分解
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一 イスラエルの一四万四千人 1~8
二 神の印 1~3
三 印せられたものの数 4~8
四 患難時代の聖徒 9~17
五 聖徒の礼拝と讃美 9~12
六 一人の長老とヨハネの問答 13~14
七 彼らの祝福の状態 15~17
略解
〔1〕神は七つの封印を開かれて、恐ろしいわざわいの来るまでに、患難時代に残された神の民を顧みて下さる。それゆえ、封印を六まで開いて、七まで開かれない前に、これを挿入したのである。「四人の天使」地球の四隅に立って、この世をかき乱しわざわいを来らせようとする嵐をとどめ、何一つどこにも風を吹かせず、あたかも嵐の最中に暫時静穏な時のあるようになし、更に大きなわざわいの来ることのために、このようになしたのである。
〔2〕「生ける神の印」聖霊の意(エペソ一13、四301)。「一人の天使」多くの人の説には、キリストであろうという。「東より登り来たる」原語の意味は「日の出る方」である。これはキリストが義の太陽と称えられていたからである。キリストの有形的顕現、すなわち地上再臨時でなく、ただ聖霊によって現われ給うたことを意味している。「大声に呼わり」神の熱心が現わされている。
〔3〕四人の天使が風をとどめたのは、主イエスの命令による。その目的は、神の僕の額に印を押すためである。神は恐ろしい審判の中にも、その選んだ民を記憶され、義者を悪しき者と共に滅されるお方ではない。ゆえにその額に印を押して審判の中に引き入れられないようにしたのである。神は、世の終りにその選んだ民を集められる(マタイ二四31)。この時、額に印の押された者は、イスラエル人の中から選抜された者であって、教会はすでに四章において空中に携挙されている。印とは、どのようなものであるのか。印を受けた者は一見して判然としている。額に小羊と父の名が印せられている(一四1)。すなわち聖霊の御働きにより、小羊の御品性と父なる神の御性質を受け、これが外見に現われるに至ることを言う。
〔4〕「一四万四千」一二の部族が各一万二千づつ集ったのである。これは完全の数であることを現わしている。一説には、これは完全な数であって、教会全体を代表すると。しかし、教会の主なる部分はすでに携挙されているのだからこの説は誤りである。また一説には、異邦人ではなく、ユダヤ人中とくに選択された人、すなわち父なる神とキリストの現われた人であると。ゆえにこの説によれば、この一四万四千人以外になお神の民がいるのである。一般には、文字通り一四万四千人であると解釈している。私たちはユダヤ人中選抜された者が、一四万四千人であると解釈しよう。イスラエルの一二の部族と少し異っている(5~8)。エフライムではなく、ヨセフとなり(8)、これはエフライムはヨセフの子であるからである(創四八17)。ダンの代りにレビがある(7)。レビは元来一二部族以外であったが、入って来ている。これは神は各部族の精神状態を見られて、救われる者と除かれる者とを定められたようである(創四九・17)。ダンは神から捨てられた。ゆえに一説には偽キリストはこの部族からでるのであろうと。一二部族の名の意味は、創世記二九章の終りから三○章、三五章の終りにも記されている。参照するとよい。
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ユダ 神を讃美するとの意である。
ルベン 子を見るとの意である。
ガド 友の意である。
アセル 幸いの意である。
ナフタリ 角力をするものとの意である。
マナセ 忘れるとの意である。
シメオン 聴従するとの意である。
レビ 親しむとの意である。
イサカル 報いとの意である。
ゼブルン 家庭との意である。
ヨセフ 付け加えるとの意である。
ベニヤミン 右の手の子との意である。
これが神の選んで下さった民で、種々の方面から来たものたちであった。
〔9〕天の有様。すなわち患難を経て来た聖徒の祝福の状態である。
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(一)六章において神を信じない人々への地上の患難が現われた。
(二)七章一節から八節までにおいては、選ばれた神の民の有様が記されている。
(三)七章九節から一七節までには、天にある聖徒たちの様子が見られる。
神を信じない者も神の民も、天にある聖徒もみな患難時代を経て来たものである。「諸国民、諸族、諸民、諸音(いん)」先の一四万四千のイスラエル人に対して、どの国を問わず、全世界の諸方面より救われた人々である。「多くの人」主の空中再臨の時、聖徒が霊体と化して空中に携挙された後、患難時代においても霊化して携挙される者もあると説く人がある。しかし、この人々は空中に携挙された残りの人々であって、患難時代を経過してきた者であると。「白衣」白は勝利、聖潔、正義、罪に勝った状態を言う。「棕櫚」勝利。罪から潔められたこと。「位(くらい)と小羊の前」真に安息し得るところ。
〔10〕自らを忘れて大声で讃美する。これは彼らが、大きな患難を経て来たためである。「救い神」の前と小羊とにおいて、最も深く感謝の念にたえないことは、救いである。この救いは、私たちの義や功によらないで、恵みによることを思うにつけ、感謝しないわけには行かないのである。ひとり子を賜うほどの父なる神の愛と、私たちのために屠られなさった汚れなく、傷なき小羊とを思って、このように大声で呼ばわって讃美するのである。
〔11〕人が罪を悔改めた時、天において喜びがある。そこでその霊は天国に至り、父なる神と小羊の前に立ったとき、千々万々の天使が喜びをもって讃美するのである(ルカ一五6)。天使は私たちに仕えるため遣わされたものであって、地上にある者を守って神に導き天国に至らしめたならば、喜びをもって讃美するのである。
〔12〕10節の讃美に和している。五章12節の讃美と同じく、七つの方面から感謝をもって讃美している。すべての栄光を神に帰している。
〔13〕長老の一人は、種々なものを見て目がくらみ、茫然としているヨハネに向ってこのように問うたのである。
〔14〕「私はただ茫然としてしまって何もわからないのです。あなただけがご存知です。どうか私に教えて下さい」とのヨハネの謙遜と依願と信任とが表わされている。「彼らは大なる患難を経て来れり」この人々は患難時代を経て来た人々であって(マタイ二四21、黙六)四章の空中再臨の時、携挙されずに残された人々である。しかし、他の人々は九章において患難のためにますます心を頑固にして、ついに神をのろうようになった。救われた者は、永遠に救われるとのキリストの聖言は、真理であって患難に会って目を醒すようになる。これが神の民の特色である。「小羊の血」これまでは彼らは十字架以外の肉につけるもの、この世につけるものに依頼してきていたが、目をさましてから後は、小羊の血によって潔められるより他に道のないことを悟り、信仰をもって血の泉に飛入り、その血によって白く洗い潔められたのである。私たちは自らの修養鍛錬によっては、神の前に立つことは出来ない。ただ小羊の血によってのみ可能である。心を潔められるのみならず、その生涯もみな全く潔められるのである。ただ単に洗うだけでなく白くなるまで洗われるのである。すなわち、救われただけでなく、聖潔を成就されるのである。
〔15〕14節の条件を果たしたものの祝福。
第一、「神の宝座(くらい)の前にあり」私たちは、この世の帝王の前に立つ事のできないものであるが、神から与えられる祝福によってみ座の前に立つことができる(二四人の長老、四つの生き物のようである。み座には座すことはできないが)。これが栄光、また喜びである(ユダ二四、コロサイ一28)。聖霊は言い難い嘆きをもって、私たちのために祈り、私たちをしてしみなく、傷なき神の前に立たせようとしておられる(エペソ五27)。
第二、「夜昼神に仕う」神殿に常に住み夜も昼も神に仕えることができる。神は大きな信任をもって私たちをみ座から離れさせ給わないのである。神殿を離れなかったアンナのように。
第三、「彼らの中に居給うべし」ただ私たちが神殿の中に住むだけでなく、私たちの中にも神が住んで下さるのである。ゆえに神と直接に接触することができるのである。
〔16〕大きな患難の時を対照している。先には、ある程度の患難に会ったが、今は全く患難辛苦を忘れて真の安息に入ることが出来る。
〔17〕父なる神の前におられたが、私たちの牧者となり、父なる神からすべての権を与えられたのであるから、責任をもって私たちを養われるのである。普通の牧者は羊を愛さないわけではないが、羊の身となることがなければ、真に羊の様子を知り、かつこれに同情することは出来ない。しかし、私たちを牧して下さるキリストは、小羊としてご自身を現わして下さったお方であるので、羊である私たちの心の状態を知り、十分な愛、同情、憐憫を注ぐことがお出来になるのである。「生ける水の源」聖霊の泉。神が私たちの心の渇きをうるおして下さる水、すなわち天から降る霊によって私たちの心の中に小さな泉となって自らをうるおすとともに、他の人々をもうるおすことができるのである。しかして、やがてその水の源である神から豊かな養いを受けるに至るのである。「神かれらの涙をその目から拭い給うべければなり」先には患難時代にあって、涙の谷を経て来たとしても、今はその涙も拭い去られて、真の喜びと慰めとを受けるのである(詩八四4~7)。