて自分を高くし、自分の欲を満たして羊を害した。しかしキリストは羊に命を与え給う。またその命を「豊かならしむる」とは、潔められ聖霊に満たされることである。わたしたちがこの命を得るということは何という幸福であろうか。また実際において聖霊に満たされる時、この豊かな命を受けることを得るのである。
〔11〕牧者はこの精神なくしてキリストの羊を養うことはできぬ。パウロは実にこの精神を持った人であった(ピリピ二17、テサロニケ前二7、8)。しかし雇われた者すなわち賃金のために働く者は自分の命の危ない時には、羊を顧みないのである。悪魔は特に羊を散らす者である。
〔14~16〕この主との二重の関係、すなわち主を知る、また主に知られるは大切なことで、一体となることである。キリストを知る知識は人間に命を与えるものである。愛に満たしめるものである。それ故に、彼を知れば知るほど、キリストの羊のために命を捨てるようになるのである。「彼らをも引き来らん」は、「引き来らなければならない」と訳す方がよい。ちょうど九十九匹の羊を置いて迷える羊を尋ねる精神である。「ついに一つの群……」これがキリストの信仰である。主はユダヤ人以外にも多くの羊を持ってい給う。すなわち、異邦人の間からも救われる者が起ることを知ってい給うた。
〔17〕父なる神はキリストが命を捨て給うた故に、なお一層の熱度をもって愛し給うた。このようにわたしたちも命を捨てて働く時に、父なる神より、なお愛せられるのである。
〔18〕キリストが十字架に釘づけられたのは負けたのではない。悪魔に勝って人類を罪より贖い出さんためであった。彼は実に命を捨てて、またこれを得る力ある御方である。この御方が自ら進んで任意的に命を捨て、犠牲となり給うたのである。
七十人の弟子帰り来る(ルカ一〇17~24)
このところで、弟子たちが得意になったのは、人情の自然で、われわれの中にも成功する時にはこのようになることがある。なお、彼らは自分の成功を人の前に報告したのではなく、主の前に報告したのであるから、さほどとがめるには及ばないようであるが、主は彼らが慢心に陥ることを戒め給うたのである。「サタンの天より落つるを見し」とは、イエスが彼らに霊界の有様を告げたのである。
〔19〕は、実に幸福なことである。かのパウロがメリタにおいて毒蛇の害を受けなかったように、我らもこの信仰を持つ時は大胆である。我らもイエスの名によって、彼と(心霊的にはサタンである)戦う時に、容易に害を受けず退けることができる。詩篇九十一篇一節はこの秘密である。しかしもし我らが、隠れたところで神と交通することがないならば、このような生涯を送ることはできない(詩篇九一6)。
〔20〕これは悪魔のわなである。もしわたしたちが成功を喜ぶならばいつしか悪魔に所を得られる。「汝らの名の天に記されしを喜びとすべし」、もしわたしたちの名が、非常の手柄があったと言って天皇陛下のおいでなさる所に記されてあって、陛下が時々これを御覧になることであるならば、何たる栄誉であろう。まして天にいます神の前に我らの名が記されてあるとは何という幸福ではないか。かのモーセは深くこのことを味わっていた(出エジプト記二31、32を見よ)。しかしモーセはこの自分の最上の特権を捨てても民の罪が許されんことを願っている。モーセがいかに民を愛したかをこれによって見ることができる。なお、命の書についてはピリピ人への手紙四章三節、黙示録三章五節、二十章二十七節を参照せよ。
〔21〕この喜びという字は非常な喜びを表わす字であり、心の中の喜びである。達者とは英語でプルーデントと言う文字を使用してあって、道徳家という意味である。すなわち、神の情は、心のへり下る者、信じて従う者に与えられる。
〔22〕このところにキリスト教は黙示の宗教であることをキリストがおおせられた。すなわち、キリストが現わされた者(黙示せられた者)のほか、神を知ることはできぬ。従って種々の議論のある間は決してキリストを悟ることはできない(コリント前書二9、10参照)。人間の間柄でも同じことである。自分の信任している人、すなわち自分を愛してくれる人には他人に言い得ないことでも話す。このように神は神を信じない者、神を侮蔑する人、自分から高ぶる人には真理を示し給わない。(ルカ一16を見よ)。パウロは神の黙示でキリストを悟り得たのである。
善きサマリヤ人の譬(ルカ一〇25~37)
場所はエルサレム。この話はたいへん恵みに感ずる。また非常に探られるところである。この律法学者は聖書をよく知っていた人で多分、キリストのことを聞いてどのような人物かをためそうとして来たものであろう。この人の仕打ちはたいへん悪いと言うほどではないが、キリストを試験したのであるから、実に無礼なことであった。「師よ、我何をなさば永生を受くべきや」これは実に大きな問題である。「律法に記されしは何ぞ」この問は、キリストの知恵である。なぜならば、相手に責任を持たして言葉を出させることは、伝道に欠くことのできないことである。我らも個人に接する時にはこの態度を取るのは大切である。「答えて言いけるは……」(申命記六5)。つまり人間は、心(愛情)、精神(動機)、および力を尽して神を愛することである。「これを行わば生くべし」これは旧約の精神である。そうならば我らも行わなければ、生きることはできないかというと、決してそうではない。新約はただキリストを信じることによって生きるのである。このところにキリストが「行わば生くべし」と言われたのは、多くの人のとる態度である。
〔29〕これはこの律法学者ばかりでなく、多くの人のとる態度である。
〔30〕エルサレムよりエリコまでは道程十九里あると言う。またこの間には、山が多いので盗人の棲家、また追いはぎの巣窟には適当であった。「死ぬばかりにして去りぬ」この言葉は、味わうべきところである。このところに祭司とあり、又レビ人とあるが、彼らは聖書を知れる人、他人を顧みる宗教専門家であった。特に、エルサレムの礼拝より帰る時であって神を味わい、恵みを受けた時であるから、なお人を憐むべきであるのに、実に憐みの心のない有様である。ホセア書六章六節にもこのような有様を戒めてある。「我は愛情を喜びて犠牲を喜ばず。神を知るを喜ぶこと燔祭に勝れり」このところで面白いのは、エリコは呪われた地であることである。(ヨシュア記六26)。多くの人は神の祝し給えるエルサレムより離れて、呪われたエリコ(地獄)に向いつつあるのである。またかのアダム、エバはエデンにて義の衣を着ていたのに、盗人(悪魔)のために義の衣を脱がせられ、その心は打ちたたかれて苦痛で死ぬばかりになった。
〔31、32〕これは人間の方面より望みなく助けのない有様である。詩篇三八7~11にあるように逆境の時は誰も遠ざかるのである。我らもキリストなくして魂が苦んだ時、教えはしてくれるけれども魂の手の届くようにしてくれる者はなかった。申命記二章四節を見れば、神は家畜と言えども道に倒れているならば助けなさいと命じ置き給うたにもかかわらず、このように見過しにするとは、実に無情である。今日の有様もまたちょうど同じようである。なおこの祭司、レビ人の側より味わうことは、彼らは自分のことを思っていたことである。彼らは助けることは知っていたであろうけれども、自分の金を費すこと、自分に嫌疑のかかることなどを思ったので、助けることができなかった。自分のことのみ思う人は、いつでもかかる有様である。
〔33〕「あるサマリヤの人の旅してこの所に来り」。これは、キリストを指す。彼は人々よりサマリヤ人だとののしられた(ヨハネ八48)。イエスは天の御位を捨ててこの世に旅して来り、わたしたち悪魔のために苦しむ者の傷を包み給うた。すなわち、酒(御自身の血)をもってわたしたちの罪と汚れを洗い、油(聖霊)を塗り(油は腐敗を止めるものであり、わたしたちを潔く保つものである)。心の痛みを取り去り給うた(イザヤ六一1)「己がろばに乗せ」自分は降り、そしてわたしたちをそれに乗せて下されたのである。実に、もったいないことである。ピリピ人への手紙二章七、八節、コリント人への第二の手紙八章九節にあるように、わたしたちが食べる時にも、ことごとく主の贖いの倉より出づることを思いたい。彼は実にこの世にて貧しく成り給うた。実に「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子は枕する所なし」と言うように御生涯を送り給うた。これによって、わたしたちは、エペソ人への手紙二章六節のように、イエスキリストと共によみがえり、共に天のところに座し、心には平和をもっているとは、もったいないことである。「旅邸」とは教会のことである。苦しみ多きこの世にあってなおくつろぐことのできるところである。わたしたちも地方に巡回して、そのところの兄弟姉妹より親切を受ける時は、非常に恵みに感ずるものである。次に、味わうべきは、旅館の主人の側からである。主人はすなわち伝道者である。キリストは、羊を託するには必ず相当の能力を与え給うのである。銀二枚とは長い間滞在するのに十分な金であり、キリストは、このように豊かに能力を与え給う。「費もし増さば、我れ帰りの時これを汝に償うべし」わたしはこれで非常に励まされた。与えられた銀の尽きる時には顧みないと言うことではない。よし、しばらく自分で苦しみ、自分でつらい思いをしても、キリストの再臨の時、豊かな報賞を得るのである。コリント人への第二の手紙四章十七節に「それ、我らが受くる暫くの軽き苦しみは、極めて大いなる限りなき重き栄えを我らに得しむるなり」とあるように、自分を捨てることは幸福なことである。
〔37〕「その人を憐れみたる者なり」ヨハネによる福音書四章九節にあるように、ユダヤ人は非常にサマリヤ人を卑しめたものである。故にこの律法学者はサマリヤ人であると答えず、「その人を憐みたる人なり」と答えたのである。「汝も行きてその如くせよ」この律法学者の心中はどうであったか。わたしたちもこの律法学者が命じられたように人を愛さねばならない。
ベタニヤにおけるイエス(ルカ一〇38~42)
〔38〕マルタは、実に主に対して熱心であった。ヨハネによる福音書にも、マルタが主に対して機敏に活動しているのを見る。「これを迎えて自己の家に入りぬ」主と主に属する者を家に迎え入れることは、実に幸福なことである。
〔39〕「マリアと言える者あり、イエスの足下に座りてその道を聞けり」。またヨハネによる福音書十一章二十節では、マルタはイエスを迎えに行ったが、マリアはなお家にいたのを見るとマリアは極めて静かな内気な婦人であったことがわかる。また足下に座ることは学ぶことである。ルカによる福音書八35、使徒行伝二二3を見なさい。なお「聞けり」は、原語直訳では(打ち続いてただひたすら耳を傾けて聞いた)との意味である。これによって、いかにマリアが主の御言葉を愛したかを知ることができる。詩篇百十九篇全体は、神の言葉、貴さを歌ったものであるが、ことに五十四、百三の両節の如きはこれを表わす情が切である。また申命記三十三章三節には「エホバは、民を愛し給う。その聖者は皆その手にあり、皆その足下に座り、その言葉によりて立ち上がる」とある。この足下に座ることは、聖徒の特色である。力のない人間は初めから立って歩き得るものではない。まず主の足下に座って役立つことがでさるのである。かのペンテコステの日に悔い改めた弟子たちは、常に使徒たちの教えを受けた。そして後、種々のことをなしたのである(使徒行伝二40、41)。
〔40〕これはマルタのぼろを出したところである。マルタはここで種々のことのために心が入り乱れた。これは、悪魔のつけ込む最も適当なところで、特に活動的な性質の人は、このように誘われ易いものである。しかしまた静まり勝ちの人は安逸を貧り易いので、いずれも慎むべきである。マルタのように自分の心の平和を失った時には、心ずその飛火は他人のところとイエス様のところに行く。見なさい。マルタの目には主イエスが見えないで仕事が目に見えているのではないか。彼女の心には少しの余裕もないから、人が静まっているのが羨ましいのである。わたしたちは時々そのようなことがある。けれどもわたしたちは仕事の奴隷ではない。主とわたしたちの間柄は愛であるから喜んで主の御用をなすようにすべきである。「彼に命じて我を助けしめよ」マルタは、イエスを自分の伝令使のように使おうとしている。わたしたちの仕事は、キリストの足下に座る分量に比例するのであるから、わたしたちはまずイエスの足下に座ってその言葉を聞き、そして立ち上がるべきである。真実に座る人は心ず立つ、わたしたちは座って十分受け、立って十分注ぎ出すべきである。またイエスは、ここにうまい御馳走を食べようと来り給うたのではない。わたしたちもあるところに伝道に行った時に、大さわぎして御馴走ばかりして、肝じんな御言葉を聞いてくれない時は失望するのではないか。主も御馳走よりもその好み給うところをなすのが、彼の喜び給うところである。ある人は、自分のなした仕事の量で満足している。しかし、それよりも彼の喜ぶところを行うのは、幸福である。詩篇二十七篇四節を見なさい。これはダビデの願いである。またなくてはかなわぬ一つである。わたしたちもマリアのように主の足下に座るべきである。雅歌四章八節もまたイエスの願いである。
イエス祈ることを教う(ルカ一一1~13)
ここに弟子たちはキリストの祈りの力あるのを見て、祈ることを教えられんことを願った。これは実に善き願いである。次に注意すべきことは、主がこの祈りを教え給うたのはその文句ではなくてその精神である。「天に存す我らの父よ」これは目を天に上げわたしたちの父に願うのである。「御名を崇めさせ給え」第一に願うことは、神の御名が崇められることである。「御心の天になる如く」神の御心は潔きことである。また相愛することである。これは天国の特色である。「日用の糧を今日も与え給え」わたしたちも、このことについて祈り、与えられた時は実に喜ばしいものである。日用の糧とはその日々の糧という意味である。わたしたちは日々の糧を祈りによって与えられるようにこの祈りをなすべきである。「罪を犯す者」とは、罪を犯す一人ひとりという意味であり、この人は許すけれども、あの人は許さないと言うのではなく、一人ひとり許すことである。「悪より救い出し給え」これは、悪魔の手に陥らず、神の御旨を行うよう祈ることである。
〔5、6〕友とはキリストのことである。わたしたちは、神をもキリストをも知らず、心の飢えを持つ世の人のために愛するイエスに行かねばならない。主はそれを知り給う故「求めよ然ば与えられん……」とおおせ給うておられる。「求めよ」とは、心の態度で「尋ねよ」とは、なお進んで熱心に求めること。「たたく」とは、ここだと尋ねあてても、門が開かれていないのでたたくことである。イエスはここに薄情な人間が、人に求められて余儀なくパンを与えることに対照して、神は必ず祈祷に答え給うことを示しておいでになる。これはキリストの保証である。「求むる者に聖霊を与えざらんや」キリストはここに、明かに求めるべきものを示してい給う。これはわたしたちの最も必要なものである。
宮清めの節におけるイエス(ヨハネ一〇22~39)
〔22〕「冬の頃……」この宮清めの節は十二月五日より八日間続く節であり、旧約と新約との間、四百年の内にマカビースと言う人の始めた節である。
〔23〕「ソロモンの廊」とは、ソロモンの造った廊の残ったものであり、神殿の東の方にあったと言う。
〔24〕「我らをいつまで疑わするや……」これは不信仰な人の発する言葉である。自分は信ぜず神の側に罪を帰せようとする人の言葉である。昔のわたしたちもそうであったが、今も多くの未信者はちょうどこのような有様である。聖書には感心しているけれども、なかなか信じない。自分を高くして砕けず、神御自分を求めないのである。
〔25〕「われ汝らに告げしかと汝ら信ぜず」神からの示し方が足りないのではなく、信じないのである。キリストはすでにヨハネによる福音書六、七、八、九章において御自身を現わし、多数の人は、生れつきの盲人が癒されたのを見て、彼が神より来たことを信じたが、この人々はなお心を閉じた。
〔26〕「されど、汝ら信ぜず、これは汝らに言いし如く吾が羊にあらざればなり」心砕けて救いを求める人ならば、キリストの神の子であることを分るが、理屈をつけて心が悪魔に向い、欲に向って、神に向っていない者は、決して神を見出すことはできない。
〔27〕「我が羊は、吾が声を聞く。我は彼らを知り、彼ら我に従い」実にありがたいところである。いくら赤子でも母の声を知っている。彼は、母の声を聞く時には非常に喜ぶ。かく神を慕う人は、神の声を聞く時は喜びを得るのである。またイエスが砕けた魂を知り給うとは幸いである。なぜならば彼は求めない前に要する物を知り給うからである。またわたしたちがイエスの声を聴くことが本能性となるならば何という幸いであろう。
〔28、29〕これは神とキリストの能力また信仰である。ああこの大いなる御方の御手の中にあるわたしたちはいかに安全なことぞ。ましてや永遠に続く命を得るにおいておや。しかしここに慎むべきことは自由意志の濫用である。わたしたちはこれによって神の手にも、悪魔の手にも陥ることができるからである。
〔32〕ここに注意すべきことは、悪魔は善い業には反対しないが、わたしたちの証詞に反対することである。わたしたちが慈善をなす時は、悪魔は別に反対しないけれども、キリストは神である、誰もこれに服従しなければならないと証する時にしきりに反対するのである。
〔34~36〕これは、キリストの議論である。詩篇八十六篇六節には神より権威を受けて正しい審判をする人を神と言っている。まして父が特に聖別して世に遣わした者を、神の子と言ったとしても神を冒涜すると言うべきものではない。キリストは彼らが特に重んじている聖書より引照して彼らを反駁し給うた。これは実に能力のある方法である。
〔37、38〕キリストのねんごろな教えを見なさい。「もしこれを行わば、我を信ぜずともその業を信ぜよ」これは、いかにもして彼らを信ぜしめんためである。
〔39〕「イエスその手を逃れて去れり」これはキリストの恵みである。もしここでイエスが怒って一言の下に彼らを殺したならば、たちまち亡びに行かなければならない。しかし彼は御自身を低くして逃れ給うた。
イエス、ヨルダンの向うに退き給う(ヨハネ一〇40~42)
このヨハネがバプテスマを施したところは、イエスにとって記念すべきところである。実にこのところは厳かなまた静かな幸福なところであった。
〔41、42〕これはヨハネにとって幸いなことである。なぜならば彼がこのところにおいて伝道した種は、今このところで芽生えたのである。ヨハネはすでに牢に死んだ。けれども、彼の労は空しくはならなかった。我らも我らの伝道が目前に現われなくとも励んで働くべきである。わたしたちの働きは、わたしたちが世を去った後においても芽を出すのである。
ラザロ甦らさる(ヨハネ一一1~46)
ラザロの住んだベタニヤは、聖書中にも神の恵みの現われたところである。またこの地は神の栄えが現われる機会のあったところである。なぜならば、そのところにはイエスを重んじ、イエスを信ずる三人の兄妹があったからである。第一、ルカによる福音書一○38~42には、イエスは真の教師として現われている。またマリアは学ぶ者として現われた。すなわちマリヤは善き方を選び、キリストに心を奪われて彼の言葉を受け、甦りであり命であるキリストを受けた。第二はヨハネによる福音書一二1~8でマリアが、香油を注いだことである。彼女は、自分のために命をも捨てて下さるキリストの愛に感じて、その葬りのために最高の愛を表わした。その次はキリストの昇天である。実にベタニヤは信ずる者、又多くの栄えの現われたところである(ルカ二四50~53)。願わくはわたしたちの心がベタニヤのように聞いて従うところ、信ずるところ、愛するところ、拝し崇めるところでありたいものである。
〔3〕この愛する者とは原語直訳でデャレーラブドであり、ちょうど父母がその一人っ子を愛する如き愛である。「病めりと言い遣わせり」ある人はこれを称して信仰の祈祷だといった。なぜならば愛する者ならば来て下さいと言う必要はない、必ずイエスは来給うのである。わたしたちは主と交わる時に、主がわたしたちを愛し給うことを信ずると、自由があるのである。「これは、死ぬる病いにあらず、神の栄えのためなり」。わたしたちが病気になった時には、種々と思い患う。けれどもその時イエスはこれを判定して下さる。またこれは人間の考え及ばないところである。
〔5〕ラザロばかりでなく、三人ともイエスの愛する者であった。ある人は言った、この三人は会堂より出されていたと。すなわち、他の人より交際を禁じられていた(このところにいたユダヤ人はイエスを信じた者、あるいは特に三人に同情を持っている人であったと言う)。
〔6〕このところには、イエスは三人を愛する故に、二日遅れたとある。人間の側から無情のようであるが、この二日こそは、彼ら三人にとっては試みであったであろう。愛でないように感じられる。しかしイエスは愛する故に二日遅れた。神のみが人間の真の必要を知り、ちょうど適当の時にこれを満たし給う御方である。「ラビ、またかしこに行き給うや」このところで弟子たちは、恐れて行くのを止めた。
〔9〕一日とはイエスのこの世で神の御用を勤める間を言われたもので、父なる神の御命令に従ってことをなし給う間を指す。「昼」とは、父なる神が、共に行き給う間であり、八節にある弟子たちの心を励まさんために、父なる神のお守りを語ったものである。しかし自分の心のままに歩く者はわざわいである。
〔11〕「我らの友」主は御自分を低くしてわたしたちを友と呼び給うとは有難いことである。この世の王は、決してわたしたちを友達とは呼ばない。しかしイエスがこのように言い給うとは何と嬉しいことであろう。
〔15〕「汝らをして信ぜしめんために……」これは六節の解釈である。キリストがいかに弟子たちのために苦心し給うかを見よ。
〔16〕トマスは疑い深い人であったが、心が曲っていて疑い深いのではない。信じ得るところはどこまでも信ずる、また忠実な人であった。しかし彼の決心も、薄弱否むしろ自負心においてペテロの決心のように破れた(マルコ一四50)
〔17〕途中で暇を取ったものと見える。
〔20〕「マルタはイエス来り給えりと聞きてこれを出迎え……」このところにもマルタの性質が表われ活動している。
〔21、22〕この両節には、マルタの心には信仰と不信仰とが錯綜しているところが表われている。二十一節でマルタは場所の点で不信仰を越している。けれども二十二節は信仰の言葉である。わたしたちは見るところによらず、望みなきところでも今からでも祈るべきである。神もまた今からでもと仰せ給う。ヨエル書二章十二節を見よ。この当時、ユダヤ人の有様は実に堕落していた。しかし神は今からでも求めるならばと約束をなし給うた。二十四節のマルタの答えは、実に不信仰な言葉である。イエスは「汝の兄弟は甦るべし」と仰せ給うたのに末の日まで延した。これは時間に関する不信仰である。
〔25〕全世界中最も大いなる業はキリストを信ずることである。人間としてはこのほかの大事業をなすことはできぬ。
〔26〕生きて我を信ずる者と言う訳よりも、我を信じて生き返りし者と訳すべきである。
〔29〕引っ込み勝ちのマリヤもイエスが呼び給うたと聞いて急いで立ち上がった。わたしたちも沈み込んでいる時など、御言葉に励まされて立ち上ることが度々であろう。
〔31〕世の人は、わたしたちが祈る時に「墓に行きて嘆くならんと言う」可哀想に泣いているのかと言う。
〔32〕マリヤの心にもやはり不信仰の分子があることを見出す。
〔33〕マリヤとユダヤ人がこのところで嘆いたのは、人情として当然なことである。イエスがこのところで心を動かしたのは実に有難いことである。彼はヘブル人への手紙四章十五節にあるように、わたしたちに同情ある御方である。未信者の側から言えば神を信ずる者としてあるまじきさまと言えるだろう。けれどもイエスは泣いて下さる。実際、いまだこの時は神の栄えも現われず、人間としては悲しいのは当然である。ならばイエスはユダヤ人の側に立って泣き給うた。イエスは実に同情者である。イエスは一面には彼らの不信仰を嘆き給うた。イエスはいかにして信ぜしめんとし給うた。
〔35〕この節は短いが深い節である。実に愛の現われているところである。
〔37〕これは能力の点に関する不信仰である。
〔38〕実に愛であり同情である。また能力の御方である。わたしたちはこの他にどこに愛を求めようとするのか。
〔39〕このところには実際の石があったが、マルタの心にも不信仰の石があった。除かれるべきものは、不信仰の石である。また不信仰は必ず服従しない。主が石を除けよと仰せ給う時、これを止めようとする。
〔40〕マルタは、この言葉により悔いたことであろう。ついに石をのけた。
〔41〕信仰の祈りは必ずこのような具合である。感謝をもて祈りを始め、これまで祈りの答えられたことを感謝する。
〔42〕これは、キリストの信仰の声である。人間の側から言えば、死んだ人を呼ぶのは気違い沙汰である。しかし単純な信仰である。又ラザロはこの一言で墓から出て来た。実にキリストの言葉は霊であり、命を与えるところのものである。「彼をときて行かしめよ」多くの信者は甦った。けれども古き生来の罪のために歩けないで苦しんでいる。
〔48〕このように、キリストの栄えが現われる時に、悪魔は当惑する。「ローマの人来りて」これは、霊の目の開けない人の憂いである。彼らはローマより大いなる神の手に自分を委ねることを恐れている。肉に属する人には、必ずこのような恐れがある。
〔50〕カヤパの残忍な決心を見よ。祭の長と言われるものがこのような悪を企てるとは、実に情ないことである。
〔51〕予言したと言えども、必ずしもその人が、聖き人であると言うことはできない。神が摂理の内にこのように導き給うたのである。このラザロの復活の出来事のために四十五節には、多くの人が彼を信じたとある。しかしながら、このところでは彼を殺そうと計るとある(53)。人間は必ずこの二つの仲間入りをしなければならない。信じないで殺さないと言うことは不可能である。神に従わなければ必ず悪魔に従わねばならない。また聖霊が働き給う時には、必ず信ずる人と反対する人が出来てくる。あるところで一人の人が説教して反対する人が出来たのを聞いて、その友が大成功だと言ったそうである。
〔54〕ユダヤ人は、恵みと真理と命の満ちたキリストを追い出したのである。これは実に恐ろしいことである。
唖の悪魔追い出される(ルカ一一14~26)
この奇跡は、マタイによる福音書九章三十二節と同じであると言う者と、同十二章二十二節と同じものであると言う人があるが、いづれであるか明らかでない。註解はマタイ伝の時になしたので略す。
愚かな富める者の譬話(ルカ一二16~21)
〔15〕真実の安心は所有の高さによるものではない。この御言葉は多くの場合、未信者に当てはめるが、今日信者、伝道者の内にもこのような人がたくさんいる。わたしたちの生涯にもある。地位を得、名誉も財産も得ることがある。けれどももしわたしたちがこの地上の財に心を奪われ、わたしたちの心がそのところに留まって、これをどのようにしよう、あれをこのようにと、ほかのことのみ思っている時に、神はこのように仰せ給うのである。人間が順境にある時には、必ず「17~19」の如き心掛けになり易いものである。ただに金のある時ばかりでなく、身体の丈夫な時にも神より離れ易いものである。ヤコブはこれらの物の頼みにならないことを教えている(ヤコブ五1~3、蔵言八11、18、19、35)。真に富める人とはキリストを得る人である。また信仰は財である(ヤコブの手紙二5)。信仰を持つ人は、兌換紙幣を持っているようなもので、いつでも必要な時には神より引き出し得るのである。また今信仰を持つ人は神の国を持つ人である(テモテヘの第一の手紙六17~19)。
神は私たちの必要を満たし給うこと(ルカ一一22~31)
註釈はマタイ伝六章においてなしたのでこれを略し、ただ異なる点のみを言う。
〔29〕今日、有形的側面において信者も未信者もほとんど違いのないことは、キリストの嘆き給うところである。魂の悪い時には神に願うが、金のない時また身体の病気の時には、異邦人と異なるところのないことは悲しむべきことである。「ただ神の国を求めよ……」これは、神の国には肉体の恵みも含むことを言われたのである。またその裏面には悪魔の国を全く離れて聖くあるべきことを、教え給うたのである。ならば、病気の時に癒されたため、自ら省みて不義を離れねばならないように、肉体の必要を満たされる時にも自ら省みねばならない。これは祈りの答えがあるようにとの目的ではない。すなわち神の要求なのである。
実を結ばないいちじくの話(ルカ一三6~9)
この譬話はユダヤ人を戒めるために、主が語り給うたのである。ぶどう園とは異邦人のことで、いちじくはユダヤ人を指す。「来りてこれを求むれども、得ざりければ」神は実を求めに来り給う。これは記憶すべきことである。ユダヤ人は、他の国民より栄えを現わさねばならない者であり、また造り主なる神を拝すべきものである。しかしながら、バアルやアシタロテや金の小牛に仕え、これを拝した。また彼らは神の恵み深いことをば全てのことにおいて現わし、なお自分の品性の実を結ばねばならないのに、彼らの品性は実に残酷、また偽善であった。わたしたち信者に当てはめてもやはり同じである。わたしたちは神の愛、神の聖なること、また働きの実(ピリピ人への手紙一22)、品性の実(ガラテヤ五22、23)、唇の実(へブル人への手紙一三15)、祷告の実(コロサイ人への手紙四2~4)を結ばねばならないものである。神は信者にこの実を求め給う。アンドリュー・マーレー氏は、信者の結ぶ実は祷告の果実であると言われたが、実際その通りである。人が真実神の恵みを味わうならば、まず人のために祷告する。これは神より受けた愛の発動である。祈祷なしに飛び出すのは駄目なことである。祷告はつぼみのようなもので、それから花咲き実を結ぶに至るのである。「三年来りて実を求むれども……」園丁をキリストとして味わうならば、恵みを受ける。父なる神と子なる神との対話が手に取る如く聞えるようである。父なる神のこの言葉は決して短気ではない。なぜならば、すでに三年と言う十分な年月を経過し、実を結ぶには十分な手当てをした後であるから、神の義の方から言えば、当然のことである。神は信者に今度は愛の行為をするか、今度は謙るかと、来りて見給うこの時に実を結んでいないならば、神は切り去れと仰せ給う。「何ぞいたずらに地をふさぐや」。これは真理のあるところである。実を結ばない人は、二つの悪い点がある。すなわち実を結ばないことと、地をふさぐことである。信者にして実を結ばない者は、神を喜ばせないばかりでなお、人の邪魔となり、人をつまずかせるのである。実に恐ろしいことである。
「主よ、我その周囲を掘りて、これにこやしするまで今年も許せ」これはキリストの祷告である。何という恵みであろう。神の義の方面から言えば当然切られるべきである。わたしたちが実際今日あるのは、キリストの祷告によるのである。またこのところにキリストが責任を持ってい給うことを見る。ある人が借金取りに申し訳をするような態度ではない。「周囲を掘りて」わたしたちの心には種々な邪魔がある故に、掘る必要がある。すなわち、御言葉によって探る必要があるのである。聖言で探っても肯首できなければ病気を与えられるか、あるいは他の方法を以って反省せしめ給う。しかしこれは愛によってなさるので、恵まれるためである。故に、苦しくとも探られ、掘られねばならない。そして捨てるべきものは苦しいものであっても捨てなければならない。「こやしするまで」こやしはキリストの愛である。これよりほかに善きものはない。これが根にしみこむならば他のものは要らない。十字架の愛さえわかれば十分である。「今年も許せ」ある人は、これをもう少しくらいはよいと言う意味に取る。しかし、このところにこやしするまで今年も許せとある。来年ではいけない、今年なのだ。「実を結ばずば、後にこれを切るべし」。神がいかに愛でも義を曲げ給うことはできぬ。実を結ばねば切られるのである。一度救われた者は、どこまでも救われるなどと言うのは間違いである。信者たる実を結ばぬ者は、やはり亡ぼされるのである。すなわち、潔くない者は主に会うことはできないのである。
十八年病んだ女癒される(ルカ一三10~17)
「女よ、汝はその病いより放さる……」この女は十八年病んだ、実に気の毒な女である。わたしたちは一日病んでも実に苦しい。しかしながら十八年とは実に長いことである。人間の側からは望みのないこの女が、キリストによって癒された。何という幸福なことであろう。「置きければ……」英訳には両手を置いたとある。その時「直ちに伸びて神を讃美せり」ハレルヤ。これを霊的に味うならば、わたしたちは悪魔のために屈んで天も行き先も見えず、地と地のことのみ見えた者であったが、キリストはわたしたちを伸ばして天を望むようになし給うた。
〔14〕会堂司がキリストに直接言わないで、人々に言ったのは罪人の本性を現わしている。またユダヤ人は何もしないのが安息日だと思っていた。彼らは全く律法に束縛されて、その内には少しも人を愛する精神が伴わず、かえって自ら人より栄えを得んとする精神に満たされていた故に、キリストはこれを偽善者と呼び給うたのである。
〔16〕アブラハムの裔とは、神を信ずる故にそう言われた。肉体上よりアブラハムの裔と言われるのではない(ルカ一九9参照)。十七節には二種類の人の写真がある。真に人を愛する者は他人の救われたことを喜ぶ。自分のことのみを思い、また他人の欠点を探しつつある人は、このような時に恥じ良心に責められるのである。
ヘロデのたばかりと主の答え(ルカ一三31~35)
ヘロデは自らの言葉を貫き、人の栄えを求めようとしてついに正しきヨハネの首を取った故に、良心に責められ、その心には平和がなかった(マルコ六26)。ここにイエスの名声を聞き、また彼が奇跡を行うのを見てヘロデの心は動揺し、ついにイエスをもってヨハネの死より甦れる者となすに至った(マルコ六16)。彼の心中に不安があるのは当然である。故に彼は、イエスを他のところに退けようとして、パリサイ人を手先とした。パリサイ人はあたかもイエスを愛する者のように彼に忠告した。しかしながら、主はこれを看破し給うた。イエスは狐という語をもってヘロデが酷薄であり、また残忍な性質を言明し、その為すところの罪であることを彼らに告げ給うた。「悪魔を追い出し」とは、魂の救いであってヘロデの為すところと天地の差がある。三十四節は特別にエルサレムの罪を表わしたものである。元来、エルサレムは他のところよりも勝って潔くなければならないところなのに、神の僕を殺し神に敵する故、キリストはこれを嘆き給うたのである。またエルサレムは神の愛の表示であり、神の恵み、神の愛の集中したところであった。神はこれを手中の玉として愛し給うた。そうであるのにその僕を殺し、ついにはその子を殺すに至った。しかし、神はなお、暖かな愛をもってエルサレムを待遇し給うた。わたしたちはこの主の愛を味わいたい。「我れ汝らの赤児を集めんとせしこと幾度ぞや」にわとりは何か恐ろしい敵の来る時にはそのひなを翼の下に集める。そのようにキリストはエルサレムを愛し、これを悔い改めに導かんとなし給うた。「汝らは好まず」これは、実に恐ろしいことである。主は最初エルサレムで捨てられ、ガリラヤに行き給うが、なお六回もエルサレムに行き給うた。何という愛であろう。「汝らの赤児」いかに暖かな愛の言葉ぞ、また赤児とは特別に弱いものである。わたしたち人間は神の助けがなければ直ちに悪魔に踏みにじられる。キリストはよくこのことを知り給う故に、ねんごろにわたしたちを集めようとし給う。次にこのところに人間の自由意志の責任を説いている。神がいかに救うと仰せられても、人間の方で喜んでこれに応じないならば救われない。ユダヤ人は、キリストが彼らに近づいて救おうとした時に、これを拒んだ故に、遂に亡ぼされ、ルカによる福音書二十一章六節に予言されたように、壮麗な宮殿もローマ兵のために打ち壊された。なれば、キリストを信ずると信ぜぬとは非常な相違である。「主の名によりて……と汝らいわん時」これは再臨の時である。「幸福なり」とは誉むべきかなという意味である。しかし、ヨハネ黙示録十二章十節に予言されたように、再臨の時にはユダヤ人はことごとく救われるのである。
水腫を患える人癒される(ルカ一四1~6)
パリサイ人はさも宗教家らしく熱心家らしくイエスを招いた。しかしながら、彼らがイエスを招いたのは心よりではない。「人々彼をうかがいたり」これはキリストを待ち望む精神ではなくて、キリストをうかがう精神である。そのような人は決して神の恵みを受けることはできない。
〔2~4〕「彼ら黙然たり」学者、理屈を張る連中でしばしばこのようなことを演ずることがある。三歳の幼な子にも知れ切っていることに頭を悩ましているのである。「イエスかの人をとらえ……」罪を犯して官吏にとらえられるのは、実に恐ろしいことであるが、能力あるイエスにとらえられるのは、癒されるためにとらえられるので何という幸福であろう。
〔5〕幼児に問うような問である。しかし、彼らはこれほど愚かであった。モーセの律法には獣をも愛することが教えてあるのに、まして人類をや。さればわたしたちは善をするのに躊躇するな。儀式習慣、伝説などにかかわってはならない。
婚宴の座における婚宴の譬話(ルカ一四7~24)
ユダヤ人の習慣として座席を選ぶことは、非常に煩雑であった。特に婚宴の席においてはそれが甚だしい。ユダヤ人の上座は真中であった。「上座を選ぶを見て」探られる言葉である。わたしたちの間ではそのようなことがないか。
〔8~9〕箴言二十九章二十三節のように、自らを高くする者は低くせられ亡びに到る。しかし自ら謙る者は、主の来り給う時高くされるのである。従ってわたしたちは低きにつくべきである(箴言二五6、7)。
〔12~14〕報賞のこと。
〔12~13〕イエスの勇気を見よ。わたしたちにそのような勇気があるだろうか。世のいわゆる交際社会と言うものは、たいてい自分より割り出したものである。私の一友人がある役所の局長をしていたが、その人のところにはほとんど客の絶えたことがなかったが、一朝ある意見の衝突のために辞職した。ところが、その翌日から客の足が全く絶えたと言う。ああ世の人のなすは、皆これである。
〔14〕これが真の実例である。人からの利ではなく神より報いを得るのは何という確実なことであろう。十三節のようにわたしたちは貧乏、かたわ、あしなえであった。神の前に出るには恐れ多い者であった。しかしながら、神はこのようなわたしたちをイエスキリストの婚宴に招き給うたのである。次にわたしたちの慎むべきことは、人より報いを得ようとすることである。わたしたちは、今の間に人の報いを望まないで、人に善を為さば主の来り給う時甦って大いなる報いを受けるであろう。冷たい水一杯でも、主の名によって与えられる時はことごとく報いを得るのである。
〔16~24〕は神の豊かな婚宴の招きと人間の申し訳である。「ある人大いなる婚宴を設けて、おおぜい招けり」然り、神の婚宴は、あまねく世界をめぐって客を招くほどの大いなる婚宴である。「全ての物はや備わりたれば」人間はこれまで真正の平和と満足を得ようとした。また理想を描いてこれに達しようとした。故に神は全てのものを備え給うた。限りない命と神と人の一致、これは神のすでに備え給うたものである。故に、神は来れと仰せ給うのである。
〔18〕「われ田地を買いたれば……」これすなわち、地につける心であってルカによる福音書八章十四節の地である。
〔19〕「われ五つくびきの牛を買いたれば……」福音を信ずる者は、必ず一方に何物か握っている。ちょうど風船玉が木に結びつけられたように天に昇ることができない。また信者および教役者中にキリストの真正の恵みを味わうことのできない者があるのは、何物かを握っているからである。
〔20〕これは快楽である。以上三つの譬は、ユダヤの譬である。彼らは頑固でキリストの救いを拒絶したために、救いは異邦人に移った。しかしながら、わたしたちもそのような不心得をなすことがある。
〔22〕「されども、なおあまりの座あり」これは今日の状態である。わたしたちはこのあまりの座をどのようにするか、そのままにし置くべきであろうか。否、わたしたちはこの座を満たさねばならないのである。これは主の願いであり、またわたしたちに対する祈りであり給う。なれば、わたしたちは主に対して満たし給えと祈りつつ、しかもこの座を満たさないのは罪でなくて何であろうか。
〔23〕「強いて」わたしたちは人を救いに導く時はどのような人に対しても、強硬な態度を持たねばならない。生ぬるくてはいけない。「強いて」とは伝道の秘訣である。かくてわたしたちがあまりの座を満たす時に、神の喜びは満ちるのである。そしてわたしたちもまたその喜びにあずかることができるのである。
弟子たる者の覚悟(ルカ一四25~35)
イエスがこの譬を語り給うたのは、エルサレムの上京の途中である。「多くの人々イエスと共に行きし」イエスと共にエルサレムに行くことは立派なことではあるが、イエスは表面のみでは満足なさらず、更に精神の中に探りを入れ給うのである。
〔26〕これは弟子となる条件である。弟子とは普通の信者とは異なって、どこまでもイエスと共に行く者であり、またキリストの福音のために命を捨てるものである。これはキリストを愛する愛の対象である。キリストのためには、これら父母妻子をも憎むことであり、またキリストに従うためには如何なる者の命また願望にも背くことである。このところに至って初めて、キリストと、私との間の真正の一致の味を知ることができるのである。二十六節は出立する際の態度であるが、二十七節は苦痛の時の覚悟である。ある人は十字架なくしてキリストに従おうとするけれども、それは失敗である。わたしたちがキリストに従う時は、悪魔は必ず大いなる勢いをもってわたしたちを攻撃する。この時十字架を負わねばならない。さもなければ、主に従い行くことはできない。
〔28~29〕単純な譬である。誰でもこれくらいの道理は知っている。しかしながら、多くの人は二十六、二十七節の覚悟がなくて、キリストの弟子となろうとするが、このような人は失敗する。あたかも金がなくて城を築き、また勝利の見込みなくして戦う王のようである。しかし多数の人々はキリスト以外に自分の愛するものを握って、御用を勤めようとするから、祈りにおいて悪魔を破れないのである。相手の悪魔は過去六千年の経験ある、しかも能力ある者であるから、とてもわたしたちの微力では勝利を取ることは不可能である。どうしてもキリストの命令通りに聖い能力によって戦わねばならない。しかしながら、もしもキリスト以外に愛するものを持つ時は、キリストの命に従うことはできない。自分を全く捨ててキリストに来ないで、しかも戦場に出陣しようとするのは早計の至りである。これがために主の御名を汚すに至るのである。またわたしたちは九分通り献身しても残りの一分を献身していないならば、神の能力をそのままに現わすことはできない。このような兵士は決してお役には立てない。わたしたちは実際にむなしくなって全てを献げ、神の能力を現わす資格があるだろうか。自ら深く探られたいものである。
〔34〕弟子たるものは、この塩であるべきはずであるけれども、もしも弟子にしてこの態度と覚悟とがないならば、神からも、人からも捨てられて何の用にも立たぬものとなる。なお塩は傷のある個所につける時は、疼痛を覚えるものであるが、罪ある者がキリストの弟子の光に照らされる時に、同様に罪の苦しさを感ずるのである。
失われたる羊の譬話(ルカ一五3~7)
このルカ伝十五章にある三つの譬は、パリサイ人と学者たちにキリストがなし給いし教えであって、人間の魂の貴重なことと彼らの不心得なことを教えたものである。
〔2〕「この人は罪ある人に交わりて食せり」。食するとは親密なことを表わす。
〔4〕「一つを失わば」失われた羊とは神の聖前より離れた人間を指したものである。獲るまでは尋ね給うのである。「尋ねえば喜びてこれを肩にかけ」神の喜びは、決して御自身が安楽にあるからではなくて、滅びる人に永遠の命を与えたいからである。「肩にかけ」これはわたしたちの全ての責任を負い給うことを表わすのである。「家に帰りて」人間は悔い改めてキリストを信じてこそ、初めて家に帰った経験を得るのである。「その友(信者)隣りの人々(天使)を召集して言う、ちょうど数多くの子供を持っている人が、その中の一人の子の病気全快を喜ぶ有様である。この書によって、神はどれほどわたしたちを愛し給うかを知り得る。また主と共に羊を尋ねることの如何に幸福であるかを知ることができる。
失われた銀貨の譬話(ルカ一五8~10)
〔8〕女とは聖霊を指す。ともしびをつけるとは、そのところが暗黒の夜であることを表わす。実際罪人の心は暗いものである。聖霊は罪人の心を照らしてその有様を悟らせ、神に帰るように導き給うけれども、なお心を頑固にすれば心を掃除し給う。どんなにともしびを点じても心の中に道具あるならば、見い出すことはできないから、聖霊はその人に苦しみや病気を与えて、このようにして貴重な銀貨、すなわち魂が尋ねられるのである。
放蕩息子の譬話(ルカ一五11~33)
キリストはこのところで特別に神の側と人間の側とを明かに語り給うた。
〔12〕「弟は父に言いけるは身代をわれに分け与えよ」これは、誤りの第一の原因である。神は人間を自由な者に造り給うた。しかしながら、神より離れる自由ではなかった。人間は自分が主人になれば自由になると思うが、これは大いなる間違いであって、三十一節にある通り、神はわが所有物は、ことごとくあなたの所有であると仰せられるのであって、全てのものは神と人間との共有財産である。しかしながら、人間は共有財産を好まないで分産してもらって自分勝手に使いたいと思い、自分の所有物は自分のものとして、分けて持つのが富める者また幸福なことと思うが、いづれもこれは失敗の原因である。しかし神はこのような要求をなす人間を拒み給わない。たとえ拒んでも無益であるから、神は可愛いい子には旅をさせるのである。
〔13〕「いく日も経ざるに」実に、水臭いことである。親から身代を分けてもらったなら親の死ぬまでぐらいは、その地にいるのは人情であるのに、直ちに旅立つのは心のほどが知られる。なんでも人間が親から離れさえすれば自由だと思うけれども、それは違う。「ことごとく集めて……皆そのところにて費やせり」ちり一つでも自分の所有は残さないという欲が表われている。このような人は皆費やし、かつ全く自由を失うのに至るのである。また神より離れたものは姦淫罪を有形的に(放蕩)また無形的に犯すのである。以上は世の人の状態をよく表わしている。
〔14〕「大いなる飢饉その地にありて彼乏しくなり始めければ」これは神の摂理である。神はわたしたちが神にそば近くにいるときは言葉をもって教え給うが、遠く神より離れる時には、摂理をもって引きつけ給う。かくして、このところには神の摂理の知恵が表われている。ちょっと見ると偶然のようではあるが、しかしこれは全く神の御手であって神の愛の計画である。
〔15〕「一民に身を寄せたり」富める父のふところにいるのと、他人に身を寄せるとは雲泥の差がある。「その人ぶたを飼うために彼を野に遣わせり」ユダヤでは豚は汚れた動物の一つとして数えられている。そして豚を飼うくらいの人だから神を恐れぬ欲深い人であったであろう。父のふところを離れる者は、このような人の奴隷となるのである。
〔16〕「豚を食する豆がらをもて己が腹を肥さんとする…」平常家にいて他人よりもぜいたくに生活する彼が、今のところにあるその苦状、眼のあたりに見えるようである。しかし今日の人々が平安を天の父に求めないで、かえって哲学、芸術、詩歌等にそれを求めているのは、まさしく放蕩息子と何ら選ぶところがない。「何をか彼に与える人なし」これは人間の同情のない有様をあらわしている。人は身分の善い時には色々と世話してくれるが、いざ飢饉となった時にはこのような破目に落されるのである。実に気の毒だと言って慰めてくれる人とてもなく、もちろん自分で自分を慰めることもできず、全く神より他に頼るべきところはないのである。
〔17〕「自ら顧みて……」以前多くの金銭を持った時には父のことについて考えなかったばかりでなく、父のことなどは嫌いであったにかかわらず、せん方尽きた今、自分に帰ったのである。何人でも自分に帰り、自らの姿を知る時に初めて父の豊かなのに気づくのである(エレミヤ書二13~19)。この譬話はたいてい未信者に適用されるが、わたしたち信者もこれによって大いに学ぶところがある。
〔18、19〕これは決心また懺悔の祈りである。これによってこの弟の魂の砕けていることが知られる。
〔19〕わたしたちは果して神に対してこのような謙遜と献身の精神あるや、否や。
〔20〕「すなわち、立ちてその父に行けり」実行である。「なお遠くありしに……」わたしたちは自ら悔い改めをしても天に達すことは不可能であるから、キリストは高い聖い天から、わたしたちのために道となろうとして降り給うた。このところにこの弟の第一に得たのは憐憫である。実にわたしたちの神は憐みの神である。なるほど道理から言えば、この弟は悪いには相違ないが、実に気の毒だとわたしたちの状態を憐み給う神である(エレミヤ三一20)。ちょうど彼のヨセフの十人の兄弟が自分たちの罪を悟り、ヨセフが自分たちの言葉を解するのを知らないで、互いにそのことを語り合ったが、ヨセフは兄弟たちに以前の仕返しをせずにかえって彼らのために嘆いたと同じである。「走り行き」わたしたちの神は、小僧のように走り給う神である。わたしたちが悔い改めて神に帰ろうとする時には、わたしたちを抑えようとして走り給う。実際多くの場においてわたしたちの心中悔い改めが出来て、それがいまだに出ない内に、早やすでに心中に何とも言えない暖かさを感ずるのである。これは最上の愛である。
実にわたしたちの祈よりも、然り、わたしたちの祈りよりも天の父の接吻は、より早いのである。
〔21〕これは砕けた祈りである。
〔22〕「いとも美服(よききもの)を持ち来りて」このところで父は子に対してその罪をたださずに、まあよく帰って来たと言う有様で、わが子の祈りは聴く間がない。実に暖かな愛である。この美服とはイザヤ六十一章十節の救いの衣である。義の上衣。この衣はイエスキリスト御自身である。全世界に主イエスほど良い衣服は他にない。「その指にわをはめ」指輪は契約の表示であり、またその人をして栄えの位に登らしめる意味である。(創世紀四一42)すなわち、新約の永遠の契約の表示である。「くつをはかせよ」これは奴隷でない証拠である。昔ユダヤの国では、本妻の子を他の僕の子と区別するためにくつをはかせていた。わたしたちが神の子供とせられ、世継ぎとせられたことは、何と幸いなことではないか。
〔23、24〕「また肥えたる牛を引き来りて……」これはキリストの御肉であって、レビ記三章の酬恩祭のように神と民との宴会である。ああ、わたしたちが悔い改めて神に帰った時の神の喜びはいかばかりであったであろうか。神の悲しみは、その所有物が減少するが故でなくて、ただただ吾が子の死んだ故である。従って罪人が神に帰れば、「これ我子死て復た生き、失いてまた得たればなり」と言って、神の喜びは実に言葉に尽すことができないのである。神の喜びは失った人を得ることである。
〔25〕この兄は信者であっていまだ聖潔を受けない人、換言すれば、父と共に喜怒哀楽において一致しない者の型である。兄は弟のように放蕩ではなく、正直に父のもとに働いていたのである。表面より観察する時は非常に立派である。しかしながら、その心にある一物は時に臨み、機に触れて立ち上がりこのようなにがい水を出すのである。兄は畑にいて僕たちと共に終日すきを取り、一日の労働を終えて帰る時、たまたま妙なる音楽を耳にした。この時すでに兄の心に不快の念は起っていたのであろう。もしもこの時、彼の心が父の心に相和することができたならば、急いで我家に入って父と喜びを共にしたであろうが、自分と言う心は、とうてい父の心と相一致することは出来なかったのである。「僕の一人を呼び」かんしゃくにさわった人は、なかなか直接には言わないものであって第三者を求めるものである。彼が直接父に行かないで僕に行くとは、実に見苦しい態度である。特に信者間に争論がある時に、第三者を未信者に求めることがある。これは、慎まねばならない。「これ何事ぞや」と兄は言ったが、父の方には十分の理由があるのである。「つつがなく」とは、英語の「セーフ・アンド・サウンド」で、病気にもかかわらず無事健全で帰った。しかもその帰ったのは他人ならいざ知らず、あなたの弟ではないかと。
〔28、29〕「兄怒りて入らず」このところに至って彼はますます癪にさわった。すなわち「古き人」を出したのである。「その父出でて彼れに勧めしかば」父の方から譲って勧めると言う、実にもったいないことである。人間は遠く離れ、怒って入らないけれども父は近づいて下さる。このような時に怒るべきではないのに。しかし、また父に口答えして言う「我多年汝に仕えて―」、何という言葉であろうか。父は弟が帰ったために、弟の朋友を招いて楽しんだのでなく、父の友と楽しんだのである。そうであるのに、兄はこのように言ったところを見ても兄の考えの実に浅薄なことを知るのである。彼は、父が自分よりも弟を愛するのを見て、不平を禁ずることができなかったのである。
〔30〕「この汝が子帰れば」彼は自分の弟とは言わないで、このあなたの子と言う「小屋の中へでも入れて置けばよい」と言わんばかりである。このところで兄の心について学ぶことは、第一は父の心と一致しないこと。父は弟の旅立った後も彼のために心配したであろう。けれども兄は「彼はふとい奴」だと彼に対して同情を持たなかったのであろう。だから弟の帰った時にも冷淡であったのである。聖められない心は、このように父なる神と喜怒哀楽の情において一致することができず、従って亡び行く魂に対してその態度は冷淡である。第二は、魂に対する愛がない。かえって父の愛が現われた時に妬みを起した。これが不平となり進んでは怒りとなる。第三は、高慢である。弟をまるで踏みつけている。ちょうどパリサイ人のようである。第四は、けちである。すなわち、弟のために金を費やしたと言って怒った。
〔31〕「子よ、汝は常に我れと共にあり」「またわが所有は皆汝の所有なり」兄はこの父の言葉を聞いて心砕け、全く愛の人となったであろう。兄は弟のように身代の分割を要求しなかったが、彼の心中にもまたこのような願いのあったことは知られる。ああ、ついに人の心は神との共有財産を願わないのであろうか。わたしたちはこの「わが所有は汝の所有なり」と言う愛を悟りたいものである。そうであるなら、わたしたちの幸福はいかに大きいであろう。パウロは、万物はあなたがたのものであると言った。わたしたちはこれを信ずるなら、実際のどかな生涯に入ることを得るのである。またわたしたちはこの兄のようにならないで、父と同じ心となり(ヨハネの第一の手紙一3)、父と意気相投合する者となりたい。これは実に幸福なことである。それは何物もこの幸福を奪うことができないからである。
不義な家令の譬話(ルカ一六1~13)
このような出来事は、世の中によくあることである。
〔3〕「主人、我役目を奪いなば何を為さん。我鋤を執るには力なく」わたしたちの学ぶべき教訓は、家令の知恵である。すなわち、自分の能力を知ることである。わたしたちは時々自分の出来ないことを出来ると自負して、自分の能力を知らないことがあるが、これは愚かなことである。
〔8〕「しわざの巧みなることを以てこの不義なる番当を誉めたり」一方に失って、一方に得る知恵である。「不義の財を以て己が友を得よ」不義の財とはこの世の財という意味である。「乏からん時」死ぬ時である。これは、この世の財を他人に施して天国に行った時に、その人々の紹介によって、神より誉れを得ようという意味である。ならばこの世で畜えるのは、知恵のあることである。
〔10〕「小事に正しき者は、大事にも正しく……」神の前に知恵のあるのは、小さなことにも忠実であることである。自分の金を費やすには、一銭の金も注意して使する者であって、官庁の金、また伝道会社の金などを費やす時に惜し気なく使用するが如きは、大いなる誤りである。神は小さなことに忠実である人に、大きな事業をも託し給う。
〔11〕「不義の財(世の財の意)に忠しからずば、誰か真の財を預けんや」すなわち、神より預かっている財産を無益に使用しないで、これを善用するのは限りなき命を得る準備である(テサロニケ人への第一の手紙六17~19)。ただに金ばかりでなく、時間及び能力などにおいてもまた然りである。然り、わたしたちが自分のために生活し、神の所有物を盗んでいるならば、限りなき命を得ることはできない。
〔13〕「汝ら神と財に兼ね仕うること能わず」然り。わたしたちは何事も神のためになし、神にのみ仕えるべきである。月給のために身を売るような不道徳なことはあってはならない。
富める人とラザロの譬話(ルカ一六19~32)
これはわたしたちのよく知っているところである。けれども今特に主よりこのことについて教えられたい。このところは非常に厳かなところである。それで今日は、永遠ということについて学びたい。
〔19〕この富んだ人は、この世のことのみを思う人である。「紫の細きものとを着」紫は王の着るべきものであり、また王の前において着るべきものであった(エステル記八15)。故にこの富んだ人は非常に高貴の姿をなしていた者である。「日々おごり楽しめり」家と言い、また食物と言い、実にこの世の中の快楽のあらん限りをつくした人である。
〔20〕「いたく腫物を病みて富める人の門に置かる……」前の富んだ人に反して逆境のどん底に沈んだ人である。貧しい上に病を持ち、しかも自ら食べることができず、食物を得ようと望んで富んだ人の門に置かれていたのである。しかしながら、彼が果して食を得たか否やは判然としない。加えて、犬がやって来てでき物をなめたとは、ああ何たる悲惨であろうか。ラザロとは、原語で「神の助け」という意味であると言う。人の助けが消えてただただ神の御助けを得た人である。
〔22〕さて以上二人の有様はこのようであるが、ただ一つの真理は「死ぬる」ということである。富者も貧者も、共に死んだのである。「富める人も死んで葬られしが」富んだ人は葬られたが、しかしラザロには立派な葬式を営まれなかったのである。私は時々葬式(仏教等)を見て非常に悲しく感ずることは、送る人も、送られる人も、ともに望みなき墓に向って進みつつあることである。しかし、わたしたちの葬式はたとえ見苦しくとも、のどかにして喜びがある。「貧者死にたれば、天の使等によりて……」実に幸福である。「アブラハムのふところ」とは、神の民の行くところである。アブラハムは、神を信ずる者の代表者であって、「ふところ」とは、安んずところ、暖かなところを意味するのである。ラザロはこの世では実に汚れたところ、また憂い悲しみの中にあったけれども、死後には家に送り届けられたのである。
〔33、34〕「陰府にて苦しみを受け」陰府とは、人間の死んで行くところである。今このところでは、陰府と地獄については解釈を申し上げないが、とにかくこのところは人間の来世の有様を示したものである。「その目を挙げ、はるかにアブラハムとそのふところにいるラザロを見て」ああ昨日までは酒池肉林の悦楽にふけった彼は、今日は陰府の苦しみに座するに至った。彼が天で富めるラザロを見た時の心地、果してどのような感じであったろうか。「父アブラハムよ」彼はもはや神に祈ることができず、その助けを人に求めた。けれどもついに答えられることができなかった。地獄の苦しみも、またこのようである。「父アブラハム」と言うのを見れば、彼はユダヤ人であったろう。けれども肉体においてユダヤ人であっても、果してどんな勝ったところがあるであろうか。ただ神を信ずること、これが真のアブラハムの裔、ユダヤ人であり得るのである。「その指の先を水にひたし、我が舌を冷さしめ給え」昔は酒をもって自分の舌をひたしたが、今は水一滴さえも得ることができず苦しむのである。わたしたちは未来にこのような苦しみのあることを承認したい。そうすれば、なお一層の同情をもって罪人を救いに導くことが出来るであろう。わたしたちはまた、これによって人を憐れむことを知り、未来において憐れまれないことのないように、未来に備えをなすことが出来るだろう(ヤコブ二13)。ラザロを憐れまない富める人は、ついに地獄の刑罰を免れることは出来なかったではないか。彼の祈りはついに聞かれなかったが、その理由は二つある。第一は道理上聞かれなかったのである。彼は世にあった時、罪人の幸福を得た。けれどもラザロは神を信ずるが故の苦しみを受けたのである。それ故に今、彼は罪の報いを受け、これは神を信じない報いを得たのである(ルカ六7、8黙示録二二12)。このことはわたしたちが道理においてよく識っているが、さて実際において目の前の幸福を追求することは、未信者と言わず、信者の中にある。ならば、わたしたちは何事をなすにも永遠を土台としてその生涯を送りたいものである。ある人は、自分の家の玄関に永遠と記して来客に自省せしめた。多くの人々はこれによって覚醒したと言うことである。第二は、事実上聞かれなかったのである。すなわち両者の間に、大いなる淵があることである。わたしたちはこれを思って、この世ではどのように苦しみがあっても神を畏れて生涯を送りたい。またこれによって、カトリックのいわゆる煉獄説の間違いであることを知り得るであろう。しかし今は、地獄より天に至るべき道がある。これは他でもない、イエスキリストである。もしもイエスを信じないならば、未来においてわたしたちはわたしたちの親と言えども、天に携えて来ることは不可能である。
〔27、28〕これもまた聞かれない願いである。
〔29~31〕これらの言葉は、神が不信の人を救うことはできないことを示したものである。彼は思った。死より甦った人が説教したなら家族が悔い改めただろうと。けれども事実はこれの正反対である。たとえば、キリストは天より降って人間に語ったが、人間は信じなかった。また死より甦り、しかも大いなる奇跡をさえ為し給うたけれども信じなかったのである。モーセと予言者(旧約聖書)に聴かない者は、たとえどのような奇跡を見てもついに信じないのである。しかしながら神の御言葉を信ずる者には、全てのことを信ずることを得るのである。しかし奇跡中の奇跡は主の甦りである。この甦りを説く時に悪魔は極力これに反抗を試みるのである(使徒行伝二22)。
十人のらい病人癒される(ルカ一七11~19)
このガリラヤとサマリヤには、異邦人とユダヤ人とが雑居していた。昔ユダヤ人は異邦人と交際せず、また律法によってらい病人と別居させ、決して交際などはしなかったのである。であるかららい病人たちは一団となって特種部落をなす傾向があった。故にここに記されたように、かくも多くらい者が集まっていたのである。また十六節によると、この十人の内にも異邦人のあったことは明かである。これを見る時に、以前は交際しなかった者でも、一朝このような病に取りつかれた時は同病相憐むのたとえに漏れず集合するのである。ただに肉体の病ばかりでなく、不平家、悪口家というふうに、おのおの集合をなすに至るものである。神がらい者を隔離することを命じたのは、すなわち罪を持つ者が神との交わり及び人との一致を保持することの不可能なことを教え絵うたのである(レビ記一三45、46)。実際においてわたしたち信者は、罪を持つ時には神との交通は途絶し、兄弟姉妹との一致を失うに至るのである。
〔12、13〕「はるかに立ちて声をあげ……」かの十二年長血を患った女は、大胆にイエスのもとへと近づいたが、このらい病人は自ら汚れのあるのを感じて恐れをいだき、神の子であるイエスに接近することが出来ず、遠くより大声でイエスに叫んだだけである。彼らはよし他人から接近しようとしても、自ら逃げる態度を取らねばならないほどに、自らの汚れた状態を知っていた故に、「師よ、我を憐れみ給え」と叫んだのである。わたしたちはこの有様を自らのそれに当てはめて神の恩恵を味わいたい。わたしたちもまた罪のあった時には、イエスのもとに接近することは出来ず、兄弟姉妹とも離れていたものであるが、はるかにイエスの御名を呼んだ時にイエスはわたしたちを憐れみ、わたしたちを癒し給うたのである。ある人は心の中にこの叫びを持ちながら、口にも言い表わして「イエスよ」と叫ばない故に、心に平安を得ないのである。わたしたちは人々に対してキリストの救を握らせる時に、口に言い表わしてイエスに祈らしめることは大切である。全て主の名を呼ぶ者は救わるべし(ローマ人への手紙一一13)とは実に真理である。
〔14〕「イエスこれを見て……」この時イエスの御目はらい病人の上にとどまり、その御耳は彼の声に傾けられた。ああ、これは何たる幸福なことであろうか。かのエリコの途上において祭司及びレビ人の耳目は、強盗に会った人の上にとどめられなかった。けれども、イエスの慈眼は直ちにこのらい病人の上にとどめられたのである。また彼のバルテマイの叫んだ時にも、同じく主は立ち止まって癒し給うたのである。終りに「行きて己れを祭司に見せよ」と彼らに仰せ給うた。ユダヤ人はらい病にかかった時には、医師に鑑定を求めないで祭司に求める習慣であった。また治癒した時にも、まず祭司の鑑定を経てそのような後に普通人と交際することが出来たのである。それ故にイエスは彼らに祭司に見せよと仰せ給うたのである。「彼らは行く間に潔められたり」このところに彼らの祈りはすでに聞かれた。けれども見えるところによれば患部はいまだ癒らなかったにもかかわらず祭司のもとに行ったことを見ると、彼らはいかに主の御言葉を堅く信じていたかが知れる。私の想像によれば、彼らの心には必ずや信仰の戦いがあったことであろう。一方においては自己の現実のさまを見ていまだ癒らないと疑い、また一方においては主の御約束を信じてすでに癒されたと信じようと、たいへん悩んだことであろう。わたしたちもまた特別に病気の癒しに関しては、しかと主の御言葉を信じ、しかも見えるところによって歩まないで信仰によって歩む時に、ついに彼の願のように信仰の勝利を博することができるのである。パウロは、信仰の善戦を戦うべきことをテサロニケ人への第一の手紙六章十二節に勧めているが、ここで注意すべきは、この戦いは不信仰の戦い、すなわち信ずべきか信ぜざるべきかの戦いではなくて、断然信じて残りの疑いと戦うべきことである。
〔15~17〕「その一人己が癒されたるを見て……」わたしたちは病気が癒された時、果してどこへ行くであろうか。ある人は快楽を満たそうとして面白いところへと行く。ちょうど残りの九人がイエスに来ないで、他のところに行ったのと同じである。しかし彼らの一人は、イエスに感謝し、かつ神を崇めたがために、彼らの味わい得なかった、キリストの証明と、霊の救いとを得ただけでなく、更に幾倍の喜びに満たされたのである。「潔められし者は十人にあらずや……」イエスは十人が叫んだ時に、十人共に救いを与え給うた。実にイエスの愛は隅なくどのようなところにも届く。けれどもこの愛の反響のないのが、イエスの御嘆きとなるところである。わたしたちもしばしばこのようなことがある。神より恵みを受けながら感謝の念がなく、しかも肉体にところを取られることがある。キリストのこの御言は、ちょうどアダムが神から「汝らどこに居るや」と問われた如くである。九人の人は神によって癒されたが感謝さえもしなかった。これは実に人間の浅ましい状態である。
〔18〕「この異邦人の外に神に栄えを帰せんとて帰りたる者あらざるか」恵みを受けて感謝しないのは、獣にも劣ることである。またわたしたちが恵みを受けるのは、神の栄えを現わすためであるから(エペソ人への手紙二7)特に神に感謝し、神の栄えをほめなければならない。
〔19〕「汝の信仰汝を救えり」これは、神に栄えを帰するものの主より受ける証である。今この人は単に肉体の救いを得たばかりではなく、更に霊の救いも得たのである。けれども他の人は、自ら信仰に立っていると言うだけであって、その心に確信がないから心に不安があるのみで、また喜びもないのである。
神の国に関する説教(ルカ一七20~37)
ユダヤ人は、イエスがもしもメシヤであるならば神の国は直ちに実現して、ユダヤの国はローマの支配を脱し、ついにはユダヤ国は世界の最強国となるであろうと考えていたのである。ただに彼らのみならず、弟子たちもまたそう思っていた。だからイエスが甦った時に「主よ、汝今国をイスラエルに返さんとするか」(使徒行伝一6)などと質問を発したのである。しかしながらイエスは、彼らの誤解を解くべく努め給うた。すなわち神の国とは、イエスを主として受け入れた者の心に存在するものである。換言すれば、イエスに救われた者の心の中に建設せられるべきものであると。
〔22〕「人の子の一日」とは、患難の時代を指すのではなくて、救いの日を指したものである。このような言葉を弟子に仰せ給うたのは、彼らの中の自らを欺いている者を警戒しようとしておっしゃり、かつ今信じなければ患難の時に至って悔いても及ばないことを戒め給うたのである。
〔24〕これは患難の時を指したものである。その時には今日のように聖霊の働き給う時代ではなくて、かえって惑わす霊の働く日である。故にイエスは「行くなかれ、従うなかれ」と仰せ給うた。「いなづまの天のかなたより閃き……」とは明かにして、何人にも見え、また知ることができるという意味である。
〔25〕「されど人の子、必ずまず多くの苦しみ……」多くの人はメシヤは稜威輝く御方であるとのみ思うが、実はそうではない。かえって人に捨てられ給う御方である。
〔27〕「人々食い飲み、とつぎ、娶りなど為したりしが」このところで注意すべきは、この時人々は格別な大罪を造ったのではないが、彼らは俗化という悪魔のわなにかかり、肉体のことに身心を委ねたが故に、神は彼らを滅ぼし給うたのである。
〔31〕「その日には人、家の上に在らばその器具家にあるとも……」わたしたち信者の心と手より、肉に属するものをことごとく離すのでなければ、神の国に入ることは不可能である。かのロトの妻は信者であったが、ソドムにある肉に属するものに心残りして後を顧みたために、塩の柱となったのである(創世記一九17、26)。わたしたちはこのようなものから全く離れて、命を得ねばならない(コリント人への第一の手紙一六22、マタイによる福音書六24、ヨハネの第一の手紙二15)
〔33〕肉体の命を失う者は限りなき命を得、これを惜しむ者は限りなき命を得ることはできない。
〔34、35〕「うすひき居らむに……」ユダヤ人は、朝に至ってその日のためにうすをひいてパンを作ったものである。それ故に、これは朝の出来事である。「その夜二人同床に在らむに……」これは夜の出来事である。これを見る時に、地球の全面にある潔き信者は、一時にキリストの御もとに集められることが知られる。
ただひたすら祈ったやもめの譬話(ルカ一八1~8)
〔1〕「人の恒に祈祷して気を落すまじきために……」イエスのわたしたちに対する一つの願いは、わたしたちが常に祈祷して気落ちしないことである。わたしたちはかの偶像信者が神社仏閣にちょっと参拝して気を済ませるように、ちょっと祈祷して気を済ませているから祈祷の深みに入らない。そしてその祈りはわたしたちに何らの利益をも与えず、かえって悪魔に敗れることがあるから、わたしたちは常に祈らねばならない。(ルカ二一36、ローマ人への手紙一二12)。「祈祷を恒にし」とは、祈りの恒忍という意味である。(コロサイ人への手紙四2、テサロニケ人への第一の手紙五18)主は、このように重ね重ね不断に祈れ、常に祈れ、祈祷してうむなかれとわたしたちに警戒し給うた。わたしたちがある一つの問題のために幾度も祈り、また長年の間祈ると言うことは非常に困難なことであるけれども、わたしたちはこのキリストの譬話によって励まされ、そしてその祈りが答えられるまで祈りたいと思う。主はこのところで神を敬わない薄情な裁判官と恵みに富める父なる神とを相対照して、神は必ずわたしたちの祈りに答え給うと言うことを示したのである。
〔3〕やもめとは寄る辺ない、しかも他人より虐げられる女である。彼女の最も悲しいことは、その夫を失ったことである。故に彼女は虐げられることから救い出されようとして裁判官にうるさいほど哀願したのである。裁判官もついに彼女の願いに攻められ、自ら煩わされないためにこのやもめを救ったのである。なおこのところで対照すべき一つのことは、やもめと選ばれた者とである。このところの譬話を、言葉を換えていうならば、薄情な裁判官でさえも縁もゆかりもない、むしろ自分の嫌いなやもめの願いを聴いたではないか。まして恵みに満ち給う神は、しかも御自身の選んだ民、御自身の目の玉のように愛し給う選民(申命記七2)が、夜昼祈るその祈りを聴き給わないで捨て置くべきはずはない、必ず聴き給うと言う意味である。人間があることを祈っても神の方では幾年間も御答えなさらないことがある。これは愛によって答え給わないのである。このような時に人間は忍耐して、しかも長く待ちこがれるように感ずるけれども、神の方でもまたかえって答えようとしてい給うのであるが、さらば何故速かに応じ給わぬかといえば、実はわたしたちに益を得させようとして待ってい給うのである。ヤコブ書五章四節を見れば、神は決して信仰の祈りに答えないことはない御方なのである。
〔8〕「神は速に彼らを救わん……」これは神は時来らば、速かに教会を救い給うことである。されば、わたしたちはこの神の恵みを知って祈り続けたく思う。「信を世に見むや」祈り続けることが段々衰えれば信仰もまた衰え、祈り続けることがついに絶えれば信仰もまた絶えるに至る。キリストの来り給う時、多くの人は祈りを中止し、信仰の戦いにも段を倦む故に、イエスはこの状態を示してわたしたちに警戒し給うたのである。そしてこのようなことはこれを他面より見てキリストの嘆き給うところである。かつて私は私の母の救いのために切に神に祈り求めた経験を持っているが、母がその時敵の手(仏教徒)の中に捕われていた。しかし私は神より必ず救い給うと言うことを教えられ、忍んでその救いの日を待っていたのであるが、その期間があまりに長かったためにしばしば信仰を試みられたこともあったが、祈り続けるうちに母が救われるに至ったのである。わたしたちが一事を神に求めて祈りの途切れたときに答えて頂くときは、実に面目次第もないことであるが、祈りつつある間において答えられるときには非常に喜ばしいものである。次にこのやもめは教会の型である。教会の夫なるキリストは敵のために無惨の最後を遂げ給うたので、悪魔は極力教会を攻撃する。それ故にわたしたちは千八百年の間わたしたちを救い給おうとして、祈って来たが、いまだ救いはこない。ああついに主は救い給わないであろうか、否々、時来らば、然り時来らば必ず救い給うのである。さればわたしたちは、主が「我速かに来らむ」と仰せ給うたこの御言葉を信じ、祈って待つべきである(へブル人への手紙一〇37)。主の来ることの遅いのは決して緩慢なためではなくて、一人の滅びることをも好み給わないで多くの人々の悔い改めに至ることを忍んで待ち給うが故である(ペテロの第一の手紙三8~10)。キリストの御昇天あそばされてよりここに千八百年を経過したが、神の側より御覧になれば、まだ一日半ばかりより忍び給うていないのである。さればわたしたちは信じて祈り通すべきである。イザヤ書六十二章一、六、七節に記されているように、エホバの備忘として神に叫び、神をしてその御手を休めさせないようにすべきである。エホバに記念し給わむことを求むる者とは、エホバの備忘者と言う意味である。
パリサイ人と税吏の譬話(ルカ一八9~14)
この譬話の目的とするところは、自らを正しとする人を教えることにある。このパリサイ人の眼中には、強制取り立て、不義、姦淫する人々が映っているのを見るであろう。特に自分の近くにいる取税人と自分とを対照したのが見える。これは古き人の姿であって、自分が罪人であることを承認することの出来ない者である。次に学ぶべきことは、自らを義とする人は決して神に出会ったことのない人である。彼らは祈りに聖前に出るが、神にお会いする為ではなくて、ただただ義理一遍で気休めの為に、また自分の義しさを神の聖前に持ち出して自らを高くしようとしてである。だから彼らは、聖き神と自分とを比べないで、かえって他人と自分とを比べるのである。次にわたしたちは決して外面の儀式だけでは神に受け入れられるものではない。自分を義しいと思って心に他人を軽んじるのは、神に対して恐るべき重罪である。
わたしたちは果してこのように恐ろしい罪に落ち入らないであろうか。他人の罪は眼につかないであろうか、どうか。わたしたちの中に冷たい批評の声が、しかも高く耳に入って来るのはどうしてであろうか。もしもそれが真に謙遜な人であるとしたならば、人の罪を見てそれが為になげくべきはずであり、神に対して祈るべきはずである。
〔11〕立って祈るのは、ユダヤ人の習慣であった(マルコ一一25)。またまれにひざまづいて祈ることもあった。
〔12〕この人はパリサイ人の中でも熱心な人であったことがわかる。ユダヤの律法では一年に一度、贖いの日には断食する例であったのに、しかも七日に二度も断食するのを見てもどれほど熱心であったがわかる。キリストは学者とパリサイ人の義よりも信者の義が勝っていなければならないことを仰せられたが、信者の中には十分の一献金もしない者がある。
〔13〕取税人は遠く離れて立ちながら、神に近づくことを恐れおののく感じで、天を仰ぎ見なかった。真に自分の罪を悟った者はこうでなければならない。エズラ九6、ダニエル九3~8、エレミヤ三一19等を見ると、真実の悔いは先ず光りが臨み、その後に起るものであることが知られる。神を知らない者は決して自分の姿を知ることが出来ない。「神よ罪人なる我を憐み給え」罪人とは原語すなわちギリシャ語でこの罪人と言う意味があると言う。この取税人はもはや全世界の中には自分ほど罪深い者はないと感じ、他人は少しも自分の目に止まらず、ただただ神と自己の姿を見て憐み給えと叫んだのである。憐み給えとは原語で挽回の祭物をもって怒を止め給えとの意であって、へブル二17に用いられたあわれみと言う文字と同一で、これは新約聖書中において二回録されている。彼は罪人と神との隔たりの大きいことを感じたので、他人と自分を比較して見る必要はなく、ただただ神に向ってその憐みを求めたのである。神はかかる人にご自身を顕示し給うのである。
〔14〕「自己を卑る者は高めらるべし」(詩三四18、イザヤ五七15を見よ)。遜ることはあわれみを受ける条件である。そして遜る秘密は神を見ることである。どれほど自分の力で頭を下げようとしても出来ないが、ただただ神の大能のみがよくわたしたちをして遜らせるのである。(ペテロ前五5、6)。高ぶる人は神を知らない人である。
イエス幼児を祝される(マタイ一九13~15)
キリストが一度伝道を始められると、多くの人々が彼の許に来て、霊魂の救い、また病の癒しを願ったのである。ところが弟子たちはたびたびあわれみを求める者を阻んだ。これによって見ても弟子たちの心がいかに冷酷であったかが知られる。あのスロ・フェニキヤの女がイエスに叫んだ時にも、弟子たちは彼女を追い払って下さいと願っている。弟子たちは人々が信仰に関しての問答ならば喜んでしたであろうが、手をおいて祈ることなどを乞われるのは、実にウルサイことであると思っていたのかもしれない。けれどもキリストは決して人々の願いを退けずに、これに接手してお祈りをなさったのである。(マルコ一○14、の「怒りを含みて」とはかんしゃくを起されたと言う意味ではなく、不本意な気持が顔にあらわれたのである)。
〔14〕「天国に居る者は、かくの如き者なり」弟子たちの目には何ら価値のないものと思われたであろうが、しかし神の恵みを受くべき者は、このような者である。前にキリストは改まって幼児のようにならなければと仰せられたが、神の国にいる者(続いている者)もまた入る者も幼児のように遜る者でなければならないことを教えられた。
ある教会では幼児に洗礼を施こすけれども、洗礼は良心的決断をもって神に一切を帰する表明であるから、イエスがここで幼児を祝福したからと言って洗礼を施こすことは誤っている。ある教会では献児式を行うが、それが単に一通りの儀式として行われるのでないならば、実によいことであると思う。わたしたちはこうしたことについていたずらに人間の考えをもってかれこれ言う時には、しばしば誤りに堕ちる恐れがあるので、絶対に聖書の解釈に従うべきである。
若き青年の話(マタイ一九16~26、マルコ一〇17~31、ルカ一八18~30)
今日は「マルコ一○17~31」を主題として、他の福音書に記された箇所を参考にしながら学ぶことにする。
〔17〕ルカ一八18を見ると、この青年はつかさである。またマタイ一九20には若者とある。彼は地位と財産とを持った青年であった。しかも彼は地位、財産がたのむに足りないことを知り、限りなき生命の問題について、心をくだいていた。この点からみれば、彼は実に殊勝な青年であったことがわかる。「ひとり走りきたりて、ひざまずき」、地位があり財産のあるこの青年が、しかも群衆の見ている前でイエスの許にひざまずいたことを考えてみても、彼がどんなに熱心に永遠の生命を求めていたかがわかる。「よき師よ」、この言葉は勿論、イエスを尊敬しての言葉であるが、イエスは彼の言葉の中に、人間が栄誉を求める分子があるのを見ぬいて、「ひとりの他によき者はなし」といって、神を讃めるべきことを教えになった。わたしたちの中にも人間をほめることがあるのは、慎しむべきことである。わたしたちの中にあらわれた神を讃めたたえることは、どれほどそうしても差しつかえはない。しかし人間同士の讃美を求め、人をその人以上にほめるようなことはしてはならないことである。この青年はその境遇から考えてみれば、何の不自由もない立場にある。また自分の欠乏を感ずるようなこともなかっただろう。大抵の人だと最も得意の時代で、永遠の生命などということについては少しも頓着しない時であろう。しかもこの青年はイエスのところにきて、ひざまずき、永遠の生命についてたずねようとしたのである。実に殊勝というべきである。ところが、イエスは彼に対して、真向からその誤りをただされた。その時の彼の心は、果してどうだったであろうか。
〔19〕福音書に記された時代は、ちょうど新約と旧約との中間である。イエスが彼に向かってその問を発したのは、一面には彼に自分が罪人であることをさとらせるためであった。二十節を見ると、彼は非常にまじめであったことがわかる。キリストが彼に十戒の一つである人間についてのことを要求されたとき、彼は二十節のように答えたのであった。そこでイエスは更に、次節のように神に対する責任を全うしたかどうかと迫り、彼の罪を指摘されたのである。
〔21〕「イエス彼を見ていつくしみ」、それは今日まで神のいましめに従ってきたことを見て、その行いをいつくしんで下さったのである。けれどもそれによって永遠の生命を与えることはできないのである。人間はどんなに自分でよいと考えても、神からの試験に落第するのである。イエスは彼を神の国に入らせようとお思いになったが、彼はなお一つを欠いていたためにできなかったのである。
「汝なお一つを欠く」、まことに神と富とに仕えることはできないのである。この青年は天国にも行きたいし、この世にも住みたいと願ったため、とうとう天国に行くことができなかった。多くの人は自分を義しいとするが、神に対する愛のはかりにかけられるときには、きっと自分の愛の不足を知らされるであろう。
〔22〕「哀しみ憂いて去りぬ」、実に彼の心中は思いやられるではないか。彼は自分の財産はたのめないことをさとりながらも、なおキリストによってその財産を捨てるよう命ぜられた時に、見事に落第した。心中に光明のない人ならば、そうしたことは何とも思わないであろうが、心に光明をえて財産がたのむに足りないことを知りながら、しかもこれを捨てることのできないことは、実に気の毒である。この問題に対する決断は、決して理屈や言葉などではできるものではない。わたしたちはこれによって、財産の力がどんなに大きいものかをよく知りたいものだ。
伝説によれば、この青年はバルナバであったという。そして彼は後に悔い改めて、キリストを信ずるようになったと(使徒四36)。勿論、何ら確証があるわけではないから、事実は誰であったか知るよしがない。
〔23〕キリストはここで、実例を示して、それによって弟子たちに、財産をたのむ者が神の国にはいるのは、どんなに困難であるかを教えられた。
〔24~25〕富める者は神の国にはいるのが不可能だというのではなく、ひたすら財産をたのむ者には不可能であるということである。「おさな子よ」、何と懇切なお言葉であろうか。「らくだの針の穴を通る」、通例、困難なことの表現という。しかしある人はエルサレムの門に「針の穴」と呼ばれる一つの門があって、そこをらくだに通させる時は大さわぎをした。そこで主はここにそれを譬として言われたという。ヨブ三一24、25、詩六二10、11、テモテ前六17を見よ。神の国にはいる者のなすべきことが記されている。
今日、多くの人々は、金をたのみ、子供をたのみ、あるいは自分の力量をたのみ、その他いろいろなものにたのんでいる。
〔26〕二五節の主のお言葉をきいた弟子たちは、思いがけない意外なお言葉に対して驚き、「さらば誰か救いを受くべきか」と反問したのである。
〔27〕これは実にありがたいお言葉である。人間は財産をすてて神に仕えるということは困難だが、神の力を受けるときには容易にできるのである。わたしに一人の親友があった。彼は実に財を尊ぶことに熱心であったが、それに反して書生かたぎであったわたしたちは、金銭をあまり尊ばなかった。これを知った彼はあるとき、わたしたちに対して、君たちのように金銭を尊ばないことは非常によくない。僕の顔に君らの五銭銀貨を投げつけよ、そしてそれを僕にくれ、といったことがある。そういうふうであったから、彼はついに沢山の金を貯金した。ところがその彼がいったん救われるや、アメリカにある日本人教会のために献金するようになり、その教会では他の人の献金が集まらなくても、この人によって教会の経済を支えることができたのである。神はどんな欲張りをも、そのように神に仕える者になされる。
〔28〕「われら一切を捨てて汝に従えり」、ペテロの告白が何と立派であったかを見よ。けれども彼はまだ自分をすてていなかったので、キリストが死なれるとすぐに、「われらすなどりに行かん」と言って、一度全く捨てたはずの舟と網とをまた取り返したのである。
〔29〕イエスはペテロの告白が完全なものでないことを知っておられるから、これを土台に、すぐ弟子たちを教えられたのである。「われと福音のため」、すなわち、キリストの聖名のために一切を捨てることと魂の救われるためにはどんなことをもあえていとわないというそのことである。
〔30〕「この世にて百倍を受け」、わたしたちはこの世で自分の家庭(ホーム)を捨てても、世界にはわたしたちを迎えてくれる主にあるホームが幾百となくある。肉体の兄弟を捨てても、なお主にある兄弟姉妹たちがわたしを迎えてくれるのである。「迫害と共に受け」、わたしたちがこの世で肉体に属するものを受ける時は、いつでも主のために失う目的で受けるのである。病いがいやされるのもみな、主のために命を捨てるためである。これこそ永遠の生命を受ける道である。
〔31〕多くの古い信者は、この世の財産に仕えるために、後になって遂に地獄にまでもおちるようになるのである。これはキリストが痛く嘆かれるところである。だからわたしたちは後者にならないように警戒し、自分を捨てて十字架を負って進まなければならない。またわたしたちはペテロのように、自分をたのんで出しゃばるようなことをしてはならない。ペテロはこのために常に失敗して、後者になったのである。
ブドウ園に雇われた人のたとえ(マタイ二〇1~16)
このたとえは報いに関して人の考えと神の考えとの相違していることを示し、もう一つは後の者が先になると言う真理を示し給うたものである。
〔1〕「ブドウ園」働く場所を指したものであって、未信者に道を伝え、また信者を導いて主の御前に立たせるようにする所である。
〔2〕「銀一枚」日本の金高に換算して約四千円に相当する。これは当時労働者に対する一日の賃金であったと言う。わたしたち信者は救われたと言う一事に対してでも、ブドウ園で無賃労働をして別に報いなどは望むべき資格の無いものであるのに、しかも神はわたしたちに賃金(働きの実)をお与え下さると言うことは非常な恵みである(イザヤ四○10参照)。
〔3〕「九時頃出でて……」主人が出て見ると言うことは真理である。主は誰がどんなふうにしているかをご覧になられるのである。「むなしく立てる者を見て」むなしく立っているのは無職の者たちばかりではない。すべて主の御用に当っていない者はそれである。わたしたちもかってはむなしく立っていた者であったけれども、主はわたしたちに相当の価いを与えるからと言って、ブドウ園につかわされた。
主は九時、十二時、三時、五時と四度も出て見られたが、その都度むなしく立っている者があった。
〔6〕「五時ごろ」とは夕方であって、この時に立っていた者は、ほとんど終日むなしく立ち通した人である。わたしたちは雇ってくれる主人もなく、むなしく立っていた者であった。もしもイエスがわたしたちを雇ってくれなかったなら全く無用の長物であったのである。またこの世の人の目から見ても矢張り無用の者たちであったのである。それなのに主は、このような者にまで親切に「汝らもブドウ園に行け、相当の価を得べし」と仰せ下さったのである。わたしたちは「汝らも相当の価を得べし」との御声を聞きたい。主がここで五時頃雇い入れた者に、最先に賃金を払われたのは、決して順序の違ったことをしたのではなく、彼らの精神を見て御自身の自由の権限をもってこのようになされたのである。朝から働いた者には傲慢の心があり、彼らの心には自分の働きが見えており、自分の働きを誇り、自分の働きの分量と他人の働きの分量とを比較していた。すなわち彼らは精神に心を留めず、分量だけを見ていた。これは彼らが後にまわされた理由である。とすればわたしたちも恵みに感じ、主の御用の一端を勤めさせてもらうことを有難い特権と感謝して、一心不乱にその御用に当るべきである。五時頃雇われた人は自分よりも早くから働いていた人に較べて、自分の働いた時間が余りに短かかったとなげき、言うことの出来ない謙遜をもって、しかも熱心に主に仕えたから、一番先きに報いを得たのである。ペテロもその手紙において、過去にいたずらに罪と我が儘の為に時間を空費したので、今から後は神の旨に従って余生を熱心に送るように勧めている(ペテロ前四2、3)。
先に雇われた者は、多くの報酬を得るだろうと信じていた。しかも彼らは約束以上の不正当な利を得ようと、自分の働きに対して値段をつけていたのである。わたしたちもまたしばしばこうしたことを心の中に見るのである。彼らはこうした心があったから、それがついにツブヤキとなって出たのである。彼らは自分たちが働かせて貰ったことに対して感謝すべきであったのに、かえって雇い主を非難したのである。わたしたちの心に果してこのような思いはないであろうか。
〔13〕「友よ、我なんじに不義をせず」それなのに神はなおこのように親切に仰せられる。
〔14〕「汝のものを取て往け」人の世話をやく必要は何もないと言うことである。
〔15〕「汝の目あしきか」神の約束通り履行なし給うたままであって何ら不義をしたのではない。
エルサレムへの主の最後の旅行(マタイ二〇17~19)
一節から一六節までは、神から報いを受けることを録したが、これは一七節から一九節までの十字架を除外してはその報いを受けることは不可能である。
さてこの旅行は、イエスがエルサレムへ向われた第三の旅行である。イエスがこのことを人を離れて弟子たちにお語りになられたのは、そこに深い聖心があったのである。主は何とかしてこのことを弟子たちに悟らせようとなさったが、弟子たちはこれを信じることも出来ずまた悟ることも出来なかったのである(ルカ一八34)。十字架の真理については主御自身から直接教えられなければ、決してわからないことである。皆さんの経験は果していかがであろうか。この十字架、すなわちキリストの受けられたそれは、当時異邦人に加えられた最も残酷であり、そして最も恥かしい刑罰であったのである。
マルコによる福音書一○章三二節には、イエスは弟子たちに先立って往ったことを録しているが、このことは常日頃はなかったことである。イザ十字架と言う場合になると、何時でもキリストは真先に進まれるのである。これは実にわたしたちにとって幸福なことではないか。わたしたちに迫害また反対などの来るのは、常にキリストを通じて来るのである。弟子たちはこの時キリストの大胆なのに非常に驚き、その上彼らに臨もうとしている死を恐れたのである。
弟子たちが十字架を理解することが出来なかったのは、彼らの思いが肉に属し、また地上の物に眼がついていたからである。彼らはメシヤと言えばユダヤを支配しまた全世界の王となる者だとばかり思っていた。このような考えを持っている間は、決してキリストの十字架の意義を知ることが出来ない。今日伝道に従事する人で、十字架の意義を理解していない人がある。皆さんは果して、この義を理解しているであろうか。自ら反省すべきである。
キリストが三日目に甦えられたのは、旧約の模型的予言に適応したものであって、過ぎ越しの羊は金曜日にほふられ、土曜日に安息したように、キリストも金曜日の夕方に葬られて土曜日は安息し、日曜日に甦えられた。この日曜日とは新しい週間に属するものであって新しい時代、すなわち新約を指すものである。
ヤコブとヨハネの母の願い(マルコ一〇35~45)
ここでは、ヤコブ、ヨハネの二人が各々左右に座することをイエスに求めたと録しているが、マタイによる福音書二〇章二○節を見ると、母親と一緒に来たとある。この母とは後にキリストが甦えられた時に、墓に行ったマリヤであったのである。この三人は共に非常に熱心な人々であったが、しかしその熱心は肉に属するところがあったのである。彼女の家族の中から二人もその子供が献身して、しかも十二弟子の中に加わっていたのであるから、この家は実に幸福であった。それなのにここでこうした願いを申し出たと言うことは残念なことである。キリストはこれより以前彼らに対して、一切を捨ててキリストに従うもののやがて受くべき特権について語り給うたのであるが、ヤコブとヨハネがこれを聴いて、間もなくこのことが実現するものと思っていたのであった。キリストが自ら栄光の位に座する前に十字架に釘づけられることを、何度も聞かせられていたにもかかわらず、悟ることが出来ずにいたのである。
〔38〕「汝らは求むる所を知らず」イエスに最も近く居ようとする者は、まさに十字架をとらねばならない。わたしたちが祈る時は立派に祈ることが出来るであろうが、わたしたちの心は果してどうであろうか。主イエスはわたしたちの心中を知りつくしておられるのである。「杯」とは直接的にはゲッセマネの苦しみを指しているものである。これはイエスの為に供えられた苦い杯であった。主は罪人の為に悲しみ、憂いに満たされて、あたかもゲッセマネで祈られた夜の暗かったように、彼の心は暗さにみたされたのである。しかしわたしたちの杯は主のそれに較べては、ただその香をかぐくらいのところであって、何の苦も無いことである。それでもわたしたちは、ややもすると、その軽い苦しみからさえ逃がれようとすることがあるのである。「バプテスマ」これは実に水のバプスマではなく、また鳩のように降る霊でもなく、罪人の為に代わって血を流すところのバプテスマである。
〔39〕「よくすべし」ここで二人は決して虚偽の返答をしたのではない。神の聖旨ならば服従いたしましょうと言ったのである。しかし彼らは、まだその杯の苦さとバプテスマのどんなに苦しいものであるかと言うことについては、知らずにこのように答えたのである。そこでイエスは、実にわたしの受くべきバプテスマを受けねばならないと仰せられた。このようにしてついに話し合いは決定したのである。そこで後に至ってヤコブは最先にヘロデ王の為に殺され(使徒一二1)、またヨハネはその後七十年の間、キリストの為にあらゆる苦しみをなめたのである。彼がなお生きている間にすでに教会の中に、キリストの受肉、降臨に対して異端の声があがり、また栄光の主が具体的に再臨することに対しても邪説の叫びが起り、彼自身は最後にパトモス島に流されるに至った。主の杯と異なっていたとは言えども、その苦しみにおいてはやはり同じバプテスマの杯であった。
〔40〕「左右に坐することは我与うべきに非ず」キリストは、報いのことは父なる神のなし給うところであることを教えて、彼らの注文する精神を打ち砕かれた。ある人はこれを評して、もしヤコブとヨハネの願いが聴かれたとしたならば、彼ら二人は十字架の左右に座して、あの盗人と同様の最後をとげるようになり、失望したに相違ない、と言った。
〔41〕「十人の弟子憤れり」十人の者は表面上は左右に座することを願い出なかったが、しかし彼らの心中にも、その願いがあったことがわかる。
〔43〕「汝らの中にてはしかすべからず……」神を知らない者の中では大いなる者が人を使役するが、神を知っている者の中では、人に使役せられること、これが大いなる者なのである。
〔44〕「すべての人の僕とならん」ただ自分の愛する者の僕になるばかりでなく、すべての人の僕となるのである。自分の愛する者に使われるのはそれほど苦痛ではない。母親がどんな苦痛もその子供の為にはあえて厭わないのである。
〔45〕「人の子……は人に使われ……贖いとならん」イエスは、ただ言葉をもって教えられただけでなく、また体をもって実例を示されたのである。これは他の宗教と異なる点である。キリストは天にあって万物の王であるべき尊く聖い身でありながら、天の位を捨てて地上に降り僕のかたちを取り給うたのである(ピリピ二5~8)。このピリピ書の「汝らキリスト・イエスのこころをもってこころとすべし」とある意(マインド)は心ではなく思いである。すなわちキリストのような「思い」を持っていることである。
ピリピ二5~8の中にはキリストの七つの謙遜が顕われている。(一)神のかたちを捨て、(二)己れを虚しくし、(三)僕のかたちをとり、(四)人のようになった、(五)己れを卑しくし、(六)死に至るまで従い、(七)十字架の死をさえ受けた。このようにキリストは自分の神であることを忘れて人間の肉体と魂との為に人に使われ、人の要求に応じ給うたのである。わたしたちがキリストのようになろうとするには、このキリストの謙遜を聖霊によって教えられ、信仰によってこれを自分のものとするのでなければ、キリストのこころを持つことは出来ない。換言すれば、この謙遜のありさまを聖霊によって、心の目はハッキリと映して頂き、自分のものとすることである。パウロは実にこのこころを持っていた人であった(コリント後四5、一二15)。実に謙遜は、わたしたちにおける祈りの大問題でなければならない。
二人のめしいの癒し(マタイ二〇29~34、マルコ一〇46~52、ルカ一八35~42)
場所 エリコの近所。
マルコによる福音書に基づいてこの出来事を学ぶことにする。
〔46〕マルコによる福音書に録された記事とルカによる福音書のそれとを対観すると、一つの相違点を発見するのである。すなわちルカによる福音書の方には「エリコに近よれる時」とあるが、マタイによる福音書及びマルコによる福音書の方には「エリコを出る時」とある。そうするとこの出来事は各々別々かと言えば、決してそうではないのである。思うに何事か入り込んだ事情があることだろうと思う。
ここに一つの感謝すべきことは、イエスが詛われたエリコにまで来たり給うたことである。神は特別にエリコを詛い給うたが(ヨシュア六26)イエスがこの地まで来たり給い、しかも恩恵を携えて臨み給うたと言うことは、非常に感謝すべきことである。先に詛われたわたしたち異邦人にもまた、神は恵みを下されたのである。
〔47〕「ナザレのイエスなりと聞きて……」ここにめしいの信仰を見ることが出来る。多くの目開きは、肉眼をもってイエスを観察し色々と批評して罪を造るが、このめしいは単純に他人の言った言葉を信じて「ダビデのすえイエスよ」と叫んだのである「ダビデのすえ」とは救い主と言う意味であって、神はダビデの子孫より救い主の出ることを約束されたのである(マタイ二二42)。
〔48〕わたしたちが熱心に救いを求める時に、悪魔は必ず非常な勢力をもって妨害する。あるいは人をもって、あるいは事情をもってする。このめしいは人々から、「だまれ」と止められたけれども、止めることはしないで、いよいよ主に求められたのである。これが恵みを獲得する道である。
〔49〕「イエス立止りて彼を呼べと命じければ」ああ、これは何と言う幸福であろうか。彼の叫びは聴かれ、彼の願望は今やまさに成就されようとしている。彼の喜びはどんなであったであろうか。
〔50〕「めしいその上着を棄て」ユダヤ人の外衣は、非常に重いもので、夜になると夜具に用いるのである。そこでこの外衣は特にこの乞食でめしいであった者にとっても非常に大切なものであったのである。けれども彼は、イエスに近づくに当ってこれが邪魔になったから棄て去ったのである。わたしたちもまたイエスの許に近ずくに当って、邪魔になるものは、それがたとえいかなるものであっても棄てるべきである。もしも棄てるべきものを棄てないならば決して恵みを受けることは出来ないのである。
〔51〕「汝われに何をなされんと願うや」めしいが目の開かれるように願うのは、敢えて問うまでもなく明瞭なことであるが、イエスは、彼があわれみ給えと叫んだその漠然たる願望を、明白な願いごとに変えさせようとしてこのように質問なさったのである。このことは信仰に大切なことである。多くの人々は確実にその願いを言い表わさない為に、神からの応答を頂けないのである。
〔52〕ルカ一八42には「見ることを受けよ」とある。イエスは今もなお、信じる者に対して「見ることを受けよ」と仰せられるのである。
パウロはわたしたちの心眼の開かれるように祈った(エペソ一18、19)心眼が開ければわたしたちは未来に受ける栄えと神の力とを知るようになるのである。
「彼見ゆる事を得、イエスに従いて途を行けり」わたしたちの心の眼が開かれて、ここに始めてイエスの歩まれた潔い道を歩くことが出来るのである。
<追記>
この二人の中の主動者はバルテマイであったろう。「ダビデのすえ」と言うことについては、イザヤ一一1を参照すべし。これはキリストに関する予言である。またソロモンはキリストの型である。「エッサイの根」とはキリストご自身のことを指したものである。
次にめしいはただ一つの財産である外衣を捨ててイエスの許に来た。パウロがキリストを知ったことをもって最も優れたこととして、その他の物を糞土のように思ったのである。
バルテマイは「主よ見えなん事を願う」と明確な願いを出した。多くの人々は神と人との前に願望を言い表わさないので勝利を得ないのである。
黙示録三17、18を見ると、ラオデキヤ教会の信者たちは、自分がめしいであることを覚らなかったのである。ペテロが愛のない者はめしいであると言ったが実に信仰と愛のないのはめしいである。従って彼らは神を見ることが出来ないのである。神はご自身を愛する者に顕現されるのである。
パウロは目にうろこのようなものがあって盲目状態にあったが、しかし聖霊を受けた時に、うろこが目から落ちてハッキリと見ることが出来た。わたしたちもまた信仰によって聖霊を受ける時に、目が明らかになるのである。主の弟子たちがしばしば争ったが、そのことが盲目であった証拠である。
マタイ二〇34「イエスあわれみて手をつけ」とある。ルカ一八35~36はその当時の光景である。
次に注意すべきは、一人の人が目明きになれば多くの人がこれを見て神を讃美すると言うことである。ハレルヤ。
ザアカイの救い(ルカ一九2~10)
〔2〕「ザアカイ」原語ではザアカイと言う字義は純潔と言う意味である。ユダヤで取税人の長と言えば沢山の田畑を持っていたと言うから、彼もまた沢山の田畑を持っていたに相違ない。また彼はユダヤの宗教家の目から見て、心の汚れた者と思われていたであろうが、しかしロマ政府の立場から見れば、信用の厚い人物であったに相違ない。何れにせよ彼は取税人の長であったと言うのだから相当な身分であったろうが、それにも関わらず彼の地位財産が決して人心に真の満足を与えるものでないことを知っていた。けれども彼はどのようにしてこの満足を得るのかその方法を知らなかったのである。ところがついにそのチャンスがやって来た。彼が木の上に登ったのは、イエスが果してどんな人物かを見ようとした為であった。彼の心には表面を見て人を好き嫌いし、取捨選択する誤まった考えがあったようである。
〔3〕「身のたけ低ければ」これは多くの人の写真である。あのナポレオンは人を見るの明があったことを誇っていたが、彼はついにイエスを知ることが出来なかった。
〔4〕「桑の樹に登れり」知恵あり、地位あり、財産のある者が、しかも子供のように走って、木の上に登ったことは、実に無邪気なことであるが、ここでもまた多数の人々の写真を見ることが出来る。信者の中にも木の上に登ってキリストを研究する人があるが、彼らには決してキリストがわからないのである。
〔5〕「イエスここに来り……」この一事は、真にイエスの神の子であることを理解するのに十分である。まだ一面識もない、しかもその名さえ聞いたことのない彼に向って「ザアカイよ、急ぎ下れ」と仰せられたのを見て、キリストの全知であることを知るのである。道理の上から考えてもザアカイが木の上からキリストを見下したと言うことは実に無礼なことであるのに、キリストはなお彼を救おうとしてこれに立ち止まり、木の上の彼を仰ぎ見て「速ぎ下れ、我今日必ず汝の家に宿らん」と仰せられたのである。
羊飼いは自分の羊にいちいち名をつけて、これを呼ぶと言う。神もまたわたしたちの名を呼び給う。これは実に幸福なことである。こうして名を呼んだ後、恵みを与えまたなすべきことを教えられるのである。
わたしたちはまたキリストの足許に来る必要がある。わたしたちがどんなにキリストの教えと行いについて知っていても、いわゆる研究的態度を持っている間は、決して真のキリストを知ることは出来ないのである。そこでいわゆる研究者は即刻それを捨ててキリストの足許に下るべきである。一度神の恵みを受けた人であっても、いわゆる研究をなすことによって恵みから堕ちることがある。「汝の家に宿らん」これは大いなる恵みである。他の人の家ではなくて「汝の家」そうあなたの家である。ハレルヤ。あの百卒長はキリストを屋根の下に入れるのは恐れ多しと言ったが、このイエスが家に宿られるとは、ああ、何ともったいないことであろうか。
〔6〕「かれ急ぎ下り」彼は多分木の上で名を呼ばれた時に、ただちにイエスの神であることを感じたことであろう。あのナタナエルもまた自分の名と、祈っていた場所とをイエスによって指摘された時に、イエスの神の子であることを直感したのと同じ経験である。
ザアカイはこの権威あるお言葉を聞いて、心砕かれ、とかされたであろう。そこで彼は急いで下り、喜んでイエスを迎えたのである。恐らく彼は生まれて以来今日まで、こうした喜びの経験を持ったことはなかったであろう。これは実に即座の救いであり、即座の悔い改めであったのである。ある人は言う、ザアカイが救われたのは、木を下る間であったと。
〔7〕「衆人これを見てつぶやき言いけるは、彼は往きて罪ある人の客となれり」多分人々には、潔いイエスが罪ある人の家に入ることは実に奇怪なことだと思ったのであろう。またイエスは到底頼むに足らぬお方だと思ったのであろう。実際罪人と神との関係は何人も知り得るものではない。
〔8〕実に立派な悔い改めの果である。このような決心は仲々出来るものではない。「四倍にして償うべし」ロマ政府の法律によれば、他人の所有物を無法の手段で取った者は、これを四倍にして償うべき定めであったと言うことである。ここで注意すべきは、ザアカイは決してキリストから催促されてこの心を起したのではないと言うことである。わたしたちの人々に対する悔い改めの態度もまたこのようでなければならない。神に従うことによる憂いは本当の救いを得させる悔い改めに至るのである(コリント後七9~11参照)。熱心に罪の掃除に取りかかるのは幸福なことである。この「自訴」とは自ら罪を白状することであり、「怒り」とは罪に対して怒ることである。真の悔い改めはここまで来なければ本物ではない。
〔9〕「今日この家、すくわるることを得たり」自らの罪を口に言い表わして悔い改める時に、キリストよりこのお言葉を受けるのである。このお言葉は聖霊の証である。「アブラハムのすえなればなり」ザアカイは果してアブラハムの子孫、すなわちユダヤ人であったか否かは判らないが、彼は確かにアブラハムのように神を信じたから、信仰によって霊的にアブラハムの子孫である。ああ、これは実に幸福なことではないか。人の子は失われた者を尋ねて、救う為に来たとの聖言はここに実現したのである。
ミナのたとえ(ルカ一九11~17)
このたとえはマタイによる福音書二五章にあるたとえとはその趣きを異にする。あそこでは、五タラント、二タラント、一タラントの銀を与えたのであるが、ここでは各々に一ミナを与えたのである。
これは信者に賜わる恵みの回答であることを表わすものである。すなわち甲の受けた聖霊と乙の受けたそれとは何ら相異ならないものであることを表わしたものである。
〔11〕ここにこのたとえを語られた動機と目的とが記されている。すなわちユダヤ人も弟子たちも、共にこれからキリストがエルサレムにお入りになられたならば、直ちに王位に座してユダヤはローマ帝国から独立分離して、ついに世界の強国となるだろうと思っていたのである。彼らはまた旧約聖書に予言された美わしい恵みに満ちた国が現われることと思っていたのであった。彼らはあたかも日照りに雲と虹を待つように、理想の王国を待望していたのであるから、キリストに対してこの望みをつないだと言うのも無理のないことである。しかしキリストは彼らのこの誤まった思想を正そうとして、ついにこのたとえを語られ、そして栄えある理想の王国の実現までには、多くの困難を経ると言うことを教えられたのである。
〔12〕「ある貴き者」キリストのことである。丁度昔の大名が、領地を受けて帰るには将軍の前に出て後、その領地に来るように、キリストも十字架を経て父なる神に帰り、国を受けなければならない。キリストが天の上地の上の権を握るまでには、そこには順序があるのである。すなわち詩第二篇に父なる神がキリストに対してなした約束ではあるけれども、また百十篇を見るとそこには「汝の仇を承足とするまでは、わが右に坐すべし」とあるから、キリストは再臨の時までは、父なる神の右に座し給うのである。
〔13〕「十人の僕」パウロのいわゆる「僕」すなわち英語のボンドサーヴァント(奴隷の意)で、生きるにもまた死ぬにも、いかなる場合にもキリストに従う僕なのである。「一ミナ」日本の貨幣に換算して一ミナは約四○万円に相当する。「我来るまで商売せよ」これに責任を持って商売せよと言うのである。これはまたわたしたちに対する主の命令なのである。すでに商売を始める以上は、これによって生活をしなければならないのだから、当然これを活用して利殖をはからねばならないのである。キリストの目的は正にここにあるのである。これをもって見てもちょっとの間でも怠ける余裕の無いことを示されたのである。あのマタイ二五章のたとえは、各人がその賜物を異にしていると言うことを示したものであって、これを例えれば音声、知恵、才能などにおいて御用を沢山する人もあれば、また少ししかしない人もあると言うようなことである。
〔14〕「我らこの人を王とする事を欲まず」これはこの世が光を憎むありさまであり、また己れ(古き人)を持っている者の状態である。聖霊の支配を好まない者の写真であってキリストの再臨を否定する者にたとえるべきである。またキリストの再臨を表面で受け入れても、心の底からキリストの再臨を願わない者のありさまである。
〔15〕「僕らを呼べと命じぬ」わたしたちがキリストの再臨の時、彼の心に適う者となろうと願うならば、常に彼の心に適うことをつとめるべきである。
パウロはこのことを最もよく知っていたので、テモテに対しても、この審判のあることを記憶して専心道を伝えるように勧めたのである。未信者に対する審判は実に厳重であるが、信者に対するそれは、一層おごそかに責任を問われるのである。
〔17〕「汝はわずかのものに忠なれば」人の前にはとにかくとして、わたしたちは果してわずかのことに忠実であるであろうか。キリストはわずかのものにでも忠実な者にはこの有難い御言葉を賜わるのである。
〔21〕「なんじ厳しき人なるが故に」この僕はキリストの精神を誤解した者である。そして神は非常に苛酷なお方であるかの如くに考えて、その心に何らの自由もなく、つねに恐怖心をいだいて働かなかった人である。そして自分の怠惰をおおわんとして、こうしたことを言ったのである。
〔22〕「汝の口によりて汝をさばくべし」この僕はもしも主はこのようなお方と最初から知っているならば、もっと力を尽して働くべきではなかったか。それなのにそうしなかったからなおさらいけないと言うのである。
〔23〕「何故両替屋に預けざりしや」もしも自分で金を利用して働かすことが出来なかったならば、何故他人の下で働かせなかったのか。自然利殖の方法があったにもかかわらず、何故あえてしなかったのかと言うのである。これによってわたしたちが神の御前に空手で出ることの出来ないことを戒しめたのである。
〔24〕「この人の一ミナを取りて十ミナを有する者に与えよ」これは審判の時ばかりでなく、この世においても神の旨に従って恵みを働かす者は、更に多くの恵みを与えられるのである。しかしこれを働かせないならば、終始欠乏を感ずるようになってしまうのである。キリストを主としない者は敵である。
〔27〕またキリストの支配を好まない者も同じく敵である。わたしたちは、果してキリストの支配を好んでいるであろうか。静かに自分の状態を探られたい。
〔28〕「エルサレムに上れ」先頭となってしかも殺される為に行かれたイエスは、遠い国すなわち天国へと行かれたのである。
イエス、ベタニヤに行かれる(ヨハネ一二1~10)
マリヤ、イエスに香油を注ぐ(マルコ一四3、マタイ二六6~13、ヨハネ一二3~9)
ヨハネによる福音書に基づいて語ることにする。場所はベタニヤである。
〔2〕「ある人々この所にイエスにふるまいを設く」この宴会においてマルタの活動している光景を見るのである。マルコ一四5を見るとこの宴会を設けたのは、イエスによって癒されたらい病人シモンのようである。
〔3〕「己が頭髪にてその足を拭えり」女の最も貴しとする髪の毛をもって雑布の代りに足を拭ったと言うことは、愛と謙遜とを表わすものである。
「香油のにおいあまねく室内に満てり」そこにはイエスが座しており、また死から甦えらされたラザロ及びマルタとマリヤもいる。実に神の大能のあらわれた場所であり、輝ける光景であった。
〔4〕「銀三百」日本のお金に換算して、約百二十万円にあたる。この油の香りはただ室内に充ちたばかりでなく、この福音の宣伝される所には、すべて満ちるのである。「……売りて貧者に施さざるや」ユダはこのように言うけれども、聖霊が彼の心を観破して次節に次のように言っている。
〔6〕「盗人にて且つ金入れを持ち、その中に入れた物を奪う者なればなり」多分ユダは寄付金や種々の金の中から少しづつ自分の為に融通し、ついにはそれを自分の所有にしていたのであろう。わたしたちは神から預かった金を自らのものとして用い、しかも私欲のために費してはいないであろうか。
〔7〕「わが葬りの日の為に之を貯えたり」マリヤはイエスの為に貯金したのである。イエスの為ならばいくら貯金したとしても少しも妨げとはならない。そしてイエスの為に費す時には、人々が驚くほど使用するのがわたしたちの態度であらねばならない。マリヤがキリストの為に貯金したと言うところにマリヤのマリヤらしいところがあるのである。他の人々はイエスが何度も死ぬことについてお語りになられたにもかかわらず、一向に悟らなかったが、マリヤだけはそのことを知ったのである。であるから大金の香油をも貯えたのである。マリヤの心にはイエスは真に慕わしいお方であり、有難いお方であると深く感じていたことであろう。今日でも聖霊はわたしたちの心中に、こうした心を起させることがあるにもかかわらず、しばしば拒むことがなきにしもあらずである。マリヤは全力を傾注してイエスを愛していたのである。マルコ一四6には「よき事を行えるなり」とあるのは、このことを言ったのである。
マルコ一四9「天下の何処にてもこの女のなししこともまたその記念の為に言い伝えらるべし」実に驚くべきことである。彼女は永遠にその名を博したのである。
マルコ一四11「イエスをわたさんと機をうかがえり」ああ、慈善家ユダは変じて、ついに大罪人となりて果たのである。