第六章 七つの封印の審判

笹尾鉄三郎

分解

略解

神の審判が現われる(イザヤ二六9)。この審判は世の人に神の美しいことを示し、彼らに罪を悔改めて立ち帰らせるためである。

1〕「生き物」キリストの形であり聖徒である神の御座に近く侍る者(四7)を言う。このような者には、審判することのできる大きな権威を与えられた(コリント前六2)。世をも天使をも裁く権威である。これ聖書を一貫している思想である。これは神の叫び声である。事物の進行を示している。長く秘密として隠されていたが、今や解かれて神の聖旨の成就する時が来たので、このように叫んで、いよいよ神の審判の行われることを示している。

2〕「白馬」白は勝利、馬は迅速で勇気を示し、しかも大胆で抵抗し得ない力あるものをさす。審判の時現われる神の力である。このように第一に白馬(勝利)の現われたことは、非常な恵みである。白馬は、この場合聖徒を指す。「これに乗るもの」聖霊。これは世の末期に与えられる聖霊の火の傾注をさしている。第一にペンテコステの時に成就した預言(ヨエル二2832)のことごとく成就するのは、世の終りにおいてである。大なる審判の行われる時、聖霊の火の傾注がある。恐ろしい審判の来る前に、聖霊は働かれる。かのノアの洪水のとき神は予めエノク、ノアに聖霊によって証させて、その後で洪水の審判をされたようにである。「弓」飛道具、これは聖霊の働きである。すなわち、聖霊の力である。遠方にあるものにも聖霊の働きによって罪を示し、悔改めに導くことを意味する。「彼常に勝てり、また勝ちを得んとて出で行けり」聖霊は、幾千年以来とくにペンテコステ以来勝利を得られた方が常に勝利を得ようとして出て行かれるのである。(詩四五45)。

4〕「赤馬」戦争、何物も防ぐことのできない戦争。「これに乗るもの」審判の力。「地の平和を奪い」人間は一方において戦争しているが、平和の楽しくかつその慕しいことを知っているために、一方において平和を求めている。しかし、神は許されず、地上からことごと平和を取り去られる。「人々をして、かしこに相殺しむる権」世の末期の近づくに従って、人は心に殺伐とした思いが満ちてくるのである。私たちの国においても、日清日露戦争以来、人間は殺伐となって行き、人命を奪うことも意に介しないようになった。これは世の終りの近づいたゆえである。「大なる刀」大きな武具。これも世の終りの証拠である。百年以前の全世界の軍艦を集めても、今日の軍艦一隻で打ち破ることができると言う。

5〕「黒馬」飢饉。「秤」乏しいことの意。

6〕「銀一五銭」一人が一日働いて得る給料。「小麦五合」一人一日の食料にも足らず、一人が一日中働いてもなお自分一人の腹を十分満たすに足らない。家族は、到底養い得ない人間のあわれな状態をいう。「大麦一升五合」大麦は家畜の食するもの、一人が一日働いてもようやく大麦一升五合を買うことができるだけである。「油とぶどう酒を損うべからず」小麦大麦に対照する。すなわち油、ぶどう酒はぜいたく品であって、これらがなくても生活することができるのである。しかし、大麦小麦は生計上必要物である。日々おごりたかぶって生計をした者は、神の審判として必要な大麦小麦は乏しくなり、ただぜいたく品のみが与えられて食いあきてしまうのである。これが一種の審判である(民二1920)。

7〕神の摂理の進歩。

8〕「灰色なる馬」灰色とは癩病の色(レビ一三49)。灰の色のことであって、死が恐ろしい速力をもって襲来する様子をいう。「陰府」死人を入れるところ。「刀剣」戦争のこと。「世の人の四分の一を殺す」エルサレム滅亡のさい殺された人の血は、川のような音をだして流れでたということは、全世界の人々の四分の一が、殺される時の光景を示すもので、それはまことに凄絶惨絶極まることである。

9〕霊界のことで、諸説がある。ある人はいう。「後の叫び(10)によって、これはキリスト教徒ではなく、ユダヤ人であろう」と。他の人はまた言う「これは普通の殉教者、ことに世の末期(主の空中再臨から、患難時代にかけて)において最後の激戦で殺された人である。それはこの人々を殺したものが、なお世に住んでいることを(10)知るからである」と。「神の道のため、およびその立てしあかしのために」神の道を宣べ伝えたことと、自己の経験をあかしたことによって、殉教者は殺されたのである。「祭壇の下に」殉教者が、自分の身を犠牲にしたところをいう。彼らの負った十字架をもさす。そこにいまもなお、霊魂が感覚を備えて叫んでいるのである。

10〕「聖きまことの主よ」神の聖きと真実とに訴えるのである。聖くかつ罪を憎まれる神、約束を成就される真実な神。「神いつまで地にすむ者らを審判せず、かつ、これに我らの血の報いをなし給わざるや」神の審判のときが、自分たちに来たのにかかわらず、地上に住むものは、なお跋扈しているのであるが神が約束下さったように正義の審判をなして義人の血の報いをして下さると信じていたのに、なぜに地上の人々をさばかずに、私たちの血の報いをなさないのであろうかと叫んでいる。これは、もし恵みの時代の叫び声であるならば、神に対する恨みを述べていることであって、愚かなことであるが、審判の時代であれば、当然である。

11〕神は殉教者のこの叫び声をとがめられず、しかし、神の方には、なすべき順序があるのである。「白衣」よみがえりの来ない前に、霊魂に与えられる栄光である(三4)。「これは殉教者の受ける一つの褒賞なり」。その衣は流した血により汚され、名誉は辱かしめられたが、今は主から白き衣を受けることが出来るのである。「彼らの如く殺されんとするその共に働ける兄弟たちの数の満ちるまで、安んじてしばらく待つべし」神は殉教者の数の満ちるときまで、審判のときを待っておられるのである。それゆえ先に殺された殉教者も、このときまでしばらくの間、待つべきであると神は慰め、かつ命じられたのである。神の前には一定の殉教者の数があり、この神の予定の人々がことごとく殉教者となるまでとの意である。

12〕地上の審判。「地震」大きな地震は世の末期におこる禍いの一つである。近世においてサンフランシスコに、イタリアに、南アメリカにあった地震は、実に大きな地震の来るであろうことの兆候である(ハガイ二6、へブル一二26)。「日は毛布の如く黒くなり」今から一三〇年以前に、一七八十年一○月九日合衆国の北方において、日蝕ではなく、太陽の暗くなったことがあった。大陽の全体が見えなくなったのではなく、光線が失われ午前九時から終日に及んで暗くなったと言われている。実に凄惨であったと。

13〕「星はいちじくの木の大風に揺れて、未だ熟せざるその実の落ちるが如く地に落ち」一八三五年一一月一三日の夜、米国において三時間あまりの間、星が降ったことがあった。星の輝いた光によって夜半に、にわかに明くなって、天は転覆するかのように思われた。

14〕天の様子が全く変化すること。

15〕天下がことごとく禍を恐れて、狼狽する様子をいう。

16〕「言ける」原語では祈りと同一の文字を用いている。彼らは生きた神に祈らないで、狼狽の結果、山と岩とに祈るに至った。これは、彼らがこの世において身の置所がなくなるようになったからである。「顔と小羊の怒を避けしめよ」これは最も恐るべきものである。しかし、今までは神を恐れないで、種々な事柄を恐れていたが、この時になってはじめてまことの恐るべきものがなんであるかを知ったのである。神の審判を逃れることは出来ないことを知ったのである(ルカ一二45、アモス九13)。

17〕「小羊の怒りの大いなる日」今日は神の愛が、小羊によって現わされているが、審判の日には、神の正義の剣がキリストによって現わされるようになる。