婦人たち墓に行く(マルコ一六1~4)
場所 エルサレム
〔1〕婦人たちのことは続いて記されている。彼らは十字架にも墓にも最後まで主につき従っていたのである。安息日は律法に従って休んだが、安息日が過ぎるのを待って、この三人の婦人は香料を携えて行ったのである。実にこの心は美しいではないか。彼らは富者ではなかったであろうが、「イエスに塗らんとて」持って行ったのである。マリヤのナルドの香油と同様である。理屈を言えば、これは共につまらないことではあるが、それは愛の行為であって、理屈の領分ではないのである。
〔2〕「いと早く」愛の時間はいと速しである。ずるい不規則なのは愛のない証拠である。ヨハネ二○1を見ると、「未だ暗き中に」とある。イエスに対する愛は、早朝に起きて祈らせるのである。
「墓に来たり」女の身で、まだ暗い中に墓に来るのは恐ろしいことであったろう。殊に人手にかかって十字架に殺された者の墓に来ることは。しかし愛には事情も何もないのである。
「全き愛は恐れを除く」のである。
〔3〕これは墓に来る途中の言葉であろう。彼らの愛のしるしである香料を主のなきがらに塗ろうと思ったが、墓前には大石が置かれてある。これが大きな妨げであった。今日も信者ならば主の愛を知り、自らも真に主を愛するけれど、悲しいことには主と自分との間に大きな石がある。石とは何か。これを霊的に味わえば場合によって色々あるが、第一は内なる罪、石の心である。これは主との交わりを絶つものである。また何かの性癖、何かの弱点によって、いつも主との交わりを妨げられることがある。このような時に「誰か我等のために石を墓の門より転(まる)ばし取る者あらんか」と言うであろう。この言の中には、自らの力では駄目であることを知り、また「その石甚だ大いなればなり」とは失望の意を示している。
我らの前に主との交わりを妨げるものはないであろうか。しかしここで心にとめるべきことは、彼らはこの石のために主のもとに近づくことを止めなかったということである。これは愛である。愛は何物があっても主に近づくのである。見えるところは失望である「けれども」近づいた。これは愛のけれどもである。このような者は主の栄えを見る。
〔4〕「かくて彼等目を上ぐれば」信仰である。これは栄えを見る秘訣である。信仰はいつでも目を上げる。この時に「石のすでに転びある」のである。神は信ずる者のために、思うよりも願うよりもはるかに勝ったことをなされるのである。しかし彼らがこの時互いに顔を見合せて嘆き、もがき、誰かの所へ行くようなことがあったら駄目だったのである。だから信仰をもって神を見上げよ。神は石を取って主と我とを一致させて下さるのである。「……を見る」彼らにとってどんなに大きな喜びであったろうか。他人はとにかく、彼らは言うことの出来ない喜び、人の知らない喜びを味わったことであろう。
〔マタイ二八1~〕彼らが墓に入ったことがわかる。
〔ヨハネ二○1~2〕彼らはやはり悟ることがにぶかった。神が主を甦えらせたことを悟り得なかった。そして人が盗んだと思って、あわてていた。
キリストの甦えり(マタイ二八2~4)
〔2〕「誰が……」という女たちの願いのこたえが前にあった。人間がどんな大石を持ってきても、神の力はこれを全く取り除けてその上に座し給うのである。ああ、信ずることである。
〔3〕神から来た者は実に輝いて、「雪の如く白く」純潔である。変貌の主もそうであった。栄えときよさは天国の特色である。
〔4〕死んだキリストは甦えり、生きて番をしていた兵卒は死んだ者のようになった。
天使のみ告げ(マタイ二八5~7)
〔5~6〕四節と五節とを対照せよ。番兵は怖れて死んだようになったが「汝等恐るるなかれ」この驚くべき力と天使が来たのはあなた方のためだから恐れるな、と。彼らの心がわかる。実に同情は言である。「その言える如く甦えれり」彼らは思いに勝る福音を聞くことが出来たのである。
「来りて主の置かれしところを見よ」ああ、神は我らに空虚な墓を見せて下さる。多くの人は墓が空であることを知らないために、主の甦えりを見ることが出来ないのである。墓はイエスを入れておく力がない。死の力はなくなった。イエスにある彼らも、その力に支配されないのである。
〔7〕「かつ往きて……告げよ」福音の使者となるべきである。十字架の使者も幸いであるが、主の甦えりの使者であることは更に幸いなことである。
「まず弟子に……」イエスを慕う者にまず告げられた主が、ガリラヤで弟子たちに会われるのは深いみ旨のあったことである。
〔ルカ二四4~8〕を見よ。彼らは神の力を見たが、信仰が無いためにハレルヤと叫び得なかった。彼らは「うろたえ」たとある。信仰は賛美し、不信仰はあわてるのである。
「何ぞ死にたる者のうちに生きたる者を尋ぬるや」主を愛することはほめるが、不信仰を嘆かれる。
「三日目に甦えるべしと言いたりしを思い出でよ」弟子たちがもし主のこの言を覚えていたならば、彼らは主の甦えりを何よりの望みとし、祈りつつ待ったであろう。彼らはこの日を指折り数えて大いに喜ぶべきであったが、全く忘れていたのである。信じて知っていなかった。故に天使は嘆いて「思い出せよ」と言ったのである。
「ガリラヤ」弟子たちもこの婦人たちもガリラヤで救われた。また主はそこにおいて御自身の甦えりを懇ろに語られたのである。だから、このように告げられたのは彼らに場所に関連して主のみ言を思い出させるためである。我らにもこの経験があるであろう。
〔マタイ二八9~12〕弟子たちは女たちが告げた時に、これを「空しきこと」としたとある。実に不信仰である。かつて主の言を聞き、また三日目にもなり、殊に婦人たちが実際に見たその証拠を示されながらも信じなかった。十字架の主は罪人にも見えるが、甦えりの主は信じない者には決して見えないのである。
〔マルコ一六5〕「若き者」天使は命が充ちていて若く見えた。
〔7〕「その弟子とペテロに告げよ」(この書はペテロがマルコに書かせたものであるから、特にペテロという文字が添えてある)ペテロはありがたく感じてこれを書かせたのである。その理由は、主はペテロが特別に失望していたことを御存知だったから、失敗して罪を犯し失望して倒れそうになっていたペテロを特に名指して会おうとされたのである。ああ、捨て給わないみ旨を感謝せよ。ただ「弟子たち」と言えば、ペテロは他の弟子たちのみと思うだろうとお考えになって、特別に「ペテロ」と言われたのである。ハレルヤ。我らが倒れて失望した時に、主は憐れんで会って下さるのである。アーメン。
マグダラのマリヤに現われる(マルコ一六9~11)
場所 不明
聖い人々あるいは偉い人々でなく、以前に七つの悪鬼につかれていた者――罪人――に主は真先きにあらわれ給うた。甦えりの主にお目にかかるのは、身分の如何によらないことを知る。彼女の砕けた心に対して主は第一に現れ給うたのである。我らも自らの罪を深く覚え、罪多いところに増し加わる恵みに感じて主を見上げる時、甦えりの主は現われ給うのである。
〔10〕他の婦人たちは泣いていた間に、マリヤは主を拝し、使いとなって我らに告げたのである。
〔11〕しかしこれを聞いた婦人たちは信じなかった。また天使のみ告げを聞いても、証人を見ても信じなかったのである。
〔ヨハネ二〇3~〕
〔3〕「かの一人の弟子」とはヨハネのことである。この時婦人たちは石が転がしてあるのを見て、まだ主を見ない中に弟子たちの所へ告げに行ったのであろう。この時他の婦人たちは皆いなかったか、あるいはマグダラのマリヤだけが残っていたのかわからないが、とにかく彼女は墓の側に残っていたことがわかる。
〔4〕「走れり」愛の時間は速い。走ったというのは主に対する愛の表われである。ヨハネは若かったので早く走ったが、ペテロは老年であったので遅れたことは、さぞ残念であったろう。
〔5〕ヨハネは墓に先に着いたが、すぐに入らなかった。多分その中が気味が悪いためか、または例によって考えていたのであろう。
〔6〕ペテロは遅れて着いたが、ヨハネより先に墓の中に入ったのである。ヨハネとペテロが後になり先になる様子を見よ。
〔7〕「たたみて置けり」主は如何にきれい好きであったかがわかる。これらの物は、甦えりの後には不必要のようではあるが、主は如何に規則正しくあることを好まれたかを見よ。我らはこの点においても、主を知るものとなりたい。これは主の喜ばれることであるから、主の花嫁のなすべきことである。
〔8〕またヨハネが先になったことを見よ。彼はペテロが躊躇している間に、直ちに信じたのである。さすがは霊的である。
〔9〕これが弟子たちのありさまである。旧約(詩一六10その他)に記されてあるが、彼らは知らなかったのである。
〔11〕マリヤは悲しみ残念がって泣いていたのである。
〔12〕ここは二つのケルビムがおおっていた契約の箱を連想させられるところである。
〔13〕「女よ、何ぞなげくや」不信仰な者にむかう神のみ声である。見える所だけによって歩いていて、見えなければ満足をしない者に対してこの声がくるのである。
彼らはヨハネ一四章などのみ言を覚えていたならば大いに喜ぶべきであった。肉眼によって主を見ようとする者の失望を見よ。
〔14〕不信仰は目をくらますのである。哀れな者とするのは不信仰である。主を見ながらなおも主を信ずることが出来ないのである。
〔15〕イエスも同じく「女よ、何ぞなげくや」と言われた。「誰を尋ぬるや」主は御自身を尋ねていることを知っておられるが、彼女の不信仰をいましめられたのである。主を求める愛があるが、不信仰が生ける主を見させなかったのである。
〔16〕マリヤの目に主がわからなかったから、主は彼女の耳に訴えられた。「マリヤよ」ああ、聞きなれたお声、特にその名を呼ばれたのである。ヨハネ一○3のように、甦えりの主も名を呼び給う。ここでマリヤは気がついたのである。この名を呼び給う主のお声は我ら信者にも聞えるのである。この時彼女は懐かしさにたえず「ラボニ」(我が師よ―― 一生涯従う師を夫子《ふうし》という)と言った。ああ、この一言の心の通い。「マリヤよ」「ラボニ」彼女は喜びのあまり抱きつこうとしたようである。
〔17〕イエスは「我にさわることなかれ」と言われた。これは大いなる教訓である。主が肉体でおられた時には親しく触れて信じていたので、主が見えなくなった時に、すぐになげき悲しんだのである。今は、このような信仰では満足されないのである。パウロは「今より後われら肉体によりて人(主)を知るまじ」(コリント後五16)という。ペテロも「見ざれども信ずる」(ペテロ前一8)と言った。主もまたトマスを導いて「見ずして信ずる者は幸いなり」と言われた(ヨハネ二〇29)。主は見ずして信ずる信仰を求められる。
今我らは眼前に主を置きたく願うのは幸いなことである。けれどもそれは浅いことであって、主の求められることではない。
「我が兄弟に……」何という驚くべきことではないか。主の言すら心に留め得ない弟子たちに、主は彼らを捨てないばかりか、あえて我が兄弟と言われる(ヘブル二11)。「我が父すなわち汝らの父」我らとキリストの一つなることを示し、我らが真の同胞であることを示された。「我が神すなわち汝らの神」主は御自身を低くして我らと同じ地位に立ってこう言われるのである。
イエスこそは我らの真の同情の友である。この主が父の所に行かれたのは、我らの代表者として父の前に現われて下さったのである(へブル九24)。
「マリヤ(このことを)弟子たちに行きて告ぐ」実に幸いな福音の使者である。七つの悪鬼につかれていた者も、このようなものとなるのである。
「さわることなかれ」とマリヤに言い、トマスには「さわれ」と言われたのは、反対のように見えるが、トマスの時はすでに父のもとに行かれたからであるという説がある。
〔マタイ二八8~〕「女おそれながらもいたく喜び」信仰と不信仰とがまざっている。「とく墓を去り」先には急いで主に来たが、この福音は墓場を去らせたのである。こうして喜びに満たされて行ったのである。
「安かれ」これは主が我らの目から涙をぬぐって下さる御言である。彼らが全く恐れて取り去られるためである。甦えりの主の特色は「安かれ」と言われることにある。
番兵の報告(マタイ二八11~15)
これもひとつの甦えりの使者である。死んだように恐れた番兵も、甦えりの報告をしたのである。しかしこれは死んだ報告である。彼らはこれを自分のものとして信じていなかったから、この報告に何の命もなかった。だから祭司、学者らが金をもって欺く時、たちまちその方に組してしまった。ああ、甦えりの場所にいながらも、主の甦えりを否定するものがある。
ここに悲しいことは、祭司、長老が異邦人のしかもいやしい者たちに教えて偽りを言わせるとは何たることであろうか。もしも番兵が寝ていたと言えば直ちに死刑に処せられるので困っていたのであるが、学者たちは彼らの安全を保証したとは実にひどいことではないか。番兵たちは金のためには神を恐れることも何もあったものではない。言われるがままに偽りに従ったのである。
ジャスチン・マーターの説くところによれば、ローマでは特別の使者を遣わして甦えりの虚偽であることを伝えさせたということである。
この番兵と、例のピリピの獄吏とを比べて、悔改めない魂と救われるべき魂とを見よ。
イエス、二人の弟子に現われる(ルカ二四13~35)
場所 エマオ
〔13~14〕一人の名はクレオパであって、他の一人は不明である。多分この人々はエマオに住んでいたらしい。過越の祭が終ったので、エルサレムから帰るその途中であったろう。二人共語り合い、また論じ合っていた。その時イエスが近づかれたのである。
〔15〕彼らが論じていたのは一七節で明かである。彼らは議論したのではなくて、主をしのんで過去の恵みを語り、また十字架を思い出し、それに引きかえて今の情なさを語っていたもののように見える。このような時に主は御自身を現わされたのである。
主が先に婦人たちに現われ給うたのは、彼らが愛によって主を慕い、悲しんでいた時であった。この二人もそうであったので、主は御自身を現わされたのである。(マラキ三16)主を慕い、主御自身の話をする所にエホバの耳は傾くのである。ああ、主はこのような時に「自ら近づきて共に行」き給うのである。我らの旅路にこのみ言は大いなる慰めではあるまいか。
〔16〕しかし弟子たちの目は迷わされていたのである。不信仰に失望している人の目には主は見えないのである(ヨハネ二〇14~15)。
〔18〕主をただの旅人であると思ったのである。
〔19〕「何事ぞや」主は知っておられたが、あえてこう尋ねられたのである。それは弟子たちの心を確かにして、祈りを明確にするためであった。ちょうどルカ一八41のように。だから「ナザレのイエスのことなり」というこの答えを求められたのだ。他のことではなくイエスのことである。
「大いなる預言者」(申命一八8)の預言者の意。
〔20~21〕「望みたりし」彼らはキリストにつき唯物質的なこと(当時はイスラエルがローマの属国であったため)ばかりを望んでいたから、何とも言えない失望を表わしていたのである。
〔22〕そして彼らは甦えりのことを聞いても、ただ驚いていたのである。十字架によって驚いた彼らは、さらに大いなる驚きをしたことであろう。
〔23〕「屍(しかばね)を見ず」甦えったことは気づかず、屍が失われたことに気を取られたのである。「見たりと告ぐ」天使の言が信じられないのである。
〔25〕主は嘆き給う。昔から預言者を通して知らされたことを「信ずる心の遅き愚かなる者よ」と。我らはどうかすると短気を起し、手を出し口を出すことは実に早いが、信ずることが遅いということがないか。信ずることの遅いのは真の愚者である。信ずるところに神の力は働くものであるから、確かに普通以上に賢い者となることが出来る。信じない者は神の前に大愚者である。どうか信ずることの遅くならないよう、ここに全速力をつくすべきである。
〔26〕なやみを受けてその栄光に入ったキリスト。ヘリくだり給うたキリストと栄えを受けたキリストが現われている。
主は聖書を引きながら真のキリストは死んで後に甦えるべきことを懇ろに説かれた。ああ、甦えりのキリストを師として聖書を学ぶとは何という幸いであろうか。
〔27〕「故に」これは「かくて」と訳すべきである。また「事は解明(ときあか)されたり」は「事について彼に解明し給えり」とすべきである。
〔28~29〕彼らはこの聖書講義を聞いて、何とも言えない光を受けたように見える。「主はゆき過ぎんとするさま」をなし給うたが、彼らは主を引き止めた。これは熱心に止めたという語であるという。もし他のことを思っていたら講義を聴くにしても身が入らず、早く終ることを願うものである。しかし彼らは「日も暮れかかっていますから、一緒にお泊り下さい」と熱心に引きとめた。彼らの心中はただ淋しかったのである。ちょうど夕暮にもなり、このような時に主のことを語る相手となり、何とも言えない慰めを与えられたお方を引き留めたのである。
「我らと共に止れ」これは表面から見ても愛があらわれている。このように主を引きとめる人は幸いである。主は直ちにその祈りを聞き入れ「入りて止」まり給うたのである。彼らの喜びはどんなに大きかったことか。
〔30〕今度は引とめて食事をしようとした時に、今迄の客は主人となって感謝をし、これをさいて与えたのである。ここで主は晩餐を繰り返された(彼らは多分弟子たちの晩餐の時にはいなかったであろう)。
〔31〕そして主からパンを受けた時に、彼らの目が開かれて主を見たのである。ここに霊的教訓がある。食事をしない時は眼の力が衰えるのである。
主は彼らにパンを与えられた。悪魔にやられて失望し、悪魔の言を聞いても神の言を聞かない時に魂は飢えて、主を見る目が衰える。このような時、主にまずパンを祈り求めよ。主によって力づけられよ。パウロもまたこのことを祈っていた。エペソ一17~19を見よ。どうかわたしたちも「目あきらかになりて彼を知り」たいものである。「また、たちまちその目に見えずなれり」これは神のみ旨である。あの変貌山上のペテロのようである。
主は彼らに事実主が生きていることを知らせるために御自身を示されたのであるが、いつまでも現わしておかれず、見ないで信ずる信仰を求められたのである。
〔32〕彼らは全く変った。ああ、聖書を学ぶ時に、自分の力や学問によって学ぶのと、聖霊によって学ぶのとは全く異なる。聖霊によって学べば「彼らが心燃える」のを覚える。
〔33〕彼ら――心燃えた者――はエマオに止って休むことをしないで、起って他の人々に知らせに行った。我らもかくありたい。
〔34〕過失の多かったシモンにとって、どんなに大きな恵みであったことか。
〔35〕弟子たちには喜びの福音が重なったのであるが、その中にも信ずることの遅い者があった(マルコ一六12~13)。我らも同様ではないか。
キリスト、十人の弟子に現われる(ヨハネ二〇19~23)
場所 エルサレム(トマスのいない時)
〔19〕「一週の始めの日」日曜日である。一四章に主は弟子たちに「憂うるなかれ」と、また一六章には「恐るるなかれ」とくれぐれも教えられたが、弟子たちはやはり恐れていた。しかも戸を閉じてふるえていたのである。人間の大胆の真相はこんなものである。このように恐れていた時に、主は御自身を現わされた。この時戸が閉じてあって入ることが出来なかったので、主は家の中へ御自身を現わされたのである。主は不信仰と恐れの障害を取り除いて入り給うのである。主は先に海の上を歩いて弟子たちに会われたが、これはそれに勝る奇跡であって、神より他に出来ないことである。
恐れていた弟子たちに「汝ら安かれ」と言われた。ああ、我らの弱点と困難、すべてを御存知の主は、その真中に立って「安かれ」と言われる。その主を拝せよ。
主のお言は弟子たちの波立つ心に油を注いで静められたのである。
雅歌二1の「シャロン」とは荒野(この世)であって、その中に野花である主は立ち給う。また「谷」――暗く、人に捨てられ望みのないこと――の底に弟子たちはいた。そこにはソロモンの栄華も及ばない百合の花である主がおられた。ああ、主をほめよ。
〔20〕他の福音書によれば、弟子たちが疑っていたから主は「その手とあばらを彼らに見せ」給うた。これこそ三年来仕えてきたその同じイエス、十字架上に見たイエスである。弟子たちはその時信ずることが出来、主を見ることが出来たのである。そこに真の喜びがある。喜びの秘訣は主を見ること、殊に甦えりの主を見上げることである。主は先に「汝らを捨てて孤児とせず」と言われた(ヨハネ一四18)が、その通りに成就されたのである。孤児のように淋しく感じていた弟子たちに、主は御自身を示された。
諸君ははたして十字架の主を拝したことがあるか。十字架の主を拝することによって平安は来る。さらにまた甦えりの主を明かに拝したことがあるか。私はすでに世に勝っていると言われた。しかも真にすべてのものに勝利された甦えりの主を拝する経験に入ることを努められよ。そうしてこそ全く動じない平安が得られるのである。
〔21〕もう一度主は「安かれ」と言われた。先に弟子たちが未信者のような恐怖に陥った時に、御自身は十字架の上に神と弟子たちとの完全な平和を成就するから恐れるなと言われたのである。しかしなお進んで「我汝を遣わさん」とのみ言に添えて、もう一つ安かれと言われた。
我らは罪赦されて罰を恐れることなく平安を感ずる時に恐れが生じて実に堪えがたい思いがする。しかしこうした時に主はそのためにも「安かれ」と言われるのである。
マタイ一一28の「我に来れ、我汝等を休ません」と「我がくびきを負いて我にならえ、汝ら心に安きを得べし」とを比較せよ。初めの平安は罪の重荷をおろさねば来ないし、次の平安は使命を負わなければ来ないのである。
父の我を遣わしし如く我も汝らを遣わさん、ああ、ここに我らに与えられる使命を知りたいものである。キリストが受けたと同じ使命を我らに負わされるのである。だから我らも主と同様に使命を果すべきである。私が生きるのはこのためである(ピリピ一21)。ヨハネ一七4の主の祈祷のように、またパウロがテモテ後四7に言ったように、我らも心残りのないまでに使命を果したいものである。
〔22〕幸いなことである。使命の如何に大きく重大であるかを示されると共に、このことがある。もしもそうでなければ主は残酷である。ちょうど神がアダムを造ってこれに息を吹き入れられたことによって彼は生きた者となったように、我らにさらに勝った息を吹き入れられる。
「聖霊を受けよ」とある。ハレルヤ。この時に一種の力が与えられたように思われる。弟子たちが十日間祈ることが出来たのは、この主の「息」によったことであろう。主の息によって大いなる栄光の証人となったことであろう。
〔23〕これは権威である。聖霊を受けて神の代表者となる時に、この権威が与えられるのである。地上で聖霊を受けた者の一言の決定は、直ちに天の決定となるのである。何とも言えぬ恐ろしさを感ずるが、聖霊には事実これが備わっている。
ルカ二四36~43
〔36〕この日は実に多事であって、三つ重って甦えりの知らせがあった。
〔37〕彼らは信ずべきであるのに、不信仰の故に疑っていたのである。弟子たちの疑いと主の御言葉とは、ちょうど舟で嵐に会った時のようである。
〔38〕主は不信を嘆かれる。「何ぞ心に疑い起るや」この疑いとは「理屈を言う」ことである。
〔39〕主は「我なるを知れ」と仰せられた。不信仰は主御自身を認める代りに、主以外のものを見るのである。怪物と見、番人と見、旅人と見、幽霊と見る。しかし主は「我なり、我なるを知れ」と言われる。
「肉と骨」甦えりし肉と骨である。天国を継ぐことの出来ない血肉とは異なる。エペソ五30。ああ、このキリストの甦えりの肉と骨は我がものであると信ぜよ。私が今持っている肉と骨以外に主より来る肉と骨(やがて来る)とがある。
〔41〕彼らは喜んだが信じなかった。何たる不信仰であろうか。主はさらに食事をもって御自身の甦えりを証明された。
〔42〕「あぶりたる魚と密房(みつぶさ)」とは共に庶民の食物であるという。
〔43〕「その前に食せり」空腹のためではなくて弟子たちの不信仰を除くためであった。
〔44~45〕聖書は「我が事につき」すなわちキリストについて証している。前に聞いたが弟子たちにはわからなった。我らがどんなに聞いても、自ら十字架と甦えりの主を実験するまでは理解出来ないことがある。しかし主は彼らをあわれんで彼らのために聖書を開き、悟りを開かれるのである。これこそ恵みである。甦えりの主の特色は聖書の悟りを開かれることであると知った人は、真の教師を得たと言うべきである。
〔46〕主は多くの引照を示されたことであろう。我らが主の苦難また甦えりについて、旧約の予言をどれほど知っているであろうか。多く知ったのは悟りが開けたのである(イザヤ五三章、詩二二篇、一六篇)。
〔47〕これはユダヤ人を始め万人の救いである。ただ「その名によって」のみ救われるのである。そしてこれはまず「エルサレムより始まる」のである。
エルサレムは罪の絶頂に達した所であって、神の光を最もよく受けておりながら、しかもキリストを十字架につけた所である。そこに神は愛を始め給う。
〔48〕「汝らは……」彼らを証人にせられた(詩二〇21)。口先きばかりではなくて、身をもって主を表わす証人とは殉教者の意である。
〔49〕「上より力を授けらるるまで」これはペンテコステの約束である。これを受けるまで止まれ。ああ、止まるべき所に止まりたいものである。しかし多くの人々は下よりの力――自己の経験や才能など――でやっている。これは駄目である。力は必ず上からでなければならない。救われた証は直ちに出来るが、責任をもって主を代表し得るためには主よりの力を要するのである。
十一の弟子に現われる(ヨハネ二〇24~49)
(トマスのいる時)
〔24~25〕「十二の弟子」とあるのは英語のthe twelve(ザツエルブ)であって弟子たちということの通称である。先にトマスは共にいなかった。どうもとかく理屈を知ることを好み、見なければ信じないような者は栄えを見ないのである。トマスは他の弟子たちが確かに主を見たという時にも、なお承知しなかった。トマスは多分見なければまた触らなければ信じない、との大気炎であったろう。信仰の人々は迷信の如くに嘲けられることがしばしばある。
〔26〕「トマス彼等と共におれり」と聖書は特に記している。主はこのような時にトマスに現われ給うた。主は前と同じように現われて、愛のみ言をかけ給うた。この時にも、彼らのうちに、幾分かの不安があったことがわかる。
〔27〕二五節においてトマスが語ったことを、主はすべて聞いておられた。トマスが不信仰の言、理屈を言ったことも皆知って、トマスにこのようにされたのである。そして「信ぜざるなかれ、信ぜよ」と言われた。
信仰は意志である。感ずること、また道理を理解することではない。だからトマスはまず「信じない」と言った。そこに意志がある。神はそれを嘆かれる。感じない者に感じよと言い、わからないことを理解せよというのは無益である。だから主はこう仰せられた。「信ぜざるなかれ、信ぜよ」と。ああ、これは可能である。信じたいものである。
〔28〕トマスは「我が主よ、我が神よ」と叫んだ。彼は主に触らなかったろう。主のみ言を聞いて不信仰を深く悔いたのである。これはトマスの美わしいところである。彼は正直で真面目な人であった。頑固で信じなかったのでないから、主のみ声を聞いてすぐに砕けたのである。そして彼は「我が主」よと呼び、「我が神よ」と叫び、他の者がまだなさなかった真の礼拝をしたのである。甦えりの主をこのように礼拝した経験を諸君は果して持っておられるか。
〔29〕「見ずして信ずる……」ここに永遠の教訓がある。トマスが先に弟子たちに聞いた時信じて喜んだならば、どんなに幸いであったであろうか。
我らもしばしば昔の弟子たちを羨み、幻を見た兄弟姉妹を羨ましく思うけれども、主は「見ずして信ずる者は幸いなり」と言われる。サタンは見える所、感ずる所が理屈でなければ満足出来ないようにする。しかしこれはサタンの業である。
マタイ五章に主は種々な幸いを教えられたが、四福音書の終りにおいて「見ずして信ずる者は幸いなり」と教えられるのである。
ヨハネ二〇31に記されるように、ヨハネ伝の書かれた目的は「信ぜしめんがため」であった。そしてこの言はただヨハネ伝の目的というだけでなく、聖書全巻の目的である。
テベリヤ湖にて七人の弟子に現われる(ヨハネ二一1~24)
一~一一 罪人を漁ること 一二~一八 信者を飼うこと 一九~二一 十字架を負うこと 二二~二五 再臨を待ち望むこと (バックストン氏の分解による)
これは我らの全生涯を示している。故に、これをしっかりと心に入れれば成功である。
〔1~2〕ここは七人である。「ペテロ、トマス、ゼベダイの子等」みな弟子として失敗した者ばかりである。
〔3〕人情としてはさもあろうが、実に情けないことである。彼らはガリラヤに帰っていたのである。それはキリストのお言葉であったからである。しかし、そこに主が常に共におられたのではない。何をしようかと迷っていた時に、サタンは色々と彼らを誘惑したであろう。
第一に、もう生活問題が迫ってきていた。近所の漁夫などから嘲りを受けるなどのことが色々あったことであろう。だから同情は出来る。しかし霊的方面としては実に厳粛な時であった。主は甦えって、父の遣わされたように彼らを遣わし主の在世時よりも多くの栄えをあらわそうとされたこの時に、金もうけも何も捨ててキリストの来る約束を待ち望むべきであったのに、彼らはやはり肉についていたのである。
ペテロは例のように我漁りに行かんと言い出した。実に悲しいことである。マタイ四19を見れば、彼は立派に網を棄てたのであった。そこで彼の天職が定まったのであった。ところが、その一度捨てた網をまた取ったのである。こうしたことはよくあり勝ちなことであるから、我らにおいても、このような者とならないように慎むべきである。
もしこの時ペテロが「我祈らん」と言ったのなら幸いであったのに。さてこの一言は、次に見るような大きな感化を人々に及ぼしたのである。「我等も共に行かん」皆がペテロの言葉に同意したのである。我らはこれを覚えたいものである。特に苦しみつつある時に発する一人の一言が、すべての者を動かすのである。この時に不信仰の言葉を出さずに、信仰の言葉を発する者となりたい。「何の所獲(えもの)もなかりき」これがその結果である。
〔4~5〕さ迷った羊に主はもう一度御自身を現わされた。この時もし彼らが山で祈っていたのであったならば、直ちに「主よ」と言い得たであろうに。心の備えがなかったために主は彼らの眼に隠されたのである。
主は「多分あなたがたは食べる物が何もないでしょう」――(原語の意)と言われたのである。これは実に同情の言葉であり、また非常にさぐられるお言葉である。「何もないでしょう」彼らはこれに答えて「無し」と。ああ、ヘリくだらされたのである。これでは霊肉共に立ってゆかない。あたかも風を食うようである。
〔6〕主はこのような時にだめだと言って彼らを捨てられなかった。彼らに親しく道を示されたのである。その時この奇跡があった。彼らはどんなに喜んだことであったろう。
〔7〕ここでヨハネは実に幸いではないか。彼はすぐに「これ主なり」と言った。彼は魚を喜んではいなかった。彼は以前の奇跡を思い出して、すぐに主に目をとめたのである。すなわち先に御言葉をかけ給うた主に目をとめたのである。これは神の子イエスの弟子の特色である。我らが働きに成功した時、栄えを見た時、直ちに主に目をつけるべきである。その成功と栄えとは主によるからである。
先の墓に行く途中のように、ここでまたヨハネは先きになった。するとペテロは先になろうとしてすぐに飛び出して、主のもとに急いだのである。主と聞いて、魚を省みる間もなく、主に一目散に走ったのである。我らもこうあるべきである。
また彼がどんなに主を敬っていたかは「衣をつけ帯して湖(うみ)に飛び入りぬ」とあることによってもわかる。
〔8〕他の弟子たちは落着いて主のもとへ来た。
〔9〕その時この奇跡を見たのである。主は彼らのために備え給うた。これは実に幸いな教訓である。
我らは自分の成功を食べてはならぬ。成功した時に食物(我らの受くべきもの)は主からくるのである。我らはあのアブラハムがメルキゼデクに対してそうであったように、またこの弟子たちのように、それを主より受けるべきである。
〔10~11〕このようにして、主が獲物を「持ち来たれ」と言われる時に、獲物を持って来て主と共に楽しむのである。
主に栄えを帰し、成功は喜ぶべきであるが、この順序を違ってはならない。
〔12〕「来りて食せよ」幸いである。前に「おさなご共よ、食物あるや」との主の問に対して彼らは「無し」と答えた。彼らは自分に食物がないのだから、もちろん人を養い得なかった。しかし今度は主が魚をたくさんとらせて、「来りて食せよ」と言われたのである。ああ、この甦えりの主のご馳走を得たいものである。
〔13〕弟子たちは先に五千人あるいは四千人を養われた主を思い出したことだろう。
この時彼らは霊肉共に大いに飢えていたのであった。この時に大牧者である主は彼らを豊かに飽かせられたのである。
〔14〕トマスのいない時と、いる時と、この時とで三度目である(個人としては度々であるが弟子たちとは)。
〔15〕どうか我らは今ここで、もう一度新たなみ声を聞きたい。
「彼等食して後」まず主は飢えた弟子たちを飽かせ、弱った彼らを強め充たされた。ああ、その時に主のこのみ声が個人的にくるのである。
「シモンよ」他の者ではない、あなたは……私を愛するか。
「これらの者に勝りて」とは魚ではなく、他の弟子たちのことである。それはペテロは先に、誰が主を捨てようとも、自分だけは捨てない、と確かに言ったのであるから、主はもう一度「如何に」と尋ねられたのである。他の人ではなく私を愛するかと。ハレルヤ。
私を畏れ従うかとの旧約的な律法ではなくて「愛するか」である。この「愛するか」の愛は原語では神の愛を表わし、敵をも愛する愛である。しかしペテロの答えは「主よしかり、我が汝を愛することは汝知れり」であった。この愛は原語では前の字と異なり、人の愛であって、好きだくらいのところである。彼は確かに主が好きだった。先にも主を見て海中におどり込んだのであって、主イエスのお話を不快に思い、喜ばないようなある信者とは異っていたのである。
「我が小羊を牧(か)え」その時、主は我が愛する小羊に食物を与えよ(世にあって慰めのない彼らに)と。これが主の願いである。主には今は何の不自由もない。ただ世に残して去る多くの弱い小羊を養うことだけが願いであった。ああ、これに答えてこそ真に主を愛するものなのである。
使徒二〇28~29において、パウロもこのことを言った(私はここがわかった時に、小羊の価がわかって涙にむせんだのである)。
どうも教会が義務であり、重荷となっているのは、主との関係が変った時である。「私の愛する小羊を養え」との命である。ただ「小羊を牧え」ではない。そんな事業ではない。主を愛するから、主が愛する者に食を与えて養うのである。主を愛することは我らにとって極く自然なものである。
〔16〕「再び……シモンよ我を愛するか」ペテロはまた「汝を愛(好き)す」と答えた。主は「我が羊を牧え」と言われた。主は小羊(弱いもの)も羊(より成長したもの)も共に目を注いで、これをペテロに頼まれた。ここに「牧え」つまり羊飼いとなれとある。単に一、二度食を与えるのではなくて、責任をもって飼うことを命じ給うのである。
〔17〕「三度……我を愛するか」と。この時に主はペテロの用いた愛するという言(好き)を用いられた。この時彼はうつ向いたのである。
「三度……愛するか……憂う」とあるのは、三度目に「好きか」とあったからその言がペテロの心に刺さったのである。先に彼は大言壮語したが、三度も主を知らないと言った。そういう過去の失敗が思い出されて悲しくなり、自分が駄目であるということを思ったのである。しかし彼は今度こそは正直に「主よ心の中を見給え」「我汝を愛することは汝知れり」と言った。主は再度「我が羊を牧え」と言われた。主は意地悪く三度聞かれたのではない。これによって彼の羊に向う切なる愛を表わされたのである。
〔18〕羊を托された主は、次に我ら牧者たる者に一つの覚悟を求められるのである。
「汝いとけなき時」信仰の幼稚な時は、自分の心のままに遊んで歩く生涯で、彼らはペンテコステの時まではこの生涯であった。しかし「老いては」成長したら十字架を負う生涯に入らねばならない(ヨハネ一○11~15)。死に至るまで忠実なことである。
〔19〕「如何なる死にて神を崇めんかを示せるなり」主にこれが見えていた(言伝えによれば、ペテロはネロ帝迫害の時逆さ十字架につけられて死んだということである)(ペテロ後一14)。
「我に従え」命がけに服従するのではなくて「我が後よりついて来い」である。我らは主の行かれる所へ行くのである。十字架を負う道は主について行く道、幸いな道である。
〔20〕「この人如何に」自分は死の宣告を受けたが、ヨハネはどうなるのだろうか、と。自分だけが死ぬのは気味悪く感じられたことであったろう。
〔22〕しかし主は「我もし彼がながらえて、我が来るを待つを望まぱ、汝に何の関わりあらんや、汝は我に従え」と言われた。神のみ旨はそれぞれ一人ひとりに異なる。ヤコブのようにすぐに殺される者もあり、ヨハネのようにパトモス島において、黙示録を記すまで、神の摂理の中にながらえた者もある。
「何の関りあらんや」十字架を負う時に、他人を見てはならない。ただ「主に従って行く」べきである。
〔23〕ヨハネはながらえて再臨の栄光を見た後に死んだ。
〔24〕彼自らこれを証したのである。
ガリラヤ山における最後の顕現(マタイ二八16~20)
〔16〕幸いな山である。我らはこの山で主を拝したいものである。
〔17〕「されど疑える者もありき」ペンテコステまでは主はどんなに懇ろに御自身を示されても、なお弟子たちの誰かは疑った。実に悲しいことである。
〔18〕「イエス進み出て」特別に注意をひいて御自身を王の王、主の主として示されたのである(詩二6~11)。この王を畏れて喜びたいものである。
〔19〕「この故に……」多くの講義を要しない。一言一句そのままにこのみ言を受け入れたい。
天地の全権を握る私が命ずることは、どんなことでも可能だから、大胆に命ずる通りになせよ、である。
「汝らゆきて」前進して「バプテスマを施しこれを父と子と聖霊の名に入れて弟子とし」ああ、何たる驚くべき使命ではないか。我らが誰かを貴族にすることが出来ようか、出来ない。しかし我らは天国に家族をふやしつつ行く使命を受けているからである。「弟子とし」信者を造るのではない。キリストと同じ心をもってキリストに従うキリスト者を造るべきである。
〔20〕次に「凡て(主の戒めを)守れと教えよ」とある。造り放しではなく彼らを育て上げて、これに主の戒めを教えて守らせるのである。しかも「凡ての」である。み言のある部分は受け入れるが、ある部分は信じないで捨てるような牧師は、この命にかなわない者である(使徒二〇20~27)。
「それ」見よ「我は」ああ、この私が、「世の終りまで」昼も夜も常に「汝らと共にあるなり」だから勇め、心強くあれ。この主を握るべきである。ハレルヤ。
〔マルコ一六15~18〕
伝道者は世界のすべての人に福音を伝えるべきである。すなわち主の示される罪人の住むところどこへでも行くべきである。
〔16〕「信じてバプテスマを受くる者は救わるべし」この時ユダヤ人にとってバプテスマを受けるということは、実に勇気を要したのである。彼らはもしキリストの名によってバプテスマを受けるものなら、ただちに会堂から追放され、その上人々から絶交されるのである。このような中でなお大胆にイエスの名に入り、公然とバプテスマを受けることによって救われるのである。
〔17~18〕「信ずる者には……」ある原本にはこれから先がないというので、これを捨てる者があるけれども、今まで聖霊は実にこのみ言によって栄えをあらわされたのである。だから我らはこれを信じたいものである。しかしこれらの奇跡は主のみ旨によって各自に臨む賜物であることを知らねばならない。
昇天(マルコ一六19~20)
場所 ベタニヤ
〔19〕天に上げられて神の右の座につかれたキリストを我らは明かに知ったであろうか。ある人はキリストを知るのに十字架までで止まるが、しかしキリスト伝の特色は甦えりと昇天があることである。ああ、この主を覚えたい。
〔20〕昇天の主が力を合せて共に働かれる伝道である。ハレルヤ。
〔ルカ二四50~53〕
祈祷は彼らにとってどんなに幸いであったであろうか。穴のある手をあげて祝された時、彼らの喜びは果して如何ばかりであったであろうか。
〔51〕昇天
〔52〕「彼等これを拝していたく喜び」この時弟子たちはいつまでも見ていたかったであろう。今は信仰をもって、この主を握りつつある聖霊の時代である。昇天の主を拝して喜びたいものである。
〔53〕彼らは失望しなかったのである。ハレルヤ。
付録:イエス復活後現われしこと十度
一 マグダラのマリヤに現われる(ルカ一六9、ヨハネ二〇1~18)
二 他の婦人達に現われる(マタイ二八9)
三 二人の弟子に現われる エマオにて(ルカ二四13~32)
四 ペテロに現われる(コリント前十五5、ルカ二四33~34)
五 十人の弟子に現われる(ルカ二四36~43、ヨハネ二十19~25)
六 十一人の弟子に現われる(トマス加わる)(ヨハネ二十26~29)
七 七人の弟子に現われる ガリラヤの海辺にて(ヨハネ二一1~22)
八 五百人の弟子に現われる(マタイ二八18~20、コリント前十五6)
九 ヤコブに現われる(コリント前十五7)
十 昇天の時(使徒一9、ルカ二四50~53)