分解
一、エペソ教会に送る書 1~7
-
イ 七つの教会の間を歩むキリスト 1
ロ エペソ教会の長所 2~3
ハ 責められる点 4
ニ 悔改のすすめと警告 5
ホ 是認された点 6
へ 生命の木の約束 7
二、スミルナ教会に送る書 8~11
-
イ 死んで、生き返ったキリスト 8
ロ スミルナ教会の長所 9
ハ 迫害の預言と奨励 10
ニ 報奨 11
三、ペルガモ教会に送る書 12~17
-
イ 両刃の剣をもつキリスト 12
ロ 長所 13
ハ 責められる点 14~15
ニ 悔改の勧告と警戒 16
ホ 勝利を得る者と報奨 17
四、テアテラ教会に送る書 18~29
-
イ 炎の眼、真鍮の足であるキリスト 18
ロ 長所 19
ハ 責められる点 20~21
ニ 警戒 22~23
ホ 勧告 23~25
へ 勝利を得る者とその報奨 26~29
略解
エペソ教会に送る書 1~7
〔1〕「エペソ」当時非常に盛大な都会であってアジアの光、アジア第一の都会と呼ばれていた。パウロは、この地の伝道に力を尽しこの付近で三年間働いた(使徒二〇31)。その後テモテが、この教会の監督となった。「使者」教会全体を代表する伝道者。「七つの星を執り、また七つの金の灯台の間を歩む者」これはエペソ教会に対して現われなさったキリストの御姿である。「右の手に七つの星を執り」執りとは固く保つべきであること(二25)に対照するものである。「右の手」力の手(イザヤ十一11)、正義の手、真実の手、この手は私たち信者、教会を堅く握って保って下さる。「間を歩む」常に去らず離れずして教会の間を歩み、種々この事情をみなご存じである。これは正しい者には奨励と慰籍の言であるが、罪のある者には、恐ろしい言である。
〔2〕第一キリストは、この教会の良い点を見て、これを賞して下さる。これは愛の眼である。私たちもこのような愛の眼を以って人に接するべきである。愛なき眼をもって見る時には、悪いところのみ眼に写り、良いところは眼に写らないものである。その人をうけいれることが出来ない、「行為」働きをさす。「労苦」疲れるまで働くという意味である。この教会は、活動的教会であって、模範的教会と見られていた。そのようにすべての点において盛んである。これは偽善からでたものではなく、真実から出たものである。「忍耐」エペソには、パウロの時にあったように、この時代においても時に迫害が起ったがそれをよく耐え忍んだのである。「悪人をいるるあたわず」悪人とは、教会内に入って来た異端者を言う(使二〇28~30)。この教会の信者は、パウロを通して語られる聖霊の声に従い、異端者を教会内から放逐した。これが教会の健全なるゆえんである。異端の入って来た時に、これを見破る眼力がなく、これをつかむ力のない時には、異端に蹂躙されてしまうのである。今日の教会の状態の如くである。「使徒なりと言いて、使徒にあらざるを自ら使徒なりと偽りて来りし者」(使一五24)を、この教会では、試験して、その偽の使徒であることを見破ったのである。
〔3〕「忍耐すること」一時的にではなく、永続的に耐え忍ぶことである。「我が名のため」「キリストの名の栄光のため」。「患難を忍びて」自分の信仰を持続するためには、患難を忍ばなければならない。倦まず沮喪しないことである。
〔4〕「初めの愛を離れたり」聖霊は、エペソ教会を少しもお責めにならず、聖い教理を説かれた(エペソ一15、16。三18、五1、2)。聖霊は、パウロを通して教会は、愛でなければならないと教えられた。それなのに同教会は、その愛の教訓を忘れた。彼らは、活動の人、健全の人であって、教理に通じ異端を拒否したが、この愛の点においては、大いに欠けるところがあった。私たちもまた、活動することと、教理に通じることをもって満足すべきでない。愛をもって満足すべきである。「初めの愛」イエスを見て、知りはじめたときの愛、純粋な愛、罪を悔改めて主イエスの十字架を発見したときの愛、これは真実であって、偽りなく正直なものであった。この時の愛の性質を永く継続することを、主は望んでおられる。
第一の愛は、何ものよりも先ず神を愛する愛であって、すべてはこの愛から出るべきである。どのように活動するとしても、この愛がなければ、力をもつことができない。
〔5〕聖霊の厳かな勧告と警戒。「いずこより落ちしかを思い」どのように高い所からどのように低いところに落ちたか、以前には恵みの高い標準にあったのが、今は低いところに落ちたと諭している。「思い」その原因を考えて、あることのため、ある人のために誘われて、神の恵みから落たのではないかを思い出すことである。「初めのわざを行へ」ただ表面ばかりの活動ではなく愛から出る働きをなすべきこと。パウロがテサロニケ前一3に言っているように、信仰により、かつ愛により働くべきこと。エペソ教会は、表面では活動的であり、健全な教会であったが、その実は、堕落していたのである。「悔改めよ」外見の悔改めではなく、心に主を愛していなかった点を悔改めるべきこと。「汝の灯台を」ある人は、エペソ教会を評して言う。彼らは、キリスト教を持っていても、キリストを所有してはいない。健全な教理を説いて大いに活動したが、キリストご自身を握ってキリストご自身を説くのではなく、同教会は主義に立って、愛に立ってはいなかったと。主義のために倒れる人は、人の前において美わしく見えるけれども、神の前には堕落しているかも知れない。しかし、主義を全然否定するのではない。主義を第一にして、キリストを棄てるべきでない。キリストと何等の関係もない者も、主義下に活動することが出来ても、それによっては、神に喜ばれるものではない。「我なんじに至り」霊的の意。
〔6〕「ニコライ宗」ニコラスと言う人が唱道したゆえに、ついにニコライ宗となったと言う。この宗の人々は、自らを神の代表として、自ら神の声を聞いたと主張した。それゆえ、自らの言う所は、神の言であるといって他の人々を圧倒し、従わせようとした。今日の教会の内にも、この派が侵入してきている。これは監督政治の失敗のためである。この反対は、ラオデキヤ教会であって、民主教会となり、民が主権をとり、専横を極めるに至った。ここに組合派の弊害がある。
〔7〕「耳あるもの」心の耳のあるものは、聖霊が全世界の教会に言うところを聞くべきである。「勝ちを得る者」悔改めて、信仰の勝利を得るもの。「我神の楽園」アダムエバのいたエデンの園ではない、神のパラダイスすなわち、天にあるところのもの、パウロの見た第三の天のことである。「生命の木」主キリストのことである。「実を食うこと」パラダイスで生命の木の実を食することと、今日の生涯においてキリストを愛することとは、大いに関係するものである。愛と生命とは、同一のものであって、神から来る生命に満ちあふれているので、キリストを愛するものとなるのである。
スミルナ教会に送る書 8~11
〔8〕「スミルナ」エペソからわずかに離れた地にある小都会。この名の字義は没薬と言う意味である。当時のこの教会は、迫害中にあって、大いに苦しんでいたので、主の責められるところが少しもなく、七つの教会中このようなものは、他にフィラデルフィアあるのみであった。「いや先、いや果てのもの」永遠にあるものの意。「死にてまた生きたるもの」この世で一度死んだ者、死に勝たれて今現に生きておられるもの、すなわち、死は生命に入るための門であるとなされる者である。
〔9〕「行為」信仰に立って忠実に働くこと。「患難」迫害される結果として来る患難。「貧乏」迫害のために物品の取引きが出来ないことと、物品を掠奪されたために貧乏になることである。「汝は富めり」外見は貧乏であるが、神の前には富めるものである。神について富める者(ルカ十二21)。善き行いに富めるもの(テモテ前六18)。信仰に富めるもの(ヤコブニ14)。「サタンの会」神の教は神中心であって、神に召され選ばれた者の教会であるが、ついにはサタンを中心として集まり、サタンの会となる。ユダヤ人の会合も今やサタンの会合となり、神に敵するものとなった。「汚しの言」ユダヤ人は、キリストを木にかけられた者と称して、卑しめ呪った。スミルナ教会は、ユダヤ人と異邦人とに迫害され、監督ポリカープは、これがために殺された。彼は獅子の中に投げ込まれ、一度はその中より逃れ得たが、ついには生きたまま焼殺され、その時その薪を運んだ者は、ユダヤ人であったと言う。
〔10〕主は迫害の起って来ることを予知し、先ずその覚悟をさせられた。「十日の間」教会歴史によれば、十年間の迫害であったという。コンスタンティヌス帝の悔改まで、十年間すなわち紀元三六○年に終った。「汝死に至るまで忠信なれ」眼前に死が迫って来ている者に対する主の奨励はこれである。死に至るまでとは、死ぬ時ではなく、死す時、すなわち命をとられるときまでの意。死に至るまで忠信なる者に与えられるものは生命の冠である。キリストは、御自身の実験を示してこれに従えと励ましておられる。
〔11〕「第二の死」前節の死と対照、死に至るまで忠信であるものには、第二の死のわざわいに会うことはない。しかし、生命を惜んで不忠信になる者は、第二の死のわざわいに会うであろう(二〇6、二一8、二〇14参照)。
ペルガモ教会に送る書 12~17
〔12〕「ペルガモ」大きな図書館のあることで有名である。ゆえに知識の進歩したところである。またエスカラビヤ(蛇の像)となり偶像のあることでも有名である。一方においては、知識、他方においては偶像の勢力の盛大なことによって、信者は非常に迫害されたと言われている。ペルガモという字義は、塔という意であって、これは傲慢を示し、また婚姻という意味もあって、これは更に姦淫をも示している。「両刃の剣をもてるもの」これこそキリストの恐るべき御姿を示し、御口より出る御言をさす。
〔13〕「サタンの坐位のある所」偶像の安置してある所、霊的にサタンが人の心を占領していることを意味する。「固く我が名を保つ」このようなところにある教会であるので信者は固く主を信じて迫害に耐え、主の名を愛してこれを崇めたのである。「忠信なる証人」信者にして殺された人、市民は時の司の心を動かし、信者を迫害したことがある。この時アンテパスは偶像のあるところで殺されたと伝えられている。「我が道を棄てざりき」残った信者は、迫害に耐えて固く信仰を守った。
〔14〕「バラムの教」バラムは、民を滅ぼす者(民二二5~12、三一16、ペテロ後二15~19参照)であって、その教会はほとんど彼に似た教理を説く教えを言う。
〔15〕「ニコライ宗の教えを保つ者なり」エペソ教会の信者は、これを憎んだが、この教会には罪が入り込んだために、信者はこれを憎まなくなってしまった。
〔16〕悔改めない者は、キリストに対して敵であるから、彼はこれらと戦われるのである。「わが口の剣をもって」キリストの聖言は、信じる者には慰め、望み、喜び、生命の言であるが、悔改めない者には、滅亡に至らせる言となる。
〔17〕「隠してあるマナ」一方には迫害とバラムの誘惑がある。また他方には偶像と姦淫とがある。更に別なところにはニコライ宗がある。この間にあって光をうけ、悔改めるべきものを悔改めてキリストに従うものは、隠してあるマナを与えられるのである。この隠してあるマナは、至聖所の契約の櫃の中にある金の壷の中に入れてあるため、とくにそのように言うのである(へブル九4)。これは普通の人の味うことのできないものであって、ただ至聖所に入ることのできるものだけが味いうるものである。キリストをパンとして食うものは多い。しかし、彼をマナとして味うものはまれであって、ただ彼と一致した者のみである。昇天のキリストは、隠れたマナである(コロサイ三1、3)。キリストは神の中に隠れておられ、私たちの生命もキリストと共に神の中に隠されているのである。世の人には知られていないが、父の前にある栄光のキリストである。神のみ旨を成し遂げる人、自分の事を忘れて霊魂に伝道する人は、この隠れたマナを味うことのできる人である(ヨハネ四32~34)。「白き石」白きとは、光である。また勝利である。石とは永久に存在するものを言う。「新しき名」新しいエルサレムの名、キリストの名の意味もある。それをうける人でなければ、知ることのできない名である。これらは、勝利を得る者にキリストがその功を評価し、愛をもって特別にお与え下さる報奨である。無限に貴い賜物である。ペルガモは、迫害時代の終った時、すなわちコンスタンティヌス帝が悔改めてよりのち、ローマ国教となったときに、その教会は腐敗を来らせた。バラム教は、財と姦淫と偶像とに所を得させるもの、ニコライ宗は祭司の専横である。カトリックの起源は、これによって世と妥協してきたために、ついに腐敗したのである。教会がこの世と妥協するに従って、偶像と必ず結びついて来る。現今、私たちの国において日本に適合した国家的キリスト教を造るべきであるならと主張するものも多い。国民に適合するように説くことは、時にまた必要ではあるが、国家を上げてまでこのようにする必要はすこしもない。
テアテラの教会 18~28
〔18〕女性の圧制の意である。この教会の起源は、ヨーロッパ最初の悔改者ルデヤの出身であって、教会が女より始まったように(使一六14)、女が教会内に勢力をもつものとなり、最初は善い勢力であったが、後になって悪しき勢力となるに至った。「目は炎の如く」輝き探る恐ろしい力ある眼(23対照)。「神の子」キリストは、神の子として現われその権能は27の如くであった(詩二7、9参照)。「その足は真鍮の如く」清き足、蹂躙する足の意(27参照)。
〔19〕「汝の行動」行為と愛と信仰と服従の四つをうけてこれを忍耐することである。「愛」エペソ教会は、働きにおいて活動的であったが、愛がなかった。愛を欠いていた。しかし、テアテラの教会は、愛があった。カトリックの人々は、今日においても愛を実行している。それゆえに、多くの人々がこれに帰依している。「信仰」知恵に傾いて冷くなってしまうのでなく、神を信じキリストを信じる信仰が必要である。「服従」自ら奴隷の地位に立ち、主のため、人のためにいかなることをもいとわずに働くことをさす。「忍耐」行動と愛と信仰と服従とは、ただ一時的なものではなく、継続的になすことが必要である。「汝が後になししわざよりも、多きことを知る」テアテラ教会は、進歩的教会であって、漸次に盛んになり、活動的になった。
〔20〕神の教えでないことを教えるものを教会内に入れて置き、ついに腐敗がその教理の中にまで入って来た。エペソ教会とは正反対に、その方は教理において健全だか愛を欠き、この方は、教理が不健全だが愛はある。「イゼベル」アハブ王の妃であって王にすすめて偶像を拝ませ、神の僕らを迫害した人物である(王上一九1、2)。この教会内にこの派のものがすでに侵入していた。「教え」神の教えではなく、神の言にもないものを、神の愛、神の言のように称して教えたのである。「惑わし」教えた結果であり、これは悪魔の教えであるためである。「姦淫を行わせ偶像に献げたもの」惑わした結果は、主以外のものを愛させて、世と姦淫させ、ついに偶像に献げたものをも食させるに至ったのである。
〔21〕「この女」イゼベル的な婦人をさす。「悔改むべき折り」主は直ぐに刑罰を加えられず、寛容な御心をもってこれに悔改めるべき機会を与えられたのである。
〔22〕「床に投げ入れん」ある疫病の来ることの警戒である。神は刑罰として患難を教会内にお入れになる。「悔改め」ギリシャ語では、即座の悔改めの意味である。
〔23〕「死」神が教会を審判なされる時に教会内に死ぬ者が多くでる(コリント前一一29、30、五4参照)。信者であっても悔改めないものは、肉体を殺して霊をお救い下さる主の恵みある審判である。「人の心腹を探り」隠されたところにある罪を探り、現わされる。「探り」あらゆる小さい道や曲った道とを精密に調べるとの意味である。ある一事件の起った時、探偵が小さいことを探って発見するまで追求するように、主は人の心の細かい思いに至るまでも、目を留めて調べられるのである。「汝らおのれの行いに従いて報いをなすことを知らん」主は探られた結果としてその行為に従って報いられるのである。
〔24〕「この他テアテラ人」イゼベルの教えをうけいれない人々。「サタンの奥義」前にイゼベルの教えと呼んだが、今はサタンの奥義といわれる。ある人々のように哲学の理論をもって教えるものは、自ら神の奥義を知っていると称するが、これはサタンの奥義に通じているのである。「他の任を汝らに負わせじ」重荷、すなわち主の福音以外の命令から来る重荷をいう。
〔25〕「持つところの者」初め単純に信じたところの福音を持つ者。「我が至る時まで固く保つべし」主の再臨される時まで、固く保つべきであると命じられる(使一五28)。
〔26〕「勝を得て守る者」この激しい戦争の中にあって単純な信仰をもって潔く立つ者、ただ一時的でなく、終りまで勝ち得た真の勝利者、すなわちキリストを信じることと相愛することとを純粋に終りまで保つ者。「国々の民を治むる権威を与えん」この世にあっては権力をふるうことができなくても、将来において諸国民を治める権威を与えられたのである。イゼベル的教会においてはこの世において人より重んぜられ、尊ばれるために力を尽すのである。しかし、聖潔において、美しきにおいてではない、現今の教会にもこの傾向がある。
〔27〕「彼」権威を与えられた者。「鉄の杖」恐ろしい権力、何者も抵抗し得ない権力。「彼らを焼物の如く砕かん」キリスト信者に敵する者は、焼物の砕かれるように砕かれる時が来るのである。
〔28〕「明けの明星」キリストご自身を言う、私たちはキリストご自身を与えられて、キリストと共に明けの明星のように栄光の内に現われるのである。