分解
一、サルデスの教会に贈る書 1~6
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イ 七つの霊と七つの星を持つキリスト 1上
ロ 責められる点 1下
ハ 勧告と警戒 2~3
ニ 潔い数人 4
ホ 勝ちを得る者の報奨 5
へ 勧め 6
二、ヒラデルヒア教会に贈る書 7~13
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イ 聖く誠にして鍵を持つキリスト 7
ロ 長所 8
ハ 勝利と保護の約束 9~10
ニ 警戒 11
ホ 勝利を得る者の報奨 12
へ 勧告 13
三、ラオデキヤ教会に贈る書 14~22
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イ アァメンなる者、忠信な真実な証者、造化の初めなるキリスト 14
ロ 責められる点 15~16
ハ 勧告 17~19
ニ 約束 20
ホ 勝利を得る者の報奨 21
へ 勧告 22
略解
サルデス教会 1~6
〔1〕「サルデス」残りの者、当時サルデス教会は、霊的生命が充実していて、生きた教会である言われて名高った。しかし、神の前においては、それは外的な活動のみであって、内実の生命がなかった。時代的に理解すればルーテル以来の改革時代にあたる。その改革運動によって新教の旗色鮮明となったが、これはただ一時的であって、その実が挙らず、カトリックは漸次にその勢力を恢復して来た。「七の霊」教会内の生命である聖霊である。この聖霊を離れて何物があっても何等の価値もなく、外見は活動して美しく見えるが、内に生命がない。それゆえにサルデスの教会に対して、このように聖霊ご自身を示されたのである。「七の星」世の光である伝道者をさす。「汝に生ける名ありて、その実は死ねることを知る」外見は活動的であって模範的教会と言われて、表面は生きた名があっても、内実は神の前においてキリストの生命なく、死んだものである。
〔2〕全く神に捨てられたのではないが、わずかに生命が残っているにすぎない。ほとんど死にそうである生命を固く保てと聖霊は、命じておられるのである。「なんじの行為の我が神の前に全きを見ざるなり」外見においては、人の前に完全に見えるが、神の前には完全ではない。ゆえに表面の活動において完全であるのみでなく、内実の生命においても完全でなければならない。自ら欺かれて伝道者の名誉の奴隷となり、心は神以外のものにひかれて、神との生命の交わりが切断されていても、それをそうとは思わず、自分は特別に神から選ばれた者であると考え行動する者もいる。
〔3〕「汝がうけたるところ、聞きたるところを思いいで」信者の生命は、新しい真理を聞くのではなく、新しい書を読んで新しい説を聞くことでもなく、初めから聞かされていたキリストの十字架の福音と、神からうけた恵みを思い起すことである。「これを守りて悔改めよ」神の言を深く心に保ってこれに服従すると同時に、現在の有様に満足しないで悔改めよと命じておられる。現今の時代においては悔改めなければならない。「もし目を醒し……至らん」キリストは、何時おいでになるかわからない。不意にこられる。目を醒している者には、キリストは不意においでにならない。待ち望んでいる者を、彼は喜んで迎えられる。しかし、福音の真理から離れ、肉にところを得させ堕落した者に、キリストの再臨は、不意にのことであり、恐ろしいことである。主はいつの時に来られるかわからないのであるから今日か今日かと心に準備して待つべきである。ヨハネのなしたこの警戒により、この教会は目を醒した。(この教会の監督メリーは、この教会から出た人で、わざわざエルサレムにきた。この人は敬虔な徳の深い、熱心な人でよく聖書を研究し、旧約聖書に関する著述および黙示録の註解を書いた)。
〔4〕「数人」この教会全体としては、死んだものであったが、なお数人の人々が潔い生涯を送った。腐った団体の中にある潔い人には、主は特に目をとめておられる。「白衣を着て我れと共に歩まん」潔い者に与えられた報奨である。この世においてその白さを汚さない人は、キリストの再臨の時に白衣を着てキリストと共に歩むことができる。「白衣」潔きと光、すなわち栄光を言う。「衣を汚さざる者」潔い者、肉欲、傲慢、自分の義、異端者に汚されない者、習慣、とくに悪い習慣によって衣を汚さないものである。テアテラ教会の腐敗を嘆いて立ったサルデス、すなわちカトリックの腐敗を見て嘆いて立った者に、その実は、生命がなかったのである。これは腐敗そのものによって、刺激されて憤然として立っただけであって、それには生命がなければ、立ったといっても死んでいるのである。それゆえに、神自身にしっかりと結びつき、聖霊によって満されているべきである。
〔5〕「白衣」燦然として眼を射るような白さ、キリストの変貌山における姿のようである。「生命の書より消し落さず」当時ユダヤ人の風俗として、その町には、戸籍があって死んだ時にはその名を塗抹したと言われている。天国には生命の書があって、生命のないものはその名を消し落されるが、生命ある者はその名を留められるのである。「言い述べん」父なる神と天の使いとの前において、キリストはその名を呼び上げられる。
ヒラデルヒヤの教会 7~13
〔7〕兄弟の愛と言う意味である。その教会は、小さい教会であったが、忠実に愛によりて満ちた教会であった。ユダヤ人が来て、この教会を擾乱しようとしたが、信者は皆な堅固であって敵の乗ずるいとまもなく、ついに敵であるユダヤ人は、悔改するに至った。迫害中にあって勝利を得た教会であった。ゆえに主は、少しもお責めにならなかった。これが模範的な教会である。「聖きもの」キリストのことであって、彼はイスラエルの聖者と呼ばれておられた(詩一六10)。「誠なるもの」原語の意は、真の神。悪魔は、偽者であるが、キリストは真実なものである(ヨハネ第一書五20)。「ダビデの鍵」王である者に与えられた鍵、神から信用された者に与えられたすべての権威を言う(イザヤ二二21、ルカ一32)。彼開けば誰も……閉じるも自由自在である。キリストは、天国の門の鍵を持ち、開いて私たちをお入れ下さったが、もし閉じられたときには、何人もこれを開くことができない。キリストは審判主であって、地獄の鍵を持ち、これを開いてそのところに、霊魂を入れることがおできになる。
〔8〕「行為」忠実な働き。キリストは、私たちのすべての行為、思想、言語を知っておられる。サルデス教会の信者の惑いと、ヒラデルヒヤ教会の信者の惑いは、異っていた。「見よ、わが門を汝の前に開けり」キリストは、この教会にたいして、このように宣言しておられる。キリストは、伝道の門を広く開き、多くの霊魂を託して下さった。これは神の信任のあらわれのためである。「これを閉じることを得るものなし」一方においてユダヤ人が来、律法をもって自由な福音の恵みを妨げ、伝道の門戸を閉じさせようとすることがある。また迫害がやってきて閉じさせようとし、さらに信者に罪を犯させて閉じさせようとすることもある。しかし神は門戸を広く開いて、盛んに伝道をさせようとなさり何ものもこれを妨げることのできないように、伝道の門戸を閉じることのできないようにして下さった(コリント前一六8)。伝道の門戸の開かれることは、神の聖意である。「少し力ありて」これは伝道の門戸の開かれる理由が、謙遜にあるためである。人の側からは、微弱なものであったが、神はこのような教会を用いられる。「我言を守り」これが第二の理由である。これは信仰があったためである。「我が名を棄てざればなり」これが第三の理由である。これは、愛があったからである。迫害の中にあっても、自己の安逸を願わず、キリストの名によって苦しみをうけることを喜びとみなし、キリストに向う愛をあらわしたのである。
〔9〕ユダヤ人は、偽言を吐いて、教会を乱そうとしたが、神はこれを守られた。「汝の足の前に伏せしめ」ユダヤ人の悔改めたことを言う、純福音を宣伝する者の足の下には、種々な異端を説く人々が来て、悔改める時が来る。教会歴史に適合させれば、ウエスレーの立ち上って以来聖潔と再臨とによって、目を覚した純粋な聖徒たちのことである。十八紀から十九紀は、リバイバルの手によって、伝道の門戸が盛んに開らけ、全世界各地に福音が宣伝された。この系統の信者は、主の再臨の時まで継続する。
〔10〕この予言のように、この教会はこの後において大きな迫害にあった。しかし、神の保護の手は、その上に加えられて勝利を得た。これはただ一つの型であって、患難の時代に聖徒は、これから逃れることを意味している。「我が言を守るによりて、我れもまた汝を守りて」神の保護をうけて、患難の時代に患難を逃れようと願うならば、先ずこの世において神の言を信じて、これを守り忍耐しなければならない。そうでないならば、神の保護を要求する資格のない者となってしまう。神は不公平な御方ではない。ただ、私たちがなすべきことをなして、神の保護に信頼すべきである。真の神の言を守って、厳格に服従するには、いろいろな困難に抵抗して、戦わなければならない。それゆえに非常に忍耐が必要である。ルカ一35、36のように従う人はさいわいである。「試錬の時にこれを免れしむべし」この教会の信者のような精神をもっている人は、主イエスの空中再臨の時に、空中に携挙されて、患難を免れることができるのである。
〔11〕「われ速かに来らん」この教会の信者は、主イエスの再臨を今日かと待ち望んで居た。これゆえに、主はこう言われたのである。「持つところの者」主からうけた福音の真理と、うけた神の言とイエスキリストの名。「汝の冠を奪わるるなかれ」私たちに単純な福音を捨てさせ、神の前にあって受けるべき冠を人に奪われる人が多い。自ら負うべき十字架を負わないで、人に負わさせる時は、自らの受けるべき冠を人に奪われるのである。
〔12〕「我が神の殿の内の柱」神の宮には、二本の美しい柱がある。一はヤキンと言い、これは確固として立つことをさし、他はボアズと言い、これは能力を意味する。柱の特色は、確固として動かないことと、耐えることのできる力とにある。神はこのような柱のような信者を要求しておられる。ヤコブ、ケパ、ヨハネは、教会の柱と考えられた(ガラテヤ二9)。彼らは重荷を負って動ぜず、固くたって動かされることがなかったために、教会は少しも倒れなかったのである。少しの困難が来る時に、恐れて逃げるもの、倒れるものは、柱的信者ではない。「これより再び出ることなし」柱の第二の特色は、柱となったものは、神の宮殿からいかなることがあっても、出ることはない。永久に責任を負って、神の 殿の中にあるものである。「出ることなし」天国の幸福。これより出ることなく、外から妨害するものもない。「我が神の名」父なる神の名。キリストは、ご自身を私たちと同等の地位におき、父なる神をわが神と呼ばれた。名は、その実をあらわす。父なる神のご性質を与えられ、一見して神の子であることを知ることができる。「我が神の都」神の住んでおられる場所。新しいエルサレム(二二)。「我が新しい名」主の聖名は、イエス・キリストその他の名をもって呼ばれるが、なお、再臨の時には、新しい名をもって呼ばれる。
ラオデキヤ教会に贈る書 14~21
〔14〕「ラオデキヤ」民を喜ばすとの意である。使徒パウロが以前伝道した地であると思われる(コロサイ四15・16)。ニコライ宗に反対して、民が主となり、共和政体によって世論をもって教会の政治を行い、その結果人心腐敗した。ラオデキヤは、当時繁栄した都会であって、産物として羊毛が多く、物質的に富んでいた。しかし、一面において心霊的に貧弱で次第に信仰が冷やかになった。貧乏したが、信仰において神の前に富んでいたスミルナ教会(二9)と全く反対の位置にあった。「アァメンたる者」キリストの名は、アァメンとして現われる。イザヤ六五16の「真実の神」と同じである。「忠信なるまことの証者」キリストはありのままを忠信に宣べ伝える真実の証人であられた。神のため、人のため生命をかえりみず、真理の光を輝かして、あかしをなさった。「神の造化の始めなる者」造化の源などの意である。
〔15〕この教会には、賞められる点が少しもなく、みな責められる点だけである。「われ汝が冷やかにもあらず、熱くもあらざることを汝の行為によりて知り」ラオデキヤ教会の近くに二つの泉あった。一つは熱く、一つは冷かった。神はこの泉のように熱くもなく、冷たくもないこの教会に属する信者の信仰を、彼らの働きによって、また祈りによって知られたのである。「熱からんこと」神と人との間の愛に熱しているもの、愛の沸騰点に達したもの。「冷やか」迫害を加えるもの。神の聖名は、冷い人によって汚されず、もちろん熱い人によっても汚されないが、熱くも冷たくもない人によって汚されるのである。
主の再臨前に現われる教会内の状態である。すなわち今の教会の有様およびキリスト教に反対するのでもなく、またキリストに身心を献げて彼を愛するのでもない状態である。愛の熱した状況を継続すべきである(ロマ一二11)。死のような陰府のような炎の如き愛(雅歌八6)である。何物も私たちをキリストの愛から引き離すことはできず、聖霊はこのために来られて、私たちをこの標準まで達成させて下さるのである。
〔17〕信仰の温かさは、自分の姿の判然としているためである。「自ら我は富かつ豊かになり、乏しきところなし」自分では恵まれているつもりで、教理を知り、経験もあり、恵みも味わっていて、一見富んでかつ豊かで、乏しいところがない。「悩めるもの」主との交わりを断ち心の内で悩んでいるもの。「憐むべき者」心に悩みのある者は、あわれな状態にあるのである。「貧しく」愛、信仰、忍耐その他のものに欠乏している。「盲い」神を明らかに認めることができず、天の栄えを知らず、この世のことによって目がつぶされたものである(ペテロ後一9)、愛のないものは、盲人である。「裸体」自分の生来の醜体をいう。かかる有様では、罪の恐ろしいことも、悪魔の手段も、霊の滅びることもわからない。
〔18〕「火に焼きたる金」試練を経た純粋な信仰(ペテロ前一7)。苦しい中を神の言を握って離れず、切り抜ける信仰。「白衣」全き愛。古い人、生れつきの醜い身体をおおうために、全き愛を「買う」べきである。買う私たちの功によって恵みを買うのではない。しかし、神から命じられたことは、果すべきこととして果し、すなわち心の中の何物をも献げて、神から恵みを受けることを言う。「目薬」霊の目の開けると共に、天に属することおよび主の再臨をはっきりと認めることを得て、懐かしく感ずるに至る。世の末の近づいた今日、罪を悔改めなければ、残されて永遠の刑罰を受けなければならない。それゆえに霊を救うために伝道すべきである。
〔19〕神は温い信者をこらしめるために愛の鞭を加えられる。「励みて悔改めよ」何をもかえりみることなく、悔改めるべきである。
〔20〕「我戸の外に立ちて叩く」なまぬるい信者の心の戸の外にあって、キリストは叩いておられる。しかし、主を心の中においれしないで、自らが心の主となっているのである。「戸を開く者あらば」キリストは、戸の開くのを待って、開いたならその心の内に入られる。これが第一の恵みである。「その人と共に」心の内にあってキリストがその人と共に永久に住んで下さる、私たちの献身をキリストは喜びと満足をもって愛して下さるのである。これが第二の恵みである。「その人は我と共に」心の内にあって、その人は、キリストから与えられる恵みをもって、喜び満足し、安心することができる。これ第三の恵みである。
〔21〕「我が宝座(くらい)に座することを許さん」キリストが神から与えられたそのみ座に座すように、悔改者はキリストと共にそこに座すことができるのである。