イエスのエルサレム入城(マタイ二一1~11、ルカ一九29~44、ヨハネ一二12~20)
ルカによる福音書に基づいて講義をすることにする。
〔29〕「ベテパゲ」原語では、いちじくの家との意である。「ベタニヤ」は、なつめの家との意である。
〔30〕本節によってイエスの神であることを知り得る。彼の目には明らかに仔ロバが見えていたのである。このことは、神でなくては誰が出来ようか。
ここにキリストが駿馬を選ばずして、特に仔ロバを選ばれたのは、キリストの考えが他の考えとは全く異なっていたと言うことがわかる。キリストがこれまでエルサレムに行かれたのは、王として臨み給うたのではなかった。その為に常に徒歩で行かれたが、しかし今や主はメシヤとしてエルサレムに入城されるのである。だからどんなに美しいものに乗って行こうとも自由であったはずなのに、仔ロバを選ばれたのは、そこに何らかの意義がなければならない。すなわち主はこれによってご自身の柔和なる品性を表わし給うたのである。多くの人々の化けの皮のあらわれるのは自由選択の権のある時である。またイエスが仔ロバを選ばれたが、仔ロバはすなわちわたしたちの鈍いことをあらわすものである。
〔31〕「主の用なり」ここに注意すべきことは、主がこの仔ロバの持主の心を知っておられたことである。主の御用ですとさえ言えば、喜んで提供すると言うことを知っておられた。わたしたちは仔ロバの所有者が果して誰であったか、今日知ることは出来ないが、しかし天国で彼に会うことが出来るであろう。
〔33〕「主(ぬし)ども」多分家族のものを指したものであろう。
〔34~35〕「主の用なりと言って、これをイエスにひき来たり」ここに言い表わしようのない無限の妙味がある。前述のように仔ロバは大変鈍いものであるが、キリストは世の知者学者を選ばないで、かえって愚鈍な者を選び給うことはパウロが言った通りである(コリント前一26)。キリストは世の英雄豪傑に御目を留め給わずに、わたしたちのように貧しい卑しい者に御目を留め給うたのである。
次にわたしたちは、人のくびきにつながれていた者であったが、主の用なりとの命令の下に世のことから離れて、しかも主の用に役立つに至ったのである。
更に感謝すべきことはわたしたちは主を乗せる者であると言うことである。ある人はイエス様を仔ロバにして自分の思いの儘に使役しようとするから衝突が生ずるのであるが、わたしたちがイエスに使役せられる時には実に幸福である。パウロは実は主の仔ロバであったのである(コリント後四10)。
「己が衣をロバの仔におき」わたしたちは常に衣服を脱いで生涯すなわちイエスをかしらとして戴き、王として喜び服従する生涯を送らねばならない(列王下九12)。
〔36〕「人々その衣を路上にしけり」彼らがどんなにイエスを歓迎したかがわかる。わたしたちもまたすべてをイエスの所に持って行くべきである。すべてとは愛のすべてである。
〔37〕「その見しところの奇(ふしぎ)なる業によりて……」ふしぎな業とはラザロを甦えらせたことを指すのである(ヨハネ一二11)。
〔38〕「主の名によって来たる王はさいわいなり」これは詩一一八25、26に録された聖言である。マタイによる福音書二二9の「ホザナ」とは「今救え」との意であって、人々はイエスがダビデの子孫、すなわち救い主であることを知っていた為に、今救えとの讃美の声を発してメシヤとしてのイエスを歓迎したのである。「天においては和平に……」これをキリスト降誕の時の天使の讃美「地に和平、人に恵みあれ」と対照する時に、まず天において和平なり。そして地に和平のあることがわかる。すなわちイエス・キリストは、地をも天におけるように和平にさせる為、再びこの地上に来られるのである。
〔39〕「師よ、汝の弟子を責めよ」パリサイ人はイエスの弟子がイエスをキリストとし、詩篇に録されたメシヤに献げるべき讃美をもって迎えたのを見て、大いに怪しからんことだとしてこのように言ったのである。しかしキリストは「この輩黙りなば石叫ぶべし」と答えられた。ああ、これは今日の世間のありさまと同様ではあるまいか。多くの人々は、わたしたちが、無邪気に神を讃美する時に、これを止めようとするではないか。あらわに表面では言わない者も、その心の中においては色々のことを思っているのである。
〔41〕「城中を見てなげき言いけるは」群衆の歓呼に迎えられ、ちまたに充満した讃美の声に包まれながら、しかもその心はそれに奪われずに、かえって滅びようとする者の為になげかれたのである。ああ、イエスの御愛のいかに深いことであろう。
〔42〕イエスが真になげかれたのは重荷である国民の為であったのである。「もし汝だにも……」キリストの予言のように、ロマからテトス将軍が攻め来たってエルサレムを包囲し、ユダヤ人のこの為に殺された者百十万、鮮血河のように流れ、惨虐無類のロマ軍の為に、さしも宏大であったエルサレム城も全く破壊されて、ついに紀元七○年その滅亡を見るに至ったのである。このことを予見された主はなげかないではおられなかったのである。わたしたちが救いの集会において、救われる者の起る時に神を讃めて喜ぶ間にも、また信じないで亡びる魂の為に悲しまねばならない。あのフイニーは講壇であたかも病人のように救われない魂の為に悶えたと言うことである。わたしたちもまたイエスと共に滅びる魂の為に泣くべきである。
以上の事実に関して、他の福音書を参考の為に比べて見ると、マタイ二一2には「ロバのその子と共に在るに遇わん」とあるから、弟子たちは親子を一緒に引いて来たのであって、イエスはその子に乗り給うたのである。同章四節に引照された旧約の予言、すなわちゼカリヤ九9は予言通り成就したのである。八節には「樹の枝を敷きたり」とあるが、これはしゅろの枝である(ヨハネ一二13)。
更にマルコ一一1~11を見るに、四節には「門の外のみちにつなげり」とあり、また十節を見ると、彼らは有形的な王国を待ち望んでおったことを知ることが出来る。その為キリストの死によって彼らは絶望したであろう。
ヨハネ一二19は悪魔の失望の声である。
イエス、ベタニヤに帰り給う(マルコ一一11)
イエス、いちじくの木をのろわれる(マタイ二一18~19、マルコ一一12~14)
場所 オリーブ山。マルコによる福音書に基づいて講義する。この出来事は月曜日のことであって、主イエスは朝食をもおとりにならないで、ベタニヤからエルサレムへと向われたのである。ある人はイエスは早朝起き出られたものであると言うが、実際さもあるべきことである。
〔13〕「いちじく」熱帯地方の植物であって、ユダヤでは実に喜ばれた果物である。「これいちじくの木の時にあらざればなり」この節の解釈について種々の議論があるが、いちじくの収穫の季節でないことを言うと思われる。すなわち収穫の時でないため、実がまだ枝にあるはずなのになかったのである。
次にいちじくによって学ぶことは、すなわちわたしたちの生涯に関する教訓である。わたしたちは、どれほど表面が立派に見えても、実際において果実(ガラテヤ五22、23)を結ぶのでなければ、神を憂えさせ、ついには滅亡に入らねばならないのである。
ここでマルコによる福音書一一20~26まで講義しておくことにする。
〔20〕「翌朝彼ら……」これは火曜の朝のことである。一四節の終りに「弟子これを聞けり」とあるが、彼らは聞いたが、しかし信じなかったのであって、見て後信じるに至ったのである。一体信仰は聞くことから生じるものであるから、聞いてただちに信じる人は幸いである。
〔22〕「神を信ぜよ」原語では、神を真実なる者として勘定せよ、と言う意味である。このいちじくを枯れさせるに当って、イエスの心の中には祈りがあったに相違ない。すなわちイエスは神を信じて言葉を発したのであるが、弟子たちはその秘密が知られなかったのである。このことは神から病の癒しを受けるにおいて最も必要なことである。今癒される(現在の一瞬間)と信じても、実際見える所から判断すると尚悪く、時として今までよりも一層病気が重くなることもあるが、神は今癒し給うたと、信じて進むならば癒されるのである。
〔23〕神の言葉と事実とのつながりは信仰である。いかなることも神においては不可能と言うことがないのだから、これを疑わずに信じることは、神の力を有形に顕わすはずである。信仰には決して疑いを入れてはならないものである。勿論キリストは有形的に、山を移せよと仰せられたのではない。
〔24〕この節については種々の訳し方があるが、「必ず得べし」とは「只今(受け取る瞬間を意味する)と信ぜば必ず得べし」と訳した方が正当だと言うことである。とすれば神からある物を得ようとするには、先ず第一に「得べし」との願いをもって進み、次に「今得る」と信じ、第三にその瞬間からは「得たり」と信じて、見える所に頓着せずに進むのである。
〔25〕ここには祈りの障害物が示してある。すなわち人に対する罪である。人をとがめている為に、神との交通がしゃ断されているのである。
テモテ後二13を見れば、祈祷は勝利を得る秘密である。
イエス、商売をする者を神殿から追い出される(マタイ二一11~17、マルコ一一15~19、ルカ一九45~48)
マルコによる福音書に基づいて講義する。イエスは日曜日の朝神殿においでになって全てのものを御覧になられたが(マルコ一一11)月曜日にこれを潔められたのである。実に幸福なことは、イエスがわたしたちをことごとく見回わして潔められると言うことである。
このたびの宮潔めは第二回目である。第一回はヨハネ二14~17に録されている。その後この時までの期間は約三年である。第一回目は伝道の初期であって、第二回目は十字架におかかりになる週間においてであったのである。第一回の潔めは罪のゆるしに、第二回目を罪のきよめに応用することも出来る。
この宮潔めは、一方においては実に恐ろしいことではあるが、また一方においては実に恵みである。
〔15〕「イエス宮に入りて……」これは実に幸福なことである。もしもこのお方が神殿におられなかったならば、何の意味もないようになる為である(マラキ三10)。「売買する者を……」この者たちは表面では便利をはかるように見えるが(神殿に献げる銀貨は一定していたので、諸国の貨幣または他の銀貨を持って来る時に両替する必要がある。また貧しい人は小羊を持っていなかったので、その代りに鳩を燔祭に献げた。その時にこれを買う必要があったのである)実は自分たちの欲に仕えていたのである。それが為にイエスは彼らを追求なさったのである。
〔17〕「我が家は万国の人の祈祷の家と称えらるべし」これは神殿の実際の名であって、イザヤ書五六7から来たものである。神殿は神と民との交わる場所なのである。「盗賊の巣となせり」第一回目の宮潔めの際には「売買の家とする勿れ」とおっしゃられたが、この度は第二回目であって、一度光が与えられた後であるから、このような強い激しいお言葉を発して、彼らをとがめたのである。わたしたちの生涯においてもまた、罪のゆるしの時は実に柔和に神の光が臨むが、潔める時は先とは異なり、苦しさを感じるのである。
神に自分を献げない者は盗人である。だからキリストはこのような人を呼んで盗人と言われるのである。彼らは神の家を盗人の巣と心得ているのである。そして盗みをなしつつあるのである(ネヘミヤ七11)。
マタイによる福音書二一14~15を対観すると、ここに四種類の人々がある。第一は今の盗賊、第二はめしい及びあしなえ、第三は小児、第四は祭司長及び学者たちである。今日の教会にもこれらの四種類の人々がいる。
イエスは外見極めてすさまじい勢いをもって鳩を売る者の椅子を倒されたが、この方の所へ来て身体の病いの癒しを求めると言うことは、何だかちょっと矛盾でもしているかのように思われるが、決してそうではない。怒ったイエスの所に行くのを恐れる者もあるが、しかしこのイエスは己れの罪を認めて心砕け、自分の盲目であることを言いあらわして来る者には、このように恵みを下されるお方なのである。
ここに小児たちが「讃美したり」とあるが実際、小児のような心の者は讃美するが、もの知り顔の者は讃美するものではない。かえって一五節にあるように怒るのである。神から離れている者は必ず人が賛美する時に怒り、あるいはまた批評をするのである。
次に幸福なことは、イエスは賛美する者を弁護されると言うことである。「幼な児乳飲み児の口に……」詩八2には「汝は幼児ちのみごの口によりて、力の基を置き……」とある。これをキリストはその字句にとらわれないでその意味を取って仰せられたのである。これによってわたしたちは聖書の実に味のあることを知るのである。わたしたち自らは神から独立しては決して神の力の分与にあずかることは出来ない。ただ神を賛美するところにのみ神の能力があらわれるのである。右に述べた四種の中で、わたしたちは果していずれの種類に属しているのであろうか。自ら内省したいものである。
次にマルコによる福音書一一16の終りには「器もの」を持って神殿を通ることを許さないとある。何と厳格なことであるかを見よ。
イエス再びベタニヤに退かれる(マタイ二一17、マルコ一一19)
これは月曜日に神殿を潔めて、ベタニヤに帰られたのである。
イエス、エルサレムに行かれる(マルコ一一27)
(火曜日の朝)
祭司長たち、キリストの権威を問う(マタイ二一23~27、マルコ一一27~33、ルカ二〇1~8)
マタイによる福音書に基づいて講義する。
〔23〕「誰がこの権威を汝に与えしや……」当時エルサレムの神殿において、民を公然と教えると言うことは、普通人には不可能であったのに、しかも人の目から見て、何ら肩書の無いイエスがここで教えているのを見て、祭司長や民の長老たちは彼をとらえてこのように問うたのである。
〔25〕「ヨハネのバプテスマは何処よりか、天よりか、人よりか」この人々の心はイエスにその権威の出所を尋ね、果してその権威が正当なものであったならば、それに服しようとしてではなくて、真っ向から彼を落し入れようとして問うたのである。キリストはこれをよく知っておられたので、知恵をもってこの返答をなされたのである。「彼らたがいに論じて言いけるは……」キリストの知恵が出て来た時に、質問者たちの腹の中に大騒動が起ったのである。わたしたちもまた不真面目な人に出会った時には、あえてキリストの神性について彼らに説明する必要はない。むしろ彼らに対して罪の問題について解決を迫るがよい。わたしはかつてこの方法によって魂を捕えたことがある。
ルカ二〇6を見ると祭司長、学者、長老たちは、石で撃たれはしないだろうかと言う恐怖心を抱いていることを見るのである。これは全く悪魔の恐れである。
二人の子のたとえ(マタイ二一28~32)
これは同様に火曜日の説教である。
〔28〕「ある人」神を指す。「長子」異邦人を指す。「次子」ユダヤ人を指す。「子よ今日わがぶどう園に往きて働け……」これが神の今日多くの人々に向って仰せられる御言葉である。かつて英国のある忠実な伝道者はこの聖言によって献身したのである。またある人はこの聖言を床の間に録してあるのを見た。とにかくこれは、神の愛の言葉であって、人の心を愛によって奪うところの聖言である。
〔29〕「答て否と言いしが後悔いて行きたり」これは異邦人の神に対する態度をよくあらわしたものである。異邦人はある意味においてユダヤ人のように偽善者ではなく、心中にあるがままを露骨に神に対して否と言うのである。何故ならばまだ光がないからである。今この人は光を受けたのでついに悪かったと悔い改めて、命令に服従して行ったのである。これは砕けた魂の状態である。
〔30〕「次子にも前の如く言いけるに、君よ我往くべし」と言いしがついに往かざりき」ギリシャ語では「我」と言う語には種々の形がある。そしてここには特別に目出つ我と言う文字を用いてあると言うことである。これはその人の我と言う語の中に傲慢のあったことを表わしたものである。丁度ルカ一八11におけるパリサイ人のような精神である。この語は祭司長、学者たちの不服従の心を遺憾なく表わしたものと言い得る。次子が往かなかったと言うことは、これによって告白がどんなに立派であっても神はこれを喜ばれない。むしろ神が求めておられるのは告白ではなくて、実行であることを示したものである。マタイによる福音書二三3はこのような人の好い写真である。
試みにヤコブ二20を見よ。信仰には必ず行為が伴うものであることがわかる。信仰と行為とはあたかも車の両輪のようなものであって、決して独立すべきものではない。
ここに注意しなければならないのは、兄の方は中途で改心したが、弟の方は改心しなかったことを見れば、彼は最初から往く心が無かったのに、偽わって往きますと答えたことを見るのである。
〔31〕「税吏娼妓は汝らよりも先に神の国に入るべし……」ルカ三12~14に取税人が悔い改めたことが録されている。また同七29には、ヨハネに聞いた全ての民また取税人はそのバプテスマを受けて神を義しいとしたとある。
〔32〕ヨハネの伝道を目撃した彼らは、自ら一番反省して悔い改めるべきであったのに、依然として悔い改めなかったのである。英訳聖書には「信じない為に悔い改めなかった」とある。実際悔い改めと信仰とは密接な関係にあるのである。結局悔い改めないと言うことは、信じたくない為である。すべて信仰は服従を含むものである。
悪しき農夫たちのたとえ(マタイ二一33~44、マルコ一二1~12、ルカ二〇9~19)
マタイによる福音書に基づいて講義する。
〔33〕「ぶどう園」ユダヤ国民のことである。「間垣」他から攻めて来る敵を防御するもの。「酒ぶね」豊かな養いを指す。「塔をたて」これは地に豊かな養いがあるばかりではなく、彼らには予言者及び聖書のあることを指すのである。「農夫」祭司長、長老たちのことを指す。「他の国へ往しが」神が天におられることを示す。
〔34〕「僕を農夫のもとに遣わせり」ユダヤ人によって神の栄光の顕われるように要求したのである。
〔35~36〕しかし農夫たちはこれを酷い目にあわせたのである。エレミヤ三七10を見ると、彼らがエレミヤを牢獄に投じ、また同三八6を見ると水の無い泥穴の中に入れ、更に同二六20を見れば彼らはウリヤと言う予言者が、エジプトに逃げて行ったのを追い捕えて殺害したのである。歴代志下三六15、16を見てもユダヤ人がどんなに予言者に対して残酷なことをしたかがわかる。
〔37〕「我子は敬うならんと言いて……」神は最後に最上の手段としてひとり子をつかわされたのである。
〔38〕「その産業を奪うべし」格別にユダヤ人は、キリストが神の子なりと告白なさったことによって殺したのである。これは彼らが神の子に服従することを好まなかったからである。
〔41〕彼らは自分の罪を自分で定めたのである。
〔42〕「いえつくりの棄てたる石は、隅の首石となれり」これは詩篇一一八22から引照したものである。いえつくりとは祭司長及び長老のことであって、石とはキリストのことである。祭司長たちはキリストを棄てたが、神はこれを甦えらせて教会の首となさったのである。
〔43〕「この故に神の国を汝らより奪い……」これによって、神はユダヤ人を捨てたのではなくて、ユダヤ人がかえってキリストを棄てたのであると言うことを示しておられるのである。
〔44〕「この石」キリストを指す。「落ちる者は破れ」落ちる者とはユダヤ人のことである。「この石の上に落つればそのもの砕かるべし」神の審判の来る時に粉微塵となるのである。あのローマ軍の来襲によってユダヤ人はついに滅ぼされたのである。
イザヤ書八14を見ると、この石はやがて全世界の不信者の上に落ちて来るはずのもので、ダニエル書に録されているように、人手によらないで切り出されたものであって、人手によって成った国民及びその他のものは微塵に砕かれるのである。
〔46〕イエスの説教の結果、彼を予言者とする者も起ったが、彼を捕えようとする者も起った。力ある説教はこの二種の結果を起す。
婚宴のたとえ(マタイ二二1~14)
このたとえはルカ一四16にあるたとえとは別である。主が十字架におかかりになる週間にお語りになられたものであって、その方はお語りになった目的も異なっている。すなわちルカによる福音書の方は救いへの神の招きであるのに反して、これは救いから更に一歩進めて聖潔の必要を説かれたのである。
〔1〕「彼ら」信じないユダヤ人を指す。
〔2〕「ある王」ルカ一四16には、神を「ある人」と呼んでいるが、ここでは王として呼んでいる。これは誰でも服従しなければならないことを示したものである。「その子の為に」ここでもイエスを王子にたとえている。
このたとえはキリストを花婿とし、信者を花嫁にたとえたのではなくて、信者を招待客にたとえたのである。
〔3〕「彼ら来ることを好まず」彼らの好みは神の要請とは一致しない為に、このような答をしたのである。今日の信者の中にも、世間の話には気を入れて談じるが、いざ信仰談となると座が何とも白けてしまうと言うようなこともある。
〔4〕「ほかの僕を遣わさんとして」神の忍耐がどんなに深いかを見よ。彼らは王命に背いた者であるから罰せられるべきであるのに、しかもなお僕をつかわされるとは、ああ、何と言う深い神の御慈愛ではないか。「我宴すでにそなわれり」我宴とは実に有難いことである。人の宴は各々その身分に応じて設けられるものである。そこから神の宴がどんなに豊かであるかが察せられる。神の宴の御馳走はキリスト御自身である。「牛」キリストの御品性を顕わしたものであって、すなわちキリストの忍耐をあらわすものである。(羊は柔和と柔順とを現わしたものであり、鳩もまた同様である。山羊は速やかな服従をあらわしたものである)。
キリストのうちには父なる神の徳が充満していて、実に恩恵と真理とにみちたお方である。あたかもあの幼な児が生命に充ちているようである。この神の小羊がほふられたと言うことは、実に残酷ではないか。
「招きたる者に言え」聖霊はこの働きをなし給うのである。蔵言九1~6の知恵とはキリスト、また聖霊を指すのである。
〔5〕「彼らかえりみずして去りぬ……」これは多くの人々の有様である。今日キリストを信じない者を二分すると、一は冷胆な人、他は反抗する人である。
〔7〕これはユダヤの滅亡を指すものであるが、誰であっても今キリストを信じることを拒む者は、やがて終末の大審判において同じように滅ぼされるのである(テサロニケ後一6)。
〔8〕「ここにおいてその僕らに言いけるは……」これは神の御なげきである。パウロは使徒一三46において、ユダヤ人が拒んだ様子を言っている。すなわちイエスを信じない者は自ら永遠の生命を受ける者でないと言うことを定めた者である。
〔9〕「遇うほどのものを婚宴に招け」わたしたちがもし、せっかく御馳走をこしらえて客を待っても、その人がもし来なかったら、きっと失望するであろう。そのように神の方では、すでにひとり子をほふって御馳走を整えておられるのに誰も行かなかったら(信じなかったら)、その御馳走を別の人に与えるのは当然のことであり、それはまた神の願いなのである。
〔10〕すべての人に福音を宣伝せよとの神の御命令の実行である。これは予定説を信じる人々に対する武器とするのに適したところである。勿論神は信じる者と信じない者とを知っておられるので、神の方面においては予定に違いないが、人の方面においてはすべての人に福音を宣伝すべきである。「婚宴の客を充満す」これは実に幸福なことである。
〔11〕「王客を見んとて……」わたしたちが人々を導いた時に、ただ導いたからと言って喜ぶばかりでなく王が来て御覧になることを記憶すべきである。マラキ書一13に、神は奇形なものを献げたことを戒めているから、わたしたちもまた、人をキリストに導くにあたって慎しみ深くなければならない。「ここに一人の礼服を着ざる者あるを見て……」王の婚宴に礼服を着ずに出るとは実に無礼極まることである。ゼパニヤ書一8を見よ。神の国の犠牲の日に、異国の衣服を着た者は罰せられることが録されている。わたしたちの衣服は果して神の国の衣服であろうか。自ら反省して見たい。ロマ一三10~12を見れば、わたしたちの衣服はキリスト御自身である。詩四五13、14を参照するに、そこには「その衣は金もて織なせり、彼らはぬいものせる衣をきて、王のもとにいざなわる」とある。英訳聖書には、内部から立派であるとある。ぬいものとは一針一針刺したもののことで、日々の生涯にて神に従って鍛錬される間に造られることである。パウロはエペソ四22~24において「神にかたどりて真理の義と潔にて造れる新人を着るべし」と言った。実に幸福なことは聖霊が信じるわたしたちの心に入って、キリストの品性をわたしたちの心中に造って、わたしたちに着せられたことである。黙示録一九7にある「聖徒の義」とはすなわちこの衣服である。わたしたちが聖霊を受けたからと言って、ただちにそうなると言うのではない。ただ恵みに所を得させ聖霊の導きに従って歩む時にそうなるのである。ことに恩恵派と称する者の中に、聖霊によって歩むことに無頓着な傾向があるから注意しなければならない。わたしたちの義は汚れた衣のようなものであったが(イザヤ六四6)、今救いの衣を着せられるとは、ああ、何たる幸福なことであろう(イザヤ六一10)。
〔12〕「友よ、如何なれば衣服を着ずして……」これは潔められないでいることのわざわいなことを示したものである。「彼黙然たり……」自分の良心に深くとがめられて一言の返答さえも発することが出来なかったありさまである。
〔13〕「外の暗きに……」これは信者の審判である。七節には未信者の審判がある。神は審判の神であるから、義をも、また悪をも、御自身の前において審判するのである。「彼の手足を縛って……」彼の世にある時は、肉に従って手足を動かしたが、今は全く自由を失った。わたしたちの手足は霊的にこのように縛られた状態にいないであろうか。もしそうであるならば、この喜びの満ちた宴に入ることは出来ないのである。
ヘロデ党に対するキリストの答え(マタイ二二15~22、マルコ一二13~17、ルカ二〇20~26)
この時において、キリストは実に種々の方面から難問をもって試みられたもうたのである。しかし試みられれば試みられるほど神の栄えが顕われたのである。
〔15〕「彼を言い誤まらせんとて相謀り……」これは聖霊の筆である。聖霊は人の言葉ではなくて、人の心を見分けられるお方である。人の心は偽わるものであるから、理屈をつける時は言葉だけでは、決して人の心を知ることは出来ないものである。わたしたちが他人に接する時に、この聖霊の眼を必要とする。
〔15〕これによって悪魔の子の特色を見るのである。何としても真理を求めようとするのではなくて、何とかして人を落し入れて殺そうとするのである(マルコ一二13)。
〔16〕ここにパリサイ人が、ヘロデ党をつかわしたのは、実に彼らのずるい計略をあらわすものである。その理由は、パリサイ人は何物も神の所有であるから、神に十分の一献金をすれば、カイザルに税金を納めなくてもよいと言う意見を持っていたのである。こうした意見を持っていたその彼らが、その反対者すなわち宗教上のことはどうあろうとも、カイザルに税を納めねばならないと言う意見を持っているヘロデ党をキリストの所へつかわしたと言うことが、ずるい計略だと言うのである。「師よ汝は真なる者なり……」彼は表面においてこんな言葉を吐くが、その内心では何とかして言葉を誤らせようとしているのである。もしこの時イエスが神にのみ納めれば十分であると言ったならば、パリサイ人はこれをヘロデ党の者に告発して、国を乱す者として訴えようとの計略なのである。またもしイエスがカイザルに納税すれば神にはしなくてもよいと言ったなら、キリストは俗物であるとこきおろす考えだったのである。
〔18〕「イエスその悪を知りて……」マルコ一二15には「イエスそのまことならざるを知りて……」とある。イエスの御目がいかに鋭いかを見よ。「偽善者よ、何ぞ我を試みるや」このような答えをするのは全く聖霊の能力によるのである。世の学問は決してこのような感覚を与えないのである。「貢の銀銭を我に見せよ、彼らデナリ一つをイエスに持ち来りしに」これは銀貨であって労働者の一日分の賃金に相当する。
〔21〕「カイザルの物はカイザルに帰し、神の物は神に帰すべし」これは短かい句ではあるが、実に味わいのある個所である。多くの人々は神から出て神の所有である自身を、神に返さず神の手に渡さずに握っているのである。まして信者は貴いキリストの血によって買われた神の宮である。
〔22〕「奇としてこれを去り行けり」あっけにとられて去ったのである。ルカ二〇26には「彼ら民の前にその言を執り得ず……」とある。彼らは確かに自分を恥じたのであろう。
サドカイ人に対するキリストの答え(マタイ二二23~33、マルコ一二18~27、ルカ二〇27~40)
サドカイ人は唯物論者であって、神は決して未来において人を罪することがない。もしあるとすれば神はこの世において罰すべきはずである、と言うことを主張する連中であって、イエスが甦えりのことを説いたので、どうにかしてこれを反駁して閉口させてやろうと言うので、この難問を発したのである。
〔24〕これは申命記二五5から引証したものである。元来ユダヤ人は非常に後嗣ぎを重んじた為、兄の妻を弟に送ると言うようなことがなされたのである。日本でもこうした例がある。さてこうした難問に答える時、もしも人間の考えからする時には勝利は敵のものであるように思われるが、神にあってはそうではない。
〔29〕「汝ら聖書をも神の能力をも知らざるによりて誤れり」彼らは自ら聖書を知り、賢い者であると思い込んでいたが、実はそうではなかった。勿論彼らは文字通り聖書を知ってはいたであろうが、神の意味において知らなかったのである。すなわち神が人に黙示しようとした、その心を知らなかったのである。彼らは甦えった後も、親子夫婦の関係を持つもののように思っていたのである。また彼らはアブラハム、イサク、ヤコブの神とあるのをアブラハム、イサク、ヤコブの信じていた神と言う意味に解していたであろう。けれども神の意味は今もなお生きているアブラハム、イサク、ヤコブと言う意味であったのである。わたしたちは到底自分の能力では聖書を理解することは出来ないが、解することの出来るのは、ただただ聖霊の能力によるのである。だからわたしたちが世の知識においては勝らずとも、このような意味において聖書を知りたいものである。この神の知恵ある時にどんな強敵に逢うとも、決して恐れるに足りない。かえって敵を砕いてキリストに到らしめるのである。わたしたちは人の知恵によって人を感心させることが出来るが、決して敵を砕くことが出来ないのである。
イエス、律法学者の問に答えられる(マタイ二二34~40、マルコ一二28~34)
マルコによる福音書に基づいて学ぶことにする。この出来事の前に、サドカイ人は甦えりのことについてイエスに論破されていたので、甦えりを信じるパリサイ人が大いに得意になったであろう。とにかくこの時パリサイ人も一緒に集っていたので、その中の一人の律法学者は、イエスが実に不思議な言葉をもってサドカイ人を打ち敗かしたので、多年自分の研究していた問題について質問したのである。
〔28〕「律法の中のいずれの戒しめか大なる」わたしたちキリストから律法の中心はこの二九及び三○節であると聞いた者には別に戒しめのいずれが中心であるかなどと言うことに関して苦しむ必要はないが、しかし当時のユダヤ人の中では、沢山ある戒しめの中で、果していずれが中心であるかと言うことについて議論があったのである。あたかも今日聖書を註釈するのに、各自個々の意見をもつのと同様であった。そんなわけでこの学者はこの問題について本当に解決を求めていたのであろう。
〔29〕「すべての戒の首はイスラエルよ、聞け……」これによってわたしたちはイエスが聖書を見るのにいかに明があったかと言うことがわかる。実際モーセの五書を読む時には神の戒しめが色々あるので、いずれが中心であるか、ちょっと発覚し難くなり、またイエスのように人を教えることが出来るまでに明白に知っていると言うことは、聖霊の能力によるのでなければ決して出来ないのである。「主なる我らの神はすなわち一つの主なり」ユダヤ人は特別にこの一つの神を重んじ、十戒中の第一戒を毎日口にしたと言うことである。
〔30〕「主なる汝の神を愛すべし」これは実に宗教の絶頂である。信じるのでもなく、頼るのでもなく、ただただ愛することである。すなわち神を喜ばせることをもって一生をかけた目的とすることである。
この節の中には愛の分解がある。
第一に「心を尽し」とは完全なる誠意をもって神を愛することで、第二に「精神を尽し」とは力いっぱいの熱情をもってと言うことで、第三に「意を尽し」とは、聡明な理性を十分に働かせることである。第四に「力を尽し」てとは、わたしたちの全力をつくしてである(申命記六4)。すなわち心、精神、意思、力を尽して神を愛することである。「主なる汝の神」あたかもトマスが我が主よ我が神よと言ったのに似ている。
〔31〕「第二もまたこれに同じ」第一と第二とは決して軽重があるのではない。この戒しめは相関連したものであって、神を愛する人は必ず人を愛することの出来るものである。第一ヨハネ五1を見ればその理由が明らかにわかる。
〔32〕「よきかな師よ」この学者はここでこの光を得たので非常に感服したのである。
実に神の前に最も貴いものは愛である。神の前には長子を献げるよりも、また何物を献げるよりもミカの言ったように遜って神と共に歩み、人を愛することである(ミカ六8)。神は決して外部にあらわれたところによって人を見ず、その愛を見られるのである。
〔34〕「汝神の国より遠からず」イエスはここで決して、あなたは神の国の中に在る、とは仰せられない。何故かと言えば、律法をただ理解したと言うだけでは、自ら神の前に罪あること、すなわちこの律法を守っていないことを知って、まだキリストに来ていないからである。新約の恵みに入ったわたしたちは新しい戒しめ、すなわちキリストがわたしたちを愛したように、わたしたちも相互に愛することである。これはヨハネが言ったように、決して困難な戒しめではない。それはイエスがわたしたちの為に命を捨てられたから、これを信じるわたしたちは、この戒しめを守ることが出来るのである。
メシヤについてのキリストの問(マタイ二二41~46)
メシヤのことについては、聖書をよく知っている人も十分にこれを理解することは出来なかったのである。またユダヤ人の習慣として非常に先祖に重きを置くためにダビデのすえのダビデに力を入れる。その為キリストをダビデよりも低くする。それでキリストは、聖書をよく知っていると自称するパリサイ人に対してこの問を発せられたのである。しかし彼らは自ら知っていると思う聖書の中に、このように深い意味が存在することを知らなかったのである。
〔44〕「主わが主に言いけるは」初めの主とは父なる神、次はキリストを指すのである。
聖書を理解するとは、決して人間の考えによるものではない。あのペテロが主に向って「汝は生ける神の子キリストなり」と告白したが、パリサイ人は主をも聖書をも理解することが出来なかったのである。けれども新約時代のわたしたちは、聖霊によって明らかに主を知り得るのであるから、この時代の人と比較するには及ばない。
〔46〕「唯一言これに答うる能わず……」コリント前二11に録されたように、神のことは神の霊に由ることはマタイ一三52に録されてあるように、明白に神を知るだけでなく、これをもって人を教えるものとなりたい。
イエス、学者とパリサイ人を責められる(マタイ二三1~39)
この一連の教えは、律法学者とパリサイ人を責めた言葉ではあるが、わたしたちもまたこれによって探られたいのである。
一~一二節は、イエスが弟子に対して、律法学者とパリサイ人を模型として警告されたものである。
〔2〕「学者とパリサイの人は、モーセの位に座す」モーセは、神と交わって人間にその守るべき道を示したが、学者とパリサイ人はこれをそのまま民に教えたのであるから、彼らの言うところはなるほど立派ではあったが、しかし彼らはこれを口先で言うのみであって実行しなかったのである。それ故に、主は彼らを偽善者と言われたのである。イエスはここに偽善者の言うところにも学ぶべきことを教えられたが、偽善者自身は実にわざわいである(ロマ二7~21)。
彼らは献物については非常にやかましく言ったが、自らは「汝を養うものはそなえものなりと言わば、その父母を養わざるもよし」とするような、また、パウロの時代において神が負わせられない重荷、すなわち割礼を異邦人に強いるというようなわがままなことをしたのである。
〔5〕「人に見られんがためにするなり」これは潔められない心の姿である(ルカ六26参照)。このような人は、苦労して自らわざわいを招いているのである。衣のことについては民数一五38を見よ。これは民がこれを見てエホバのもろもろの戒めを記憶して、これを実行し、その生涯を潔くするためのものであった。ところが彼らはこれを人に見せるためにするからわざわいである。
〔7〕「人々よりラビ、ラビと称えられんことを好む」今わたしたちはこの言葉を聞いておかしいと思うが、陥りやすい点であるから注意しなければならない。かつて神癒のために大いに用いられたダーウィーは、オーストラリヤのメルボルンの山中で祈り、人々の病の苦しみの声を聞かせられ、神の召命を受けて立ち上ったのである。しかし彼は、多くの人々からもてはやされ、ついに悪魔の捕虜となったのである。だからわたしたちも大いに注意しなければならない。
〔10〕「導師(どうし)のとなえを受くことなかれ」キリストは人間界の名誉をもって「善師(よき師)」と呼ばれた時にこれを退けられた。だからわたしたちもまた、他人がわたしたちを誉める時にこれを退けるべきである。「大なる者は僕となるべし」わたしたちが自ら得意になっている時には、必ず恥が来るが、低くなって神に栄えを帰する時には高くされるのである。しかもこれは永遠の栄えなのである。
〔13〕柔和な主のお口からこの鋭いお言葉が発せられたことを記憶しなければならない。これはキリストの聖潔(きよめ)、また愛である。普通の人が悪口を言うのとは異なり、直接に面と向かって責められたのである。パウロもまた、ロマ一二9において「愛をして偽善なからしめよ」と言った。特に信者の中に偽善があるから、わたしたちは自らを深く探らねばならない。
「天国を人の前に閉じ……」人をキリストに導くのに十字架の贖いから行かず、哲学、神学、社会改良などから行こうとするのは、実にわざわいである。これは単に人を滅ぼすばかりではなくて、自分までも地獄に行くのであるから注意しなければならぬ(ルカ一一52)。
律法学者は昔、民から天国の鍵を持つものとして尊ばれていたのである。しかし、彼らはキリストを拒み、これによって人をも天国に入らせなかったのはわざわいなことである。この鍵とは神を畏れて罪を離れることである。また神とその遣わされたキリストを信じることであったのである。
〔14〕「やもめの家を呑み」貧者の妻と言えば実に哀れであるが、夫もないやもめはさらによるべもない者である。もちろん初めは、彼ら律法学者も親切な心で助けるのであろうが、いつしかその金を自分に流用するようになり、ついにはその家を呑むに至ることが少なくなかった。どうせそんなことなら最初から助けない方が良かった。初めは親切らしく見せるとは実に悪い。わたしたちは決して人の信用を裏切るべきではない。
〔15〕「あまねく海山をへめぐり……」これは党派心である。今日熱心に働くものの中にもこの心がある者が少なくないのは実に嘆かわしいことである。わたしたちが自分の関係している者に対しては非常に熱心でも、他の教会に対して不熱心であるならば、実に恐しいことである。わたしたちの中心は唯キリストであるから、どこまでもキリストに対する熱情を自己の働きの動機とすべきである。
〔16~22〕これは彼らが物事の軽重を判断する心のないことを責められたものであって、誤った判断は必ず言葉と態度に表われるものである。
「祭の壇」とは出エジプト二九37にあり、キリストの十字架を表わすものである。どんなに汚れた者も、十字架に触れる時に聖くなるのである。ハレルヤ。
〔23〕十分の一を献げることは、レビ二七30から来たものであって、パリサイ人はこれを非常に重んじた。しかし彼らは律法の中で最も重要な公義とあわれみと信仰とを捨てたのである。
今日においても、牧師が信者の罪あることを責めずに、金を出しさえすれば信者の務めを果しているかのごとく思わせるのは、この律法学者の類である。
ホセア六6、ミカ六8に神はあわれみと公義と信仰とを重んずべきことを求めておられるではないか。わたしたちはこれを心に留めて神に喜ばれたいものである。
〔26〕「皿の外を潔くして……」外面的な儀式は決して内部を潔めるものではない。もし内部が潔かったならば、人からどのように見えようとも、神の前には内外共に潔くなるのである。わたしたちは表面では聖潔(きよめ)を信じてはいるが、果して内部が潔いであろうか。
〔27〕「白く塗りたる墓」ルカ一一44には、隠れたる墓とある。これは人の目より見れば偽善とは見えないが、事実毒を人々に与える者である。これまた恐ろしいことである。
〔30〕彼らは自らアハブ王の如き者ではないというが、実際はキリストをさえ殺すとは何たる悪人であろう。
〔32〕「桝目をみたせ」先祖が八合だけ桝を満たしたとするならば、君たちは残りの二合を満たせとの意である。
〔35〕「バラキヤの子ザカリヤ」これはザカリヤ書を書いたザカリヤではない。歴代下二四20~21にあるザカリヤのことである。彼らは神のみ前で祭司を殺したのである。
〔37〕「ああ、エルサレムよエルサレムよ……」エルサレムは、神が全世界の中から選んだものであって、神はエルサレムを特に愛してこれを守られたのに、彼らはかえってこれに反抗したのである。しかし神はなお忍耐をもって彼らを翼の下に集めようとされたのに、彼らはまたしても幾度となく神に背いたのである。ちょうど親が我が子に対するようにしたにもかかわらず、民はこれを好まなかったのである。ここに神の涙が見えるようではないか。
〔38〕「荒地となりて残される」これは実にやむを得ないことであった。
〔39〕「主の名によりて来る……時至るまでは、今より我を見ざるべし」これは再臨の主である。ユダヤ人はメシヤ(救い主)を今か今かと待っているが、しかし再臨までこれを見ることは出来ないのである。彼らが再臨の主を見る時には、わたしたちが主にお会いするような喜びではなく、かえって独り子を失ったように嘆くのである。実に主に会うことは彼らにとってつらいことであるが、パウロの言うように、イスラエルはみな救われる時が来る。この時にゼカリヤ一三1の予言の通り、彼らは潔められるのである。
キリスト貧しきやもめを誉め給う(マルコ一二41~44、ルカ二一1~4)
この時までキリストはパリサイ人の偽善を責めて長い教えをなしていたので、しばらく神殿の入口の右手に座を占めて、人々がさい銭を投げ入れるのを見ておられたのだという人もある。
ここで記憶すべきことは、我らが献金をする時にイエスがこれを見ておられるということである。多くの人々が人に見られようとして金を多く出す風潮があるのは実に悪弊である。外国では集金する時に、牧師を頼んで人々を鼓舞することがある。だから牧師の手腕によって大金が一度に集まることがある。
〔41〕「富める者は多く投げ入れたり」富める者は余っているのから出すのだから別に苦痛を感じないが、金の無い者にとっては、少額でも困難である。このやもめは献げるというよりも、むしろ人に同情を寄せらるべき者であるのに、その生活費全部を献げたということは、この婦人がいかに神に対して熱情があったかを知るに十分である。人間の方面から見るならば、レプタ一つを献げて残りの一つは自分のために用いるように工夫するのは別に無理なことではないのに、すべてを献げたとは実に感心することである。おそらく彼女は家に帰っても、食べる物もなくて寝たことであろうが、彼女の心中は実に言うことの出来ない平和と安心に満たされ、天の神が自分の父であることを思って、自ら喜びに溢れたことであろう。
また、ここに注意すべきは、イエスはやもめにこの言葉を言われたのではなくて、弟子たちに対してであるが、またわたしたちに対して教訓を与え給うたのである。すなわち第一は、主は金額の多少ではなくその精神を見給うということである。神はわたしたちがどれだけ犠牲をなす精神があるかを見給うのである。もちろん、主は無理にわたしたちにこれを命ずるのではない。コリント後八7を見よ、神は喜んで献げる人を愛するとある。コリント教会の信者は、人から強いられてではなく、自ら進んでエルサレムの聖徒たちのために援助しようと申し出たのであった。これこそ神の喜び給うことである。ある人はレプタ二つの二つとは、身と霊を神に献げることを表わすものであるというが、そうあるべきである。多くの人々は献金だけはするが、その身を献げないのである。これは神の憎み給うことである。我らはこの両者を共に献げるべきである。
ギリシャ人祭に来る(ヨハネ一二20~26)
場所 エルサレム
これも同じ火曜日の出来事である。
当時プロセライト(改宗者の意)といって異邦人もユダヤ教に改宗してユダヤ人の信仰に一致して、唯一の神であるエホバを礼拝することが出来たのである。「君よ我らイエスに見(まみ)えんことを願う」かのザアカイは、好奇心をもってイエスを見ようとして樹に上ったが、このギリシャ人がイエスの所に来たのは、イエスにとって非常に重大な時であってイザヤ書に記されている「異邦人の光となるべし」との予言が成就すべき時であり、機を逸するべからずと悪魔が彼にささやいたであろうが、イエスは己れの死によって異邦人の光となるべきことを予知しておられたために、このことを言われたのである。すなわち二三節はそれである。
〔24〕「一粒の麦もし地に落ちて死なずば……」人間の考えとイエスの考えとは実に雲泥の相違がある。神の子たるお方で、しかも地上に降り、多くの艱難を通って死に給うたと言うことは他ではない。唯々多くの実、すなわちキリストと同じかたちを持つ信者を得るためである。キリストがたとえどれほど口で語り聴かせても、信者は決してキリストのようになることは出来ないが、唯イエスの死によって来た御霊によって始めて信者はキリストと同じかたちに変えられるのである。
〔25〕「その命を惜む者はこれを失い……」キリストに仕えようとする者は、キリストと共にどこまでも行かねばならない。カルバリーにも、またゲッセマネにも行くべきである。そうしなければ御用は勤まらない。また彼と共にどのような恥辱をも受けねばならない。
〔26〕「我に仕える者は我が居る所に在らん」キリストの居る所には、言うことの出来ない栄光と平和とがある。すなわちエペソ二6にある「天の処」である。かかる人は、キリスト再臨の時、彼と共に御座の上に座することが出来るのである。「我が父はこれを貴ぶべし」ハレルヤ。
〔27〕「今我心憂い悼(いた)めり……」ゲッセマネの苦しみは、すでにこの時に始まっているのである。「これがために我この時に至れるなり」いかに苦しいことがあろうとも、決して避け給わず、遂にこの時に至ったのである。
〔28〕「願わくば父よ、汝の名の栄をあらわせ」神の栄、すなわち神が不義を必ず罰せられるということと、神の愛なることとがともに十字架によってあらわされたのである。「我これをあらわすべし」すなわち十字架の上にも、復活にも、昇天にも、ペンテコステにも、父なる神はこの約束を実現されたのである。
〔29〕「雷鳴れりと言う……」霊の耳の開かれない者には、神のことはすべてこのようである。
〔30〕「我がために非ず、汝らのためなり」キリストは一身を投げ出されたことによって我らは救を得たのである。普通の人の目から見る時には、キリストの境遇は実に苦境であって、悪魔が勝利を得たかのように思われるが、キリストがこの苦境に臨んでもなおこの世の君は追い出されると宣言された。事実、イエスの十字架によって悪魔は破られ、神の勝利があらわれたのである。
〔32〕「我もし地より挙げられなば、万民をひきて我に来らせん」このギリシャ人は、この先きがけとして来たのである。エペソ二14、15にあるように、ユダヤ人も異邦人も共にキリストによって神に近づき得ることを言ったのである。
〔35〕「光のある間に光を信ぜよ」これは厳粛なことであって、神から光を与えられた時にその光に歩まない時には、その人は遂に神を見失うことになる。キリストが彼らに近づいた時に、その声に聞き従わない時には、キリストは彼らより離れ去られる。
〔37〕「しるしを行(なし)たれども……彼を信ぜざりき」キリストは特にヨハネ十一章において死者を甦えらせ、自身が神より出でしことを証したが、かたくななユダヤ人はこれを信じなかった。これは人間としての大失敗であったのである。
〔38〕「我らの告げし言を信ぜし者は誰ぞや」(イザヤ五三1)は、この世の不信仰を嘆いたものである。今日もなおイエスを信愛する者は極めて少数である。神の手がイエス・キリストによってあらわれたのは明かなことであるのに、しかもユダヤ人はこれを信じなかったのである。これによってイザヤの予言が成就したのである。
〔39~40〕これはイザヤ六9~10のみ言葉である。イザヤが神から遣わされたが、民は神のみ言葉を受け入れなかったから、神は彼らの心がかたくなになるに任せられたのである。このことは実に恐ろしいことであって、神はなんとしても御自身のみ言葉を受け入れず、これにさからう者を、ついに暗黒の力に渡されるのである。それ故、福音を聞いても心をかたくなにしてこれを信じなければ、福音を聞かなかった時よりもいっそう悪くなるのである。これは多くの信者の陥る罪である。特に我らのように毎日聖書から光を受けている者が、ナーニ知っている、というふうで、神の言を何とも思わないようになる人が多くある。実に恐ろしいことであるから慎まなければならない。
今日神は、我らにも御自身をあらわしておられるから、これをイザヤの時代と比較すれば非常な差がある。イザヤはただ御座の上に座し給う神を見たのであるが、その民はイザヤによって彼の見た神の栄を見せられた。にもかかわらず、彼らは信じなかったのである。今日もこのようなことがしばしばあるが、実にわざわいである。
〔42〕「多く彼を信ぜし者ありたれども」キリストを信じた彼らは、会堂から追い出されてその交際を絶たれることになれば、さぞかし苦しいことであったろう。これによって見れば、臆病は人のほまれを求めるところから来ることがわかる。また信ずることができないのもやはり人の栄を求めようとする分子があるからである。ヨハネ五44は、ただ信者のみならず、伝道者にも大いなるつまずきとなるものであるから、深く神の前に探られてこの分子を棄てねばならぬ。
〔44〕「イエス呼ばわり言いけるは」ここにキリストの熱心のあらわれていることを見よ。これはキリストが常になされたことではなかったが、この場合は実に非常の際であったからこのように叫んだのである。ヨハネ七37のように叫ばれたのである。「我を信ずる者は我を信ずるに非ず、我を遣わしし者を信ずるなり」これによってキリストと神とは一体であるということが分る。ここにまず「信ずる者は」と言われたのは理由のあることである。信仰によらなければキリストを見ることが出来ず、また信ずるとはキリストの語られた言を信ずることである。そのように信じたキリストの栄を見る時は、神の像がキリストのうちにあることを確かに知り得るのである。
〔46〕「我は光にして世に来たれり」これ実に幸いなことである。
〔47〕「人もし我が言を聞きて守らざるともこれを審かず……」故にキリストの言は審判官である。だからキリストの言を聞くことは、非常に責任のあることである。我らがキリストを信じないで審かれる時は、自分の過去に犯した罪によって審かれるのではなくて、キリストを信じない罪によって審かれるのである(ヨハネ三18)。故に、これは未信者のみではなく「我言いし言は霊なり命なり」と言われたのは、信者(言を守らない)をも審くということである。それ故にキリストの言を捨てることは命を捨てることである。
〔50〕「我言う所は父の告げ給うままに言えるなり」少しも自分の心を述べるのではなくて、父のみ旨を述べるのである。我らは語る時にもこのようであれば決して骨の折れることはない。骨折りをして種々の材料を集めるには及ばない。けれどもこれを極端に解してはならない。聖霊はその時に教え給わなければ、語る前に教え給うのである。だから我らは聖霊の言わせられるままに語るべきである。
イエス、エルサレムの滅亡を予言される(マルコ一三1~37、マタイ二四1~41、ルカ二一20~36)
場所 オリブ山
マルコに基づいて講義する。
〔1〕「イエス聖殿(みや)より出でければ」これは実に厳かなことである。イエスの公開の説教はいよいよ終りを告げたのである。これまでは忍耐して教えられたが、今からは語られない。彼の言を受け入れなかったユダヤ人は審かれたのである。
イエスのおられない神殿は何の価値もないものである。今日の教会においても同様のことが言える。どんなに教会が盛んであっても、イエスが捨てられていることがある。実にわざわいなことである。
「この石この殿(いえ)いかに盛んならずや」神殿の建築に用いた石の中で、最も大きいものは長さ二〇メートルに及ぶ白い大理石であったという。また玄関に用いた柱は高さ約十三メートルあったという。これを見ても、この神殿が如何に壮大なものであったかが分る。この神殿を建てるのに四十六年かかったというのも無理はない。だから、この言葉はよく言われたのである。これに対してキリストは次節のように答えられた。
〔2〕「汝らこの大いなる殿(いえ)を見るか……」これが神の御目より見た神殿の状態である。多くの人々は、このくずされる物に目を留めている。我らの目は果してどこについているであろうか。以上はキリストの歩行中の弟子との問答である。
〔3〕「ペテロ……密かに問いけるは……」このようにキリストに問う者は幸いである。弟子たちは、自分たちが見て立派だと言った神殿がくずされるということを聞いて、このように質問したのである。
〔5〕「人に欺かれざるよう慎めよ」これは実に大切なことである。ルカ二一8を見よ。多くの人は自らキリストであると言って人を欺くから注意せよ。このような人は、決して普通の人間ではない。彼らは奇蹟を行うから欺かれやすい。
〔7〕「怖るるなかれ」迷う者は必ず怖れるのである。あのテサロニケの信者たちは、迫害が起ったので神の刑罰の日であると思って怖れたのである。
異端に二つある。第一は、万物は天地創造の時以来変ることがないといい、第二は、神の摂理を誤解させて人を欺く異端である。「汝ら戦(いくさ)と戦のうわさを聞く時」今日は非常に戦争が多い。この点において今日は患難の日である。またエルサレムの滅亡は世の終りの模型であるから、キリストはここで両者の意味を含めて言われたのである。
〔9〕「証をなさんために……王の前にひき立てらるべし」これによって見ても、信者の迫害は世の終りのしるしであり、またエルサレム滅亡のしるしであることが分る。キリストの死後信者は王の前にひかれたのである。パウロもそうである。
また、ここに記されてあるように、この頃にはローマ帝国の中に特に戦争が多かったという。今日全世界に戦争のあるのは、キリスト再臨の前兆であるから、我らは大いに目覚めるべきである。「証をなさんため……」これは実に幸いなことである。我らはとうてい王の前に行って福音を伝えることは出来ないが、王の前に引かれることによってこれをなすことが出来るのである。パウロはアグリッパ王の前に出て福音を証するような身分ではないが、囚人となって王の前に引かれたので、はじめて王の前に出ることが出来たのである。
〔10〕「福音は先ず万民に宣べ伝えざるを得ず」これこそ主イエスの重荷であったのである。我らは主の重荷を私の重荷として負いたいものである。
〔11〕「何を言わんとはかり、また思い煩うなかれ」我らが王の前にひかれるのは無実の罪によってであるが、その時種々の言い訳を言う必要はない。かえってこれらに思い煩うことによって結局失敗するのである。故に神を信頼する時に、神は聖霊を我らに与え給う。弟子たちの場合はいつもそうであった。
〔12〕「兄弟は兄弟を死にわたし」神と悪魔との戦いが激烈になってくると、家庭の中にもこのような争いが起るのである。
〔13〕「凡ての人に憎まるべし」人の機嫌をとるのは堕落した証拠である。我らはキリストの名のためにすべての人に嫌われる覚悟がいる。「されど終りまで忍ぶ者は救わるるを得ん」(ルカ二一18~19)
〔14〕「予言者ダニエルが言いし……」直接にはローマの兵が来て至聖所に入ることを指す。至聖所は大祭司が年に一度犠牲の血を携えて入る以外は、誰もここに入ることが出来ないのである。だからローマ兵が至聖所に入ったならば、神はエルサレムを捨てられたのだと思え、との意を含む。「ユダヤに居る者は山に逃れよ」キリストのお言葉の通りエルサレム滅亡の時には、信者はみなベレアの北端にあるペラという小山に逃れたということである。もちろん彼らはこの言葉に基づいて逃げたのではないが、神は彼らを導かれたのであろう。
また、この聖所のことについては、回教徒がエルサレムを占領することを言われたのだと解する人があるが、前述の解釈が穏当である。
〔15〕「室に下るなかれ……」これは患難がにわかに襲って来て、家具などを顧みる余裕のないことを言うのである。
〔17〕実際エルサレムの滅亡の時には、走っている間に刃にかかった女が多かったという。
〔18〕「汝ら冬逃ぐることを免れんために祈れ」マタイ二四20には、また安息日に云々とある。これは、安息日にはエルサレムの門が閉されるから逃れることが出来ないためである。
〔19〕「その日には患難あらん」エルサレム滅亡の時は、市中で百十一万人、市の近傍で二十万人、その他敵に囲まれたために食物を得られず餓死する者、疫病で死んだ者は無数に上り、また捕虜になった者は九千七百人あったという。
これはひとつの雛型であって、全世界にこのような患難がやがて臨むのである。黙示録には血が馬のくつわにとどくほどになることが記されている。
この予言の中に、全世界に福音が伝えられるということが記されてあるが、これをパウロによる世界伝道と考え合せると、神がパウロによってこの予言を成就されたと言い得る。もちろん世界とは当時の世界のことであってローマ帝国の領域を指したものである。しかし再臨の時には全世界に宣べ伝えられるのである。
〔20〕「もし主その日を少なくし給わずば……」その日とは一九節の患難時代を指すものである。またエルサレム滅亡の時を指すものであって、この戦争が永続すると、エルサレムの住民、またユダヤ人は皆滅亡するであろうが、神はユダヤ人に千年期時代の祝福を与えるために患難の日を少なくされたのである。ハバクク三2に記されたように、我らの神は怒りの中にもあわれみを忘れ給わない神である。もし神が怒りのみをもって我らに臨まれるならば、我らはとうてい神の前に立つことは出来ないのである。神はあわれみの心あるお方であって、我らのために贖いをなし給うたということは、まことにありがたいことである。
選民がバビロンに捕虜になったのも、神の大いなる恵みであって、彼らはバビロンで苦しめられ、潔められてエルサレムに帰ったのである。
〔21〕「その時もしキリスト……」ここにキリストは複数で記されてある。そしてこれは偽キリストのことである。歴史家ヨセフスによればエルサレム滅亡の時には多くの人々が自己宣伝をして自分を信ずべきことを人々に勧めたということである。患難時代にもまたこのような偽キリストが出現するのである。
〔23〕「我予め汝らにことごとくこれを告ぐ」これは主のあわれみの声である。彼を信ずる我らがだしぬけを喰わないために、主はこのように懇ろに我らに教えられたのである。このように教えられても何とも思わず、いぜんとして世事に心を奪われている人は、キリストの親切を無にするものである。
〔24〕これは有形にあらわれて来ることであるが、王や名士として輝く者はその力を失い、また社会の上流の震動を指す。
〔26〕天より来るキリストでなければ、それは真のキリストではない。
〔27〕これを信者、すなわち教会の携挙として解釈するけれども、エレミヤ三一4~9にあるように、主が地上に再臨してユダヤ人を地の果から集め、千年時代の準備をされることを指す。天の果てとは遠いところの形容である。またこのような患難の中にも、神はあわれみにより、その民を顧みて下さるのである。
〔28〕キリストの譬は実に平易である。特にいちじくの木は、ユダヤでは賞味されているものであるから、誰でも理解出来るのである。
これは、キリストの再臨の時が門口に迫っていることを我らに告げたものである。ある人はその年月までも知ろうとするが、それは悪魔の手である。年月を知ろうとする人は、ひとつには好奇心から、またひとつには、その時まで自分の欲を満たそうとしてである。我らはその日がいつであるかを知らないから、心をつくして準備をすべきである。
なおひとつ注意すべきは、悪魔は再臨の日がずっと後のことであって、自分には全く無関係のように思わせることである。
〔30〕「この民」とは英訳ではディス・ジェネレーション、すなわち、当時の人々の生存中にこの出来事が起ることを示されたのであって、実際にエルサレムの滅亡は、この時いた人々がまだ生存中に起ったのである。
〔33〕我らは油断せずに自制して祈らねばならない。「憎むべし」とはそのことである。また自ら目覚めてうっかり油断せずにいるべきである。
〔34〕キリストは遠く天に行き、すべての権を我ら信者に委ねられた。我らに全権を与えられたのであるから、我らの責任は重大である。神の国が拡張するもしないも、その責任はひとえに我らの双肩にあることを知らねばならぬ。けれども、主はまたその命令と共に力を与えられるのであるから、大きな恵みである。「各々になすべことを委ね……」これによっても、我らは各自になすべきことがあることを知るのである。我らははたして、自らの責任を果しているであろうか。「また門守に……」主は特別に門守にこのように仰せられた。これは伝道者を指したものである。門守は敵が来る時に最も先に警戒するものであるから、我らは大いに目を覚して祈らねばならない。
〔35〕「この故に怠らずして守れ……」主の来り給う時に、もし我らがとんでもないことをしていたならば、主に何と言って申し開きをしようか。眠りとは肉体のみでなく、霊において祈りの態度を失うことを指すのである。我らが祈りの態度を失う時に、何事も見えなくなるのである。神の声をきくことが出来なくなるのである。
〔37〕「凡ての人に告ぐるなり……」わたしのようなものは、何もしなくてもよい、というような心得違いをしてはならない。主はすべての人に対して、この言葉を与えられたのである。マタイ二四40、41を見よ。信者が空中に携挙される時に、全地に起るべき出来事を予言したものであって、朝、昼、夕があることを記している。
また四十五節は伝道者における責任であって、「時に及びて」とは日本語訳ははっきりしないが、英語のイン・シーズン、すなわち時にかなうの意である。
また、ルカ二一28に注意せよ。「首をあげよ……」とは、ブルブル震えて祈っているのではなくて、喜びなさいというのである。我らの救いが近づいたからである。再臨を待望むのに、このような態度をとる人は幸いである。
十人のおとめの譬(マタイ二五1~13)
場所 オリブ山 時 火曜日
この譬は、二四章の主人と僕の関係を説かれたものと深い関係にある。確かにキリストは一面において我らの主人であるが、また同時に我らの新郎である。しかしここでは信者を花嫁として説いたのではなくて花嫁の付添人として説いたものである。
ユダヤでは花婿が来る前に花嫁の方から迎えに出るという習慣があった。また、花婿はたいてい夜来る習慣であった。
夜とはまさに今日のありさまを指したものであって、今の世は実に暗黒であって夜のような状態である。ある人は、聖霊を受けてもなお自分の力量、意志、知識等に依頼するが、このようなことは聖霊に所を得させない証拠であって、再臨の時までもたないのである。
神は光であるが、この光は愛から出る光であって、最も貴いものである。我らの出す光は果して何から出る光であろうか。
旧約時代において「油」は王の即位式、または預言者の立てられる時、またはらい病人に注がれたのである。らい病人が油を注がれることは、実にもったいないことであって、らい病人は他の民の受けることの出来ない油注ぎを受けることが出来たのである。レビ記十四章以下に記されているように、らい病人は右の耳たぶと、右の手の親指と、右足の親指とに愆祭(けんさい)の血を注がれたのである。これを霊的に解すると、キリストの血によって耳は神のみ声を聞く耳となり、手は神の御用をつとめるために、足は御用のために進むのに必要なものとなり、全くキリストの血によって聖くされることを指す。次に祭司は、らい病人の血を塗ったか所と頭とに油をつけたのである。我らの大祭司イエスは我らに油を注がれたのである。一ヨハネ二20を見よ。この油はすべての真理を教えるものであって、我らに知恵を与えるものである。特にこの油は、我らに主にあることを教えるものであって、最も大切なものである。我らが主にいないとするならそれはあたかも盲人から杖を取り去ったようなものであって、何事をなすことも出来ないのである。
主イエスの秘密も、同じく神より受けた油であった。イザヤ六一1~7を見よ。彼は聖霊によって、心の痛む者を慰めることが出来たのである。我らが油なくして病者を慰め、またいやそうとするのは、あたかもやぶ医者が大病人を扱うのと同じであって、何の効めもないのである。もちろん人間の同情は無益だと言うのではないが、これは持続しない。けれども聖霊による同情は、いつまでも忍耐するのである。
詩四五7にはキリストが油を豊かに受けられた理由が記してある。キリストは義を愛して悪を憎まれた故に、聖霊を受けられたのである。あのウェールズのリバイバルの時、エバン・ロバーツが大きな働きをしたのも、神の聖と義を愛し、人の罪を憎んだ結果としてのことである。多くの人々がリバイバルを望み、また祈るのは、この罪を憎み聖霊を愛する心からしないで、一種の好奇心からするのである。このような祈りがどうして神にきかれようか。
聖霊の貴さを最も適切に教えたのはゼカリヤ四1以下であって、山のような困難も神の霊によって崩れることを示し、決して他の力を必要とせず、ただ神の霊によってのみ成就されることを示したものである。我らもこの霊によるならば、決して失望することはない。
〔5〕「新郎おそかりければ……」私はすぐに来る、と言われてからすでに千八百年を経過したが、未だにキリストは来られない。
「皆仮寝して眠れり」外部の抵抗力が強いために心が居眠りをする時代がある。我らも再臨を非常に慕う時があっても、だんだんと鈍っていることがある。しかも、これに気づかないことがある。
ここに「仮寝して」とは英訳では居眠りをするとの意である。キリストは我らの状態を実によく知っておられるのである。
「新郎来たりぬ、出でて迎えよと呼ぶ声……」この声は待つ人にだけ聞かれるものであろう。この時に必要なのは他のものではなくただあかりである。「整えたるに」英訳には芯を切ったとある。我らは一度御用をつとめた後には芯を切らねばならない。それは自分を人にあらわさないことである。すなわち、御用をつとめて神に用いられた自分をへりくだらせて神をあらわさねばならない。
〔8〕「我らの燈火消えんとす……」油の値うちを知らない者は、この叫びを出さなければならない。
〔9〕我らが再臨の主にお会いするためには決して他人に依頼することの出来ないことを教えるものであって、自分の備えは自分でしなければならないのである。
「おのがために買え」これは今日もキリストが叫んでおられることである。主はラオデキヤの教会に対して、金を買え、白い衣を買え、目薬を買えと言われたが、我らは油を買うために他のすべてのものを代価として払わねばならない。多くの人々は代価を払おうとしないから、これを受けることが出来ないのである。そして逆に失うことになるのである。
〔11〕「主よ主よ我らのために聞き給え」全く目もあてられぬほどにあわれな状態である。今日我らは、唯信ずることによって満たされる時代にあるということは、何という幸いなことであろうか。
「我は汝らを知らずと言えり……」この言は、マタイ七23にある「我かつて汝らを知らず」とは意味の相違がある。後者は、以前からあなたがたを知らない、との意であって、前者は今知らないとの意である。故に、これは滅亡に行くとの意ではなくて、天国において最上の地位に達することが出来ず、永遠の恥を得て天国において少しも成長発達の栄えを受けることが出来ないことを指すのである。
〔13〕「さらば怠らずして守れ……」キリストを待ち望むにはヘブル九28のように、まさに今か今かとキリストの再臨を待望する必要があるのである。
テモテ後四8の「慕う」とは、ギリシャ語直訳では習慣的願望を表わす。
財産を預けられた僕たちの譬(マタイ二五14~30)
場所 オリブ山 時 火曜日
一~十三節は心中の待望を示したものであるが、ここは外部の活動を示したものである。とかく人は一方に偏するもので、ある人は外部の活動のみを重んじ、またある人は、内部の方を重んずるけれども、真実に一~十三節の油を持つ者が、この活動をなし得るのである。
〔15〕「銀」我らの賜物を指しているのであって、主は我らの知恵に従って賜物を与えられるのである。だから我らの所有するものはすべて神より委ねられたものであって、我らはこれにより神の栄光をあらわさねばならないのである。すなわちすべての機会、金、着物、知恵、これらはみな主より与えられた銀である。
コリント前四1、2の「家つかさ」とは、番頭と訳すべきであって、パウロは自ら番頭であって、忠実でなければならないということを知っていた。彼は第一に父なる神より託されたことを深く信じていた。神は我らに福音の宣教を託されたと共に、また神の御約束を二千あるいは三千と与えられた。パウロはテモテ前一11、12でこれを言っている。また、テモテ後一14においてテモテに対し、神から託されたものを守るように教えている。神が我らに与えられたものは実に多い。我らの弁舌、金銭、能力、健康その他すべてのものはみな福音を伝えるために与えられたものであって、我らが幸福に生きるためではないのである。
「各人の知恵に従いて……」神は決して我らの用いることの出来ないようなものを与えられるお方ではない。ちょうど子供に大金を渡すようなことはなさらない。だから神がわたしたちに与えて下さるものは、みな神の栄えをあらわすために用いることの出来るものである。
「銀五千……二千……一千……」銀五千とは五タラントの重さの量であって、価格とすれば莫大なものである。
〔16〕「行きてこれを働かし……」神の賜物は、働かすべきものである。我らは果して神の賜物を働かせているであろうか。ある人はその一部分だけを働かせているが、その全部を働かせていない。そして悪魔に働かせているのである。
この人は、全力をつくして他に五千を得た。我らが主の前に立ってこの決算をすることは実に厳かなことであって、もしもそこにわずかの行違いがあっても全き責任をつくしたのではない。だから我らは常にコリント後10を記憶して、神の賜物を働かすべきである。
〔21〕「善かつ忠なる僕……」我らがもしも天皇陛下からこのようなおほめのお言葉を頂いたとしたなら、どんなに名誉であり、またうれしいことであろう。まして、主の御言葉は天皇陛下のそれに勝っている。それを我らが頂くのだから、何と幸いなことではないか。その時には、我らのこの世において受けた苦難も、この一言によって全く拭い去られるのである。
ここで主は決してよく成功した僕よ、とは言わなかったことに注意すべきである。主よりおほめを受けるのはどの点においてかと言えば、ひがまずに精一杯働くという点である。そうすれば、彼の言ったことが仮に失敗のように見えても、主は我らの心の中を御覧になるのである。
「汝わずかなることに忠なり……」この句によれば、我らはこの世においてわずかなことに忠実であれば、天国においては正反対に、多くのものを管理することが出来るのである。これが主の方法なのである。
「汝の主(あるじ)の喜びに入れよ」天において多くのものを管理することは大きな報いであるが、主の喜びにあずかるのは更に絶頂の喜びである。何が幸いだと言って、主の喜びにあずかる以上の幸いはない。これこそ、幸福中の幸福である。主の喜びを我が喜びとすることである。また我らがこのような者となるのは、キリストの我らに対する大きな理想なのである。
ヨハネがこの審判について常に心備えをしていたことが、一ヨハネ四17によって分る。要するにこれは全き愛である。全き愛のあるところには忠実があって、全身全霊を主の栄えのために働かせ、利用するのである。だから愛は我らに栄冠を与えるものである。
〔22〕「他に二千の銀を儲けたり……」この人は前の人に比べれば、そのもうけ高は半分にも達しないが、彼は全力をつくして働いたから、主から同様の御言葉をいただいたのである。天国における上下は忠実か否かに関するものであって、決して分量によらないのである。
〔24〕この人は決してこの銀を他のものに使ってしまったのではなく、地下に隠していたのである。だから、ある人のように怠惰であったというわけではない。ただその与えられた賜物を活用しなかったという一事によるのである。すなわちこの人はキリストの愛に励まされて万事を行わず、常に主に対して恐怖心を抱いてびくびくしていたのである。このような人は、いつも波打際にいて悪魔に心を乱される人である。また、主の恵みの中におらず、律法の中にいて実を結ばない人である。このような人は、常に主に叱られることばかりを考えて主を誤解しているのである。そして実を結ばない人は、何事でも必要以上に難しく考えるのである。「悪しくかつ怠れる」人とは、このような人のことを言うのである。
〔27〕「銀行……」この銀行とは、他の人に使われることを指したものである。言い換えれば、自分の身体を他人に使用してもらうことである。
これは、我らが神の前に少しの言い訳も出来ないことを示したものである。不忠実な人は、再臨の時にはこの人のように、外の暗い所に追い出されるのである。ここでは地獄という意味ではなくて、永遠に進歩発達しない者となることを指すのである。そういうわけで我らの生涯は永遠の運命に大いに関係のあるものである。キリストを信じて救われた人の中にもこのような人が多勢いる。大いに注意すべきことである。
羊とやぎの譬(マタイ二五31~46)
場所 オリブ山 時 火曜日
この審判については、種々の議論がある。ある人は終末の審判であるとするが、キリストの地上再臨の時に起るべき審判である。
〔31〕「聖徒を……」この聖徒の中に我らも入ることが出来るのである。昔は主が飼葉おけの中に来られたが、再臨される時は、ユダ14にあるように、栄光の中におい出になるのである。また黙示一7にもこの出来事が記されている。
〔32〕「万国の民をその前に集め……彼らを別ち」ヨエル三2に予言されたように、イスラエルの民が千年時代に万国民の上に立ち、その祝福を受けるために、神は国民をヨシャパテの谷において審判されるのである。その伏線として中央アジヤは、今後の焦点となるのである。この審判の時にはユダヤ人を苦しめ、またキリスト信者を苦しめた者は審判され、患難に会うのである(テサロニケ後一5~9参照)。
〔33〕「羊をその右に」右とは力、また誉を意味するものであって、ここにキリストは羊飼として御自身をあらわされたのである。また直ちに御自身を王としてあらわされるのである。
ここで注意すべきことは、キリストは二、三日で十字架にかかる身でありながら、御自身を王として語り、その栄光を信じておられたことである。このことから、主は見えるところによらず、信仰によって歩いておられたことが分るのである。
〔34〕「我が父に恵まるる者よ」実に恵みの言葉ではないか。我らは我らを招かれる主に従って香ばしい生涯を送るならば、神は我らにみ国を受けつぐために来なさい、と言われるのである。我らが受けつぐものは、わずかの家一軒ではなくて、世の始めから幾千年間に我らのために備えられたものであって、しかもこれを我らが受けつぐことは何たる幸いなことであろうか。
〔35〕「そは汝ら我が飢えし時……」実に主の御記憶のよいことが分る。主は我らがなした善き行ないを決して忘れられない。善を行なった本人は忘れているが、主はいちいち記憶しておられるのである。
〔40〕「我まことに汝らに告げん……この兄弟のいとちいさき者の一人に行なえるは……」
神はイスラエル人に対して大きな祝福の約束を与えられたが、イスラエルは神に背いて失敗した。けれども神は、御自身の聖名のためにその約束を成就されるのである。イスラエルのためにこの審判を行ない、千年王国を開かれるのであるから、その審判はイスラエル人のためになされることを見るのである。
ここに「兄弟」とはイスラエル人を指すものであって、実際キリストはイスラエル人であって、彼らの兄弟である。故にキリストとイスラエル人とは一体であって、我らもまたキリストと一体である。だから、この時イスラエル人を助けた民は恵みを受けて幸いな千年王国に入り、イスラエルを苦しめた者、助けなかった者はもちろん滅亡に入るのである。
主は、主の弟子であるということから、冷たい水一杯を飲ませる者は、決してその報いからもれないと言われたが、このような小事もキリストに対する親切として数えられるとは何という大きな特権であろうか。
ロマ一二13、へブル一三2、三ヨハネ5、6を見よ。信者あるいは旅人をもてなす時に、神が喜ばれることはどれほどであろうか。それだから我らのところに旅人が来た時には、主が来られたのだと思って、親切にもてなすべきである。格別にヘブル一三3を見よ。我らは同情をもって、苦しむ者の苦しさを思いやるべきである。
テモテ後一16を見よ。パウロはオネシポロが自分を牢獄に訪ねてくれたことをどんなに感謝し、また、彼のために祝福を祈っているかを見るであろう。実際オネシポロがパウロに面会するために、如何に苦心し努力したかを覚えねばならない。
三十七節の善行こそ、ほんとうの善である。自分が記憶している善行は、多くの場合偽善であることがある。唯愛の故に自分を忘れてつくす善こそ願わしいのである。あのパリサイ人の義は、人の前に自分を義とすることであって偽善である。
〔41〕神はここを人間のために備えられたことを見るのである。
〔42〕これは三十五節に対照したものである。ここの悪も無意識のそれである。彼は確かに主にお会いしたら種々の善行を行なったに相違ないが、小さい者には気づかなかったのである。彼らは別に神の民に対して悪いことを行なったのではなく、ただ神の民を顧みなかったことによって、この恐ろしい言葉を言われたのである。彼らは自分の眼前に悩んでいる者があったのに、これに親切を行なわなかったので、それが主に対して行なわなかったことになったのである。
これによって、我らは主とその民との関係を知りたい。我らはその関係を知ることによって厳粛な感を与えられるであろう。多くの人は、種々の理論においては自由とか権利とか義務とかを主張するが、我らのすべての行為は主に対するものとなることを記憶しなければならない。ダビデはウリヤに対して罪を犯したが、「我は汝に向いて罪を犯せり」と祈った(詩五一4)。これが本当の罪の自覚である。それ故、すべてのことは神と我との関係であることを知り、また人に対する薄情は神に対するそれであることを知らねばならない。眼前のことはすべて神に対することなのである。
〔46〕「限りなき刑罰……」ギリシャ語では永遠との意ではなくて、長い時代を指すもので千年時代の幸福に入ることが出来ないことである。また、我ら信者は人に対して善を行なうことを知りながら、しかもこれを行なわない者は罪であるという言葉によって、外の暗い所に追い出されないように、信仰の戦いを立派に戦うべきである(テモテ前六12)。もちろん信じた我らは限りなき生命を与えられた者ではあるが、これを持続するために戦わなければならない。
聖書の中には、キリストが水曜日に何をなされたかが記されていない。イエスは火曜日には非常なお働きをなされたために、この日はベタニヤで静かに神と霊の交わりをなされたのであろう。この点においては多くの註釈はみな一致している。
祭司長ら、イエスを殺そうと計る(マタイ二六3~5、マルコ一四1~2、ルカ二二1~2)
場所 エルサレム
キリストが公衆に説教されたのは、マタイ二五章が最後であった。その後は弟子たちにだけ語られた。
この出来事は非常に厳かなことであって、イエスの死の原因がここに明かに示されているのである。すなわち、祭司長らのねたみである。彼らは神に対して熱心であるはずなのに、かえってイエスを憎み、イエスを策略をもって殺そうとしたとは何ということであろうか。なぜ彼らは正面から堂々と攻撃しなかったのであろうか。それは群衆を恐れたからである。多くの人々は、キリストを預言者と信じ、ある人は神より来た者であると信じたのである。さらに、その頃は過越の祭の時であって全国やさらに他国からも約二百万の人々が集まって来るので、大きな惨事をひき起すことにもなりかねないのを彼らは恐れたのである。これらのことから、イエスを殺した第一の原因は、祭司長や民の長老たちの高慢と彼らの頑固である。彼らは理屈では一言も言うことが出来ないほど言い伏せられながら、なおキリストの足の下にひれふすことを拒んだのである。このような人は、この時代のみならず、いつの時代でも自分の思いを達成するためには、策略をも辞さないのである。また、彼らは心中では人を恐れていることが分る。高慢な人の心には必ずおそれがあるものである。しかしへりくだる者の心には大胆がある。このような人は、光を与えられた時には直ちに受け入れるのである。故に高慢と卑屈とは密接な関係がある。
人間は罪の恐ろしさを、その結果によって知るが、高慢は確かにキリストを殺す罪である。我らの心中には、はたしてキリストを殺す心がないであろうか。
また、他の福音書には、祭司長らは「如何にもしてイエスを殺さんとはかり」とある(ルカ一三1~2)。なんとかしてイエスを殺そうと計った彼らに対して、パウロはなんとかしてイエスの道を伝えようと苦心したが、これは真に雲泥の差である。
今日の人々が道徳堅固のように見えるのは人々を恐れるからで、もしも社会の制裁がなかったならば、思い切ったことをするに相違ない。結局、神を恐れることがなくて、善事を行なおうとするのは偽善である。
ユダ祭司長らにイエスを渡すことを約束する(マタイ二六14~16、マルコ一四10、11、ルカ二二3以下)
場所 エルサレム
この記事を見て実に嘆かわしいと思う。神が全世界の中から自分を選ばれたことを忘れて、ユダがこの大罪を犯すことになったのは決して偶然ではなく、彼は以前から金銭を愛し、常に金のことばかりを考えて、何とかして金を得ようと苦心していたに違いない。実際、貪欲は人を殺し、またキリストを殺すものである。マタイ六24にキリストが言われるように、欲深い者は盲いである。キリストは常に弟子に向って神と富とに兼ね仕えることは不可能であると言われたが、ユダは金を愛する心を捨てずにいたから、この時にサタンに負けたのである。
我らは、ユダが我らよりもはるかに罪人であるように考えるが、実際は決して彼と我らとの罪の間に相違はない。唯我らは悔い改めたことによって救われたというのみである。一ヨハネ二15を見られよ。今日多くの信者の中にはユダのような境遇になればキリストを売り渡す信者がたくさんあるかも知れぬ。
ゼカリヤ一一12を見よ。罪人が見積ったイエスの値段は銀貨三十枚くらいである。銀貨三十枚と言えば、当時の奴隷一人の値であって、日本の貨幣で十五円六十銭(註、現代ではもちろん相当ケタ違いになっている)である。人間の目にはキリストはわずかこれくらいにしか見えなかったのである。ユダはついに金よりもキリストを軽んずる罪に陥ったのである。我らはこれについて慎まねばならない。
悪魔は外部からはキリストを殺そうと計り、内部からはこれを売り渡そうと計るのである。この世の勢力は常にこのようである。世の物を愛する人は、必ずイエスを売り渡すに至るのである。私は、ユダの罪にはくれぐれも戒められている。ユダは最初は決してこのような大罪を犯すつもりではなかったのであるが、小罪に欺かれてついにこのような悲境に陥ったのである。マルコ一四10、11を見よ。ユダは苦心していた祭司長を喜ばせたのである。彼はキリストの敵を喜ばせたのである。敵を喜ばせることは実に恐ろしいことであって、我らがもしも敵を喜ばせるならば、これは同時に神を悲しませることなのである。我らははたして神を悲しませていないであろうか。
ルカ二二3~6には、サタンがユダに入ったと記されているが、これは身ぶるいするほど恐しいことである。彼がこうなった理由は唯彼が世の物を愛したからである。またこれは悪を行なう力であって、イエスを売り渡そうと計る心である。
「ユダ諾(うけが)いて……」ユダは責任を持つにも事欠いて、キリストを引き渡すことの責任を承諾したとは何たることであろうか。
「機をうかがえり」見よ、世の物を愛する者は暗い中を歩くではないか。ユダがキリストを引き渡すのはキリストが憎いからではなくて、金を愛するためであった。他人の話を聞く時にも自分の利益を得ようとする人があるが、神を愛してこれを畏れる人は、話の中にも神を崇めるのである。
イエス、過越の食事を備えることを願い給う(マタイ二六17~19、マルコ一四12、16、ルカ二二7~13)
場所 エルサレム
ユダヤ人は過越の祭には小羊の肉を自分の家または他人の家で食べるのが普通だった。また、この祭の時にはユダヤ人のみならず、多くの異邦人もエルサレムに来るので、エルサレムでは部屋が大変不足したという。それで弟子たちは大変心配して、マタイ二六17のようにイエスに尋ねたのである。すると幸いなことに、イエスはその食事をすべき家を知らせられたのである。この部屋の持主はどういう人であるかよく分らない。その名前さえ人の目には隠されたが、まことに幸いな人である。彼の幸いなことを挙げるならば、まず第一に彼はイエスに知られていたということである。また彼は、イエスのためには何物をも惜しまないという献身的な人であったということである。エルサレム入城の際、キリストが子ろばを解かれたのと同様の出来事であって、あの子ろばはある意味で我らなのである。我らは栄光の王であるイエスをお乗せするもの、またイエスを迎え入れ、くつろがせる部屋である。イエスは喜んで我らを子ろばとし、また部屋とされるのである。
主がもし我らの中におい出になるならば、我らは過越の食事をする家となり、多くの弟子と他の人々は我らによって過越の小羊であるイエスを食することになるのである。
次に、この時の過越の祭こそ本当の祭であって、イスラエル人がこの祭を守り始めてすでに千三百年、その間多くの過越の祭があったが、この時のように厳粛なことはなかったのである。
この人はまた喜んでイエスに装飾した部屋を献げたことであろう。また彼はそこにおいて主イエスのみ声を聞いたであろう。このように彼の幸いは大きかったに相違ない。
ルカ福音書を見れば、この人に遣わされたのは、ペテロとヨハネであった。この二人は常にイエスに用いられたのである。この二人もまた、大変幸いであった。
イエス、弟子たちの足を洗い給う(ヨハネ一三1~20)
〔1〕イエスの生涯は実に愛の生涯であって、自分を敵に引き渡そうとした者までも、最後まで愛されたのである。
ヨハネが一節にこの言葉を記したのも、彼が深くイエスの愛を知っていたためである。彼が、神は愛であると叫ぶに至ったのも、決して偶然ではなかったのである。イエスは決して自分の楽を求めず、神の民のために自らの死に至るまで僕となられたのである。
我らは自分のために、また神の民のために一節の言葉を深く味いたいものである。
また、二節のユダと一節のイエスとを対照して見よ。一方はあくまでも愛深く、あくまでも人のためにつくすお方であるのに対して、他方はあくまでも貪欲に満ちている。イエスは神に満たされた肉体であり、ユダはサタンに満たされた肉体である。二人の相違は天地の差である。
〔3〕「イエス己の手に父の万物を賜いしことを知り」これはキリストの自覚である。彼は普通人とは異り、神と同一のお方である。しかもイエスは自らこのようなお方であることを自覚しながら、夕食の席から立上って、このような僕の姿となられたことは、何ということであろうか。これこそまさにイエスの御生涯を写し出すものであって、ピリピ二6以下と対照して、非常に恵みに感ずるところである。すなわち「彼は神の体(かたち)にて居りしかども……」は席を立って上衣を脱いだことに当り、「死に至るまで順(したが)い」は、たらいに水を入れたのに当り、「十字架の死をさえ受くるに至れり」は「弟子の足を洗い……」に当る。
弟子たちの足は水で洗うことも出来ようが、我らの罪は決して水で洗うことは出来ない。唯キリストの血によって始めて洗い潔められることが出来るのである。特に足、すなわち我らの歩みも汚れやすくて、イエスに洗っていただく必要がある。そうして初めて父のふところに入れられるのである。
〔6〕「ペテロ彼に言いけるは、汝我が足を洗うか」ユダは自分が引き渡そうとするイエスに足を洗われた時に、果してどんな感じがしたであろうか。おそらく知らないふりをして平気を装っていたであろう。これに対しペテロがまことに無邪気であることを見よ。ここに用いられている原語の意味は、非常に強くてとうてい訳すことが出来ないほどに、一語一語意味ある語である。第一に「主よ」という語である。他ならぬ王であり主であられるあなたが、「わが」低い、小さい、いやしい、非常に下にある感じである。「足」さらにいやしいところである。頭ならばとにかく足である。「洗うか」ペテロは全くあきれてこのように言ったのである。
〔8〕イエスの御言葉はまことに懇ろである。しかし、ペテロは彼の言に従わないで、かえってイエスに対して命令をしたのである。これは謙遜でなくて、かえって自らの義である。故に我らは聖霊によって歩かなければ、決してイエスの意にかなうことができない。だからイエスはここに明白に断言された。「もし我汝を洗わずば汝は我に関わりなし」と。
〔9〕「我が足のみならず手と頭をも洗い給え……」ペテロは驚いてこう願った。人間の力では決して神の意にかなうことは出来ない。我らはもったいないがこのことをイエスにして頂かねばならない。
〔10〕「洗いたる者は」この洗うという文字は沐浴であって、すなわち第一の恵みである新生のことである。一度生まれ変った者は、罪を犯しても決して再び生まれ変ることは要しないが、行ないは汚れ易いから洗われることを要するのである。我らはある人の言うように、罪人に接した時でさえ汚れを受け易い者であるから、人に接したり、俗事をした後には洗われる必要があるのである。「ことごとく潔き者に非ず」ユダはこの言を聞いて、自分のことを言われたと思ったが、悔い改めなかったのである。もし彼がここで悔い改めたら、どんなによかったことか。
〔13〕「我は汝らの師また主なるに、尚汝らの足を洗う……」キリストは我らの罪を洗って下さったのに、我らが兄弟たちの非を見て、その人を軽んじるとは何たることであろうか。
〔15〕「汝らにもなさしめんがためなり」イエスはここに手本を示して実行を求められた。もし人間が命令されただけで、それを実行出来るなら決してキリストを必要としないであろう。シナイ山の律法でことが足りるであろう。しかし、我らが主よりこの手本を示されないならば、どうしてイエスの愛をもって他人に伝道し、また忠告し得るであろうか。
愛は祈りから出るものであって、密室に流す涙なしに人に伝道しても徒労に終るのである。それはちょうど俳優が舞台に登るようなものであって、伝道しても何の足しにもならないのである。
〔17〕実行する人に対する宣告であって、実行する人は幸いである。
〔18〕「記されしに……」詩四一9であって、ユダの予言である
〔20〕父と子と信者との一体を言ったのである。
イエス、敵に渡されることを予言される(ヨハネ一三21~30、マタイ二六21~25、マルコ一四18~21、ルカ二二21~23)
ヨハネ福音書に基づいて講義する。
〔21〕「心に憂い、あかしして……」主がどれほど悲しかったか想像出来る。三年半の間養育した者たちの中からこのユダが出たことを悲しみ、人間の罪が実に悲しくまた恐るべきことを思われたのである。イエスの心は彼の声や態度にあらわれていたに相違ない。
「誠に誠に汝らに告げん……」この言は、特別に大切なことを語られる時にだけ用いられた言葉であって、特別に力をこめて語られたのである。
〔22〕「弟子たち互に顔を見合わせ、誰を指して言えるかと疑う」マタイ二六22には「彼らいたく憂いておのおのイエスに言だしけるは、主よ我なるか」とある。ユダがわずかばかりの金欲のために、キリストと弟子とを悲しませるとは、実に嘆わしいことであって、我らはこれによって罪の恐ろしいことを知るのである。
弟子たちが「主よ我なるか」と叫んだのは実に美わしいことであって、何か悪いことといえば、人のこととばかり思うある人のようではなく、すぐ自分のことを顧みたことは大変美わしい。彼らはユダの普段の行為を見て、ユダである、と思わずに、主よ我なるかと叫んだ。我らの心に果してイエスを売り渡す分子がないであろうか。我らもまた神の前に、主よ私ですか、と言いたいものである。
〔25〕「イエスの胸によりてありし者」とはヨハネのことである。ユダヤ人は食事の時にベンチを用いるのが普通であった。また、食事をする時にも普通横になってした。ヨハネは謙遜な人であるから、自分の名を記さなかったのである。ただ彼はイエスの愛する弟子といっている。多分彼はイエスの胸に寄りかかってパンを食べていたのであろう。ヨハネがイエスに対して少しも遠慮していないのを見る。
ペテロは多分キリストの言を聞いて、その人を知ろうとする熱心のあまり、ヨハネに尋ねさせたのである。
〔26〕イエスはヨハネに尋ねられた時に、すぐにユダであると言われず、食物を分け与えられたのはユダの魂を深く思っておられたからで、何とかして彼を悔い改めに導こうとしてこのようになされたのである。
おそらくヨハネに対するキリストの答えは他の弟子には聞えなかったであろう。もしも聞えたとすれば、イエスのなさり方はあまり上手ではない。
ここに「食物に物をつけて与うる人はそれなり」とあるが、マルコ一四20には「我と共に手を盃につくる者は……」とある。
〔27「一つまみの物を受けしその時、サタン彼に入れり」これは実に恐ろしいことである。イエスの親切に感じて自らの非を悟り、それを告白して罪を赦されるのが当然であるのに、かえって心をかたくなにしてサタンに満たされたのである。実に恐るべきことである。
我らがユダの生涯をこまかく見てゆく時、彼の堕落の経路を知り、彼が金を貪る罪に陥っていたのを見る。例えば、マリヤがイエスの足に香油を塗った時にも、ユダは金をごまかして貪ろうとしたが出来なかったので、マリヤをとがめたのであって、ユダはサタンの第一の恵を受けたのである。ヨハネ一三2でイエスを引き渡そうと決心した時、ある意味においてサタンは彼であり、サタンは彼の心に入ったのであるが、今ここで再度彼の心に入ったので、彼はサタンのバプテスマを受けたのである。我らが信者になる時に第一の恵を受け、全く神に献身する時に聖霊のバプテスマを受けるように、ユダはサタンと金に全く身を引き渡した時、サタンは彼を満たしたのである
「汝がなさんとすることは速かになせ」この時神の手は全く彼を離れたのである。我らがサタンに機会を与える時に、神の手は我らをはなれて救われる望がなくなるのである。
ここで注意すべきは、イエスとユダの取引は誰も知らないということである。我らはいつ誰が神を離れたかを知ることは出来ない(決してとは言わないが)。また、如何に恵まれているかということも知ることが出来ない。
〔29〕この時弟子たちは、ユダは金入れをあずかっていたので、彼に祭に用いる物を買わせるのか、または貧しい人に施させるのかと思った。
〔30〕「時すでに夜なりき」彼は自分の罪を告白して赦しを乞うべきなのに、彼はその顔をサタンとその僕である祭司長、民の長老たちに向けて出て行ったのである。彼の魂は夜のやみよりも暗く、彼は光と光の子供たちの集りから離れて、再び光を見ることが出来なかったのである。
〔31〕「今人の子栄を受く」敵が眼前に迫りつつあるのに「人の子栄を受く」と言われた主は、確かに未来の栄を望み見て言われたのである。彼は十字架にかかるのは神の栄であることを信じておられた。確かに、彼は十字架の上で神の栄光をあらわされたのである。何故ならば、これによって神は、不義を必ず罰せられることと、神はその独り子を賜わったほどにこの世を愛して下さったことがあらわれたからである。すなわち彼は、人々の罪を背負って罪に死なれたのである。
〔32〕「直ちに彼を栄えしめん」キリストは父なる神に従われたから、神はまた彼を尊び死よりよみがえらせ、昇天させられたのである。イエスの眼には、この一事が明白に見えていたから、へブル一二2のように、恥をもいとわないで十字架につけられたのである。
〔33〕「我ゆく所には汝らは至ること能わず」すなわち、彼らはペンテコステの恵を受けなかったから、彼と共に行くことが出来なかったのである。
〔34〕「我が汝らを愛する如く、汝らも互に相愛すべし」実に何とも言うことが出来ないほど厳かな言である。人間は、とうてい心をつくし、精神をつくし、思いをつくして主なる我らの神を愛することの出来ないものであったが、キリストが我らを愛されることを知る時に、この美しい戒めを守ることが出来るのである。結局、愛のない人は、まだ神がわたしたちを愛しておられることを知らない人である。もしもその人が、イエスが我らを愛しておられることを知ったならば、愛の人となるはずである。我らの愛は、神の愛を知った結果である。クリスチャンの特色は愛であって、愛のない者はたとえどんなに立派な説教をしても、やかましい鐘や騒がしい饒鉢と同じである。
聖餐(マタイ二六26~29、マルコ一四22~29、ルカ二二14~20)
場所 エルサレム
ルカ福音書に基いて講義する。
〔14〕「時至りければイエス食に就きぬ……就けり」ユダヤにおいて小羊をほふるのは、午後三時より六時までの間であるという。このことより、この時は夕方六時頃であったろう。この時使徒たちも席についたのである。実に幸いなことである。
〔15〕「イエス彼らに言いけるは……」キリストの御心が言外に溢れ出ているのを見る。キリストの目前にはゲッセマネあり、ピラトの法廷あり、十字架がある。これらの苦しみを前にして使徒たちと共にこの聖餐に列するとは!何千年来行なって来た予型である聖餐は、この時に完全に成就されるのである。
「大いに願えり」原語では大いに望むであって、この望むとは恋い慕うの意である。主イエスはこの聖餐を受けることを非常に喜び、慕われたのである。主は実際この恋い慕うばかりの神の愛を弟子たちに味わわせるために実物教育をなされたのである。
〔16~18〕これは儀式的聖餐と、精神的聖餐との別である。この後、神の国の来るまで(千年時代になるまで)は、ぶどうで造ったもの(地につけるもの)は用いられないであろう。今より後地上の祝福は千年時代に至るまではないであろう。旧約の儀式はこれで最後である。
〔19〕このみ言は弟子たちにとっては耳新しかったであろう。これまで何百年もほふられて来た小羊は、キリストの型であるとは、彼らの夢にも思わないことであったろう。彼らは事実キリストが主となって、地上の祝福を彼らに与えるだろうと思っていたのである。
コリント前の五7、8。これが真の聖餐の守り方である。もはや小羊がほふられるのでなくて、神の御子がほふられ給うたのである。彼は実物をもって弟子たちに示されたのである。「汝らのために与うる我が体なり」小羊の肉を食って喜んではならない。これはわが体である。キリストの求められることは「我を憶えよ」である。理屈ではなくて、唯我がために肉を裂かれたキリストを記憶すべきである。神は我らがキリストを忘れることを知っておられる故に、このように言われたのである。実際聖餐は、わたしたちにキリストを憶えさせるためにある。
〔20〕肉裂かれて血流れ、その御血こそ、真に我らの飲物である。「汝らのため……新約なり」へブル八7、8。旧約では律法によって民を制したが、民はこれを守ることが出来なかったから、神もまた彼らを捨てられた。旧約は石に刻まれた律法であって、外部にあらわれたが、新約ではその律法が心に刻まれるのである。心が自然にそれに傾くので律法が守れるのである。そうして誰であっても、どういう人でも神を知り、神と一致し得るのである。
神は我らの罪を御心にとめられず、全く忘れられるのである。ハレルヤ。新約の血は、すべての罪より我らを潔める。
またへブル一○19にあるように、キリストの肉体は我らのために隔ての中垣を取り去り、その宝血は我らを神に導かれるのである。
「附」過越の祭(出エジプト一二3~14)
〔8〕「種入れぬパンに苦菜を交えて食い」これは罪のいかに憎むべきものであるかを覚えて食すべきことを教えられたのである。
「火にて焼くべし」これは聖霊の火である。
〔9〕「その頭と足と臓腑(ぞうふ)とを皆食え」頭とは知恵、足とはその歩み、臓腑とは愛である。これらをみな食べねばならない。そして明日まで余しておいてはならない。
〔11〕「急ぎて食え」我らは世すなわちエジプトにいるのだから、食事を楽しむべき時ではない。主が来り給う時にはただちにその前に出るべきである。
〔12〕神がエジプトを罰せられる時、この血のある家は免かれることが出来るのである。そしてこの宝血こそは今も神ののろいから解きはなち、再臨の時に起る全世界の患難から免れさせることが出来るのである。
マタイ二六22以下。
「取りて食え」キリストが御自身の肉を裂き、血を流された故に、我らはこれを取らねばならない。取るとは信仰によってである。信仰とはある意味では受けることであるが、また自ら進んで取るべきである。
〔28〕「罪を赦さんとて」新約の血は罪の赦しより始まり、きよめに至り、終りは我ら愛にはげまされ、キリストのために血を流すにまで至るべきである。
〔29〕「新しき物」今の世は罪のためのろわれたものであって、ひとつとしてきよいものはないが、千年時代になればのろいは全くなくなり、すべて新しいものとなるのである。
聖餐の時に起った弟子たちの争い(ルカ二二24~30)
弟子たちの念頭には、常に我らの中で誰が一番偉いだろうかとの争いがあった。夕食の前にキリスト御自身が彼らの足をお洗いになり、親しく教えられたにもかかわらず、このような争いを起すとは、まことにあわれな彼らの心の状態である。
ある人は「聖餐の準備をするのに、ペテロとヨハネとを用いられたためである」という。人は指導者としてよく用いられる人を、うらやみねたむものである。
〔25〕キリストは懇ろに、もう一度さとされた。神を知らない異邦人(未信者)には、王があって権力を持ち、同時に民に恩恵を与えるのである。しかし、神を知っているあなたがたは、彼らとは全く身分が違うものではないか。それならば、その行ないは異邦人と反対でなければならない。そうでない者は肉であり、サタンである。
注意すべきことは、きよめの光を得てから人に目立つ人の中に、次のような人がある。すなわち「私が思うことは聖霊の導きである。私のするようにしなさい」と。真に自己中心も甚だしい。それが果して聖霊の導きであろうか。彼らでも皆ひとりひとり真理を持ってはいるが、人を自分より勝れた者としないために、このような恐るべきことに陥るのである。
〔27〕キリスト御自身、給仕の務めをして下さった。それならば主人の地位を得ようと望むべきではない。喜んで僕の地位をとるべきである。
〔28〕ここははるかに高いものを示しておられるのである。主の苦しみにあずかるという特権は、我らキリストの弟子にのみ許されたことである。これは実に大きな恵みである。
〔29〕今キリストのために、キリストと共に苦しみを受ける者は、父なる神がキリストを王とされたように王として下さるのである。これ以上の幸いはない。この世で人の上に立とうとする者は、神の前では実に小さい者となるのである。
〔30〕千年王国の時には、我らはキリストと同じテーブルで食事し、全世界で最も高いイスラエル人の上に立って、これを審く特権を与えられるのである。
弟子たちの離散とペテロの堕落を予言される(マタイ二六31~35、マルコ一四27~31、ルカ二二31~38、ヨハネ一三36~38)
マタイ福音書に基づいて講義する。
〔30〕「歌を……」弟子たちは少しもキリストの心を察しなかった。聖霊によって歩まないからである。
〔31〕これは弟子たちにとっては最も不審に思われたことであろう。先には一人といい、今度は皆が私につまずくであろうと言われた。ゼカリヤ一三7の予言はこれによって成就されたのである。
〔32〕離散した者をもう一度集められるのである。何故ならば、羊は主の打たれた後、自らの安全のみを求めて皆離散するからである。
「ガリラヤに行くべし」何故ガリラヤヘ行かれるのかは不明であるが、私の思うところによれば、弟子たちの信仰が最もうるわしかったのはガリラヤにいた時であったから、もう一度弟子たちに前のような信仰を持たせようとしてであったろう。そしてまた、奇跡が最も多く行われたのはガリラヤであったから、ここで弟子たちを励まそうとされたのであろう。
〔33〕ペテロはキリストに「汝は我がためにつまずく」といわれた時に、他人はどうであろうとも私は決してつまずきませんと答えた。主はさらに一歩を進めて彼に語られたのに、彼は自らを頼んでかたくなであった。
自力に頼り、自分の肉に依存する人は皆この通りである。肉体の打死(うちじに)はまことに簡単だが、最もいやしい仕事を与えられた時に、キリストと共に十字架をとりつつ進むことは最も困難なことであって、これが本当の打死であり、真のキリストの弟子である。
ルカ二二31を見よ。「シモンよシモンよ」とキリストが忠告されている。砕かれて自分の頼むに足りないことを知り、キリストに来なければ、サタンに必ず負けるのは明かなことである。
〔32〕これは大いなる恵みである。ペテロの眼前には彼の危険が見えなかったが、キリストはこれを知っておられて、彼のために神との交わりの絶えないように祈り続けられたのである。霊的高慢は、きよめられてからも存在するから常に目覚めて祈らねばならない。
〔33〕ペテロの決心は実に立派であった。彼は先のキリストの御言葉を受け入れず、自分だけは大丈夫だと思っていた。もちろん、彼は偽りを言ったのではないが、彼は自分の心を頼んだのである。しかし人間の決心は結局失敗に帰するのである(箴二八26)。
ヨハネ一二36。今は聖霊を受けていないからイエスに従うことは出来ないが、後になって聖霊を受けて、イエスに従うことが出来るであろうというのである。けれどもペテロはなおも悟らなかった。
聖餐後のお話(ヨハネ一四章~一六章)
ヨハネ一四、一五、一六章はこの時のお話であって、愛の絶頂である。一四章では父なる神について、一五章では子なる神について、一六章では聖霊なる神について書かれている。もちろん一体なる神は、その中にところどころに現われている。
ヨハネ一四章
〔1〕この御言葉は我らに対する無限の愛をあらわす。キリストは眼前に苦、恥、死の大問題があるにもかかわらず、唯弟子のことだけを思って、何とかして彼らを慰めようと努められた。「憂うる」英語のトラブルであって、ちょうどすべてに揺れ動くような状態である。しかし、キリストはどんな逆境にある人々に対しても、心配するな、心を騒がすなと仰せられるのである。
「神を信じ、また我を信ずべし」これこそ我らの秘密であって、神を信じまたキリストを信じない者は、心の中に常に思い煩いを持っているのである。唯神だけを信ずることは、ユニテリアンでもしている。けれどもそれだけでは信仰の深みにまだ達していない。神と私との間に聖なる仲保者であるキリストがなくてはならない。ヤコブを見よ。夢の中で聖なる神との交わりを助けたものは、キリストなる梯子であった。高き神と卑しき人とを一致させるのに、どうして仲保者がなくてよいであろうか。多くの宗教は、ただ神のみを信じて「我を信ずべし」と言われたキリストを信じないのである。
〔2〕地にのみ目をつけた弟子たちには、この御言葉を理解することは出来なかったであろう。この世ではどんなに逆境にあっても、またたとえ食べるものがなくても、住む家がなくても、天には我らのために美わしいみ国が備えられているのである。見よ、キリストは眼前に死を見ながらも、どんなにか天国を望まれたことか。これこそ彼に勝利を得させた一つの原因である。
彼の十字架は、我ら一人ひとりのために場所を用意しに行かれた道なのである。
〔3〕「もし行きて……」これはキリストの無限の愛である。一節には信仰を示し、二節には望を示し、三節には愛を示された。天国はどんなに美わしくとも、キリストは彼一人でいることを好まれない。故に彼は新婦なる我らを受け入れて、共に永久に住まわれるのである。
〔4〕このようにまで言われるのだから、弟子たちはキリストの行き先を知らねばならないはずなのに。
〔5〕トマスは地のことを思い、キリストは王となって、彼らは右大臣、左大臣、になろうなどと思っていたから、天のことを知ることが出来ず、それで正直にキリストに対して、どこに行かれるのかと尋ねたのである。地につける人には、キリストの霊的言葉は少しも解らないのである。
〔6〕「我は道なり、真理なり、命なり」これは無限の天啓である。多くの知者、学者のわからない大真理を、キリストは唯一言で説き明かされた。そしてこの御言葉は、我らにとっては、信仰によって明確に理解することが出来るのである。今日まで多くの人は、哲学や理論によって「道」を獲得しようとしたが出来なかったのである。それは彼らがイエスを度外視して道を求めたからである。
道を得るのは人間の業によらず、理論にもよらない。「我は道なり」と言われたキリスト御自身である。見よ、神が肉体となって地上に降り、死んで甦えり、昇天されたこの尊い道は、明かに我らの眼前にあるではないか。「真理なり」多くの人は真理がどこにあるだろうかとさ迷っているが、真理の本体は、人々が考えるようなものではなくて生ける主イエス御自身が真理なのである。「命なり」人間は肉体の命をさえ知ることが出来ないのに、まして魂の命をどうして知ることが出来ようか。我らに命を与えるのは、どうしても生ける御方でなくてはならない。それは他ならぬ主である(一ヨハネ五11、12)。まことに命を持つものは、命の本源なるキリストを持つのである。彼は私の行くべき道であるからキリストに従い、彼は真理であるから彼にならい、彼は命であるから彼に居るべきである。「人もし……」多くの人は、宗教でありさえすれば、どんな宗教によってでも神に到達出来ると考えているが、キリストによらないでは父なる神に達することは出事ないのである。
〔7〕この節でキリストは、父なる神と同一体であることをあらわされた。多くの人の目には父なる神とキリストとは別のもののように見えるが、キリストは「我を見し者は父を見しなり」と宣言されたのである。
多くの人々が父なる神を知り、また見ることが出来たのは何千年かの昔だけであったと思っているが、決してそうではない。「今より汝ら彼を知る」。
〔8〕「ピリポ……」これは人々の叫びである。ピリポはキリストだけでは満足出来ずにキリスト以上の者を見ようとして、父を示して下さいと言ったのである。彼は父を信じたいと願わずに、父を見ようと願ったのである。
〔9〕これはキリストのお嘆きである。「我かく久しく汝らと共にありしに、未だ我を知らざるか」信者の中にもキリストを知らない者がある。また我らの中にも霊においてキリストを知らない者はないだろうか。キリストは父なる神の中に、父なる神はキリストの中におられるのであるから、キリストを見た者は父なる神を見たのである。キリストがお語りになったのは、内にいます父なる神が語られたのである。
〔10、11〕初めキリストは御言葉により父なる神をあらわされた。それでもなお信じられない人のために奇跡を行われたのである。だから、キリストは初め我らに信ずべきことを御言葉によって告げられたが、なお信じられないならば奇跡によって信ずるように示されたのである。
〔12〕これこそ信ずる者の特権である。彼は特に力をこめて「誠に誠に」と仰せられた。信ずる我らにはキリスト以上のことが出来るのである。もしキリストがこの世にながくおられたとするならば、全世界に伝道なされたはずである。しかし彼が父なる神に帰り、その後聖霊が降って大いなる神の力があらわれたのである。これはキリストの贖罪の結果である。
今はすべての約束の成就されるべき時代である。そしてこの力がどこから来て、誰によってあらわされるかと言えば、神より来て、信ずる我らによってあらわされるのである。だから我らはキリスト以上のことが出来るはずであるが、何故出来ないかというならば、不信仰だからである。我らはなお一層信ずべきである。
我らの信仰の目あては、死にて甦えり、今父なる神の前にいまし給うイエスである。エリヤが昇天した時、エリシャは、私に真の力を下さいと言った。するとエリヤは、私が天に昇るのを見るならばその力を得るだろうと言った(列王下二9、10)。この後エリシャは力を得て大きな奇跡を行なったのである。信仰によって昇天されるイエスを見よ。だが弟子たちのように、失望の目をもって見てはならない。信仰においてイエスは私のかしらである。そして我らはその体の一部なのである。故に、イエスのあらゆる力は、私によってあらわれるべきはずである。けれども、より深く、よりあつい信仰が伴わねばならない。このようにして始めて栄光が現われるのである。
〔13〕祈祷!!祈祷!!、何はともあれ祈りである。その祈りはイエスのみ名によって祈る祈りである。イエスのみ名によって祈るとは、彼の心、彼の性質、彼の願いが我が心にあって初めて彼のみ名によって祈り得るのである。心はキリストに反しながら、彼のみ名を用いて祈るのは実に畏れ多いことである。キリストの御心にかなう願いは、キリストの願いである。キリストのみ名によって願うとは、願うのはキリストであることをあらわすのである。キリストは父なる神の前にあって、我らからの祈りを調べ、キリストのみ名によって祈った祈りは、キリスト御自身が責任を負って父なる神の前にとりなして下さるのである。
我らはキリストのみ名を崇め、父なる神はキリストを重んじ、ここに始めてキリストによって父なる神のみ名はあらわれるのである。我らの祈りの動機はすべてこれでなければならない。
あのジョージミュラーは孤児院を建てたが、世の人々のように孤児を哀れと思ってしたのではなくて、神はイエスの名によって祈る祈りには必ず答えて下さるということを人々に知らせようとして、イエスのみ名によって、信じて孤児院を建てたのである。今は数万の孤児は彼によって養われているのである。
〔14〕「何事にても」もう一度繰り返された。神は知も力も愛も満ち給うお方であるから、これを我らに与えようとして待っておられるのである。だから我らが唯イエスのみ名によって求める時に与えて下さるのである。神は我らの不足を知っておられるが、求めなければ与えて下さらない。たとえ予定のことがらであっても、求めなければ与えて下さらないのである。
〔15〕キリストが我らに求めておられるのは、唯愛である。ヨハネ二一15以下を見よ。主は甦えりの後、どんなに愛を求められたことだろう。「汝すべてに勝りて我を愛するか、然らば我が小羊を飼え」と仰せられた。主は愛をもって我らに願うことは、小羊をかうことである。これがキリストの遺言である。
イエスを愛する者は、イエスがのこして行かれた魂に目をつけるのは当然である。ところが多くの人々は、自分のことばかりをキリストに願って、彼の戒めである小羊をかうことをしないのである。もちろん戒めを守ることは義務ではないが、すべてのことはイエスを愛する愛から割り出すべきである(一ヨハネ五1、2)。
〔16〕ここにキリストの我らに対する無限の愛があらわれている。キリストは我らに一五節のような感謝すべき十字架を負わせられた。そこで父なる神にこのことを願われたのである。その時父なる神は別に慰め主、ギリシャ語の「パラクレートス」を我らに与えられるのである。
慰め主の原語は、同情の友、先導者、教師、主、訓慰者、保護者、祷告者等の意味がある。そしてその尊い御方が、永遠に我がうちにおられるのである。このお方が我がうちに来て下さるのは、我らのために祈り給うキリストによってである。
聖霊は一度我がうちに入って下さるならば、我らのうちから決して出ることはないのである。
〔17〕この真理のみ霊は、どんなに学問があっても、また地位財産があっても受けることは出来ない。唯信ずる者だけに与えられる恵みである。これを受けてはじめて知ることが出来るのである。「されど……」これは実験的である。ハレルヤ。他の人はいざ知らず、信ずるあなたがたはこの御方を知り得るのである。この「共に居る」とは現在であって、「うちに居ればなり」とは未来である。聖霊は当時弟子たちと共におられるのであるが、彼らのうちに宿ったのは、ペンテコステ以後でなければならなかった。これは第一の恵みと第二の恵みである。
〔18〕ハレルヤ、神は今我らに慰めを与えられるのである。だからあなたは孤独の思いを抱いてはならない。肉のイエスは去られても、内住のイエスはおいでになる。
〔19〕キリストの十字架の後は、信じない者は彼を見ることは出来ないが、信ずる我らは現在見ることが出来るのである。「我生くれば」これは死んで甦えり、永遠に死に給わないイエス・キリストである。このキリストが我らのうちにおられる故に、我らは永遠に死なないのである。この命は何者もこれを奪い取ることは出来ないのである。
〔20〕ここにおいて、今まで悟ることの出来なかったことも明白に知ることが出来たのである。第一には父なる神とキリストは等しいものであって、キリストは父なる神の中におり、我らはキリストの中におるのである。そればかりではなく、キリストは卑しい我らに内住されるのである。これこそペンテコステの恵である。
〔21〕聖霊を受けた人は、事実においては以前のようであるが、人々の中では互に異なるものがある。そして神の子ら、すなわち兄弟姉妹を愛して愛の戒めを守り、愛を実行する者(ただ始めだけ主よ愛します、と言うのではなくて、必ず実行がなければならない)は、父なる神に愛されるのである。父なる神は、もちろん罪人をも愛されるが、特にキリストを愛する者を愛されるのである。
「我もまたこれを愛して」このような人は、またキリストに愛されるのである。キリストはその人に特別に御自身を示される。キリストは我らがまだ彼を愛さなかった時に、我らを愛して救われたが、我らがキリストを愛してからいっそう彼に愛され、愛の実行として彼より託された魂を愛することが出来るようになった時に、キリストは御自身を我らに現わされるのである。
〔22〕これは人間のあわれな状態である。キリストが熱心に霊的なことを説かれた時に、このような理屈っぽい質問をするのである。彼は霊のことを頭で理解しようとする者である。このようなことでは、どうして深い霊的のことを解することが出来ようか。
〔23〕この節は二一節から直接につながるべきものであって、キリストはこのようなユダの質問にお答えにならなかった。「人もし……」真にキリストを愛する人であるなら、必ず実行が伴うべきである。父なる神はこのような人を愛されるのである。「我ら来たりて……」これは複数であって、父なる神とキリストとは共に来て我らの中に住んで下さるのである。このようにして初めて我らの中に三位一体の神が内住されるのである。
三位一体の神は理論では理解出来ない。しかしこの神が私に内住されることによって、真に知ることが出来るのである。
これらの真相は愛である。愛の実が挙がることによってである。信仰によって受け、愛によって知ることが出来る(一ヨハネ二5、三24、四15、16)。
キリストに向う愛のない人は、キリストの御言葉を守らない人である。キリストの御言葉を守らない者は、父なる神の御言葉を守らず、これを踏みつけにする者である。このような人は、常に働きにおいても祈りにおいても、また如何なることにおいても力なく感じ、そのなすことはちょうど空に向かって射つ弾丸のようで、少しも手応えがないのである。
〔24〕キリストを愛することと、彼の言葉を守ることは、ちょうど車の両輪のようであって、決して離すことの出来ない関係にある。キリストの戒めは「神を愛し、また互に相愛せよ」である。だから人を愛さない者は、キリストを愛さない者である。キリストを愛することと、人を愛することとは一つである。キリストの御言葉には、父なる神の完全な意志がこめられているから、これを守ることは父なる神を愛することである。故に人を愛するのは父なる神を愛することであることを知らなければならない。
〔25、26〕主は在世中、常に弟子たちに教えられたが、どうしてもその思いが弟子たちの心に入らないことを認められた。それ故に、キリストは彼らに聖霊を降して教えるより他に道のないことをお知りになった。これがつまりキリストが霊となって降られたことであって、後に来る「慰める者」である。これによって父なる神の愛のいかに深いかを知る。
一四節と対照して見よ。キリストの名によって我らに聖霊を降されるのである。キリストの聖名は何と尊いことか。
この聖霊は第一に慰める者、第二に教師、第三に記憶力である。すなわち、
第一、どんな理論よりもまず第一に要するものは慰めである。
第二、キリストの弟子たちは、多くのことを見聞し、また親しくキリストより教えを受けたが、彼らはこれを悟ることが出来なかった。しかし聖霊は完全な教師となられるのである(一ヨハネ二20、27)。
第三、記憶は誰にとっても非常に困難に感ずることである。しかし聖霊は我らのために記憶力となられるのである。特にみ言を覚えようとする時、神に求めねばならない。聖霊はその時記憶力となって下さる。もし我らにこの聖霊がなかったならば、神のために働こうとしても不可能なことである。
〔27〕弟子たちがキリストを離れなければならなかった時に、彼らはどんなに淋しく感じたことであろう。三年半の間共にあって教えられた師、また卑しい彼らと食を共にされた神の子が、今や彼らを離れねばならない時の弟子たちの思いは、果してどんなであったろうか。しかしキリストは、このような時に彼らの要するものを与えられるのである。
肉体としてのキリストは彼らを離れ給うが、主の平安は永遠に彼らを離れない。使徒二25~28に主の平安はあらわれている。外的にはどのような生涯にあろうと、主の平安を与えられたことを知った者は幸いである。
ピリピ四7の「守る」は四方から護衛するという意味である。またコロサイ三15、これは内から支える力である。
世も我らに平安を与えるように思われるが、これは一時の偽りの平安であって、決して満足出来るものではない。我らの平安は果して誰から出たものであろうか。自ら反省しなければならない。
主は御自身に満ちているものを我らに満たされるのである。
次に記すのは、バックストン兄の講義の中に示されたものである。 恵の富 (一)我が平安 ヨハネ一四27 (二)我が愛 ヨハネ一五10 (三)我が喜び ヨハネ一五11 (四)我が恩 コリント後一一9 (五)我が力 コリント後一二9 (六)我が安息 へブル四5 (七)我が栄光 ヨハネ一七24
〔28〕「我ゆきてまたなんじらに来たらん」これは聖霊によって来ることを言われたものである。もちろん父なる神は、キリストよりも大いなる栄と力とを持っておられる。キリストがこの父に帰るのは凱旋である。だから弟子たちもこの主を喜ぶべきであるのに、彼らは悲しんだのである。キリストと弟子たちとはどうしても喜憂を共にすることが出来なかったのである。肉体なるキリストの去られることは大いなる神の恵みであるにもかかわらず、世につけるしかも肉につける弟子たちには、この幸福をかえって悲しんだのである。これは肉につける信者の愚かさを示すものである。
〔29〕実に懇ろなお言葉であって、キリストの愛であることをよく証明している。
〔30〕ヨハネ五19、この世はまさにサタンに服従したものである。この世の主とは悪魔である。サタンはキリストの肉を殺すのである。「彼我に係わることなし」ハレルヤ。主イエスは少しもサタンに所を得させられなかった。主の平安の一面はここにも見られるのである。
〔31〕キリストはサタンに関係がないのに、しかもサタンに殺されたのは何のためであろうか。それは唯主イエスが父なる神に対して愛の服従をされたその結果に他ならないのである。父なる神が何とかして世人を救おうとされるその意志に服従して、主は命さえも捨てられたのである。
ここ迄は晩餐の席上で懇ろに語られたのであるが、もはや十字架につけられる時の近づきつつあることを知り給うた主は「立てよ、我らここを去るべし」と勇ましく立たれたのである。
我らもまず静かに主より教えを受けたならば、また主と共に従うべきである。
第一五章
一~一一 キリストと信者との関係 一二~一七 信者相互の関係 一八~二七 世と信者との関係
〔1〕「真」特に真のと言われたのは、ぶどうの樹に種々あるからである(イザヤ五1、2、ホセヤ一○1を見よ)。人間はすべて失敗したが、キリストのみは真のぶどうの樹となられたのである。
ぶどうの樹といえば、地に根をはって生きているものである。天使はいかにきよくても、地に何か祝福をもたらすことが出来ないのである。英雄君子であっても死ぬ、しかし永遠に生きて地上に恩恵をもたらすものは、唯イエス・キリストのみである。「我が父は農夫なり」どんなに父に信頼しておられるかを見よ。
〔2〕枝とは後にある通り信者である。実を結ばないぶどうは全く無用なものである(エゼキエル一五2、3)。実を結ばない信者は、未信者にも劣るものである。父はそういう人を切り取られるのである。信者がこの世にいるのは、ただ実を結ぶためである。故に実を結ばない信者はこの世から取り去られた方がよいのである。「実を結ぶ枝はこれを潔む」潔むとははさみを入れることである。悪い枝をとり除かれるのである。神は実を結ぶ信者をさらに試みて、深められるのである。我らがもし試みを受ける時は、これを覚えて感謝し、ますます励むべきである。それは父がますます実を結ばせようとするみ旨だからである(ピリピ一7)。
実とは第一に悔い改めの実(マタイ三8)、第二には聖霊の実(ガラヤ五22、23)、第三には働きの実(ピリピ一22)である。
〔3〕神は外より我らにはさみを入れ給うと同時に、み言によって我らが捨てるべきものを示し、内からきよめを与えられる。このきよめとはピューア、純粋の意である。
〔4〕実に懇ろなお言葉である。「汝ら我に居れ」とは少しもむずかしいことではない。主は胸を開いてここに入れと招かれるのである。しかし内に自己がある時は、主に居るということは不可能である。そしてそれは苦しいことである。
主に居ることを色々に味わうことが出来る。第一、主を信頼していること、第二、主を信任していること、第三、常に共にいること。
我らが主を信ずる時には、主もまた我らを信じ給うのである。我らが主に頼る時、主もまた我らに頼り給う。実に、居るとは相互の深い関係をいうのである。我らが主に居るならば、主もまた我らに居給うのである。ハレルヤ。この時に豊かな実を結ぶことが出来るのである。
我らはしばしば自ら努めて律法のもとに入ることがある。また主より離れて実を結ぼうとすることがある。けれども何の実をも結ぶことが出来ないのである。ただ主につながって初めて実を結ぶことが出来るのであって、これこそ秘訣であることを知らなければならない。
〔5〕枝は幹と同性質、同組織をもつものである。だから信者たる者は、主にあって主と同性質、また同組織である。キリストが神の子であるように、我らもまた主にあって神の子とされたものである。また、樹は枝がなくては完全であり得ない。我らをこのような身分として下さった主を讃美せよ。
コリント前六15には、我らの肉体はキリストの枝(肢体)であるとある。神よりの生命は、ただ我らの霊のみならず、肉体にまでも注がれていることを知らねばならない。
樹が立派であり、農夫もこのようであるとすれば、どうして実を結ばないはずがあろう。しかし今日の信者の多くが実を結ばないというのは、真に悲しむべきことではないか。神はそれをどんなに嘆かれることであろう。これは主につながっていないためである。主は「汝ら我に居らざれば何事をもなす能わず」と言われたのである。
〔6〕以上のような人は実を結ばないのみでなく、ついには外に捨てられて枯れるのである。たとえ恵の座において神の豊かな恵みが降っても、もし個人的生活で神から離れているならば、その人は外に棄てられる人であって、暗い所にいる生命のない人である。注意して心の中を探りなさい、あなたは果して外の暗やみにいないだろうか。主につながるか否かは、また火に投げ入れられるか否かという結果を見るのである。天使は、主につながらない者をすべて火の中に投げ込むのである。
〔7〕これは四節と同意である。我らにキリストが内住される時は、キリストのみ言は私に対して主となるのである(コロサイ三16)、この「充ち足らしめ」は「満たす」という意であって、聖霊の働かれる時はキリストの働かれる時である。またキリストの働かれる時はキリストのみ言の働かれる時である。私がキリストの中にあり、キリストが私の中にあって、キリストと私とが完全に一致する時、私の祈りはキリストの祈りであるから、すべて答えられるのである。何故私の祈りが聞かれないかといえば、私の願いとキリストの願いが一致しないからである。
〔8〕父が我らに求められる実は、多くの実である。立派な子供を持つ親は名誉であると同じに、我らが多くの実を結ぶならば、神の栄光となるのである。ハレルヤ。
キリストと一致する人は、キリストの弟子であるように、また、多くの実を結ぶ者は、キリストの弟子である。だから実を結ぶ人はどんなに父とキリストを喜ばせることであろうか。
〔9〕居れということを、もう一つの面から説明されたのである。父なる神がキリストを愛されるように、キリストは我らを愛されるのである。だから、その愛の中にいなさいと言うのである。創世三七3、4は、父なる神がキリストを愛される愛の型である。父なる神に備わっているすべての徳は、キリストに完備している。それが「色どれる衣」である。この愛なる父は、すべてのものをキリストに、また我らに注がれたのである。だから、我らはこのようにまで我らを愛される主の愛に居るべきである。
〔10〕主の愛に居るのに一つの秘訣がある。キリストが父なる神の愛の中にいたのは、父の戒めを守ったことによる。だから我らもまたキリストの愛のうちにいようとするならば、彼の戒めを守るべきである。
〔11〕キリストが父の戒めを守ってその愛の中におられることによって、彼のうちに喜びがあった。そのように我らがキリストの戒めを守ってその愛の中におるならば、我らの中に喜びが起る。主の戒めを守り、主の愛の中に安息している時に、喜びが満ちる。これは死を前にしても消え去らない。この喜びは境遇によらず、神との関係による。
〔12〕これは新しい戒めである。主が我らを愛されるように、我らも互に愛し合うべきである。これが愛の源であって、しかも愛の標準である。
ぶどうの樹の中に愛という汁がある時に、枝に汁が乏しくなるようなことはない。もし我らがキリストに居るならば、聖霊はキリストに満ちている愛をもって我らを満たして下さるのである。
〔13〕人がその友のために少しでもつくす時は愛がある。まして、そのために命を捨てるならなおさらである。しかしキリストは、敵のために命を捨てられたのである。これより大きな愛は他にない。
〔14〕以上のようにして、初めてキリストの友となり得るのである。友とは実に深い意味があるのであって、以前にはキリストの敵であったものが、今は彼の友であるとは、何という恵みであろうか。
この友とは、単に信じた人ではなく、また罪を赦された人でもなく、キリストの戒めを守った人でなければならない。つまり愛の実行者でなければならない。ヤコブ二23に神の友と呼ばれたのは、行ないがあったからである。
〔15〕ハレルヤ。僕ではなくて友である。友とはすべての相談をするものである。打明けて相談するものである。キリストは父より聞いたことをみな我らに告げられた。主は忠実な僕には必ずすべての秘密を告げられるのである(創世一八17)。常に服従する者には、神は人の知らないことを告げられるのである。主は我らの中に主の相談相手となるべき親友を求められる。そして主はこの親友にすべてのことを託して実行させられるのである。我らはすでに主から魂を託されたのである。だから全力をつくしてこの魂を愛すべきである。兄弟姉妹が愛し合わないで、どうして主の友であることが出来ようか。
〔16〕「(1)汝ら我を……(2)かつ汝らをして……(3)また汝らの……(4)我汝らを立てたり」
(1)我らがもし選んだのなら、主を取りはしなかったであろう。きっと世の物また偶像を取ったに相違ない。また力量から言っても、主を取る力などはない。けれども主は無限の愛の目的を達成しようとして、我らを選ばれたのである。神が選ばれる者は、世の知者ではなく、かえって世にあって無きに等しい者である。
(2)神が選ばれた目的は、行って実を結ばせるためである。第一の実は愛であって、第二の実はガラテヤ五22、23である。特に行ってに注意せよ。実は我らがこの世にある間に結ぶものであって、これはまた現世にある最大の目的である。すなわち神より遣わされ、密室においてサタンと戦って実を結び、また人に接して実を結ぶためである。「結ぶ」とは、消極的ではなくて進撃的である。
「保たしめん」多くの人は一時実を結ぶことがあっても、間もなくその実が破れることがある。けれども主の御目的は、その実を保つことにある。どうしたらその実を保つことが出来ようか。それは主に居ることによってである。主に居る時に、主は実を保たせられるのである。
(3)祈りによって神の恵みを呼び下すのである。父なる神はすべてイエスのみ名によって求める者に、どんなものでも与えようとしてキリストを立てられたのである。
(4)「立てたり」立てるとは按手して任命するという意味であって、我らの務めは、主の名によって父なる神からすべての恵みを呼び下すことにある。このために我らは選ばれたのである。父なる神には、我らに与えるために、すべてのものがすでに備わっているのである。ハレルヤ。
〔17〕「汝ら……」すべてはみなここに帰着するのである。神の命令はただ愛すべきことである。我らが実を結ぶのも愛である。祈るのも、人のために恵みを呼びくだすのも愛である。主は我らにほかのことをお求めにならない。ただ愛だけを求められるのである。ああ、この愛、あなたは果してこの愛を持っているであろうか。また愛によって祈りつつあるであろうか。
〔18〕以上述べたように、我らは父なる神にこんなにまで愛され、また愛しつつあるのに、他方世は我らを憎むのである。真に神の愛を持つ人は世から憎まれるべきである。世に憎まれない伝道は、世に調和した俗化した伝道である。もしも我らがキリストの中に居るならば、世の憎悪が放つ矢は、まず第一にキリストに当るが、第二には我らに来るのである。けれども神は我らの火の垣(ゼカリヤ二5)となって、我らを守られるから、世の憎悪の矢は、この火によって潔められ、そして後に我らに当るのであるから、我らの益となるのである。ハレルヤ。
〔19〕ハレルヤ。我らはも早世のものではなくて、世にあって世に死んだものである。それ故に世は我らを憎むのである。前の実は積極的であってこれは消極的である。
イスラエルの民がエジプトにあった時に、もし彼らがエジプト人のように行動していたら、あんなにまで憎まれなかったであろうが、彼らは少しもエジプト人に感染しなかったから憎まれたのである。だから我らも世に歓迎されるような伝道を止めて、反対される伝道をすべきである。
〔20〕「僕はその主よりも大いならず」けれども僕が主人と同様に取扱われるならば、実に満足の至りと言うべきである。
「人もし……」この世はついに我らの主を迫害して死に至らせたのである。それならば、その僕である我らが迫害されるのは当然のことである。迫害されて我らはますます主と我らとが一つであることを知ることが出来る。
〔21〕世人はイエスを遣わされた神を知らないのである。だからイエスという名は救主ということを聞かずに迫害するものである。彼らが迫害するのは、主を知らないためであってむしろ当然のことである。
〔22~25〕これはキリストの御言葉を聞いてもなお信じないユダヤ人に言われたのであって、キリストは御自身神であることを何度も彼らに示し、彼らもまたキリストが不思議な方であると知っていたのであるが、あえて信じようとはしなかったのである。ユダヤ人はイエスを迫害することは、神に対して忠実なことと思った。けれどもイエスを憎む者は神を憎む者なのである。
主は奇跡によって御自身の神であることを示されなかったなら、主の神であることを信じなくても弁解も出来ようが、しかしすでに主の奇跡を見た以上は、もはや言い逃れることは出来ないのである。
キリストの神であることは、父なる神の証明によっても明かである(マタイ三17)。またヨハネの証明によっても明かである。しかしユダヤ人は、彼を信じないで迫害したのである。彼らは暗を愛するから光である主を憎むのである。
〔26〕このような悪しき世にあって、なおキリストを世にあらわすのはただ聖霊御自身である。我らはただこのキリストを世にあらわすために働くばかりである。そして我らを慰め給う者は、聖霊御自身のみである。
〔27〕親しくキリストを知ってこそ、初めてキリストの証人となれるのである。我らも聖霊によって親しくキリストを知らされたのだから、キリストの証人となるべきである。
第一六章
一~四 迫害に対する覚悟 五~七 キリストの去る利益 八~一五 聖霊の働き 八~一一 世に対する聖霊の働き 八~一五 弟子たちに対する聖霊の働き
〔1〕転ばぬ先の杖という諺のように、キリストはこれらのことを弟子たちに語られたのである。このつまずきとは、原語ではわなにかかるとの意であって、キリストは何とかして弟子たちをこのわなから逃れさせようと努められたのである。多くの人々はこのわなにかかるのである。マタイ二六31を見よ。十二弟子でさえこれにかかったのである。その理由は彼らの目がキリストに留められず、地についていたからである。我らが地を見る時に、怖れが生ずるのである。ユダ24のように、主はあたかも親が子の手をとるように、我らを守られるのである。
〔2〕ユダヤ人であって、もし会堂から追い出され、また絶交された者は、社会から完全に追放された者であって、この世にあって無きに等しい者である。「殺すもの……」迫害は追放より、ついに殺害にいたる。ステパノ及びパウロはこれに会ったのである。彼らは、キリスト信者を迫害することは神のみ旨であると考えたのである。
〔3〕父なる神、子なるキリストを知らないから、父子の一致する者(キリスト)を迫害するのは無理もないことである。
ただ外面のみで、我は神を信ずる者だと吹聴する者は、ありのままのキリスト(癒し主、きよめ主、救主、再臨の主)を伝える時には必ず反対しまた迫害するのである。その時、「父よ彼らを赦し給え、彼らはそのなす所を知らざればなり」と祈るべきである。
〔4〕キリスト御在世の時には、反対のほこ先はすべてイエス御自身が受けられたから、弟子たちにはこなかった。だからこれらのことを弟子たちに語る必要はなかったのであるが、今や主がこの世を去ろうとするに当っては、当然今後の迫害のほこ先は直接弟子たちにくることを警告せざるを得なかったのである。だからこのように語られたのである。
〔5~6〕今やキリストは三十三年の地上の御生涯を終えて、めでたく父の許に帰られるのである。主のお喜びはどんなに大きかったろう。そういうことを夢にも思わなかった弟子たちは、主の行き先きを問いもせずに、肉につける彼らは天国の幸福に着眼もせず、ただ悲しみにふけったのである。彼らの悲しんだのは、三年半にわたり親しく教えを受けた主と、別れねばならないからであった。
自分の心に肉の願いを中心とする者は、常にこのような悲観に陥るのである。これによって、天につける者と地につける者とは明かにわかるのである。
〔7〕肉につく信者は、あたかも近視の者のようである。彼らが思う利害は正反対である。肉につける弟子たちには、キリストの御言葉は不利益と思った。そして何とかしてキリストを引きとめておこうと考えたのだが、もしキリストが父のみ許に帰らなければ、慰める者は来ないのである。もちろんキリストも弟子たちを慰められたのであるが、まだ弟子たちの心の中にまで行きとどかなかったのである。彼らの心を慰める者は、ただ内から働く聖霊でなければならない。
キリストが父なる神に帰るその御目的を明かに見る時に、聖霊は我がものとなるのである(使徒二33)。キリストが父なる神の右に挙げられたからこそ、はじめて聖霊を降すことが出来たのである(エペソ四8)。
〔8~9〕聖霊が降り給う時には、奇しきみ業をなされるのである。その時に、この三つのことを悟らせられるのである。悟らせるとは英語コンビクトで非常に意味の強い言葉である。「罪についてと言うのは……」最も恐るべき罪は、キリストを信じない罪である。キリストが来られたのも、神の子であること、また信ずべきメシヤであることを知らせられたのであるが、なおこれを信じないのは罪である。ペンテコステの日に「人々の心刺さるるが如し……」(使徒二37)とはキリストを信じなかった罪を思ってである。
〔10〕真の義とは、父なる神に帰られた主イエス御自身より他にない。そして、この主を受け入れるから、我らは義人となったのである。この主を受け入れないでは亡びるのである。おお、この義を受けよ。
〔11〕「審判につき……」これはサタンのなした業に報いがきて、審かれるのである。故に、それと同時に悪につく者も同様に審かれるのである。見よ十字架の上を。ここにサタンはすでに審かれたのである。また信じない者も審かれているのである。
〔12〕これはキリストの御嘆きである。これら弟子たちの身辺に起ろうとすることをすべて語ろうとされるが、彼らはこれを悟ることが出来ないのである。これは多くの信者に対する主の御嘆きである。心に肉の思いのある時には、耳に入って頭ではわかるかも知れないが、真にこれを悟ることが出来ないのである。
〔13〕キリストの忍耐を見よ。弟子は仕方がないからといって決してこれを捨てられなかった。真理の霊、教師が来る時にすべての真理を知らせて下さるのである。ハレルヤ。ただ一部でなくてすべてを知らせて下さるのである。これがキリストの御約束である。だから信じて受けるべきである(ヨハネ一三20)。
「そは彼……」聖霊はへりくだり給うのである。己れによって語られない。父なる神はキリストを崇め給う。キリストは御自身で出来ないからと聖霊を崇め給う。聖霊はまた御自分の言うことは、自分が言うのではない、父なる神から聞いたのであると、父なる神を崇め給うのである。この三位一体の神は、互に御自身をへりくだらせ給うのである。
「来らんとすることを……」ハレルヤ。ペンテコステ以後のヨハネに、神は彼の驚くべき黙示録を与えられた。この中には将来起ろうとする歴史あり、天国があり、地獄がある。これを直接に語られたのは大予言者である聖霊御自身である。
〔14〕「彼我が栄を……」聖霊が我らのうちに働かれることによって、はじめてキリストについて知ることが出来るのである。何故なら聖霊は我らにキリストを示されるからである。
聖霊が我らの教師となられる時に、我らは現在のキリストを見ることが出来、また再臨のキリストを見ることが出来るのである。また聖霊に満たされた人は、自らの智、義、徳などをあらわさずにただキリストのみをあらわすのである。
〔15〕聖霊は、キリストのものはすべて父なる神のもの、父なる神のものはみなキリストのものであることを示し給う。一三、一四、一五節には「示す」とあるが、単に示されたというばかりでは自分は空であるが、エペソ三19、20を見よ。聖霊は我がうちに満ちるまでになされるのである。おお、聖霊の力を信ずべきである。
〔16〕七節でキリストが行くことは弟子たちにとって幸福なことであると言われたが、その間しばらくは彼らも艱難を感ずることであろう。「しばらくして……」キリストは十字架について見えなくなるが、またしばらくして甦えりのキリストを見ることが出来るのである。
〔17~18〕肉につける弟子たちには、この意味を理解することが出来なかった。キリストの十字架、甦えりなどは彼らの夢にも思わなかったことであるから、彼らは理解出来なかったのである。
初めの「見じ」とは肉眼をもって見ることが出来ないとの意で「また我を見るべし」とは、心をもって見ると言うのである。甦えりのキリストは具体的であったが、ただ霊の目を持つ者にのみ見えたのである。
「しばらく……」これについては今日なお多くの信者は解することが出来ないのである。肉体上の恵を受けて喜んでいるが、やがてその恵みはかくれて霊の恵となるのであるが、その変り目はほんのしばらくであるが、多くの人はそれを苦しんでいる。兄姉よ、やがて来る霊の恵みを得るために、物質的のものを離れよ。
〔19~20〕キリストは彼らが尋ねる前に尋ねようとすることを語り給う。「誠に真に」とはイエスが力をこめて事実を語られる時に用いられた言葉である。
キリストが十字架につけられるために、一時はあたかもサタンの勝利のように見えるから、世はそれを喜ぶであろう。「然れど」ハレルヤ。その弟子たちの憂いは喜びに変るとは神の断言である。まことに幸いである。
〔21〕人の不安と喜びとが接近したことを示す。見よ、子を産もうとする母の肉体と心とは、どんなに不安を感じ、また苦しむかを。けれどもこの不安はしばらくであって、それは喜びに変るのである。
我らもまた聖霊の子(信者)を産もうとする時に、人の知らぬ苦痛がある。けれども、一人の魂をキリストに導いた時の喜びは言葉にあらわすことは出来ず、前の苦痛を全く忘れ去るのである。そしてこの喜び、キリストからくる喜びは、永遠につきないものである。
〔22〕キリストが十字架につくことによって、弟子たちは一時悲しみ憂えるであろう。けれどもイエスの甦えり給う時は、彼らは前の悲しみや憂いを忘れて喜ぶであろう。ハレルヤ。その喜びは消え失せることはない。肉の喜びは消えるが、甦えりのキリストを握った霊の喜びは永遠に消えることはない。
コリント後五16、我らは人を知るにもこのようにすべきである。性質による親しみは、真の親しみではない。我の霊と彼の霊とが相合致して、はじめて真の親しみが成立するのである。
〔23〕内住のキリストを持つ信者には三つの徳がある。
第一、「我に問う所なし」ペンテコステ前の信者の特色は「不明」ということである。見よ、聖餐後のイエスのお話は、弟子たちには少しも分らなかったのであるが、ペンテコステ後の信者の特色は「問う所なかるべし」である。ハレルヤ(エペソ一17、18)。それは、きよめられて霊の眼が開かれるからである。
第二、祈りの力を得ることである。内住のキリストのない時は、真にキリストの名によって祈ることが出来ないが、内住のキリストのある時には、初めてキリストの心を我が心とし、キリストの願いを我が願いとして祈ることが出来る。それ故、父なる神は如何なるものをも我らに与え給うのである。
第三、「求めよ……、満つべし」ハレルヤ。三年半の間弟子たちは熱心に求めたが彼らの得たものはわずかであった。けれども内住のキリストを受けた人は、大胆に求められる時に、どんなものでも得られるのである。「しかして汝らの喜び満つ」と、ハレルヤ。キリストを内住させた人は、自分のために憂えるなどということはないのである。他人のために大いに主を求めねばならない。
〔25〕これまでにキリストは、何とかして弟子たちにこの真理を知らせようとして、譬で教えられたのであるが、ペンテコステ後の彼らは、霊の眼が開かれてどんなことでも聖霊御自身が直接彼らに語り給うのである。
〔26〕キリストの名によって祈るとは、キリストにより、父なる神に祈って頂くというような間接的なことではなくて、キリストと自分と一体となって、しかも直接にキリストと共に父なる神に求めるのである。
〔27〕これは前節を受けるのである。何故前節のように、父は我らの祈りを聞かれるかと言えば、ただ我らを愛するが故である。キリストが我らと一致する時に、父なる神はキリストを愛すると同じ愛をもって、直接に我らを愛されるのである。ハレルヤ。父なる神は、我らをキリストと同位置に置かれるのである。故に大胆に父に求めることが出来るのである。
〔28~30〕御自身が神であることを明かに示されるのである。また弟子もこれを信じた。そして今や神から来たこのイエスは、地上における三十三年の御苦労を終えられて、御自身が出られた父なる神へと帰ろうとされるのである。
〔31~32〕三一節で「汝ら信ずるか」と問われたが、三二節を見ると、何と浅間しいことであろうか。弟子たちは真に信じたのではなくて、ただ頭で知ったということだけである。だから、この後ペテロが間もなく漁に行ったのである。
「されど我一人にあらず、父我と共にあり」ハレルヤ。我らもこのような信仰を持つべきである。人は如何に我らに従っても、頼みとしてはならない。ただ主のみは常に我らに伴われるのであるから、この主のみを頼みとすべきである。
〔33〕これを語られた主の御目的は、「我にありて平安を得させんがため」であった。我らは世にあっては迫害を受けるのである。「されど」ハレルヤ。されど怖れるなと言う。このされどを握れ。「怖るるなかれ」とは励めとの意である。ハレルヤ。このキリストを我が主、我が王として受け入れた人には勝利がくるのである。
晩餐後のキリストの祈祷(ヨハネ一七章)
ヨハネ福音書一四章から一六章までにおいて、キリストは弟子たちに対して彼らの生涯、ペンテコステ、また希望について語り、彼らを慰められた。これらのことが終ってから、今まで弟子たちの方へむかって居られた主は天を仰いで祈られたのである。昔大祭司が幕屋に入るのは、一年中で最も幸な日であった。そのように我らの大祭司キリストは、今至聖所において祈っておられるのである。だから我らも栄光なるキリスト御自身を通って、キリストの血にうるおされ、キリストと共に至聖所に入らなければ、真にキリストのみ声を聞くことが出来ないのである。そうして、このみ声を聞くことは、最もきよく、かつ厳粛であり、また幸福なことである。
人の祈りつつある時、その祈りの空気は何となく厳粛である。その祈りが自分のためである時は最も幸いなことである。
キリストは本章において、我らのために祈っておられる。だから我らはひれ伏して主のみ声を聴くべきである。
第一七章を次の三段に分解する。 (1)父の栄と御自身の栄のために祈り給う一~五。 (2)弟子たち(特に十一弟子)のために祈り給う六~一九。 (3)全教会のために祈り給う二〇~二六。
〔1〕「イエスこの言を語り終りて天を仰ぎ……」ヨハネ一一41のように、イエスは祈りの時にしばしば天を仰いで祈られたことが福音書に記されている。ひれ伏して祈るのは、悔い改め、または謙遜を示すものであり、主との交わりの切れない時には、身も目も天を仰いで祈ることが出来る。
「父よ」これは子たる者の霊をあらわしたのである。キリストは御自身のために祈る時には父よと言い、弟子たちのために祈る時にはきよき父よと言い、世の人のために祈る時には義しき父よと呼び給うた。第一の父よと呼ぶ時は、交通のついている時であって、第二のきよき父よと呼ぶ時は、一方に汚れのあることを恐れてであり、第三の義しき父よと呼ぶのは、世の人が神を知らずに罪の中にある時に神の恐ろしい審判のあることを怖れてである。
「時至りぬ」キリストはたびたび「時至らず」と言われた。この「時」とは、永遠の昔からの大問題であったのである。千八百年余前の四月の金曜日に、神の独り子が命を捨てるということは、実に不思議なことであるが、これは永遠の昔から定められた時であった(ロマ五6)。これは神の前には驚くべき計画であったのであるが、この死ぬべき時は、キリストに明かに見えていたのである。
父よ、今あなたの子の死ぬべき時がきました。ああ、この言葉を聞き給うた父なる神の御心は如何ばかりであったろうか。永遠の昔から定められたことであるとは言え、今その愛子の死のうとするのを見ては、真に断腸の思いであったろう。この時のキリストの叫びは「汝の子汝の栄をあらわさんがために、汝の子の栄をあらわし給え」であった。主はしばしば弟子たちに、父なる神の栄をあらわすように教えられた。主の唯一の願いは、父の栄光であった。主は決して「我苦しめり、我を慰め給え」とは祈られなかった。これはクリスチャンたる者の真の願いでなければならぬ。
「栄」とは父の義しいことと、恵み深い愛なる事等である。そして、これらはみな十字架の上に現われたのである。神の栄光のあらわれは、十字架をもってその絶頂とするのである。
このような願いをされたキリストの祈りはみな成就されたのである。
すべてのことにおいて、キリストは父を崇め、父はキリストを崇め給うた。キリストが父を崇めて十字架上で死んだので、父もまた彼を崇めて、その右の座につかせられたのである。我らもまたキリストに倣って、キリストが父を崇められたように、ただキリストのみを崇めれば、キリストは我らを崇めて、力においても、品性においても立派なものとして下さり、共にみ座につかせて下さるのである。
〔2〕父なる神がキリストに与えられた選民は、キリストへの賜ものであって、その選民たる我らはキリストの財産、また宝である。故にキリストは選民たる我らに、御自身の永遠の命を与えられるのである。
「凡てのものをおさむる権威を我に賜いたればなり」父なる神のキリストを崇めたのはこれである。この力は何のためにあらわすかと言えば、選民に永遠の命を与えるためである。故にこの目的のために障害となるものは、どんなものでも取り除かれるのである。だからこそ今までサタンの迫害がどんなに激しい時にも、選民は常に救われたのである。(使徒一三45、48)我らはこの御言を心に留めねばならぬ。そうしたら伝道の不振をなげくことはないであろう。ハレルヤ。永遠の命に定められた魂は、必ず救われるのである。
〔3〕「限りなき命とは唯独りの真なる神と、その遣わししイエス・キリストを知るこれなり」生命の問題は現今学者間の大問題であるが、これを理解するのに苦しむのである。肉体の生命においてそうであるとするならば、まして霊のことならなおさらである。けれどもキリストはこれに対して一言で定義を与えたのである。本節がそれである。
「知る」とは、ただ頭で分るという意ではなくて、彼と一致して完全な交わりが出来ていることを言うのである。しかしこの交わりが断たれたならば、死に至るのである。
肉のことを思う時に、神との交わりが断絶するに至るが、霊のことを思う時に永生が来るのである。多くの人は頭では神を知っているが、彼らには永生がない(コリント前一五34)。
このキリストを如何にして知ることが出来るか。第一、信仰である。神を畏敬し、罪を離れることである。第二、神を愛することである。どんなに理屈を知っても、愛の無いものには生命がないのである。永遠の生命の程度は愛の程度に比例するものである。
〔4〕キリストが三十三年間の過去を顧みての叫びである。このような立派な叫びを父になし得たとは、何という幸いであろうか。これはテモテ後四7のパウロの言とよく似ている。ハレルヤ。キリストの霊によって歩く者は必ずこうなるのである。けれども日々の歩みが引続いたものでなければならないのである。信頼出来る人は、人の前に大事を出来る人でなくて、長く続く人である。我ら一人ひとりがこの世を去る時にこのような祈りを捧げたいものである。
「汝の我に委ねし所の業は我これをなせり」自己の行いではなくて、父の栄光をあらわしたのだと自覚したいものである。
〔5〕キリストの眼中には、目前の十字架を越えて、受くべき栄が見えたのである。パウロもそのようにして勝利の中に走り抜いた。この栄光はキリストがこの世にある前から持っておられた栄光であって、父なる神の位にもう一度共につくことである。ハレルヤ。
〔6〕これは主の父に対する復命である。「あなたが私に委ねられたこの魂に、父の名をあらわしました」と、実に立派な復命である。名をあらわすとは、その名によって実をあらわしたことである。イエスの御生涯は神を人にあらわす御生涯であった。けれどもその神を見た人は世から選ばれて、キリストに与えられた者である(コリント後四3、4)。選民でない者は福音の光を受けない。けれどもこの節を見よ。これは選民である。選民には一種の光が来て、これによって主を知り、神の栄光を知るのである。
「汝の道を守れり」キリストの御報告を見よ。実に立派ではないか。神の前にキリストは我らをこのように報告されるのである。律法から言うならば、一つとして守ったところがないけれども、キリストが我らの守るべきを守って下さり、それをわたしたちのものとして下さったのである。そして悪いことは、みな血で隠して、キリストの良いところを我らのものとして下さったのである。
〔7〕これまでキリストが父より恵と力を受けてあらわしたことは、みな神より出たものであることを彼らは認めたのである。父の遣わされる者を受け入れた、との報告である。これは父なる神の満足なさることである。
〔8〕キリストは御自身では一言も語られなかった。ただ父が言わせるままを語られたのである。彼らはその言が父から出たということを受け入れた。「また我汝より出しことを誠に知り、かつ汝の我を遣ししことを信じたり」そして彼らは本当に心で知ったと言われた。
ペテロは「汝は生ける神の子キリストなり」と告白した。その通りである。キリストを父が遣わされたことを知って信ずるのは、真に立派な最上のことである。そのことによって父なる神の心は全く開かれ、すべてのことをみななし給うのである。
以上を前置として、九節から祈りになる。
〔9〕「我かれらのために祈る……」おお、神よ、このあなたのものである、あなたを受け入れた者のために祈ります。もう一度我らが普通のものでないことをくり返して父が重んじて下さるように祈られたのである。父よ、あなたの責任ある貴い宝のために祈ります、と、キリストの祈りには、少しの私欲も見えないのである。
〔10〕ちょうど夫婦が互に独り子を掌中の玉とし、宝としているように、我らを「これは汝のもの、汝のものは我がものなり」と。ああ、全世界において神の宝は選民だけである。「かつわれ彼らによって栄えを受く」栄えとは、本来神が我らに与えられるもの、キリストが私に栄えを授けられるものである。しかしここを見ると、わたしたちがキリストに栄えを授けるのである。わたしたちがキリストの前に立つ時に、キリストが栄えを受けられるというのである。キリストの贖いの力が、手にとるように見える。この力によって罪人が天使も近寄れないくらいに近づくのである。わたしたちはかくまでキリストにふさわしい者とされているのである。もしもわたしたちが失敗したならば、キリストはどんなに失望されることであろうか。
〔11〕たえがたい心情を口にあらわされた。この貴い子たちを残してこの世を離れ給う。今までは夜も眠らずに守ったが、今は離さねばならない。自分は栄えを受けるのだから喜ばしいが、自分の子を世に残して行くことは、実につらいことである。「きよき父よ……」キリストの御心配は、彼らがもう一度世の人のようにならないようにということである。それ故に、聖なる父よ、どうぞこの子が失われないようにと願われたのである。キリストが唯一つその中におらせようと望まれたのは、父なる神の名のみである。そこから出るときずがつく故に、その中におらせて下さいと、祈られたのである(箴一八10)。おお、父なる神よ、あなたと私とが一致しているように、彼らをもひとつにして下さい、と。
〔12〕羊飼いが羊を守る時に、囲いから出ようとする羊を守るように、父の名の中に置いて下さい、と。「滅びの子」ユダのことである。神の方でユダを憎んで滅ぼされたのではなくて、ユダが恵みを乱用したためである。けれども、このことは以前から神に知られていたのである。滅びたのはユダ一人であって、他は皆すこやかであるといって、しかもユダのためには一言の弁護もされなかったことを記憶しなければならない。
〔13〕キリストはこのことを弟子たちの耳に聞えるように語られた。「我が喜びを彼らに満たしめんがためなり」これによってわたしたちにまでキリストの御心が知られ、キリストの祈りを知り得たのである。他の人が自分のために祈っていてくれるということを聞くことは幸いである。さらに熱心に祈ってくれていることを知ることは喜びである。だからキリストは、その祈りをわたしたちに明かにされたのである。
〔14〕私が伝えた言葉を受け入れて彼らはあなたにつきました。それ故に世は彼らを憎みます。彼らは世におりますが、世のものではありませんから、世は彼らを憎むのです。あたかも世が私を憎むように彼らを憎むのです、と。わたしたちとキリストとの世に対する関係は同じで、キリストこそ立派な標準である。肉体をもつ間はそんなわけには行かないと言って、少しでも罪を容れることは恐るべきことである。
〔15〕「われ汝に彼らを世より取りたまえと祈らず、唯彼らを守りて悪に陥らすなかれと祈る」これは切なる祈りである。厭世主義ではない。わたしたち自身としては世を離れた方が楽である。けれどもそんな願いを出すことはキリストの心に反するのである。どんなに苦しくても、そのような願いを出してはならない。「唯彼らを……」と、泥のような世の中にあって悪に陥らせることのないように、と祈られた。わたしたちは境遇を嫌悪してはならない。ただ悪に染まぬようにと祈るべきである。これはキリストの祈りであるから、このようにして下さるのである。
〔16〕自分が自分である。世のものでないから、私同様に世とは無関係である、と。
〔17〕神の真理は確かにわたしたちを潔める。神の真理とは何かと言えば、それは神の言葉である。神の言葉以外に神の真理はない。
〔18〕もう一つ彼らが潔められるべき必要を持ち出される。それは大いなる使命のためである。「汝の我を遣しし如く、我も彼らを世に遣し」て人々を罪から救う器となすために潔め給え、と言うのである。
〔19〕おお、神よ、如何なる神があっても、彼らは潔められねばなりません。この使命を果すためには、私は自分を潔め(原語の意は献げる、または聖別する)私の一切を犠牲に供しますから、彼らを潔めて下さい、と。キリストがすべてを献げられた目的は、我らの潔められるためである。
「これ真理によりて彼らの潔められんためなり」み言がわたしたちを潔め得るのは、キリストが生命を注ぎ出されたから、み言に力があるためである。例えば「イエス・キリストの血すべて罪より我らを潔む」と言う言も、その後ろに十字架がなければ何の益もないが、十字架があるために力があるのと同じである。もしもわたしたちが真に人々を救い、また潔めに導こうとするならば、わたしたちの一切を献げねばならない。見よ、パウロが如何にイスラエルのためにすべてを捨てたかを。「ただに神の福音のみならず己れの命をも汝らに与えんことを喜べり」(テサロニケ前二8)と。だからこそその言葉に力があるのである。
〔20〕すべての信者のための祈りである。この中には確かにわたしたちも含まれているのであるから、そのつもりで学びたい。キリストの眼中には、ただその時の者ばかりではなく、彼らの言葉によって信じた者すべてがあったのである。永遠より永遠に存在される主は、いずれの時代のことをも知っておられる。だから日本の路傍で、ある弟子たちによって伝えられたみ言葉を信じた私のためにも祈られたのである。
〔21〕主が信者のために祈り給う重荷は、一つになることであった。第一に父とわたしたちと、第二に主とわたしたちと。
一家にしても一つになることは実に楽しいことである。人間は始めエデンの楽園において楽しく住んだのであるが、罪が神と人とを分離させ、更に人と人との一致までも欠かせるようになったのである。このようにして、人生はついにあわれな悲境へ陥ったのである。キリストが十字架につき給うたのは、この神人分離ののろわれた境遇から人々を救い出して、再び神人一致和合の道を開くためであったのである。
未信者には真の一致はない。彼らの一致というのは、ただその外面のみである。キリストがわたしたちに望まれる一致は、このような一致ではなくて、父とキリストとの一致のような真の一致である。これがキリストのわたしたちに望まれる一致の標準なのである。その一致の方法はどのようにしてと言うならば、父の中にキリストがおり、主の中にわたしたちがおることである。父よ汝我に居り、我また汝に居る如くとある。おお、私と父との一致がここまで完全になっているであろうか。どこかに一致が出来ずにいる所がないであろうか。なおも主にお痛みをかけているような点はないであろうか。主は祈っておられる。神を愛すること、潔いこと、真面目なこと、忠実なこと、いつくしみ深いこと、謙遜なことなどにおいて全く主と一致しているであろうか。自ら反省したいものである。
あのペンテコステの日に、弟子たちは第一に聖霊によって主と一致していた。また第二に相互に一致して、誰一人として持物を自分のものとはしなかったのである。こうした一致の中に聖霊が働かれたのだから、実に驚くべきみ業があらわされ、畏れの念が人々の心の中に生じ(使徒二43)たのである。この一致こそ真に力ある説教であったのである。
〔22〕実に恵みである。「栄え」とは内部のすきとおるような聖であるとある人は言った。内に聖がすきとおって徳が満ちているならば、外に光があらわれるのである。キリストの栄えとは、彼にあらわれた聖なる徳であった。これが神の前における第一の栄えである。これをせんじつめれば、彼の中にあった聖霊である。
おそれ多いことには、キリストはこの驚くべき栄えをわたしたちに与えられたのである。彼に満ちていたその同じ聖霊をわたしたちに与えられたのである。この聖霊を受けることによって、いつの間にか光の生涯へと入るのである。
神とキリストとの一致は、この聖なる御性質の一致であった。これによって父と子とは一つであったのである。しかしこの同じ性質をわたしたちに賜わり、神との一致、また相互の一致を与えられるのである。これを受けてこそ、初めてそこに全き一致が出来るのである。故にロマ一五5、6、エペソ四3を見れば、この一致は賜物である。わたしたちとしてはこの一致を与えられて、これを保持するのである。キリストはこのために、切に祈られたのである。いつまでも主にこの重荷を負わせてはならない。主の祈りのこたえを受けよ。
〔23〕「我彼らに居り、汝我に居る、そは彼らをして一つに全くならしめ」わたしたちのうちにキリストがいまし、キリストのうちに父なる神がいます。わたしたちがどんなに幸いで、神に重んぜられている者であるかを知りたいものである。
父がキリストを愛するその同じ愛をわたしたちに注いで下さるとは、何という驚くべき恵みであろうか。この愛によってわたしたちは神と全く一致することが出来るのである。
〔24〕「世の基を置かざりし先」から、父はキリストを愛し、彼にはかることの出来ない栄えを与えられた。しかし、主はこの栄えを御自身のみで受けることをもって満足されず、卑しいわたしたちにもこれを受けさせようと願い給うのである。彼はこの目的のために天より降り、その命さえも差し出されたのである。主はどんなにわたしたちを愛しておられることであろうか。この驚くべき声は、すでに今わたしたちの上に成就しているのである(エペソ二5、6)。
テサロニケ前四章に、わたしたちはいつまでも主と共にいる、とパウロは言ったが、これは同時にまた主の御切願であるとは、何と深い愛ではないか。
主はわたしたちと共にいることを願うと、父にねだり給うのである。今キリストは天にいますけれども、わたしたちと共になるまでは、やはりわびしく暮しておられるのである。
〔25〕主が世ということを思い出された時に、神の正しいことを思って、おそれて「義(ただ)しき父よ」と言われたのである。「世は汝を知らず、我は汝を知る、彼らも汝の我を遣ししことを知れり」と主はわたしたちのことを父に告げられたのである。
〔26〕主は世におられた間に、父なる神をいろいろにわたしたち弟子たる者に示されたが、聖霊によって一段と深く悟りを聞き、知恵と啓示との霊をもって、いよいよ父をわたしたちに示されるのである。これは神がキリストを愛する愛(人情の愛ではない)が、わたしたちの心の中に入り、そこに主がおられるためである。神がキリストを愛される愛がわたしたちに入り、わたしたちがこの愛をもって主を愛する時に、主はわたしたちの中にくつろぐことがお出来になるのである。主はわたしたちがこのような者となるように切に願っておられるのである。アーメン。
ゲッセマネの御苦難(ヨハネ一八1、マタイ二六36以下)
ヨハネ一八1。
弟子たちに対して懇ろに語り、また一七章のような祈りを終えられた主は、今やいよいよ十字架の迫りつつあることを知って、なおも静かに祈ろうとしてゲッセマネに向われたのである。時はすでに充分に更けていたと思われる。
「ケデロン」とは「濁っている」という意である。これは昔から記念すべき河である。
主は終生人心の泥流の中を渡られたが、この時も実におそろしい泥流を渡られたのである。サムエル後一五23を見ると、ダピデもまたアブサロムのために反逆を受けて避難した時に、涙ながらに渡ったのは、このケデロン(キデロンと同じ)河であった。主がこの河を渡られた時には、天国の民らはみな泣いたことであろう。
列王下二三6にもこの河のことがあるが、この意味は別でこれは偶像を砕くところである。神はしばしばわたしたちを逆境という泥流の中へ入れられたが、その都度偶像が砕かれたのである。とにかく主と共にこのケデロンを渡ることは幸いである。わたしたちも今主と共にこの河を渡ってゲッセマネに入り、主の恵みを味わいたい。
マタイ二六36以下。
「ゲッセマネ」とは「油しぼり」という意味である。カンラン山(オリブ山)から多くの油が出る故に、この名称があるのである。油とは聖霊である。主はここでわたしたちのためにすべての悲しみを飲みつくされたのである。だからこそ今わたしたちに慰めの聖霊が豊かにそそがれるのである。
〔36~38〕このゲッセマネにも深意のあることがわかる。八人の弟子は園の入口まで入ったが、三人の弟子はなお奥へ入った。しかし主の入り給う所は、もっと奥深くであった。
弟子たちが聖霊に満たされていなかったために、真に主と御苦痛を共にすることが出来なかったのである。この時弟子たち(三人)は主より少し離れていたのである。この少しが霊的には実に大きな差があるのである。主は彼の至聖所の祈り(ヨハネ一七章)でなお足りなかった。そして「我祈らん」と言われた。この中に主の祈りの精神があらわれている。わたしたちは彼よりこの霊を受けるべきである。
主は憂えられた。彼はわたしたちと同じ肉体を備えておられたから、情としては大変つらかったであろう。特につらいことは、彼が父から捨てられたということであった。「死ぬばかり」と言われたが、如何にたえがたく感じられたことであろうか。
「その時」ここに待て、私と共に目をさましていなさい、と主は仰せられた。ああ、キリストは友を求め給うた。肉体を備えられた主は自ら弱さを感じて弟子たちの同情を求められたのである。この時目をさましているべき必要を感じられた。それは、この時がやみと神との大衝突の絶頂であったからである。この時にもしも眠り給うたならば(肉に所を得させたならば)キリストの大使命は全く失敗であったに相違ない。わたしたちも大使命のある時、十字架の前にゲッセマネの勝利を得なければならぬ。しかしこのゲッセマネはねむい時である。この眠りに勝て、さもなければ十字架は駄目である。
〔39〕「少し進み行き」キリストは弟子たちから離れていた。ペンテコステの霊によって歩いている人は、主と共に歩み、主と共に行き、共に悲しみを受くべきである。しかし、この霊のない人はやはり主から少し離れているのである。「父よ……」この祈りに対してつまらない批評をする人があるが、これは実に同情と意思との大衝突であって、かつ意思の大勝利である。「もしかなわば」主の感情から出た言葉である。人間を救うために、もし他の道があったならば、との意である。「され共……」主は肉の感情に任せられず、直ちにこのように祈られた。その意志の如何に強いかを知るのである。
光は暗やみに対して、暗ければ暗いほど光を輝かすのである。主はこの暗い霊の真唯中において、真に御自身の服従の意志の強固なることをあらわされた。
アンドリュー・マーレー師はここを引用して、わたしたちが十字架を負って進む時に、わたしたちを助けられるのはこの主である、この意志の強い主である、と教えている。
〔40〕少し離れるところにこの違いがある。主はどんなに失望されたことであろう。わたしたちは、身の安逸に捕われて、主を失望させることがある。
「かく一時も……」主はこのように言われるのである。わたしたちが主と共に苦しむ生涯は、実に一時の間である。永遠の世に比べて、実に一分間にも足りないのである。この短かい時をも目覚めていることが出来ないのであろうか。「我と共に目をさまして」目をさますには、どうしても主と一緒におらねばならない。もしも主から心が離れていたならば、どうして目覚めていることが出来ようか。
〔41〕主はなおも同情をもってこの言葉をかけ給う。「肉体弱きなり」目覚めて祈る必要は肉体を持っているからである。このためにわたしたちはどんなにか肉体の弱いことを感ずることであろう。だからなお目をさまして祈らねばならない。
〔42~44〕主は祈りに行き、また弟子たちのもとへ来られた。主がどんなに御苦しみの中にあったかがわかる。実に気があちこちへ散らせられた痛ましい御様子が見える。祈る時には神の力がきて実際に力を感じ、そして平安がくるのであるが、その時また弟子たちを残すことを思い出されて弟子たちの所へ行き、再び弱さを感じて祈りに行かれた。こうして三度目に大勝利を得られたように思われる。四五、六節を見れば、主は如何に確かに勝利を握られたかを学ぶことが出来る。さらにルカ二二章を見よ。
〔44〕「いたく悲しみ、しきりに祈れり。その汗は血の滴りの如く地に落ちたり」滴りとは、原語では塊りという字で、額から血が出てそれが塊りとなって落ちたのである。
〔45〕「憂いて眠れるを見」魂では願っても、肉体が弱いのである。