イエス売られ給う(マタイ二六47~56、マルコ一四45~52、ルカ二二47~53、ヨハネ一八2~5)
(マタイ二六47~)
〔46〕勝利を得て「起きよ、我ら行くべし」と立ち上る時に、敵はすでに来たのである。
わたしたちもイエスのように全く神に服従して出る時に、確かに勝利を得るのである。
〔47〕ユダを見よ。彼は「剣と棒とを持ちたる多くの人々と共に祭司の長と民の長老のもとより来」たのである。今や彼は全く墜落し果てたのである(ヨハネ一七12)。
〔48〕偽善もユダにおいては徹底している。彼は接吻をもって主を売ろうとしたのである。この罪は主を信ずる者、主に愛される者の陥り易い罪である。接吻が主を売り渡すものとなったのである。
〔49〕彼は外見上では愛をもってキリストにきた。そして主の平安を問うた。しかし、これは主を売り渡す恐るべき方便であった。ユダの行為は、憎みても余りあるものではないか。
こうした類似の例はサムエル後二〇9にもある。害する方便としての愛は神の敵である。わたしたちも二心を抱くならば、このような運命をたどるに至るであろう。
〔50〕しかし、主は今になっても彼を「友よ」と呼び、彼の来訪の意を尋ねられた。主はもちろん御存知である。ユダの偽善と奸計とは主のすでに知り給うところであった。しかしここにおいてこう言われたのは、ユダに悔い改めをうながすためであった。主は出来るだけの愛の心をもってユダの良心をさまして、自省をうながそうとされたのである。ここに至らない前にも、主は特にユダに対して食を与えられたことがあった。しかし、ユダはあえて悔いなかったのであるから、主はこの場合彼に向って「敵よ」と呼ぶべきところであるのに、あえて「友よ」と呼んで、ユダを憐み給うたのである。けれども彼はなおも心をかたくなにして悔い改めなかった。ユダのこの態度は主の御心中に最も大きな苦痛であった(詩四一9、五五12、13)。
〔51~52〕「イエスと共にありし者の一人」とはペテロである。例のペテロは、これを見て立腹のあまりこうしたのである。彼が肉の剣を所持していたのが、このような失敗の原因となったのである。けれども、もちろんユダとは比べられない。ペテロのこの行為は生来の忠実さであって、いわば日本魂とか、忠君愛国とでも言うべき頼もしいものである。ペテロ魂の結果は敵の耳を切り落した。主は果して彼の行為を喜ばれたのであろうか。否、そうではなかった。主は「剣をもとに収めよ」と仰せられた。
真の剣はみ言の力であって、決して人の身を害するような類のものではない。わたしたちはもちろん剣をとらないだろうが、しかし議論の場合に人々をやりこめる場合がある。これはペテロ的である。その結果は、ただ敵の耳を切るばかりである。しかも肝心の福音は、受け入れられないのである。
剣をとらないわたしたちには忍耐と信仰とを要するのである。たとえわたしたちは負けようとも、最後の勝利は主のものである。
〔53〕「十二軍余」すなわち全き天使を呼ぶのである。
〔54〕しかし主の使命である神の聖旨を成就するためには、彼の功を要したのである。これは初めから神が予言して定められたことであるから、主はその成就だけを願われたのである。そしてこの勝利はゲッセマネにおいて得られたのである。
〔55~56〕主が人々に語られた彼らの行為の矛盾に満ちていることについて言えば左の通りである。
(1)ユダは接吻によってキリストを渡そうとしたが、このことはキリストのよく承知されたことであった。
(2)キリストを盗賊にむかうように捕えに来たことである。人間こそは盗賊である。主は人間から何も盗んだことはない。主は生まれると飼葉おけに寝かされ、高位につかずに貧しい家で労働されたのである。ところが今彼らは主を盗人のようにするのである。
(3)彼らがたいまつを持って主に来たことである。彼ら自身が暗黒の中にあったので、今光の主に来るのに、あたかも灯をつけて日の出を見に行くようなことをしたのである。まことにこっけいではないか。しかも彼らは今暗黒に乗じて来たのである。主は彼らをあわれな者たちよと言い給う。
〔マルコ一四44〕「我が接吻する者はそれなり、これを捕えしかと引きつれよ」〔同51〕「ある若き者その身にただ麻の夜具をまといてイエスに従いたりしが……」この若き者とはマルコであった。彼は夜具をまとって主に従ったのである。これは主からの力を得ない人は主に従うことは願うけれども、力の無いために従い得ないことを示すものである。
〔ルカ二二51〕「その耳を……いやしたり」キリストにはあたかも大山のような度量があった。〔53〕「暗きのいきおいなり」サタンと神との大決戦である。
〔ヨハネ一八2〕「ユダこの所を知れり」キリストが祈るために行かれる所を知っていたのである。ユダはその知識を乱用して、主を売り渡すために用いたのである。何と恐るべき罪ではないか。未信者はこのような罪を犯すことが出来ない。
〔ヨハネ一八4~5〕イエスの問いとその答。
〔同6〕「彼ら……地に倒れたり」もしも、主がこの時逃れようとしたら、いくらでも逃れることが出来たのである(ヨハネ一〇18)。
〔同8〕彼は逃れ得たのであるが、あえて逃れず、苦い杯を飲みほされたのである。
〔同11〕主の前にあらわれたのは「父の杯」であった。主はユダやその他の者たちに目もとめずに、父なる神よりきた杯に目をつけられたのである。わたしたちもまた人々から目を離して、神につくべきである。
キリスト祭司長に引かれる(マタイ二六57、マルコ一四53、ルカ二二54、ヨハネ一八13、44)
アンナスはカヤパの前の祭司長であったが、何かのためにローマ政府から免職にされてカヤパがこれに代ったのである。しかしユダヤ人は当時、アンナスを尊敬していた。それでキリストをもまず彼のもとへ引いて行ったのである。
カヤパは先に「一人死にて国中滅びざるは我らの益なり」(ヨハネ一一50)と言った人であって、実に冷淡極まることを言った者である。それはキリストを知らないからである。しかもなおこの予言は成就したのである。
ペテロ、イエスを知らないと言う(ルカ二二54~62)
〔54〕「ペテロはるかに従いぬ」実に不忠実である。先にはゲッセマネで居眠りし、今またはるかに隔てて主に従ったのである。彼はキリストがまさに敵の手に渡され、殺されようとした時に剣をぬいたけれども、今や主が捕えられて引かれて行く時になったら、はるかに離れて従ったのである。ああ肉はだめである。わたしたちはキリストとの間に少しでも距離を隔てていないだろうか。
〔55〕肉につけるものの如何に役立たぬかを見よ。敵の火のそばに行って身を暖めるとは、何たる不心得であろう。わたしたちははたしてキリストを離れて敵の火に身を暖めていないであろうか。
〔56〕先には「死に至るまで汝に従わん」と言った元気はどこにあるだろうか。ペテロはだんだん弱りに弱って、今は小指一本でも倒れそうになっていたのである。
堕落は決して急にはこない。それまでに何か小さいことの間に少しずつキリストを離れていたために、最後にここに至るのである。
わたしたちはペテロをわらうけれども、ペテロとしては実に命がけであったのである。人々をはばかって証が出来ない人は、結局この場合のペテロとなんら選ぶところはないのである。だからペテロに同情を持ち、しかも自ら謙ってここを味わうべきである。
〔57〕「我これを知らず」先には「我ら信じて知る、汝は生ける神の子キリストなり」(ヨハネ六69)と告白した彼は、ここではこのような意外な返答をしたのである。
〔60〕他の福音書には「誓って」とある。
〔61~62〕ここに深長な教訓がある。
鳴き声――摂理、主のみ顔、み言、ペテロ自身の良心。
罪を犯す時にはこの四つが自分を責めるのである。罪を犯した時は人に何の意味もない鳴き声も、実に悲しく感じ、月を見ても、山に遊んでも、花を見ても、見るもの聞くものがいよいよ悲しみを増すばかりである。万物は我らに悔改めの説教をしているのである。特にこの鶏鳴はペテロに関係するものであるから、いっそうペテロを責めたことであろう。
次に主のみ顔が見える。これは実にありがたいことであるが、また一面実につらいことである。主の憂いのみ顔「かえり来よ」とのやさしきみ顔が見える。そしてその時に主のみ言がくるのである。これは聖霊によってくるのであって、実に鋭い言である。しかし幸いにもペテロは直ちにここで心砕けたのである。彼は大言を吐いて大失敗はしたが、また直ちに砕けた。これがペテロの長所である。ああ、彼は砕けたから救われることが出来たのである。
「神の求め給うものは、砕けたる魂なり」
この時ペテロは、真に自分という者がだめだということが分った。そして潔められて聖霊を受けることの必要を悟ったのである。これがペンテコステの真の用意であったのである。諸君にこの経験があるであろうか。悔改めの涙ではなく、信者となってからイエスの証も出来ずに、自分のだめであることを知って泣いた経験があるであろうか。
〔マタイ二六58以下〕、「他のしもめ」とあり、73に「方言(くになまり)……」とあり、別に「ののしりかつ誓いて……知らず」とある。実に恐ろしいことである。けれどもある点では真実である。ペテロは真の奥底からキリストを知る者ではない。愛なき者は神を知らず、とあるように、証の出来ない者はイエスを知らない者である。
〔マルコ一四66以下〕「つらつら見て」如何につらいことであったであろうか。71「神のたたりを受くるとも」恐ろしい言である。
〔ヨハネ一八15、25以下〕15「外に一人の弟子」ヨハネのことである。彼が従ったことが記されたのである。25「ペテロ立ちて暖り居りしが」ペテロ祈り居りしが、とあるのなら幸いであったろうが……。26復讐されたわけである。
イエス、祭司長に審判される(マタイ二六59~68)
〔59~61〕「いつわりの証を求むれども得ず」
〔61〕キリストは決して御自身が神殿をこわすとは言われなかった(ヨハネ二19~21)。サタンがあげ足をとるのは(例えばキリスト教は国家を倒すなど)みなこの種である。
〔62〕「……証拠は如何に」
〔63〕「イエス黙然たり」非常な勇気である。主はすでにゲッセマネの園で、その杯を飲み始めてからぐんぐん飲み給うのを見るのである。
この時主は一言も口を開かれなかった。
次に「汝キリスト神の子なるか、我汝を生ける神に誓わせてこれを告げしめん」との問に対して次のように答えられた。
〔64〕「イエス彼に言いけるは、汝が言える如し……」主ははっきりと答えられた。彼らが質問したのは、もちろん信ずべきものを尋ねるために、汝キリスト神の子なるか、と言ったのではなくて、死罪に定めるために、何とかしてその口実を得ようとしたのであった。主は、サタンが攻撃してくる点がここにあるということを知っておられたが、あえてこのことを言われたのである。
また、この場合、明瞭に答える必要があったからである。すなわち天下万人が信頼すべきものを明かに示すために、命をかけて証言されたのである。人を救うために真理を明かにしておかなければ、人々が迷うのでこのように証されたのである。
〔65〕サタンは早速そこを捕えたのである。
「ここに於て祭司長、その衣を裂きて……」やがてキリストの本体が真にわかる時、悔いて衣を裂くであろう(ゼカリヤ十章)。
〔66〕「彼は死に当れり」罪人がきよき神を死刑に宣告するのである。矛盾極まった行為である。
〔67〕ああ、何たることであろうか。「顔につばきし」「拳(こぶし)にて打ち」「たたき」予言を求めたのである。あらゆる侮辱を与えたのである。もしもこの時キリストが怒り給うたならば、皆死ぬべきものである(ヨハネ一八6)。けれども、主は我らのために、あくまでもこれを忍ばれたのである。
〔マルコ一四58〕全く虚言である。64「彼らこぞりて」サタンの一致。
〔ルカ二二71〕彼らは目的を遂げたのである。
イエス、ピラトの許に送られる(マタイ二七1、2)
祭司や学者らは、宗教上の事項には権力があったが、生殺与奪の権は持たなかったのである。それ故にイエスを殺そうとするには、法律の下に託さねばならなかったのである。
〔マルコ一五1〕「夜明けに及び、直ちに祭司の長、長老、学者たち、すべての議員と共にはかりて、イエスをしばり、ひきつれてピラトに渡せり」
〔ヨハネ一八28〕ここで時刻を知ることが出来る。この夜、主はゲッセマネに捕われてから、祭司の庭に引かれ、ピラトのもとへ送られてきた時に、まさに夜が明けようとしたのである。
主イエスがこの世で送られた最後の夜は、最も苦しい夜であった。ああ、この辱しめられ、縛られ、引かれ、撃たれたイエスを深く覚えたい。
「彼等汚れを受けんことを恐れて公庁(やくしょ)に入らず、そは過越の祝いを食せんとすればなり」これは偽善である。表面だけ官邸を遠ざかっても無益である。儀式の潔めはこんなものである。
ユダの後悔と死(マタイ二七3~6)
〔3〕罪の支払う報酬は死である。ユダの望みは、主は捕われても直ちに奇跡によって逃れるか、あるいは二、三度打たれるくらいに思っていたのであろう。サタンは常に罪の結果を小さく小さく見せるのであるが、実に恐るべきことである。
罪の報酬は死を招いた。神の独子の死を招いたのである。聖霊の示しに従って、サタンの欺きを破らねばならぬ。ユダは意外に思い、目をさまして悔いた。しかし無益であった。彼の悔は、悔改めに至らせる悔ではなく、死に至らせる悔であった。これは聖霊のささやきを消しつつ、心を全く閉ざし後になって肉によって起きた悔であった。これは永遠の悔、死に至る悔である。地獄はこれから始まるのである。
「その銀三十」人には宝と見えた金、ユダはこのために偽り、欺き、キリストさえ売ることを何とも思わなかったのであるが、今はこのためにどんなに苦しんだことであろうか。ついに彼はこれを「返し」た。実に罪の恐ろしいことを知るのである。
〔4〕ユダの証である。彼は会計の役にあってこの証をした。金に関する証と見るべきである。
「何ぞあずからんや」サタンはこの場合に、どうして慰めを与えようか。彼がもし、もう二、三時間早くこの悔をしていたなら、あるいは救われたのかも知れないのである。
〔5〕ユダの良心の働きを見よ。彼は、この銀貨三十枚で主を売ったことを思った時に、立っても座ってもいられず、煩悶して身の置き所なく、ついに自ら首をくくって死んだのである。ああ何という哀れな状態であろうか。これによって罪人のありさまを知らねばならぬ。
〔6〕祭司長らの如何に偽善に満ちているかを見よ。さいせん箱ばかりを聖別して、自己を潔めない愚かさよ。ユダに銀貨三十枚を与えたのは一体誰だったのか。
〔9~10〕「銀三十」奴隷一人の値段であった。人間が見積ったキリストの評価は、たったこれだけであるとは。
「預言者エレミヤにより言われたる言に」この預言はゼカリヤ書にあり、エレミヤ書にはない。だからこれについては非常に議論のあるところであるが、最も適当な解釈によれば、エレミヤ書とは、預言書の中で最も有名な預言書であったので、しばしば預言のことをエレミヤと呼んだために、ここもエレミヤと言われたのである。
ピラトに訴えられる(マタイ二七11~14)
〔11~14〕イエスは口を開かれた時には明かに王であることを示されたが、その他は全く沈黙を守られた。
大祭司は、神の子キリストなのかと問い、ピラトは王であるかと尋ねた。主はその大事な質問には明白に答えられ、それを定められた。
「ピラトが奇(あやし)とするまで」黙されたとは実に大いなる勇気である。我らもこのイエスをわがものとして握りたい。
〔マルコ一五2~5〕〔3〕祭司は罪のために祷告する役目でありながら、イエスを罪におとそうとして訴えるとは何ということであろうか。
〔ルカ二三1~5〕イエスを訴えるのに、三つのことを挙げた。民を惑わし、税を納めず、王だと言う、というのであるが、これはみなうそである。〔3〕「ユダヤ人(選民である)の王なるか」との問に対して、主は明かに答えられた。〔4〕ピラトはキリストに政治上の罪が全くないことを証明した。
〔5〕これもうそである。
〔ヨハネ一八29~38〕〔31〕「我等に人を殺す権(ちから)なし」心中すでに殺意を決めたのであって、ピラトを道具に使うためである。〔32〕「祭司の長……我を異邦人に渡し」と言われた通りになったのである(マタイ二〇18、19)。〔33~34〕ピラトはイエスを調べているが、イエスにとっては伝道の機会である。すぐに答えられず、まずピラトの心をただされた。「汝このことを言えるのは、自らによるか(心より信頼すべきものを求めて)人の告げしによるか」とイエスはピラトの良心に訴え、救われる機会を与えておられるのである。〔35〕けれども、ピラトは高ぶっていて、自分が求道者と同一視されるのを嫌ったのである。「汝の国の民……」イエスにとって、この言は実に残念であったであろう。ピラトは心の中で確かに悶えていたのであるが、高ぶりのために、実に憐れな状態に陥ったのである。〔36〕「我国はこの世の国に非ず」国の性質をあらわす。やがてこの世を統治する時がくるが、この世の王国のような欲から出たものではない。もしそうであったら、今天の万軍によって直ちに滅し得るのである。この世と神の国との差を明かに見るのである。多くの信者、伝道者もこの点を誤っている。彼らは、この世において主を王とし、この世に迎えられ、用いられ、幅が利くようにと伝道している。〔37〕「我は王なり」実に無限の深みがある。主はこのために生まれ、世に降り給うたのである。王となるためである。しかし、それは肉的に言うのではなく、霊的である。これは真理の光である。イエスが王であることを知ることは、真理を知ったのである。真理とは学問、研究ではない。王としてキリストを知ること、言い換えれば、キリストを王の王、主の主として知り(理解することではない)、彼に絶対に服従する時に、初めて真理を知ったと言い得るのである。
「真理について証をなす」これは懸命の証であった。敵の攻撃は、この点にくるのである。テモテ前六13を見よ。パウロは「ピラトの前によき証をなし給いしキリスト」により、テモテに勧めているのである。主は明白に真理を示して「凡て真理につく者は我にきく」と言われた。これは実に人の心をひくのである。これはまたピラトの心をも引いたのである。
〔38〕しかし、ピラトはわからない振りをした。「真理とは何か」明るい所に来ていながら、光とは何か、と問うのと同様、何の理屈にもならない。彼はこの問を発しながらあえて知ろうともせずに出て行ったのである。そして真理に反対しているユダヤ人に語った。機会を与えられていながら、救を受けない人の型である。とにかくピラトはもう一度キリストの無罪を証明した。ペテロ前一19、主は無理なことをも黙された小羊である。この時主は自らを救うための弁護は一言も言っていない。そして人を救うためにのみ語られた。
ヘロデのもとに送られる(ルカ二三6~12)
〔6~7〕当時ユダヤの国は四つの地区に分れていて、大名のような者の支配を受けていたのである。
〔8~9〕「イエスを見て甚だ喜べり」弟子たちもそうであった(マタイ二八8、ヨハネ二〇20)。しかしヘロデのこの時の喜びは、実に哀れなものであった。彼はただの物好きで、何か手品師でも雇ってきたような気分でいたのである。救を望まない者の喜びとはこんなものである。ここで多くの問が出されたが、これに対して主は沈黙して答えられなかった。このような態度は、ある場合の我らの伝道法である。
〔10〕祭司長、学者らは実に熱心な者たちであった。彼らがこの熱心を転じて、民の祷告に用いたらどんなに幸いであったろうか。
〔11〕ヘロデは定見もなく、神を畏れるということもなく、神のみ旨に反することにおいては、祭司、学者らに調子を合せる運中である。
〔12〕驚くべきことである。神に敵する者は罪によって親しむのである。誰かを辱しめ、攻撃する時にいっそう親しくなる。これはサタンの親密であって、聖霊の親密一致ではない。この種の親密をすべて殺すべきである。
ピラト、キリストを赦そうとする(マタイ二七15~23)
〔15〕「民の願いにまかせ」全く自由意志である。これは非常に責任のあることである。これは特別の恩典である。神の側としては、まさに愛の祭りである。しかしこれを乱用することによって、実に恐ろしい結果となるのである。
〔16〕「バラバ」ここには名高き囚人とある。
〔17〕「バラバかイエスか」からすかうぐいすかと言うのと同じである。人を殺した盗賊か、世を救う神の子か。「誰を赦さんと思うや」ピラトは主の無罪を知っていたから(18)これを赦すことを願ったのである。
ここにまた知るべきことは、ねたみは主を十字架につける罪であるということである。祭司、学者は色々な口実をもって主を訴えたけれども、実はねたみの故であった。いわゆる「自己」のある者にこのねたみがある。これはパウロの言ったように、真面目になるねたみではない。これこそ主を殺す分子であることを知り、我らはねたみを棄てるべきである(ペテロ前二1)。
〔19〕ピラトは如何に重大な責任あることであろうか。「凡ての権(ちから)は神より出ず」この時、ピラトは自由意志によってこの責任ある所に立ったのである。ピラトの一考一言によってどのようにもなるのである。我らもしばしばこのょうなことがある。ピラトの弱さを知っておられる神は、その妻を用いて彼の良心を強めようとされたのである。ヨブ三三14、15に、神は夢の中にも語られるとある。ピラトは妻の言の真実であることを悟ったが、彼は何とかして人望を失わないように努めたのである。
〔20〕「殺さんことを願えと民に勧む」人をも罪にそそのかし、巻込むとは実に憎むべきことである。人をねたんでいる時に、こういうことがある。無邪気な、思慮のない者たちをそそのかすとは恐るべきことである。
〔21〕ピラトはもう一度自由意志をもって選ばせたが、彼らはバラバと答えた。実に恐ろしいことである。
〔22〕ここで実に残念なことは、ピラトは神に権威を与えられながら、しかも民の小使いのようになって、自分の庭にサタンを立たせつつあったことである。人望を求めて人を恐れる時には、このように人の奴隷となる。
「十字架につけよ」この心は如何に恐ろしいことであろうか。ユダヤ人の言うべき言ではなかったのである。十字架は宗教の刑ではなく異邦人の最下の刑であった。しかも、これを要求するとは、何という言語同断なことであろう。彼らは神の言によって歩かず、ただ無茶苦茶なねたみである。良いも悪いもなく主を憎んだのである。罪人の心はこのようにただ憎い人を取り去ればそれでよいのである。一人の者を憎む時は、その他の罪を深くとがめず、彼らは一緒になって、憎む者をひどく攻撃するのである。
〔マルコ一五6~14〕7バラバは暴徒であり、殺人者であった。9しかしキリストはユダヤ人の王ではないか。
〔ルカ二三17~23〕17必ず18いっせいに19あの暴動を起した者であること。23「彼等はげしく声をたてて、彼を十字架につけんと言いつのれり、ついに彼らと祭司の長の声勝ちたり」実に意志強固である。ピラトの正義の声は打ち消され、罪人の叫びは勝った。妻の声も良心のささやきも消されて、罪人の声に負けたのである。この世のありさまは、実にこのようなものである。
〔ヨハネ一八39~40〕バックストン師の講義の中に次の対照がある。
主イエス
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(一)聖なる者……使徒三14
(二)恵を与える者……マタイ一一28
(三)平安をもたらす者……ルカ一79、二24
(四)命を与える者……ヨハネ一〇10
バラバ(バラバは悪魔の模型である。)
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(一)有名な囚人……マタイ七16
(二)盗賊……ヨハネ一八40
(三)騒動を起す者……マルコ一五7
(四)人を殺す者……ルカ二三19
ピラト、バラバを赦す(マタイ二七26)
権威の乱用、一人の者を赦す恵の乱用、自由意志の乱用。この三つの乱用を我らがしていないであろうか。これによって恐ろしい結果のあることを思って省みねばならない。
イエス、十字架につけられるために渡される(ヨハネ一九1~16)
〔1〕「むち打つ」ユダヤのむちは実に残酷なものであって、先端に鉄または骨片をつけた皮ひもを結んだものであって、受刑者を裸にしてその背をむち打つので、そのために肉は裂け、血は流れ、しばしばそのために死ぬこともあるという。キリストはこのむちを受けられたのである。「そのうたれしきずによりて我ら癒されたり」(イザヤ五三5~)。その一つひとつは我らの罪のためであったのである。
〔2〕何とも言えぬ侮辱ではないか。王になぞらえたのである。
〔3〕ほめるかのように嘲弄したのである。我らもこのような時に忍耐出来るように覚悟しなければならない。
〔4〕どうしてもキリストのきよいことは明かである。
〔5〕まさに目に映るようである。諸君の目に、この公衆の前に恥かしめられた主が見えるであろうか。「見よ、これその人なり」ピラトの良心の叫びである。また我らに対する声である。ああ、人なるイエス、完全なるこのイエス。どこにきずがあるのだろうか。
〔6〕どこまでもイエスのきよいことが明瞭である。祭司長らはただこのきよいイエスを邪魔にするのである。実に彼らは神の敵である。肉につけるものは、神と両立することが出来ない。これはどうしてもイエスを殺すか、自分が死ぬか、いずれかの道を選ばねば解決が出来ないのである。
〔7〕「おきてあり」これはただの口実である。果して彼らの言うように、十字架につけよ、とおきてがあるだろうか。
〔8〕ピラトは実に意気地がない。ローマ人の眼中にユダヤ人の律法はないのだから、彼はユダヤ人の口実に頓着せずに赦すべきであったが、彼は臆病でありそれが出来なかった。神を畏れぬ者は、人を恐れるのである。
〔9〕ピラトのもじもじした様子を見よ。「汝いずこの者ぞ」との問いに対して、主は答えられなかった。人を恐れている時には、すでにわかっていたことまでわからなくなるのである。
〔10〕ピラトが立腹したところである。そういう権威があるなら、何故十字架につけない、と明白に断言しないのであろうか。
〔11〕主は「汝上より権威を賜らずば、我にむかいて権威あることなし」と言われた。すなわち、ピラトよ、汝慎め、お前自身が偉いためではない、神が摂理の中にお前をこのように置かれたのであるから、慎んでその権威を用いよ、お前の上になお権威者があるのだ、と。「この故に我を汝に渡しし者の罪もっとも大いなり」キリストを渡した者らの罪は次の四つである。
-
(1)祭司……ねたみ
(2)ユダ……賄賂(利益のため)
(3)民衆……不和雷同
(4)ピラト……優柔不断
〔12〕ピラトは充分に光を得ていたのである。だから彼はなんとかして主を赦そうとしたのであるが、勇気がなかったために出来なかったのである。「もしこれを赦さばカイザルに忠臣ならず」これはサタンの用語である。この一語にピラトは閉口したのである。我らにもこの威嚇がある。しかし決してサタンに忠実であってはならない。
〔13〕「審きの座」これは重罪を宣告する所である。ピラトが「審きの座に自ら坐」したのは、もはや失敗であった。
〔14〕昨夜も終夜寝につかれなかった主は、明けたこの日も昼の十二時頃まで引回され給うたのである。おいたわしい限りではないか。「汝らの王を見よ」先には「人」として示し、今は王として示すのである。神の声をきけよ。彼が真の王であると知ったならば、民らは平伏したであろう。けれども……
〔15〕「叫びて」罪人の有様である。祭司は「カイザルの他我らに王なし」と言った。彼らは全く堕落したことを示したのである。自分はこの世のものであって、神は我が王ではないと明白に言ったのである。そして「これを除け」との群衆の叫びを聞いて感謝している。
イエスがついに除かれた時に、我らの罪もまた全く除かれた(一ヨハネ三5)。神はこの時サタンの成功を救の成功に変えられたのである(イザヤ五三8)。
〔マタイ二七24~〕ピラトは手を洗った。これは人間のすることであって、単なる気休めである。ピラトはキリストを直接には十字架につけなかったが、結局彼がしたことになるのである。何故ならば、もし彼が宣告を下さなかったならば、民は如何ともすることが出来なかったからである。言伝えによれば、彼はこの後すぐに免官となり、良心のかしゃくに責められて哀れな余生を送ったということである。
〔同25〕「その血は我等と我等の子孫に関わるべし」この通り、ユダヤ人は今世界に散らされ、彼らの頭上にキリストの血が報いられつつある。
〔マルコ一五15~20〕ユダヤ人を喜ばせようとするのは神の僕ではない。
〔ルカ二三24~25〕ピラトの間違いを明かにする。
クレネのシモン、十字架を負う(ルカ二三26~31)
〔26〕ヨハネ一九17を参照。当時十字架刑に処せられる罪人は、自分でその十字架を負って刑場に至るまで、遠路を衆人の前をひかれて行く例であった。ゴルゴダは街のはずれであったので、罪人はそこまで恥をさらしながら行ったのである。主イエスもまた同じ目にあわされたのである。
主は前夜からあらゆる苦痛を受け、打たれ、嘲弄され給うた――ゲッセマネにおいても大いなる心痛を味わい――全く肉体は弱り、気力は衰えて十字架を負い得ないほどであった。言伝えによれば、主は途中で三度も十字架の重さに堪えかねて倒れ給うたので、兵卒たちは面倒がって、クレネのシモンに負わせたのであるという(クレネはアフリカ北部にある)。クレネのシモンは無理に負わされたとある。彼は十字架をいやいやながら負ったのであって、このような者には報いはない。もしもこの時に、一人の聖徒が喜び進んで十字架を負ってさし上げたならば、どんなに幸いであったであろうか。主の地上における最後の歩みを、一歩であっても身軽にして上げたならばどんなに幸いであったろうか。今我らもこの精神をもって、主の重荷の幾分でも負ってさし上げたいものである。
〔27〕主のおいたわしい有様は、不信者の目にさえ実に見るに堪えないほどであった。ああ、惨たんたるこの有様、わたしたちの目にも映るように思われるではないか。
〔28〕実に驚くべきことではないか。何たる御心であろうか。ヨハネ一四章の初めに、主は眼前にひかえた大苦難も忘れて、残る弟子たちを慰められたが、今ここにもその同じ精神を見る。
〔29~30〕やがて神の大いなる怒りがくるであろう。その恐ろしさにたえられず、むしろ生まれてこなかった方が幸いであったのに、と思う日がくるであろう(エルサレム滅亡当時の惨たんたる有様を見よ)。
主はかつてエルサレムを見て泣かれたが、あの時主の御目には、来るべきその滅亡の惨状が見えたので、自らの苦痛を忘れてただ群衆のことをあわれまれたのである。
〔31〕「青木」キリストの命ある者、火のつきにくいもの、すなわち罪なく傷のない神の小羊、生ける主。「枯木」罪のために命のない罪人。火のつきやすいもの。青木であるキリストにさえ神の怒りの火がついたとしたなら、まして枯木なるお前たちはなおさらだと言われたのである。
キリストの眼中には罪人の審判が見えた。そのように我らも常にこの目を持ちたいものである。
〔マタイ二七32〕「強いて」とある。
〔マルコ一五21〕「アレキサンデルとルフ」というのは、共に信者であったという人もある(ロマ一六13)。ルポとはルフと同一人物であるとも言われている。
十字架(ルカ二三32~38)
〔32~33〕キリストは人を殺した罪人と一緒に数えられ、しかも真中に置かれて、その中の第一の者とされた。キリストは世人のあらゆる罪を引き受けられたため、神と人との前に最大の罪人とされたのである。
「クラニオン」とは、カルバリ、ゴルゴダなどと同意で、共にされこうべという意味がある。この山をモリヤ山であるという人もある。カルバリとはラテン語、ゴルゴダとはヘブル語、クラニオンとはギリシャ語である。
〔34〕主はなおもこの祈りをされた。
「彼等くじをしてイエスの衣服を分つ」このような時にもイエスの御苦痛を思わず、かえって自らの欲をみたすためにせわしくしている。彼らの中に争いがあったことがわかる。これは確かに人の心の写真である。
〔35〕ああ、神の独り子を十字架につけたこの罪の絶頂にあって、あざわらっているとは何たることであろうか。
〔36〕「酢を与え」これは嘲ける意である。血を流す時に非常なかわきを覚えるものであるが、このような時に酢を与えるのは、ますますかわきが激しくなるのである(詩六九19~21)。
〔38〕役人に対しても兵卒に対しても、キリストは王である。キリストが十字架上から降りることはやさしいことではあるが、もしそうしたらどうして我らは救われるだろうか。愚かな彼らは、自らの滅亡を全く知らないのである。
〔38〕なおもキリストを辱しめるためにこのことをしたのである。諸国民の集まっていたこの時に、ユダヤ人の王はこの通りであると、三ヵ国語をもって誰にも分るように書いたのである。しかし今やこれは福音となった。どこの人にも主は「救主」であるということを明かに読めるように書いたのである。ハレルヤ。
〔マルコ一五22〕イエスはゴルゴダという城外にひき出された。これはイエスを汚れた者として取扱ったのである(民数一五35、36参考)。我らはヘブル一三11、12にある門外のイエスを覚えたい。イエスの足跡を踏もうとする者は、みなこの覚悟を要する。世から、また時には宗教家からさえも、そのきよさのために投げ出される時に、ちょうどヨハネ九章の盲人のように、イエスに会うことが出来るのである。
「ゴルゴダ」とは灰捨場である。世の人から見れば汚れて見えるが、我らには実に潔いのである。世の宮殿よりも十字架の許に座すことは、我らにとって善いことである。
〔23〕「没薬(もつやく)を酒にまじえて」これは麻酔剤であって苦痛をやわらげるものである。キリストはこれを斥けられた。無罪の主が十字架につけられたのであるから、我らとしては少しでもその御苦痛が少なくあって欲しいのであるが、主はこれを斥けられたのである。何故なら、主は、苦しみが無くては十字架はただ形式となることを知り給うからである。
キリストが来られたのは、真の十字架を味わうためであった(ヘブル二9、10)。主はこれを麻酔剤によって味われなかった。苦痛を苦痛と感ずる鋭敏な感覚を要したのである。これは苦痛を伴う贖いである。主は我らのために救を全うするために、自ら苦しみを避け給わなかった。これは何という大きな愛、また服従であろうか。
我らが人を救に入らせようとする時にも、我らが苦痛を味わうことによって、その人が悔改めることがある。立派な祈りでなくても苦しんで祈るところまで行かねばならない。十字架がことばで終らないで、自ら感ずるものでなければならない。これを避けないで受けよ。
〔29~31〕人間の目がくらくなっている。我らが十字架のもとにくる時は、これを拝して崇めるが、罪人はこれをののしる。十字架のイエスがいかに見えるかによって、その人の救われているかどうかを知ることが出来る。「十字架をおりよ」。もし主が十字架から降りられたなら、全世界が救われないことを知らないのである。
「自らを救う能わず」それで恵みなのである。英国の一宣教師は、河でおぼれている子供を救おうとして自分の命を失った。しかしサタンにはこれがわからない。
〔32〕実にサタンの声である。「見てこれを信ぜん」と。我らも有形の勝利を見たいと思うことがあるが、これはサタンの声である
〔マタイ二七33~〕〔34〕「酢に胆(い)」
〔35〕詩二二18〔43〕「彼は神により頼めり、神もし彼をいつくしまば今救うべし、そは彼、我は神の子なりと言いしなり」これをののしりの種としたのである。
キリストはどんなにつらく感じられたことであろう。しかし、ただ我らにむかう愛のためである。父は我らを救うために独り子を救われなかった.神の愛とキリストの愛とが共に我らに集まったのである(ガラテヤ二20)。おのおの自らのために十字架を見上げよ。
〔ヨハネ一九17~〕〔23~24〕彼らが自分の欲望を満足させるために熱心であることを見よ。
〔詩篇に主の苦しみを記したところ〕二二篇、四四篇、六九篇。
〔詩六九〕旧約の中ではキリストの心理を多く記している。
〔2〕我らの罪「我立止(たちど)なき……」罪の深さを知れ。〔4〕「かすめざりしものをつぐなわせらる」無実の罪
〔9〕「家」我ら、ヨハネ二章の熱心。〔〔11〕~〔23〕キリストは祈り給うのに、我らはただあざ笑うのみであった。〔17〕「願わくは速かに我にこたえたまえ」これはキリストの祈り、願いである。〔19~21〕
十字架上の七語
△第一、ルカ二三33~34
「父よ彼等を赦し給え、そのなすところを知らざるが故なり」
三節においてイエスを十字架につけたその釘は主のおからだをさしたのである。今や彼らの罪は、その絶頂に達した。この時、発せられたのがこのお言葉である。あたかも、水が一杯の袋に穴をあけたように、主の内に満ち満ちた愛は――敵を愛する愛――溢れ出たのである。群衆、祭司、学者らがイエスをねたみ、憎み、殺そうとして十字架につけたのであるが、イエスは彼らに愛をもって報いられたのである。彼らは罪なき者をこのようにあしらい、主は罪人なる彼らを愛して、彼らのために懇ろな祈りをされたのである。
マタイ五44を教えられた主は、これを実行されたのである。だからこそ、我らにもこの力を与えられるのである。愛敵の愛、その美しさをただ驚いて見ているのでなく、主を愛する我らは、これを実行する力を主より受けることが出来るのである。
また、ステパノは聖霊によってこれを受け(使徒七59~60)パウロもこの愛を持つことが出来たのである(コリント前四12)。「父よ、彼等を赦し給え」このような時は、いつの間にか「父よ、彼等をのろい給え」と口に言わないまでも、心に出るものである。各自省みよ。
「彼等そのなすところを知らざればなり」我らも罪を犯す者のために弁護すべきである。何故なら、彼らは何と言っても実は盲目であって、罪の恐るべきこと、サタンの欺く者であることを見ることが出来ないために罪を犯すのである。どうか自分に敵する人を訴えるのでなく、かえって彼らのために神に弁護して祈りたいものである。また、説教の時にも、罪を責めると共に、罪人に対しては弁護の態度をとるべきである。(使徒三17~18)のペテロの説教を覚えよ。アレオパゴスにおけるパウロもこの説教をしたのである。十字架の愛をもって罪人にむかう時に、この説教が出るべきはずである。これは聖霊の伝道法である。
△第二、ヨハネ一九25~27
母に言いけるは「女よ、これ汝の子なり」また弟子に言いけるは「これ汝の母なり」
十字架はしばしば絵に見るような高いものではない。そばに立って顔を近づけて話すことが出来るほどのものであった。
マリヤは主の十字架のかたわらに立っていた。彼女の心はいかばかりであったろうか。先には女の中で最も幸いであった彼女は(ルカ一42)今最も悲しい目にあったのである(ルカ二35)。
我らも自らのうちにキリストを宿した。キリストが我らのうちに成長して、我らによってキリストが世にあらわれる時に、我らも必ず剣に刺されることを覚悟すべきである。何故か。サタンとこの世とは決してキリストの生きることを望まないからである。
女の心として、自分の生んだ子が病死したのならまだがまんも出来ようが、十字架にかけられて殺されるのを見ては、彼女の心は果してどうであったろう。この点において、彼女は父なる神との交わりに入ったのである。世人の救のために生みの我が子を犠牲にするという点において、アブラハムとマリヤは父なる神の御心を味わったのである。
主はマリヤの心をくみ、彼女の心を充分に慰められた。頼りのない彼女に後継ぎの道を立てて与えられたのである。マリヤは決して失望することがなかった。またヨハネとして味わってみると、ここは兄弟姉妹にむかう愛、魂にむかう愛の生ずるところであった。記憶せよ。十字架が中に立って、マリヤ、ヨハネは紹介された。これはあなたの母、兄弟、姉妹であると。主は十字架上から、その間を結びつけられたのである。関係のない魂をも主は十字架の血をもって結びつけ、世を去る時に我らに委ねられる。各自、その委ねられた魂の価値を知っているであろうか。どうか「家に携えて」きたいものである。これは真の服従、愛の実行、共に喜びをわかつことである。
△第三、ルカ二三39~43
「誠に我なんじに告げん、今日なんじは我とともにパラダイスにおるべし」
主の愛は第一に罪人のため、第二に信者のため、第三に砕けた魂にむかってあらわされた。
ここに世界のよい写真が示されている。真中に主の十字架が立ち、両側に罪人が十字架についている(その一方は罪を悟った者、他方はそうでない者)。十字架は罪の模型である。世は罪に満ちている。だから皆殺されるべきものである。全世界と言わなくても、一社会にも、一家族にもこの三つの十字架がある。一方は主の十字架をあざわらって受け入れないが、他方は砕けた心で感謝して受け入れるのである。あざける魂は目が開かれていないことは明かである。主の十字架が身代りであることがわからずにあざけるのである。けれども一方の魂は目が開かれている。はっきり友人を責めるまでに光を得ている。彼は「我らは当然なり」と言った。確かにそうである。砕けた魂は、自分の苦しみが当然であることを知っていた。彼はただへりくだって祈った。「主よ汝その国に来たらん時我をおもい給え」と。これによって砕けた魂の美しいことを見ることが出来る。彼はこの世を望まないでみ国に望をつないだ。そしてキリストを王として信じたのである。実に幸いなことである。彼はよくへりくだって、救い給え、み国に入れ給え、でなく、おもい給えと祈ったのである。この中に充分に希望と信仰とがあった。彼はみ国をはるか後のことと思っていたであろうが、主は「今日」と仰せられた。汝は今日より我が民、我が友であると言われて、彼の喜びはどんなに大きかったことであろうか。
ここに幸いなことは、主は先に「彼等を赦し給え」と祈られたそのこたえがすぐにきた。手ほどの雲の現れたことである。ちょうど手付のように、砕かれて救を受ける者が出たのである。このことはどんなに主を励ましたことであろうか。主の御苦しみの大きかっただけに、その喜びの大きかったことを思う。魂のために苦しむ者は、それに添えて言い知れない喜びをも味わうことが出来るのである。
△第四、マタイ二七45~49
「わが神わが神なんぞ我をすて給うや」
「その地あまねく暗やみとなる」これは罪の結果のあらわれたことである。この時は日蝕ではなかった。これは学者には不可解なことであって、太陽を創造された神の業なのである。神の子の死に際して、太陽が光を失うのはむしろ当然のことではないか。もちろん神においては、たとえキリストが死んでも太陽を光らせ得るのであるが、罪の結果は驚くべきことを実際に現わされたのである。ああ、真昼をやみに変えた罪の恐ろしさを、十字架の下で味わい知るべきではないか。
この時イエスとしての苦しみは絶頂に達した。外の世界では太陽が光を隠して暗黒になったが、この時父なる神は御自身の光を隠してキリストの心に見えなくなったのである。キリストにとっては、十字架の苦痛よりも、唯一の頼みであり慰めである父なる神に捨てられることが最大の苦痛であった。
ある人は、この主の言葉はうらみの言葉であるというが、実に畏れ多いことではないか。彼は我らの罪のために神より捨てられたのである。我らの神がキリストにみ顔を隠されたのは我らの罪の故である(イザヤ五九1、2)。主は我らの罪をすべて背負って、その罪の責任を肉において味わい尽くして下さったのである(詩二二1、へブル五7)。
この時、すなわち真暗になった時に、神殿の幕が上から裂けたということは大きな恵みである。主が門の外に捨てられて苦しみを受け、完全な罪祭となり給うた時に、至聖所が開けてシェーカイナの光が現れたのである。すなわちキリストが暗黒の底にまで沈んだことによって、我らに命の光が来たのである。ハレルヤ。
48~49を見ると、一人だけ多少の同情をもった者を見る。他は神のみ心を理解出来ずキリストの御苦しみに同情がなかったのである。
△第五、ヨハネ一九28
「我かわく」
三十三年間、いろいろなことをなさり、すでにヨハネ一七章に「汝の命(めい)をなせり」と言われた主は、十字架の上でもなすべきこと――悪人のための懇求、母を弟子に托すこと、強盗を悔改めさせること――をなし、苦痛の杯を飲みつくして、もはや使命を完全に果したことを知って「我かわく」と言われたのだ。肉体としても六時間血を流された主は、焼けるほどにかわきを覚えられたはずである。さらにいっそう大きなかわきは、キリストの霊のかわきであったと思う。神との交わりが全く絶たれたかわきは、どんなであったろうか。このかわきは、我らの味わい得るものではない。主は実にのろわれたかわきを味われたのである。主は我らに代って、のろいのかわきを味われたのである。何という完全な願いであろうか。
我らは罪を犯したもの、神に棄てられた者であって、神よりの潤いを受ける価値の全くない者である。しかしキリストが我らのためにかわき、我らに潤いを与えられるのである。どうか我がためにかわきの絶頂を味われた主の恵みを深く感じたいものである。
もうひとつのかわきの意味は、キリストが魂の悔改めを待つかわきである。このために苦しみを忍んで十字架にかかられた。この目的のなしとげられるためである。この意味において、キリストは真にかわいておられる。我らに亡びる魂に対する熱心がない時、この熱心のあるキリストを我がうちに宿すことである。キリストの熱情、キリストのかわきが、我の熱情、我のかわきとなって主と共に叫ぶようになるのである。
誰かダビデの三勇士のように、このみ声を聞いて敵中に行ってキリストのかわき給う魂を取って来る者があろうか(サムエル後二三15~16)。
△第六、ヨハネ一九30
「事終りぬ」
我らの救は、成就した御業である。神と共同して、腕をふるって築き上げるようなことではない。事終りぬ、というこの基礎に立ったのである。事情はどうであれ、これを知って感謝すべきである。主は神が我らに要求されるすべてのことをなしとげられたのである。
△第七、ルカ二三46
「父よ、我が霊(たましい)を汝の手に託く(あずく)」
ああ、大勝利である。キリストは今まで贖いのためにいろいろ苦しまれたが、事終りぬ、と成就した時に勝利が来たのである。人は死ぬ時に決して大声を出せるものではない。主は肉体としては苦しんで全く疲れ給うたのに、大声を出されたとは不思議なことである。しかしこれはキリストが神の子であるからである。
主は「父よ」と言い給うた。先には「我が神」と叫ばれたが、今十字架を負い終った時――罪を完全に負い終った時――再び父のみ顔が見えてきて、父よと言い、この時に大声で「我が霊を汝の手に託す」と言って息絶えたのである。これは大勝利である。ステパノの死もこのようであった。ここに我らは主がつと門をくぐって天国に入られたように感ずるのである。十字架を負い通した者の最後はこれである。ハレルヤ。
兄姉よ、十字架を負うことの細かな意味をよく理解出来たであろうか。単に十字架と軽く言い得ることでないということがわかったであろうか。
ああ、真の意味において、主と共に十字架を負いたいものである。
キリストの死と当時の状態(マタイ二七50~56)
〔50〕大勝利、これについてはすでに述べた。
〔51〕「殿(みや)の幕……裂けて……」キリストの死が我らにとって如何にありがたいことであるか。この神殿の幕は非常に厳かなものであって、聖い神との間をはっきり隔てており、神と人とは交わりが出来ない。もし無理でも近づこうものなら殺されるという厳格な隔てであった。ところが、この幕が上より裂けたのである。「上より」人間は下から裂いて神に近づこうとするが、これは死の途である。けれどもキリストは上より裂かれたのである。これこそ真の救の宗教である。今この幕の裂けた結果は、我らがはばかることなく近づくことを許され、しかも今はかえってこの幕の内に入る者は生き、これに入らない者が死ぬことになったのである。前には幕の外、罪祭のある所に住んだが、今は至聖所に入ることが出来るのである(へブル一〇19)。
次に、イエスの死の結果すべての人間が解し得ない一種の力が働いた。「地震い、岩裂け」とある。
〔52~53〕墓が開けた。ハレルヤ。イエスの死の力を見よ。イエスの死がくるまでは、人間誰一人として陰府(よみ)を震い、岩を裂き、死の力を打破り、墓を開くことの出来た者はなく、皆地の下に閉じこめられたのであった。けれどもイエスの死によって、これらは全く打破されたので恐れは無くなった(ヘブル二14)。
次に甦えりも起った。これは旧約の聖徒、あるいは主を信じて後に死んだ者であったろう。ここの順序について種々の議論があるが、深く考えてみると、金曜日に聖徒の墓は開け、神の霊はキリストの死によって聖徒を墓より出すために働き、次に日曜に至って、主の甦えりによって聖徒は墓より甦えって出て人々に現われたのであろう。
これによって、甦えりはないと言った多くの人々を覚醒させたことであるが、我らにとっては、主にある者の甦えりの手付である(この甦えりはラザロやナインの息子の甦えりとは異なり、肉体の甦えりでなく、霊の体に甦える永生のそれである)。
〔54〕ハレルヤ。敵より「誠に神の子なり」との証がきた。キリストが神の子であることについてはペテロが証し、サタンが証したが、ここでは敵が証しているのである。
〔55~56〕婦人の愛の美しさを見よ。男の弟子はヨハネを最後として皆終りまでいなかったのに、女はあくまで十字架の側にいたのである。普通ならこれと反対であるのだが、神の愛によって女々しい性質がなくなり、この恐ろしい状態の中に、しかも敵の勢力が非常に強い十字架の側をいかにも離れがたく思われて止まったのである。彼らが忠実に主に仕えた者であることは、彼らがガリラヤから従ってきたことによって明かである。しかも、ついに最後まで、十字架のかたわらにまで従ったのである。
〔マルコ一五41〕他の婦人たちのいたこともわかる。
〔ルカ二三44~49〕〔47〕「百人の長(かしら)……神を崇め」とある。十字架を見上げたならば、心ある人は神を崇めるであろう。
「誠にこの人は義人なり」と証した。
〔48〕「胸を打ちて帰れり」とある。罪人の死と異るのを見て、胸を打ちながら帰って行った(後のペンテコステにおいてペテロの説教に悔改めた者の中にこの人はいたであろう)。
〔ヨハネ一九31~〕〔31〕申命二一22~23、キリストを殺して何の儀式であろうか。〔32〕当時足を折るのはその死を早めるためであって、太い棒で足を打って折ったのである。ある者はキリストの甦えりを否定するために、キリストは本当に死んだのではないというが、主は本当に死に給うたことは明かである。〔33〕ついに折らなかったのは、予言の成就であって驚くべきことと言わねばならない。〔34〕「あばらを突き……」なお間違いの起らないためである。「血と水と流れ出たり」生理学者は、これを大いなる悲痛の結果、赤血球と白血球と分離したのだと言っている。あるいはそうかも知れぬ。しかしこれは霊的に大いなる奥義であった(一ヨハネ五6~8)。水は神の言であって神を代表し、血は犠牲となったキリストを表わすのである。
キリストは水と血とを具え給う。すなわち父と我とは一つであるということである。学者はこれを悟らないが、聖霊はこれを証されるのである。この三つの帰するところは一つである。ただ我らの救のために、このことが成就したのだということを記憶しなければならない。〔35〕「これを見し者証を立つ、その証はまことなり」アーメン。ヨハネはこのことをやかましく言うのである。異端はヨハネの時代からあったので、「見たること」「さわれること」を厳しく証したのである。これ「汝らを信ぜしめんがためなり」であった。聖霊はヨハネを通して熱心に我らに信仰を求められる。36、詩三四20、ゼカリヤ一二10。
葬り(マルコ一五42~47)
〔42〕過越の祭は、翌土曜日から始まるのであって、金曜日はそのための備え日であった。
「安息日の前の日」キリストが金曜日に葬られた故、土曜日の安息日があったのである。安息の備えのためにキリストはほふられ給うたのである。キリストの死無しには我らに安息無く、苦しみのみであったろう。実に過越の小羊はほふられ給うたのだ。
〔43〕「議員」サソヒドリン(七十人議会)――ユダヤの宗教裁判――の一議員であってヨセフという人、この人について学ぶべきことは「神の国を望める者なり」彼は自分の地位、財産、名誉に満足しなかった。そして、目が神の国についた霊的な人である。第二に、彼は敵が全く勝ち、キリストは殺され、弟子たちは散ってしまったその時に、大胆にイエスに対する愛をあらわしたのである(ヨハネ一九38参照)。彼は初めニコデモのように隠れて信者になった者であるが、イエスがいよいよ予言通り、また彼が言った如く、敵に捕えられて殺された時に、「世人のためまた汝らのために死せし」イエスの愛がわかった時に、聖霊の働きによって彼の心が動いたのである。そして大胆にもイエスにむかう愛を表わしたのである。ああ、この種の信仰を要する。
〔44~45〕主が本当に死なれたことは、この点によっても明かである。
〔46〕この時ヨセフ、マリヤその他主を取り下げた者はどんな感じがしたであろうか。主を愛する彼らの心が思いやられるではないか。
「布を買い求め、しかしてイエスを取り下し、これをその布にてつつみ、磐に掘りたる墓におき……」彼らは懇ろに葬ったのである。こんなことは何にもならぬと言えばそれまでであるが、しかし彼らのこの行為は、主に対する愛を表わしたものである。神は彼らの心を見てこれを喜ばれるのである。「磐に掘りたる墓」これは他の福音書によれば、ヨセフが金をかけて自分のために備えたものであった。そこに彼は、神と人とにのろわれて捨てられ十字架につけられたイエスを丁重に葬ったのである。何と美しい愛ではないか。これはかの晩餐に座席を備えた人、及びマルタとマリヤが主に施した振舞と共に、美しいことである。否、彼らに勝って美しいことである。
〔47〕女たちがあくまでもイエスに従ったことを見る。愛には時間も労力も金も換えられない。彼らは朝の九時から食事もしないで主のかたわらについていたのである。彼らは敵の中であろうと、十字架であろうと、あるいは墓であろうと、どこまでも主に従おうと願ったのである。
〔マタイ二七57~61〕〔57〕「富める人きたりてピラトに往き、イエスの屍(しかばね)を請しかば」イザヤ五三9の予言である。〔60〕「大いなる石を墓の門に転(まろば)して去る」ヨセフはいたずら者を気づかってこうしたのである。
〔61〕マリヤらは墓に向かって座っていた。ああ、彼らの愛……。
〔ルカ二三50~〕〔50〕「善かつ義なる人」悔改めの実を結んでいる人は、世の中に光となっているのを見るのである。
〔51〕彼はこの時から大胆に主に対する愛を表わしていた。多くの議員に反対して旗色を明かにして立ったことを見るのである。
〔55〕どの福音書にも記されてあるのを見れば、婦人たちの行為が誰の目にも留まったことがわかる。
〔56〕彼らはイエスが葬られ、石が墓の門に置かれたのを見てついに家に帰った。しかし彼らの主に対する愛は、なお盛んであった。彼らはイエスのために香料と香油とを用意した。そして戒めに従ったその従順さを見るのである。我らも主のために、香ばしいものを貯えたいものである。
ニコデモ(ヨハネ一九39~)
ニコデモはヨセフに似ている。彼は、知識も地位もある人であって、初めはひそかにキリストを信仰していた。彼も前には反対論を称えたことがあった。彼は主の死を見て、没薬と沈香(ぢんこう)をまぜたものを百斤ほど携えて来たのである。高価なものである。しかし彼の心は、これらに勝って香ばしかったであろう。〔41〕墓は十字架に近かったであろう。
イエスの墓に番兵置かれる(マタイ二七62~66)
〔62~63〕彼らの心の中に何とも言えぬ恐れがあったのである。これが罪人の特色である。悪人は将来を思って心配し、聖霊は望みに輝いて喜ぶのである。
〔65〕ピラトはどんどん彼らのなすままにさせた。神はサタンが思う通りにすることを摂理の中に許し給うのである。彼らの七重八重の囲いをも主は後に破って、彼の栄えをあらわされたのである。今もそのようになることを記憶したい。神はイエスに従う者がサタンに打たれるのを許されることがある。このような時も失望せずに進むべきである。
兵隊の数は六十人であって、当時のローマの一小隊というようなものであったろう。