第一一章 神殿をはかることと二人の証者および第七のラッパ

笹尾鉄三郎

分解

略解

1〕「われ」ヨハネであって、聖徒全体を代表している。一○章の終りにおいて、ヨハネはキリストの手にある巻物を取ってこれを食し、その結果預言をした。そして今は聖徒の特権として審判時代に審く権利を与えられた。

「杖の如き葦」杖はこらしめ、鞭打つことの意。あるいは革命、または政治すなわち神から授けられた特別の権威。葦は、はかり竿の意。原意はキャノン(正典)と同じ字であって定規の意。測るもの調べることを言う。「神の殿」地上にあるエルサレムの神殿。「拝する者」神の民と称し神殿において礼拝する者を言う。聖徒は立ち上って神殿と香をたく祭壇ならびにその所で礼拝する者が、神のみ旨に適すか否かを厳密に調べるのである。

2〕「外の庭」異邦人の庭とする所。「四二ヵ月」三年半の患難時代、すなわち七年の半分。神が患難時代に眼をとめられるのは、異邦人ではなく、神の選ばれた民であるユダヤ人である。それゆえにユダヤ人が先ず祝福されて、その後異邦人が祝福されるのである。四二ヵ月という点については諸説がある。

3〕「二人の証者」諸説がある。しかし、エリヤ、エノクと解すべきである。アポクリファ(旧約と新約との間の歴史を記したもの、いわゆる外典である)にはエリヤ、エノクが再び地上に来て証しをすると明記されている。バプテスマのヨハネがキリストの第一降臨の前に来たように、キリストの再臨の前にはエリヤが再び来ると言われる(マラキ四5)。エノクも来ると言う(ユダ1415)。モーセとエリヤであると説く人と、旧約と新約であると説く人とがあり、この二人の証者が後になって死ぬことからエノクとエリヤであると言う人もある。それは、この二人は先ず死なないで昇天しこの時になって死ぬからである。もしも先に死んだことがあれば、再び死ぬことはないからであると。「麻の衣」俗を離れて潔くある状態をいう。「一二六〇日」四二ヵ月。

4〕ゼカリヤ四章に関係がある。エルサレムの神殿再建の時に神を代表してゼルバベルとヨシュァが立ち上ったように、二人の証者が神を代表して立つのである。

5〕先にエリヤが天から火を呼び下して五○人ずつ二回も滅ぼしたように、自ら火を吹いて敵を滅すに至ることを言う。

6〕特別の権力を現わす。先きに祈りによって三年半雨を降らさなかったように、権力をもって天を閉じ雨を降らさないようにするのである。使命を果し終えたならば、聖栄のために殉教する。しかし果さない間は、いかなることが起って来ても、決して殺されることはない。かつ栄光のために権能を与えられて、くわしき行為をなすことができる。

7〕「獣」陰府から出て来たもの。超自然の動物であって、いかなるものであるかは不明である。「これと戦いをなし勝ちてこれを殺さん」神の許しによってこの動物は二人の証者と戦い、勝ってついにこれを殺すのである。神の栄光のために一時悪魔に勝つことを許されるのである。しかし、殺されるものはこれによって殉教の栄光を受け、ついにはよみがえりの恵みに浴するのである。

8〕「その屍は大なる町のちまたにあり」証者の死体は町の街路にさらされ恥かしめをうける。これは当時の人々が彼らを憎んでいたためである。霊的にこれらの人々はソドム、エジプトの人々である。「大なる町」主が十字架に針づけられたところ、すなわちエルサレムである。ユダヤ人をソドムのつかさと言う(イザヤ一910)。エジプトの罪を持っているゆえに、エジプト人と言われる(エゼキエル二三34819)。

9〕「その屍を墓に葬ることを許さず」死体を葬ることさえ許されず、これは大きな恥辱である。「三日半」殺されてから三日半も死体をさらされて、その後よみがえるのである。

10〕地に住む罪人たちの喜びは預言者――証者――の死んだことである。それは預言者のために彼らは罪を責められ、ついに心を頑固にしたことによって、56節のわざわいが起ったのであるが、今や預言者が殺されたので安堵することができたのである。

11〕悪人たちの喜びは、永続しない。「三日半ののち生命の霊神より出て」死んで三日半の後、神から出た生命の霊によって彼らはよみがえったのである。神から出た生命の霊は、よみがえりの秘密である。「起きて」ちまたにさらし者にされた証者の死体が、多くの人々の眼前でよみがえり、起き上りその足で立ったので、これを見た者は非常に恐れたのである。

12〕「彼ら雲に乗りて天に昇れり」神の勝利。よみがえりを見、昇天を見た人々は、大いに恐れたのである。

13〕「大なる地震」神の審判。預言者を殺したことの刑罰である。「栄を天の神に帰せり」彼らは預言者が、神から出た者なのに、これを殺したのであるから、その罪によって神の審判としてこの刑罰が来たのであると思って、心より恐れた。この時人々は、悔改めたと解する人もある。

15〕地上にはまだ顕現してはいないが、天においてはすでに成立しているのである。キリストが王の王としてこの世を治められる時が来ることの預言である。聖国がこの世に成るとき、み心が天に成るように地にも成る時が来るのである。

16〕大きな讃美礼拝。

17〕「今いまし、昔しいます全能の主なる神よ」一章8節、四章8節には後いますとあるがここには記されていない。これは特に今に重きを置いたためである。現在において主の国の実現したために讃美しているのである。「汝すでに大なる救を執りて、政事を施し給うにより」これは今神が大権をもって政事を執られる時であることを示している。万物もこの時の来るのを待っていたのであるが、今こそその時となったので、これを感謝している(ロマ八192021)。

18〕「汝の怒もまた至れり」これまでは、諸国民は悪人の怒りによってあばれ廻っていたが、今は神の怒りが来たのである。「死し者を審判して」神の怒がやって来たことにより、地上にある神に逆う者が滅ぼされる意である。「汝の僕なる預言者および聖徒ならびに大と小との分ちなく、その名を恐れる者に賞を与え」神の僕に報奨を与えられる。神国の建設は、第一に政事の改革、第二に地上の罪人の罪を滅ぼされること、第三に預言者および聖徒の受賞、第四に神殿の開かれることである。

19〕「神の殿天に開け」エルサレムにある神殿は単に模型にすぎないのである。真の神殿は、天にある(へブル九23)。天にある神殿が開かれ、中にある神の約束の箱が見えるようになる。至聖所に入らなければ見ることができない約束の箱が見えることは、神殿の奥まで開かれたことを意味する。これによって天と地との連絡が相互に通じたのである。すなわち、神と人が一致して、実に神が人の中におかれるのである。千年時代において神の約束はことごとく人のために成就するのである。「いなずまの声といかずちおよび地震と大なる雷とありき」一方には神の恵みが現われ、他方に神の威厳が現われる。すなわち神の恵みと真実の顕現である。