参考 四章以下については、人によって大いにその解釈が異っている。しかし、結局次の三説に帰するようである。
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(1)ヨハネ当時のこととして解釈する
(2)今日までの歴史に照して解釈する
(3)将来のこととして解釈する(再臨の光をもつ人の解釈である)
分解
一 開けた天と携挙 1 二 御座とその上に座す者 2~3 三 二四人の長老 4 四 神の威厳と七つの灯火 5 五 四つの生き物とその讃美 6~9 六 二四人の長老の礼拝と讃美 10~11
略解
〔1〕「天に門開けありたり」教会時代のことは、三章までに終り、四章からは主の空中再臨の時が来る。教会時代の終りにおいては天の門が開け、霊的にはキリストのあがないにより成就したが、再臨の時には具体的に成就して、私たちの肉体も天国に入ることが出来るのである。罪のために閉された天の門はキリストの血の力と十字架の功によって、霊のためだけでなく、肉体のためにも開かれた。「ラッパの如き声」全世界に響き渡る大きな声。コリント前一五52の「末のラッパ」とは神の声である。
「ここに上れ」これはヨハネが、私たちを代表して聞いた言葉であるが、やがて空中に携挙される聖徒の聞くべき言葉であった。この世において主のために十字架を負った者、主のために死んだものは、この声を聞いてよみがえり、生きていた者はそのまま天に携挙されるであろう。
再臨を信じる人の中にも諸説がある。ある人は言う、「これはヨハネが黙示を受けるために携挙されたのであって、私どもが空中再臨の時携挙されるのではない。私たちの携挙は七章にある」と(シンプソン氏の説。)
「我こののち起るべきことを汝に示さん」天が開けて上った後、すなわち空中再臨後に起ることを示そう。
〔2〕「われ直に霊に感じ」上れという神の声と共に、聖霊は働いて肉体をも霊化し(ピリピ三21)空中に携挙されるのである。「一つ宝座(くらい)」父なる神のみ座。「座する」父なる神が座すのである。
〔3〕「金剛石」貴く透明、純潔である。「赤瑪瑙」美を現わす。「緑の玉の如き虹」み座は、審判の座として神の恐しい権威として現われる。しかし、ここでは大いなる恵みとして現われる。「虹」(創九11~16)神の備忘録のように恵みを与える約束である。神は虹をごらんになるとき、恵みを与えようと思い出されるのである。「緑」青と黄とからなる。青は神の聖潔、黄は金色または神の愛を現わす。すなわち神の聖潔と愛とからなる約束の虹である。この世の虹は、半円であるが天国の虹は全円である。このようにこの世において受ける恵みは、半円のようであるが天国における恵みは完全である。
〔4〕「二四人の長老」諸説がある。一説にはイスラエルの十二の族と新約の十二使徒であって、旧約の子を代表していると。一説には、二四は神の前における全き数を現わしている。祭司の組は(歴代上二四18)二四に分かれていた。「長老」先立つ者。年齢も恵みも、経験も人に先立つ者。教会の長子を現わす。私たちを代表する者。聖徒中でも信仰において、恵みにおいて高い人。「白き衣」(三5)長老の一特色、目を射るばかり輝く栄光。「金の冠」キリストと共に神の栄を冠として受けた人。「宝座に座す」天国において誰れでも御座に座すのではなく、特にこの世におってキリストと共に苦しみ、真に勝利したもの(三21)だけである。三21の成就である。
〔5〕「中央の宝座」神の権威の現われる位。稲妻、雷(い かずち)神の威光が現われ、神が恐るべき有様で現われなさる。血肉をもってその前に立つことができないほどの威厳(サムエル前一二17、18)。「あまたの声」キリストの威厳ある声。「七つの灯火」神の七つの霊。完全な霊。霊は燃える炎として、光を輝かす火として、また汚れを焼き尽す火、かつ、御座の前に燃え上る灯火として現われたのである。罪人のためには恐ろしい火であるが、服従する者のためには、潔める火である(イザヤ四4)。焼き尽す恐ろしい力ある火である(マラキ四1)。
〔6〕「宝座の前」神の臨在の場所。「水晶」透明、潔いこと。「玻璃」潔いこと。「海」広さ深さの限りないこと。「水晶に似たる玻璃の海」神の御顔の前の有様。神の前にあることができる人は、この聖所において水晶のように透明な潔い海の中を遊泳するものである。永遠の楽しみは、神の前、神の右にあることである(詩一六8、9、11)。霊的にはこの世において味うことができるが、有形的に現われるのは再臨の時である。「透明なる青空」「輝ける天空」(出二四10)。「水晶の如き穹蒼(エゼキエル一22)。「四つの生き物」諸説がある。一説にはエゼキエル一5のケルビムであるとする。ケルビムは、どのようなものであるか明らかでない。しかし、キリストの品性を現わす者、キリストの品性を有する聖徒のことと解される。
〔7〕「獅子」獣の王であって大胆を現わす。「牛」旧約にある牛は、キリストの型。重荷を負って忍ぶ者、燔祭として献げられるもの。「人」キリストは、神にして人となられた。私たちの同情者である。知と愛を現わす。「飛ぶ鷲」飛ぶことは迅速を現わす。地につくものではなく、天につくものである。キリストは、神のみ旨をなすのに迅速なお方であった。ある人は、四つの生き物は四福音書と解される。すなわち、マタイにはメシアとして王として、マルコには僕として、ルカには人の子として、ヨハネには神の子、神と一体のものとして現われたのであると。ある人は、イスラエル人が四〇年間荒野で迷った時、一二の族が中央に幕屋を置き、その東西南北に旗の下に集ったさい(民二2)東にはユダが先き立って、獅子の旗を立て、西にはエフライムが若い牡牛の旗を立て、南にはルベンが人の旗を立て、北にはダンが鷲の旗を立てたとの伝説によって説明される。なんとなれば、一二族の代表だからである。今はキリストから品性を与えられた聖徒、キリストの姿となった聖徒と理解すべきである。前に二四人の長老があり、ここでは四つの生き物があり、このように天国において種々の段階がある。普通の聖徒、二四人の長老、また四つの生き物の段階がある。それゆえ四つの生き物がキリストと全く一致している者、み座に最も接近したもの、キリスト像になったものである。
〔8〕「六つの翼」セラピムには、六つの翼があった。六つの翼の内、二つは面をおおっていて、謙遜を現わす。二つは足をおおっていて、慎しみを現わす。さらに二つは飛ぶためで、迅速な服従をしめす。「その内外ことごとく目なり」「また前後ことごとく目なり」(6)目は聖霊、光、悟りを現わす。この四つの生き物は、真の知恵と真の光である。真に聖霊に満される時には、前後左右から悪魔を悟ってこれを防ぐことができる。翼の内外に目があるのは、神のみ旨をなすことに欠点のないこと、すなわち外部の働きにおいて活動するだけではなく、内部の有様も完全なことを意味している。「夜昼休まずしていう」天国において最も大きな働きは、昼夜休まず神を讃美することである。
〔9〕この生き物は礼拝に導くものである。「世々限りなく生きる者」父なる神。
〔10〕「拝し」信者の教会に欠ける所は、礼拝であって、しかも精神的礼拝においてそうである。祈る人を知る者は、多いが、礼拝の真意を理解して、これを守るものは少ない。偶像信者が、偶像を礼拝するその熱心については、学ぶべき点が多い。真に神を知る者の考えは、先ず神を礼拝し、心から神の前にひれ伏して神を讃美するにある。「おのれの冠」金の冠の意。神から受けた栄であって人の前に誇るべき名誉あるものである。「投げ出し」この名誉、この栄光を全く捨て、自分の卑いことを思い、神の尊いことを知って自らへりくだって神から受けた冠を神のみ前に投げ出すことを意味する。
〔11〕栄光をことごとく神に帰するにある。