第五章 小羊の前の礼拝

笹尾鉄三郎

分解

略解

1〕「七つの印」七は完全を現わす。完全に厳重に封印されたもの。「巻」ユダヤの風俗では、財産の地券書があって、その権利の所有を現わす巻物である。しかし、零落して財産を売り払う時は、その巻物に権利を放棄したことを記し、これを巻いてその表面に保証人が保証をして、記名証印してこれに封印をする。もし、売り手がその代金を返せば、その封印を解いて買戻したことを表わす。それゆえ、金を返却できない時には、その権利はいつまでも回復されないのである。人間は、アダム以来神から与えられた財産―特権、栄光、恩恵、悟り―を罪のために全く失ったことを示している。「右の手に持てるを見たり」原語の意では、神の右手の巻物は、載せてあるとなっている。神は人間が罪のために失ったことを遺憾に思われ、なんとしても再びこれを与えようとして、ただ手の上に載せられただけであるが、人間はこれを取って開く力がないのである。

2〕「強き天の使い」天使の長のことであろう。「誰かこの巻物を開き、封印を解くに耐うるや」これは天からの声である。これを開いて封印を解くに足る力のあるものは、誰れか。これは人間の注意を喚起する声、人間の無能を悟らせる声である。

3〕天にも地にも、地の下にも、人間の堕落のため失った財産を回復する力のある者はない。

4〕ヨハネの嘆声は、人間を代表する嘆声である。アダム以来、数千年間人間の心にある嘆である。人間は心にある言いようのない渇望のため、理想を立て、いかにもしてこれに達しようとして悶えたのである。しかし、人の力では、その理想に到達し得なかった。「はなはだしく泣けり」霊の嘆である。人の心底からの嘆である。どのようにすれば霊の渇望は満されるかとの叫び声である。

5〕「泣くなかれ」自分の霊の欠乏を満そうとして悶え苦しみ泣くものに向って、神はこのように慰め、励まし給うのである。「ユダの支派より出たる獅子」ゴリアテの威力に恐れたイスラエル人の中からダビデの出たように、誰れも巻物を開くことのできなかったときに、キリストはユダの枝より出てこられた。獅子とは、勝利の王を意味する。「ダビデの根」キリストをダビデの末と言ったのは、ただ肉体的な意味においてのみである。それゆえに、キリストご自身は、ダビデの末ではなく、ダビデの根である。すなわち、キリストがダビデを生んだのである。「勝ちを得たれば」贖いの勝利。キリストがこの凱歌を奏するまでには、謙遜、贖い、十字架の苦しみがあった。また人間の罪と力と、悪魔の抵抗と、神の正義の怒りとに打ち勝たれたのである。「この巻を開き」キリストは、贖いの成就によってこれを開かれた。「封印を解く」キリストは、七つの封印をことごとく解いて、罪のため失った人間の産業をすべて回復されたのである。霊の目を開いてこの産業を見て、信仰の手をもってこれを得るべきである。聖徒に対する報奨、この世に対する応報(地上の審判)は、七つの封印を開くに従って現われてくる。地上に審判が起る時には天には、喜びがある。これは私たちも神と一つになって聴くことができ、審判によって神の栄光が現われるからである。このようにして私たちは、大きな喜びを得るのである。

6〕「この小羊さきに殺されしことあるが如し」一見してすぐにその傷ついているのを見て、この小羊(キリスト)は、以前に殺されたことのあることを発見した。第一降臨の時に受けられた十字架の苦しみは、なお名ごりを留めていた。これによって私たちを謙遜になし、私たちを感謝させるためである。小羊は、自ら神の位を捨てて、肉体をとって私たちの中に顕われ、私たちの牧者となられたので、その羊に対して同情があり、愛があるのである。「七の角」完全な権力。「七つの目」聖霊は、キリストの中に満ちみちて、全き知恵、全き悟りを与えられる。

7〕「巻物を取り」私たちは、神のみ前に近づき、手を伸べてその巻物を取ることができないが、キリストは、私たちのために神の前に進み行き、父なる神の右の手からこの巻物をお取りになったのである。父なる神は、キリストの功によって喜んで、これをお与えになられた。

8〕「巻物を取るとき」これは讃美の動機である。久しい間願ってきた願いが、キリストによって成就した。キリストが神から受けられたことは、すなわち私たちが神から受けたことである。私たちが失った産業を回復したことである。それゆえに、この時に大讃美が起った。「ひれ伏したり」無限の感謝をもって、キリストを拝した。「この香は聖徒らの祈りなり」聖徒が祈る長い間の祈りがこれである。この祈祷は一つ一つ天に昇って行き、四つの生き物と長老とは、これを父なる神の前にささげ、聖徒の祈りこそ神の喜び給う香であると申し上げたのである。

9〕「汝は」人間の失った産業を回復し、黙示を受けるに足るほどまで、回復されたのは、ただ主「あなた」のみである。「なんじかつて殺され」私たちのため、殺されたのである。「その血もて」贖い出し――バベルの塔の出来事以来、神の呪いにより人間は世界各地に離散させられ、国は異なり、言語も異なるようになったのを、キリストご自身の血をもって贖いだし、神に帰せしめようとされたのである。

10〕私たちは立ち帰って神のみ許に来ることができたのは、大いなる恵みである。キリストは、実にその大きな恵みをもって、私たちを神のために王となし、祭司として下さった(出二八1)。「地に王たるべし」ダビデが地の王となったことにまさって、私たちも、キリストと共に地の王となることができるのである。

11〕天使の讃美。

12〕讃美の中心は、殺されたまいし小羊である。神は、天使の前にもキリストの贖いによって、栄光を現わされる。今日の教会の多くは、血なく、贖いなきキリストだけを説いている。讃美は、七つある。これは栄光を全く神に帰すことを意味している。七つの方面のいずれからみても、神は完全な讃美を受けるべきお方である。

13〕讃美が四つある。四は四方の意であって完全を現わす。

14〕「アァメン」心の底から出た声である。神は、真に讃美を受けるにふさわしいお方である。