第一章

笹尾鉄三郎

分解

一 緒言 13

二 七つの教会に対する挨拶 46

三 再臨に関する預言 78

四 黙示を受けたときの実状 911

五 キリストの顕現 1216

六 ヨハネの恐怖と告示 1720

この章は、敬虔の念をもって黙示についての鍵を握るべきところである。それゆえ、私たちはヨハネと同じところに立って、霊によって解釈しなければ、この黙示を語ることはできない。

本書は、ヨハネ黙示録としないで、イエス・キリストの黙示録と名付けた方が適当であった。

黙示とは被もしくは幕を取り除くことである。

略解

1〕「これイエス・キリストの黙示」第一に、キリスト自らがその事実を示し給うだけでなく、彼ご自身をも現わし給うたことを意味し、第二に、彼より出たところの事柄についての黙示を意味している。「彼をして」キリストをしての意。「迅速に起るべきこと」黙示録に記されたことは、いつ頃起るべきかが判然としないものではなく、神の前には迅速に起るべきことであって、その僕たちに知らされないことの決してない事柄である。「彼の僕ら」、民または子らと記さないで、僕らと記したのは、この黙示を受けるべき者が、神の僕たちであるがゆえである。僕は、その主人を持ち、そして、自分の意思を行うのではなく、主人の意思を行う者である。すなわちイエスご自身が神の僕となって、神のみ旨を行い、ご自分の意思を行わなかったようにである。また僕となることは、とくに献身の生涯を現わすものである。僕とは実践の人であって実践しないものは、僕ではないのである。教会内にあっていたずらに安逸をむさぼり、世にあっては何の役にも立たない人々には、黙示を与えられても、それを理解することができないのである。主の再臨の近づいていることを知って、主のために働く人々にこそ、黙示は与えられ、かつ理解することができるのである。僕たちに対しては、この黙示は開けてくるのである。

ヨハネは、流罪の身となり、全く自由を奪われ東奔西走主のために働くことはできなかった、彼は依然その僕としての態度を少しも変えなかった。「その使」天使のことである。

2〕「神の言」、人の説ではなく、ヨハネ自身の言でもなく、全く神から出たところのことばである。「イエス・キリストのあかし」著者自からが親しく見聞した主のあかしのことであり、その手紙(ヨハネ一・12)にあるように、体験したことをあかしているのである。その手紙には、第一降臨の主をあかしたがここでは再臨の主を見て、かつ触ったことをあかしているのである。「そのすべて見しところのもの」、後に起って来る種々の事柄をさしている。

3〕この書の何であるかを説明したところの著者は、次にその読者に対して祝福を宣べている。読む者とは、他の預言書を読む者も幸いであろうが、本書を読む者は、更に幸福であることを意味している。「これを聞きて、その中に記しあるところを守る人々は、幸いなり」この当時の人々は、みな聖書を持っていたのではない。それゆえ、人の読んでいるのを聞いたのである。そして聞いた神の言が、土にまかれた種のように、これを信じ受けとり、心の底にまで入れて失わずに、ついに実を結ぶに至る人は幸いである。「そは時近ければなり」この預言が直ちに成就するにちがいないので神の言を読んで、その準備をすべきであることを意味している。そのように聖霊は、私たちの注意を喚起したもうのである。

4〕「七つの教会」七の数が完全数を現わし、世界にある全教会を代表している。どのような種類のものもみなこの中に含まれているので、これはいかなる信者にも適応する。黙示は、アジアの七つの教会に与えられた書であって、また全世界の教会にも与えられた書である。「今いまし、昔いまし、後います者」、父なる神、ありてある主、時代のどうであるかにかかわらず、いつも存在し給う神を言う。「七つの霊」全き霊、父の前にあって、父なる神より出て来る聖霊をさす。

5〕「忠信なる証人」彼のこの世にいたときの生涯を示している。しかも死をもかけてなおも忠実に証し給うた。「死の中より、初めに生れし者」甦り給うたときから今日に至るまでの生涯を示す。彼の現在の状態を示している。死に勝ち給うて、今もなお生きておられる生命の主である。「天下の諸王の君」未来のキリスト、すなわち、有形的に天下の諸王の君として現われ給いしキリスト。「恩寵と平安」永遠から永遠にいます父なる神と、円満な神徳を発揮しておられる聖霊、過去現在未来のキリストというこの三一のほむべき神は、私たちの恩寵と平安の倉庫であって、信仰の手をもってこの倉庫である神ご自身をわがものとするときには、私たちの満ち溢れるに至ることは、これまた自然のことである。実にこれは無尽蔵の倉庫である。「我らを愛し」ここに神の特性が発揮されている。「その血をもって我らの罪を洗い潔め」これは主のみわざであって、天地創造よりも、種々の奇蹟よりも大いなるわざであって、まことに驚くべことである。「洗い潔め」解き放つ意であって、罪に束縛されていた不自由な人が、その血によって、解放され、全く自由な者とされることである。

6〕私たちに対するキリストの賜物。王となし私たちを糞土より上げて、キリストと共に宝座につける無限の栄光をお与え下さる。王とは、人に対して権威ある者を言う。「祭司となし」これはとくに神に選ばれた者でなければ、得ることのできない重要な職である。出て行って人の前に立つ時は、神を代表し、入って来て神の前に立つときは、人を代表する。「その父の神につけしむる者に」これは、私たちの救主キリストを指す。

7〕「見よ、彼は雲に乗って来る」栄光をもって現れ給う時にこのようになる。雲は、神の栄光のあるところに伴う。キリストの地上再臨を示す(使徒一911)。他の事を説くのではなく、再臨のキリストを説くのであると。先ず第一の幕が開けられる、これが本書の特色である。再臨は、第一降臨の時と異なり、栄光と権威とをもって下られる。「すべての目かれを見ん」キリストは、このとき、全世界のものに見られ、かつ知られるようになる。同時に同じ場所においてキリストを見ることではない。しかし、再臨のキリストを見ないものが誰れ一人いないようになることである。あらゆる栄光のキリストの真相を見るときがくる。「彼を刺したるもの」キリストを拒んで、十字架に釘づけたユダヤ。「地の諸族これがために嘆かん」再臨のキリストに会うことは、実に恐ろしいことである。彼の前で自分の罪を思い、今更のように恐れ、泣き悲しみ、叫ぶに至る。「アーメン」必ずそうなると断定している。

8〕キリスト。「アルパなり、オメガなり」ギリシャ語の始めと終りの文字で、始めであり、終りであるとの意である。人は世の始め、世の終りなどと言っても、それはみなキリストの内に隠されていることである。相対者である人間は、絶対者であるキリストの内に含まれている。「我はアルパなり、オメガなり、始めなり、終りなり。今あり、昔あり、後ある全能なる神」広大な神ご自身を顕現しておられる。永遠の存在者、全能者、神として。キリストは顕現し給う。

9〕記者自身を現わす。「汝らの兄弟」読者に対してご自身を兄弟として現わしている。自己を卑しくして、私たちと同じ位置におかれた。これが彼の謙遜である。「なんじらと患難を共にし」まことに親密な関係である。快楽ではなく、患難を共にしたもの、イエス・キリストの国および、その忍耐を共にする者イエス・キリストの国は、霊的な王国である。この悪魔の支配する世界にあって、あなたがたも、私もイエス・キリストの国に共に入る者である。またこのような者となるのに必要な忍耐をも共に続けるのである。「神の道とイエス・キリストの証し」これをしたために迫害をうけて、流罪となったのである。「パトモス」周囲五十マイルもあって、全島が巌からなっている。

10〕「主の日」日曜日ではなく、栄光の主の降ってこられる時代を言う。「我霊に感じ」黙示をうける道は、ただ霊に感ずることのみである。「大なる声」キリストの声。

11〕キリストの命令。

12〕「声を見んとて」声を聞こうとしたのはもちろんのこと、その声を発している者をなんとか見ようとしたのである。このように記者の目と耳とが、主に向って働いたことは、その全注意力を主に注いだことをあらわしている。主は、そのような態度を、私たちにも要求しておられる。「金の七つの灯台」これは、教会のことである。教会は、このような者として置かれたのである。「金」は、神性を示す。「灯台」は、光を示す。この世の光として神の性質を以って立つ者はただ教会のみである。かかるものこそ真の教会である。

13〕「人の子」七つの灯台の間に立っておられるキリストは、人性を備え、人間の事情に通じ、同情をもって祷告しておられるお方である。「足まで垂れる衣を着」祭司の衣キリストの品性であって、エポデを着て、その裾には、青紫、紅の糸をもって造った石榴と金の鈴とを着けている。「金の帯」金は神性を示す。全き愛であって(コリント前一三)、帯もまた愛である。(コロサイ三14)。また、帯は僕である者の態度を示し、奉仕を意味している(ペテロ前一・13)。醒めて油断なく守る態度を言っている。

14〕聖霊が私たちに示しておられるキリストの御姿は、事実であって、決してヨハネの想像ではない。それゆえ、私たちは、これを明白に心の中に印すべきである。「首と髪とは白し」白は、潔めと義と勝利とを現わしている。また頭の白いことは、老人の姿であって(箴一六31)、永遠の父であることを示している(イザヤ九6)。「日は炎の如し」見透す眼、また物を焼き尽すような鋭い光をさす。第一降臨のキリストの眼は、愛の眼であって鳩のごとく、幼な子もなつく姿であるが、再臨の栄光の時には恐ろしい姿である。

15〕足は炉に焼く、真鍮の如し。火に熱して熔けた真鍮ほど、よく光を発するものはない。これはイエスの足である。世の人の光るのは頭や顔であって足は最も汚れてしまっている。しかし、キリストの足は、このように光っているのである(エゼキエル一7)。「声は大水の響きの如し」力あり、威厳があることを示す。

16〕「七つの星」教会への使者、またはヨハネのところに来た七人の代表者であると解する。今は伝道者とも解される。いずれも責任をもって教会に働いている者たちである。これらは、幸いにもキリストの右の手中にあるが、しかし、高ぶるときには一握にされてしまう。「両刃の利き剣」これはサタンを刺す剣であって、神の口より出る聖言である。「顔ははなはだしく輝く日の如し」恐ろしい光であってパウロの見たものと同じである(使徒二六13)。また、新天地の時の光ともなる(黙示二一3)。

17〕かかる姿でキリストが現われたときに、ヨハネは、死んだ者のようになった(ダニエル十781617参照)。イザヤが、神を見たときのようである。このように血肉が全く死んだときに、キリストは右の手をあてて彼を甦らせなさった。このようにして彼は、初めて生きたキリストを見たのである。黙示を受けようとするためには、このような態度を通らなければならない。倒れて後に起されるのである(民二四4)。「我はいや先なり、いや果てなり」宇宙は、彼の支配の下にある。ヨハネも彼の手の中にあることを示している。

18〕再びキリストを三段に示しておられる。

第一、「我は生ける者」現在のキリスト。

第二、「死しことあり」過去三三年の御生涯。

第三、「我は世々限りなく生きん」よみがえられた後のキリストであって、未来永遠に陰府と死との鍵をもっておられる。

19〕「見しところ」一二節以下におって見た神の栄光。「今あるところのこと」今ある七つの教会。「後あるところのこと」四章以下のこと。

20〕神は伝道者にこの奥義を丁寧に示しておられる。